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喜太郎稲荷神社 多賀城市八幡<br /><br />以前撮った画像が行方不明?再度撮りに行こうと出掛けたら<br />目的地目前でチラリと見えた「小さな祠の屋根」・・・以前来た時は気が付きませんでした。そんな訳で確認の為その祠の屋根の見えた方に行ってみました。<br /><br />石碑に刻まれてた伝説の中には<br />凄い歴史の事実が明らかに成りました。

喜太郎稲荷神社  ここにも歴史の事実が有りました。 多賀城市 宮城県

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2010/09/26 - 2010/09/26

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sintabi

sintabiさん

喜太郎稲荷神社 多賀城市八幡

以前撮った画像が行方不明?再度撮りに行こうと出掛けたら
目的地目前でチラリと見えた「小さな祠の屋根」・・・以前来た時は気が付きませんでした。そんな訳で確認の為その祠の屋根の見えた方に行ってみました。

石碑に刻まれてた伝説の中には
凄い歴史の事実が明らかに成りました。

交通手段
自家用車
  • 仙石線JR多賀城駅(工事中方面)

    仙石線JR多賀城駅(工事中方面)

    多賀城駅

  • <br />多賀城駅周辺が大きく変ろうとしています。<br /><br />「JR仙石線多賀城地区連続立体交差事業<br />       多賀城駅周辺土地区画整理事業」<br /><br />と書かれた大きな看板<br /><br />「平成24年度竣工予定」<br /><br />


    多賀城駅周辺が大きく変ろうとしています。

    「JR仙石線多賀城地区連続立体交差事業
           多賀城駅周辺土地区画整理事業」

    と書かれた大きな看板

    「平成24年度竣工予定」

    多賀城駅

  • 時折、車で通る道路の歩道に有る案内板。<br />最初の目的地はこの2ヶ所でしたが・・・

    時折、車で通る道路の歩道に有る案内板。
    最初の目的地はこの2ヶ所でしたが・・・

  • 目的地目前でチラリと見えた祠の屋根・・・以前来た時は気が付きませんでした。そんな訳で先にその「小さな祠の屋根」の見えた方に歩いて行くと<br />鳥居が有りその奥に先程屋根だけ見えた祠(ほこら)が有りました。<br /><br />鳥居の額には『喜太郎稲荷神社』と成ってます。<br /><br />

    目的地目前でチラリと見えた祠の屋根・・・以前来た時は気が付きませんでした。そんな訳で先にその「小さな祠の屋根」の見えた方に歩いて行くと
    鳥居が有りその奥に先程屋根だけ見えた祠(ほこら)が有りました。

    鳥居の額には『喜太郎稲荷神社』と成ってます。

  • 鳥居をくぐりと両脇におキツネさん<br /><br />御参りをしました

    鳥居をくぐりと両脇におキツネさん

    御参りをしました

  • 「喜太郎稲荷大明神由来」の石碑<br /><br />石碑には次のように刻まれています。

    「喜太郎稲荷大明神由来」の石碑

    石碑には次のように刻まれています。

  • 「喜太郎稲荷大明神由来」の石碑<br /><br />天正十二年十月十日(1574)   天童城主頼久公最上義光に攻略<br /><br />され落城草刈将監等と関山峠を  超えんとしたが暗闇の為難渋す<br /><br />その時喜太郎と言う忍者現れ灯  を点し愛子迄道案内をつとめて<br /><br />くれた 以後生命の恩人として  天童家の氏神として祀る<br /><br />・・・・・とあります。

    「喜太郎稲荷大明神由来」の石碑

    天正十二年十月十日(1574)   天童城主頼久公最上義光に攻略

    され落城草刈将監等と関山峠を  超えんとしたが暗闇の為難渋す

    その時喜太郎と言う忍者現れ灯  を点し愛子迄道案内をつとめて

    くれた 以後生命の恩人として  天童家の氏神として祀る

    ・・・・・とあります。

    愛子駅

  • 無事愛子に落ちのびることができたということです。 頼澄は、その後伊達正宗に仕え仙台の<br />片平丁に上屋敷、多賀城の八幡に下屋敷を拝領するようになり、姓も里見から天童とかえました。 <br />そして、慶長のころ喜太郎神社を山形天童から勧請したといわれています。

