2000/10/05 - 2000/10/10
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kovaさん
一遍は念仏専修を唱え法然の教えを更に推し進めた「念仏時宗」の開祖であるが、伊予松山の生まれである。
私はなんかの縁があってこの四国の地に勤務することになり、何時か一遍の修行した道をたどって見たいと思うようになった。
それは、生家が時宗で小さいときから念仏「南無阿弥陀仏」を聞いてきたせいばかりでもなく、一遍の不変不撓の信仰に揺り動かされた所為かもしれない。
この紀行記は一昔前の1989年(64)のものであるが私にとっては懐かしく又思いで深いトリップであったので掲載してみた。
お遍路ブームの起きない未だ静かなとき、しかも自動車道がようやく四国にも作り始めの頃であった。
以下 当時の文章を多少焼きなおしてアップすることにした。
一遍上人の足跡を訪ねる(1989 H64)
九月十日(土)、朝方の時折激しく降る雷雨に目を覚まし出かける否か思案していたが東の空を見れば明るく晴れ渡るようなので出かけることにし、愛車を勇気づけて六時過ぎ出発。
吉野川南岸百六十九号線を西へ西へと遡る。宿所から徳島間三十キロ、徳島池田間六十五キロであるが、阿波・脇町付近までは吉野川流域の広大な平野が続きまもなく取り入れを待つ稲田が広がっている。 池田に近くなるほど平地は狭まり、吉野川の河面は増水の色濃くも特徴の青い色を薄く染めている。
昔、四国三郎と言われたこの川は、今は氾濫もないようだけれどその滔とうとして流れる様は、周囲の柔らかい山脈と溶け合い徳島の景観である。
吉野川河口よりこれから訪ねようとする松山までは、地質学上有名な構造線が走っており、この線沿いに西へ向かって走ることになる。
池田のトンネルを抜け川之江向けて峠道を走り下れば川之江に出る。
川之江は、愛媛の東(東伊予)で製紙会社ほかの工業地帯でもあり、製紙の臭いと蒸気や排ガスが山地に流れ込んでおり、活気がある半面生活環境も冒されているのがうかがえる。
- 交通手段
- 自家用車
-
伊予松山に入る。 重信川に雨上がりの霞がでている。
愛媛県を東伊予と南伊予とに区分する新居浜と松山の境は、構造線のせめぎ会いの地であり急激な峠道を登って行く国道、道路は二車線をようよう確保できている程度ーを挟んで両側から峻険な山容が迫っている。
古世代の断層も露出しているのが瞥見される。ここの桜三里と名づけられた峠道を走り下れば、川内町であり重信川を渡り松山市に入る。 -
国道の表示をたよりに浄土寺を訪ねる。
浄土寺は第四十九番恵明上人の開創といい、本尊釈迦如来は行基の作。明恵上人像は国指定重要文化財というが堂内は暗く見えない。
境内は誰もいない住宅地の奥であった。
ここは特に一遍上人とは関係ないものの、四国八十八寺のなかでも浄土宗は多分この寺だけだと思う。
一遍上人の正覚にいたるまでの修業に大きな影響を与えたものには、さまざまな信仰思想があったものと思われるが、なかでも浄土宗の開祖法然の影響が極めて大きいように思われる。 -
一遍上人の誕生寺 ホウゴンジ宝巌寺 山門
第五十番繁多寺は浄土寺から二三キロの山麓にあり、天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願で創建されている。
本尊は藥師如来で行基の作という。今では本堂 地蔵堂などこじんまりしたしかも品格のある境内であるが、最盛時には傘下に数拾の寺社があったという。
繁多寺から昔の田圃道−今は振興の住宅地道路を道後へ向けて走る。
途中第五十一番の石手寺を参観後道後の街にむかう。程なく温泉街らしくもないビル街の道後駅前に出てしまった。温泉街とも思ってもいないのでつい方向が判らなくなり観光バスのガイドさんに聞くと、目の前が温泉駅で温泉街入り口だとゆうことであった。
なるほど、伊予鉄道の路面電車駅であってここから温泉街への入り口で緩やかにそして急坂を登っていくのである。
