![もう20年前に大学を卒業するときに、なぜか思い立って格安航空券を買って、ネパールに短期に行った。価値観が変わった。宮田珠己の初期の本を読んだら、いろいろ思い出したので、当時の記録や写真はないが、書いてみる。今でも、最初の時のことが印象的だし、その後の旅ではない刺激だった。バンコクでの客引き、ビーマンは、遅れ、トランジットルームでは、職員の免税タバコ売買。盗難。ダッカで予定にない一泊。空港の異常な人だかり。空港からニセピックアップされ、お金を取られる人。シェラトンだったが、部屋のポットには虫がわき、日本円を買ってくれというボーイ。バスから見たリクシャーの多さや、多くの片腕のない人たち。外に出ると、よってバクシーシをせがむ子どもたち。<br />その後、ネパールに行くとホッとする。でも、クーデター中で、外出禁止令が出ていた日も。<br />カルカッタも異常な人の数と、屋外での排便や、乞食やだまそうとする人のオンパレード。短期間だったが、初めての体験だった。](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/10/51/69/650x_10516921.jpg?updated_at=1288775978)
1991/03/20 - 1991/03/28
895位(同エリア1171件中)
うねっちさん
もう20年前に大学を卒業するときに、なぜか思い立って格安航空券を買って、ネパールに短期に行った。価値観が変わった。宮田珠己の初期の本を読んだら、いろいろ思い出したので、当時の記録や写真はないが、書いてみる。今でも、最初の時のことが印象的だし、その後の旅ではない刺激だった。バンコクでの客引き、ビーマンは、遅れ、トランジットルームでは、職員の免税タバコ売買。盗難。ダッカで予定にない一泊。空港の異常な人だかり。空港からニセピックアップされ、お金を取られる人。シェラトンだったが、部屋のポットには虫がわき、日本円を買ってくれというボーイ。バスから見たリクシャーの多さや、多くの片腕のない人たち。外に出ると、よってバクシーシをせがむ子どもたち。
その後、ネパールに行くとホッとする。でも、クーデター中で、外出禁止令が出ていた日も。
カルカッタも異常な人の数と、屋外での排便や、乞食やだまそうとする人のオンパレード。短期間だったが、初めての体験だった。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 2.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 2.5
- 交通
- 2.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 自転車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
ルートは、バンコクで一泊して、ダッカ経由のカトマンズ in カルカッタ out だった。日程は8日ほど、という今考えても短すぎて無理がある。
カトマンズからカルカッタまでバスで行こうとしていたはずだが、途中であきらめ、現地(カトマンズ)でエアインディアの航空券を買ったと思う。 -
成田で、航空券のみであったが、何かツアーみたいな感じで、集合があり、そこの行くと10人ほどだったか、同じくらいの年齢の人たちがいた。そのころ確約航空券やバックパックというのは流行り、みんな初めての感じで、自然と話をした。
情報は、たぶん地球の歩き方(以前はバックパッカー向きの情報が多かった)くらいだったはず。
大学の友達はスペインに行ったが、なぜか自分はネパールに。ポカラも考えていたが、そして怪しげな薬なども。 -
その後、バックパッカーと思い、就職後、数回、大型連休にバンコクに2回行ったときは、イラク航空、エジプト航空だったと思う。エジプト航空はGWで10万近くした記憶がある。イラク航空は、以上にボディチェックが厳しかった。
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写真は、ダッカのシェラトン。しかし、旅程としては、バンコクに一泊。深夜11時過ぎに着き、ホテルも取っていなかった。初めての海外で検査とかの手続きも知らないで、どうなるのか、と思っていた。たぶん両替は成田でしたのだろうが、バンコクの空港で、あまりにも遅く、仕方ないのでホテル斡旋のカウンターに行き、安いホテルを紹介してもらい、さらに乗り合いタクシーで行った。タクシーはそれなりに高かったと思う。行った場所はバンコクの郊外で、むっとした湿度と、夜もネオンが輝き、屋台も多いという興奮だった。ホテルは覚えていないが、客引きの女の人が廊下(といっても短い)をうろうろしていた。ホテル前の屋台に行って、焼きそば的なものを食べたのだろう。
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翌日、また空港に行くので、トゥクトゥクに乗ったのだろう。あるいはタクシーか?。タクシーは怖くて乗ったのかどうか?