    無事愛子に落ちのびることができたということです。 頼澄は、その後伊達正宗に仕え仙台の
    片平丁に上屋敷、多賀城の八幡に下屋敷を拝領するようになり、姓も里見から天童とかえました。
    そして、慶長のころ喜太郎神社を山形天童から勧請したといわれています。

    愛子駅

  • 以前に多賀城市のHPで読んだ「多賀城市にまつわる伝説」の中より<br /><br />「神様になった足軽」<br />八幡2丁目地内にある不?寺の北隣りに天童神社が建っています。典型的な流れの社殿で、喜太郎神社とも呼ばれています。神社の由来は、つぎのように伝えられています。<br />初代天童城主里見頼直(天童氏の祖)の家来で喜太郎という足軽が殿様のおともをして京都に行った時のことです。途中の福島で左近という旅人と知りあいになり、お互いにうまが合ったのか、すっかり意気投合し、愉快に旅を続けていました。<br />京都も近くなったある日のこと、左近は、「京都の伏見稲荷に参籠し、免状と如意宝珠をいただき、方便の力で変幻自在の秘術を身につけるのだ」と、旅の目的を語って聞かせま した。この話を聞いて、喜太郎も、自分も秘術を身につけようと、心に決めました。 京都での用事を無事にすませ帰国することになったとき、殿様に、左近にことを話し、自分も修得したいので許して欲しいと願いました。 <br /><br />翌日、2人そろって伏見稲荷に出かけました。社前にぬかずき、願いを心のなかで念じていますと、衣冠束帯に正装した白髪の老人が現れたので、こもごもご願いの筋をのべました。 熱意のこもった2人の話しを聞き終わった老人は慈愛の目でうなずきました。<br />厳しい修業の終わった日、見事に免状と如意宝珠をいただくことができました。 山形の天童に帰った喜太郎は早速このことを殿様に申しあげました。<br />殿様は非常に感心され、「以後わが天童城の守護神にしようと言われ、倉津川の狐崎に神社を建て万年堂と命名しました喜太郎は生神とされたのです。<br /><br />代が変わって九代城主頼澄のとき、山形城主最上義光との仲がこじれ、とうとう戦になりました。戦は天童側に不利に展開し、天正十二年(一五八四)遂に落城し、頼澄は重臣たちをともなって、関山峠をこえ宮城の国分氏を頼って落ちのびることにしました。 しかし、関山峠にかかるころ日はとっぷり暮れ、一寸先も見えぬ暗やみに大変困りました。<br />頼澄が心の中で一心に喜太郎稲荷を祈っておりますと、突然喜太郎稲荷が現れ火をとも して道案内をしてくれました。<br />おかげで一行は、無事愛子に落ちのびることができたということです。 頼澄は、その後伊達正宗に仕え仙台の片平丁に上屋敷、多賀城の八幡に下屋敷を拝領するようになり、姓も里見から天童とかえました。 <br />そして、慶長のころ喜太郎神社を山形天童から勧請したといわれています。<br /><br />「多賀城市ホームページ」より <br />

    以前に多賀城市のHPで読んだ「多賀城市にまつわる伝説」の中より

    「神様になった足軽」
    八幡2丁目地内にある不?寺の北隣りに天童神社が建っています。典型的な流れの社殿で、喜太郎神社とも呼ばれています。神社の由来は、つぎのように伝えられています。
    初代天童城主里見頼直(天童氏の祖)の家来で喜太郎という足軽が殿様のおともをして京都に行った時のことです。途中の福島で左近という旅人と知りあいになり、お互いにうまが合ったのか、すっかり意気投合し、愉快に旅を続けていました。
    京都も近くなったある日のこと、左近は、「京都の伏見稲荷に参籠し、免状と如意宝珠をいただき、方便の力で変幻自在の秘術を身につけるのだ」と、旅の目的を語って聞かせま した。この話を聞いて、喜太郎も、自分も秘術を身につけようと、心に決めました。 京都での用事を無事にすませ帰国することになったとき、殿様に、左近にことを話し、自分も修得したいので許して欲しいと願いました。