一遍上人の誕生寺[宝厳寺ホウゴンジ]はこの道後温泉の入り口の坂道を真っ直に登り詰めやがて左に折れ飲み屋街の急坂を登り切った突き当たりのところにあった。
一遍上人は太宰府の修業のあとここで修業している。まだまだ自己の会得がなかった時代であろうか。 -
宝巌寺の本堂前
よくよく見れば今では飲み屋街になっているものの昔は遊女のいる色街であったと思われる二階家造りが坂道に段々と並んでいるそのすぐその上で、古風な山門がこの町並みを真下に見下ろしている。
門の両脇には一遍上人の生誕七百五十年法要の表示があり、本堂の中からは読経の声が聞こえており合間には鐘や鉦の音がしてくる。
本堂の上がり口に三人ほど受付をしているので聞いてみると一遍会の九月例会であるとのこと、はるばるきたことを話して中に入れてもらい様子を見ることにした。
堂内は戒壇に阿弥陀如来立像が金色に輝き、両脇に菩薩像がならびさすが菩提寺らしい威厳を感じた。
一遍会の人達およそ五六十人が寺僧の読経に会わせて唱和するのである。およそ四十代以上の人達でやはり年配者が多い。
右手奥のおよそ十二疊位の広間には、一遍上人の絵巻が二つ掛けてあるのが見えたが読経中でもあり近寄れなかった。
会の進行は、寺僧の読経唱和に続き会員物故者の供養そして会員先達の一遍上人法詩の朗詠があり、そのあと会員の俳句発表となる句会となるのである。
勿論一遍上人の教えに添ったものなのだろう。さすがは俳句の国だけはあるなと妙な感心をしたものである。
そういえば各札所には、子規の句碑が必ず建ててある。宝厳寺のは[色街を十分程の宝厳寺]であったかと思う。
松山城を見学するため中座して路面電車通りを走り、ロープエーに乗り城山に登る。 -
伊予松山城 石垣と甍がそびえ その向こうには「坂之上の雲」が浮かんでいた。
わづか三分間で終点駅につく、これより大手門のところまで歩きである。ここのお城は加藤嘉明が築城した(完成は寛永四年・一六二七)もので規模といい、城郭の構成といい、また戦略上の位置といい優れた名城である。
戦災ではわずかに門や塀がやられたのみで木造の天守閣や城門、櫓がなど重要文化財に指定されている。天守閣からは、広大な松山市内が東西南北に鳥瞰することが出る雄大な眺望である。 -
松山城クグリ門
木造天守閣としては外に松本城(からす城)、松江城(?)があり松本城も戦国時代の雰囲気を残しているが、松山城ほど洗練され豪華ではなく実利的である。
松山や 秋より高き 天守閣 子規 -
一遍上人の確信を得た地 岩屋寺への階段
九月十日、昨夜は道後からのお湯を引いたという宿の風呂に入り熟睡し六時起床、十五分過ぎには朝飯抜きで出発、一路高知を目指す三十三号線を飛ばす。
朝もやのかかる重信川を渡る。今日もまた残暑が厳しくなるらしいように山の端に朝焼けの雲が鮮やかだ。陶磁器で名高い戸部の町をすぎて急に山道にかかる。
朝早いだけに車両数は少なく、多分日曜日の行楽か帰省する車か3~4台程度続く。
三坂峠のみはらし台付近からの松山市の眺望はまたすばらしい。
かなり長い峠道を下りおり、いよいよ山深い土佐街道をはしる。
谷間の川添いに国道がくねりながら伸びており、同じような道路を走り抜ける。
松山からおよそ四十キロで土佐街道とわかれて面河渓(おもごけい)への道をとる。 -
岩屋寺への参堂 坂道に連なる数知れない願い札
この川は石鎚山を源流にしているので水は清く流量はそれほどでもないがあちこちに鮎釣りの人も見える。
二キロぐらい進んだところでさらに左の渓谷に折れる。もう山あいの沢道をどんどん登っていく。
後ろから巡礼者を乗せたマイクロバスが追ってくるが車一台通るだけの道でスレ違いも容易ではない。
さらに二三キロで岩屋寺の登り口に到着、車を置いて登り始める。
登り口には、農家が二軒ほど軒先にお見やげ品や山菜、きくらげ、薬草、またたび、きはだなどを売っている。