まあ、それで空港に行ったはず。このときは、リコンファームをどうしていたのか?。とりあえず、このときは初めての外国で、手続きわからないので、早めについたと思う。市内に出ているから空港税とかはらったのだろう。ここから日本人も少しいたが、ほとんど外国人中心で不安が高かった。楽器を持って旅している西洋人、ほとんど荷物も持たず、ザックでなく肩に綿の袋を背負ったような日本人とか、怪しい人たちと、地味な日本人と。
この写真は、ダッカ市内。らしい。
この後、ダッカ経由でカトマンズに行くが、ここからがすごかった。 -
たしか、バンコクから出発する時点で12時間飛行機は遅れ、ずっと空港で待っていたと思う。そして、ダッカ経由で、カトマンズに行く予定だったが、機体の故障か何かで、ダッカに行くことに。まず、空港のトランジットの部屋に、20人ほどが入った。空港内は暗く、職員が数人いて、あと小さなガラスケースだけの免税品店が2つあったと思う。先の時間も見えないまま、たぶん、夜中に到着し、この部屋にいたと思う。ウィスキーやタバコがあったはず。職員が、自分が免税価格でほしいらしく、いったん買ってそれを売ってくれ、というようなことを言っている。夜も更けて、怪しい部屋に入れられて、それも椅子もなく、寒々しい床の上に20人ほどがいて、はじめは、西洋人の旅慣れた人が、小さな鍵盤というか鉄琴のような指ではじく楽器をならして歌を歌ったり、ギターを弾いて歌ったりしていたが、やがてみんな寝ていた。自分は初めての旅で、お金などは、おしりに巻くところに入れていたが、確か西洋人の一人が、めがねがなくなったと言って起きた。他にもお金が盗まれた人もいた。こんなところでも盗まれるのか、と思ったものだ。
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そこにいた旅人が盗むとも思えず、たぶん職員が盗んだのだろう。それから、朝になってというか昼頃に、結局見通しがたたず、ホテルに移動することになった。荷物を受け取りチェックし、入国となった。空港は小さかったはずで、というか真っ暗だったことは覚えている。そして、ほとんど言葉もわからず、数人いた日本人で、何を言っているのだろうとか、どうすれば、と思いながら指示にしたがっていた。空港を出るところで見たのだと思うが、ゲート(鉄格子のような)があり金網もあったか、そこに無数というまでいかんか、びっしり人がくっついていた。我々にたかってくるのか、と思うが、そうでもなく、みんな飛行機が飛びのを見ている。暇なのか、と。とにかく、職員がバングラディッシュ人には厳しく観光客と関わらせないようにしている。そして、ホテルまでのピックアップバスが出るというので、その人について行こうとすると、情報が錯綜して、別のバスだ、という声がし、迷いつつも、西洋人に従い行く。前方の数人は別の人について行った。まあ、一緒なホテルに行くのだろうと思ったが、彼ら(女の人もいたような)はホテルでは会わなかった。ホテルまでの景色は、たぶん、ダッカの中心地の景色だが、大きな通りがあるが、そこにまた無数のリキシャーが止まっていて、かつ、片腕しかない人がたくさんいた。それが、リキシャーの運転手だったかは覚えていない。ものものしい雰囲気でホテルに入る。ホテルの部屋割りが決まって、自分は旅慣れた30歳過ぎの西洋人女性だったか?と同じ部屋になった。たしか宿泊でなく、夕方まで部屋を使うということだった。片言の言葉で話をし、街中に行くことにした。しかし、あの見たこともない人口密度と、車に群がってくる感じだと、どうなるんだ、という思いはあった。落ち着くために水を飲もうとポットを開けると、水に虫がわいていた。こういうのを見たのもはじめて。また、その後か、ポーターがきて、100円玉かを持ってきて、これをドルに両替してほしいと言われた。その時のレートはどうだったか。ホテルは一階のロビーは広くキレイで、ビジネスマンが多くいたと思う。場違いな感じを持ちつつ、ここで少額を両替し、タカというお金があるのか。横のゲートから出ようと思うが、タクシー攻撃とタバコ攻撃を受ける。怖い、と思いつつ、ゲートを出て大通り(たぶん正門あたり)に出ると、子どもが近寄ってきてコインを要求する。断りつつ歩くと、20人ほどの子どもが後ろについてくる。かわいいはかわいいので、写真を撮らせてもらいながら、大きな交差点に来ると、リキシャーと腕のない人がいて、怖くなり戻る。結局タカは使わなかったように思う。
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たぶんここでは食事がなく、また空港に戻る時間となりバスで戻り、空港内の、どこかのホテルのレストラン(シェラトンだろうか)で昼食?をみんなでとることに。なんかこういうところにはいったことがなく、どんな料理と思ったら、カレーといくつかの付け合わせとかサラダであった。なぜか、このときのカレーはひどく辛かったが、スパイシーでおいしく(水を飲んでも辛さがおさまらず、辞めたいが、おいしい)、その後の、インドネシアのバタム島の隣の島で食べたカレーの次に、人生でおいしいカレーだった。かつ上品でもあったが。こうやってたった数時間のダッカ上陸は終わった。街中には日本の家電メーカーの看板などもあったし、いつかは行ければ、と思いつつ、怖い印象があり、地方都市なんかには行けないなあ、と思っていたりする(仏教国だし、他の国に比べれば安全だと思うし、今なら行く人も多いだろうが。そういえば、近くにあるアジア食材ショップの人と一度酔って話をしたら、その人はバングラディッシュにはまり、そのルートで今も買い付けをして店をしているということだった