    翌日、2人そろって伏見稲荷に出かけました。社前にぬかずき、願いを心のなかで念じていますと、衣冠束帯に正装した白髪の老人が現れたので、こもごもご願いの筋をのべました。 熱意のこもった2人の話しを聞き終わった老人は慈愛の目でうなずきました。
    厳しい修業の終わった日、見事に免状と如意宝珠をいただくことができました。 山形の天童に帰った喜太郎は早速このことを殿様に申しあげました。
    殿様は非常に感心され、「以後わが天童城の守護神にしようと言われ、倉津川の狐崎に神社を建て万年堂と命名しました喜太郎は生神とされたのです。

    代が変わって九代城主頼澄のとき、山形城主最上義光との仲がこじれ、とうとう戦になりました。戦は天童側に不利に展開し、天正十二年(一五八四)遂に落城し、頼澄は重臣たちをともなって、関山峠をこえ宮城の国分氏を頼って落ちのびることにしました。 しかし、関山峠にかかるころ日はとっぷり暮れ、一寸先も見えぬ暗やみに大変困りました。
    頼澄が心の中で一心に喜太郎稲荷を祈っておりますと、突然喜太郎稲荷が現れ火をとも して道案内をしてくれました。
    おかげで一行は、無事愛子に落ちのびることができたということです。 頼澄は、その後伊達正宗に仕え仙台の片平丁に上屋敷、多賀城の八幡に下屋敷を拝領するようになり、姓も里見から天童とかえました。
    そして、慶長のころ喜太郎神社を山形天童から勧請したといわれています。

    「多賀城市ホームページ」より

    愛子駅

  • 天童家「14代 天童氏」 の名が

    天童家「14代 天童氏」 の名が

  • こちらには天童家当主「15代 天童氏」 の名も

    こちらには天童家当主「15代 天童氏」 の名も

  • 伊達家の家臣の武将「天童氏」<br />天童氏が住んでいた現在の多賀城市八幡地区<br />◎天童氏の旧家臣を中心とした契約講(互助組織)が脈々と近年まで続いて居た事。<br />◎仙台藩祖伊達政宗の書状なども含め天童家文書を今年3月多賀城市に寄贈され多賀城市文化財に指定されました。そのような内容の記事を読み、記事を切り抜いてました。<br />時代の流れ中で天童家・家臣の団結力の強さに驚かされました。<br /><br />以前多賀城八幡神社(多賀城市宮内)を訪れた時、当時はこの辺が八幡地区なのだと思い込んでたのですが自分の間違いで現在の八幡神社だけが八幡地区から宮内地区へ移転していたのですね。<br />尚、この様な縁で山形県天童市と多賀城市は姉妹都市に成ってます。<br /><br />最後に、ふと思う事は何やらお稲荷さんに招かれて歴史の史実を教えられたような気がします。(@_@)<br /><br />

    伊達家の家臣の武将「天童氏」
    天童氏が住んでいた現在の多賀城市八幡地区
    ◎天童氏の旧家臣を中心とした契約講(互助組織)が脈々と近年まで続いて居た事。
    ◎仙台藩祖伊達政宗の書状なども含め天童家文書を今年3月多賀城市に寄贈され多賀城市文化財に指定されました。そのような内容の記事を読み、記事を切り抜いてました。
    時代の流れ中で天童家・家臣の団結力の強さに驚かされました。

    以前多賀城八幡神社(多賀城市宮内)を訪れた時、当時はこの辺が八幡地区なのだと思い込んでたのですが自分の間違いで現在の八幡神社だけが八幡地区から宮内地区へ移転していたのですね。
    尚、この様な縁で山形県天童市と多賀城市は姉妹都市に成ってます。

    最後に、ふと思う事は何やらお稲荷さんに招かれて歴史の史実を教えられたような気がします。(@_@)

    仙台藩 グルメ・レストラン

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