ここより約百メートル程の登り道で参拝者は年配者が多いので喘ぎ喘ぎのぼっていくのである。
森の上の方からは時おり鐘の音がゴオーンと聞こえてくる。
参道は薄暗いほどの、杉の巨木、椎、樟、槙、栃の大木などの鬱蒼とした森である。 途中には、水子供養の地蔵や墓石の並んだ所があり朝のこもれ陽に輝いているのは美しい景色である。
ここからは緩やかに階段登りもある道でやがて岩堂の真下に立つ。
まるで中空を岩屋の絶壁と寺社の建物が覆っているに唖然とする。
驚嘆と感激とでしばし声も出ず -
これが岩屋寺の岸壁 真下より見上げる。 やや斜めに見ている。
天然の天蓋の下に観音堂がある。
また有名な岩屋は観音堂まえの崖の中腹にいくつかあるが、その内の一番下の岩窟には幅一メ−トル程の太い木製ハシゴが掛けてあるので登ってみる。内部は一畳半程の広さ、ここで幾多の聖達が行をしたのだろうか。
下を見れば震え上がるほどの断崖中腹である、しかも頭上の岩石ははるかに重くのし掛かって覆っているのだ。
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これが正面の下のほうから見た岩屋洞 左上部にあるのが祠であり、ここまではしごがかけてあり覗ける。 が恐ろしく高い。
鎌田茂雄氏著「一遍大地を往く」によると一遍上人は皿が峰の窪寺において、衆生は念仏により弥陀に往生する[十一不二頌]を悟り、一切衆生を救うため身命を法界に捧げることに決意し、文永十年(一二七三)七月ここ菅生(すごう)岩屋寺に籠ったとしている。
「聖絵」には奇岩奇峰が描かれているが、全くその通りではないが、それでも変成岩からなる屹立する岩塔が松や樹木に覆われてあちこちに屹立している。
この地は、修験道の聖地であり弘法大師の聖跡でもあり、一遍は観音菩薩の霊感を受け遁世を決意するにいたる。
一遍は手紙の中でここでの感得を次ぎのように述べている。
よろず生きとし生けるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、
念仏ならじといふことなし。(語録)巻上
翌文永十一年二月、確証を得た一遍は一切を捨て遊行の旅に伊予を出発、妻子を捨て、一遍の意味するところは、「一遍とは[全一普遍]ということを意味し(坂村真氏「一遍上人」)大阪四天王寺に向かったのである。
一遍は、四天王寺において真の出家[沙門]となり一切衆生を済度する遊行を決意していったのであるという。
一遍は、俗名「知真」から「一遍の念仏」へと変化したのであった.(前出)語録・「捨て果てて」)全一の「一」と普遍の「遍」で一遍といったものであり、名号は一切であり山川草木、森羅万象、生きとし生けるものの一切が名号であることを意味している。(前出 鎌田茂雄)
いずれにしても一遍がこの菅生の岩屋寺において己を生まれ変わり、衆生再度を希求して遊行を決意したところであった。
現在では遍路の札所として駆け足巡礼者が殺到する場所に変わってしまったのであるが、奥山の喧騒を隔絶した幽谷の地であることには変わりがない。
一九八九年九月
松山は 一遍上人の跡にも 月光り
松山への旅をして kova
参考
一遍上人の「自分流に生きる」ことについて
宝仙短期大学 学長 紀野一義 -
岩屋寺にある不動尊 私の守り本尊でもあり参詣した。
一遍は伊予松山の人であり、河野水軍の末裔である。
私の実家の宗派が時宗であり、何時か一遍のたどった修行の道を訪ねたいと思っていたがついつい仕事に追いまくられて果たせなかったのだが、社の機構変革の折念願の訪問が出来た。
この旅行記は当時 感動して記録していたものを採録したもので表現が硬いところがありまだまだ書き始めの感があります。
普通は四国88か所が人気で行くところだが、私には一遍の足跡を尋ねるのが念願でありましたので とても感銘深い探訪でした。
2011-02記
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