シャプラというお店です。http://www.shapla.jp/ ) -
その後の記憶はないが、カトマンズへ。飛行機には、女子大学生グループがいて、ゼミの卒業旅行で、指導教員もいた。飛行機から見たカトマンズはおもちゃのような町という印象がある。おもちゃみたいな家と、色遣いが赤茶の壁や屋根の家が多かったと思う。入国手続きのところで、女子大学榮が多くいて驚いたものだ。たぶんいくつかのことを調べたり、ゲストハウスのことを調べてあったと思うが、空港から市内にどうやっていったか覚えていない。たぶんタクシーだろうか。その時は一人で行動していたはず。
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そうやってカトマンズに来た。カトマンズから楽園と言われるポカラに行こうと思っていたはずででも2−3日はカトマンズでぶらぶらの予定で、ゲストハウスはどこだったか覚えていないが、ネパール人は、小さくて日本人と似ている風貌で、また片言の日本語を話す人も多くて、あまり苦労せずいられたような気がする。街中はある程度歩いていたと思うが、最初には、広場でやっているバザールに行った。あまり舗装されていない道だったような。広場は砂利だった。覚えているのは、椅子を出して、散髪をしている様子と、おばちゃんたちが民族衣装のようなパッチワーク切り貼り?カラフルな衣装だったかどうか。この頃は、日本人旅行者がけっこういたと思う。
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カトマンズの近くのバザールに行った後、町を歩いているときに、建物の屋根に銃を持った兵士がいたのは覚えている。その後だと思うが、クーデター中で、外出禁止になっているということで、一日はゲストハウスいた、あるいは、裏の路地に行き、太鼓を作っているところをみた、あるいはゲストハウスの屋上で食事し、景色みていたか。親切なネパール人が日本語をしゃべっていて、日本人の女の子が好きだとか言っていたかどうか。食事はマイルドな味付けで普通においしく、たしか、モモとか水牛ステーキの店があるということで行こうと思いつつやめたような。
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他の日には、アウランプラテート?だったか、お寺とかを郊外だったかレンタル自転車でまわったような気がする。坂の多い道で、いくつかの寺院がある景色は、嶋津法樹の本で出ていたカトマンズの病者の場所であろう。
子どもがガイドしてやると言って、いろいろ連れて行かれ、食事やジュースをおごったのに、後になって法外なガイド料をせびられて、嫌な思いをした記憶もある。
曼荼羅をお坊さんが描いているのか、できあがっていたのか、なんかそういうのも見た。 -
ポカラにさっさと行けばよかったのに、状況分からないのと、帰ってこれるかな、と思っていたりして、たぶん薬が怖く、そして、カトマンズに数日いた。写真の現像が安くないな、と思ったりやっていた。カルカッタにも時間の余裕も見積もっていなかったので、ゲストハウスでチケットを手配してもらった。法外に高くはなかっただろうが覚えていない。その頃はクレジットカードも持っていなかったし、カメラも普通のカメラだし、ノートパソコンもなかったし、反対に楽しめたのかも。
結局、郊外の山に行くことを、地球の歩き方を読んで決めたのかも。 -
バスに乗ってその郊外の山に向かった。バスには、大量の荷物と何か動物も載せて、屋根の上にも載せて、屋根の上に人も乗って、というこういうのを初めて見た。自分は屋根ではなかった。スピードはさほどトバしていなかったと思う。インドネシアやマレーシアの昔の怖いほどの運転ではなかったと思う。段々畑の脇を登り、田舎の光景を眺めつつ、バスひっくり返って転落するのかな、と。家畜がいろいろいますよ。子どもたちが健康です。バングラディッシュやネパールのせびる子どもが健康なのかどうなのかというと。スラムドッグミリオネアの子どもが健全かというと。観光地で、へんな石や香木を売る子どもが健全かというと。で、このバスに乗っていた子どもが宿を紹介するというので、ついていきました。山頂にいったらいったで、行くとこ決まっていないので。行ったら彼の家でした。家で山羊だったか飼っていたと思う。電気もなく、水はどうしていたんか。食事は少しマイルドなものだったと思う。空気が澄んだいいところだ。尾根ずたいに歩いたが、数分歩いて終わったか。星はたしか非常に満天の空でして。覚えていないが。コモド島と同じくらいに。電気がないので、すぐ寝ました。寝袋かなにかで寝たが、南京虫が部屋にたくさんいて、こんなところで寝れるのかな、とたぶん、恐怖におびえつつ、逃げる場所もなく、かつ寒かったはず。トイレは、穴。このとき、穴というものを初めて知り、その後、そんなところやマンディや手でおしり拭いたりは普通なのに、このときはウブでした。ずっとうぶですが。
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人の優しい心に触れました。カメラかウォークマンに、かつ電池に子どもも親も驚いていました。
山を下りました。
初めての旅で、荷物が多かったので、いらない衣服を売りました。どうやって売ったのかわからんが、たぶんゲストハウスのネパール人が間に入ってくれたのかな。
その後、ネパールには行っていません。いいところなのに。マイル旅行からは外れるからだろうなあ。理由はそれだけだと思う。たしか小さい太鼓をかったなあ。邪魔だったろうな。
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