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第6回ドイツ演奏旅行記

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2008/03/13 - 2008/03/22

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レオーネさん

■  第6回ドイツ演奏旅行(2008年3月13日〜3月22日)

マタイ受難曲演奏旅行記

3月13日(木)成田空港第一ターミナルのロビーに、井之脇先生およびコーラル・アーツ・ソサイアティの旅行参加メンバーとその家族総勢30余名が集合した。これからハンブルグへ飛び、3日後に演奏会を迎えるためである。合唱団としては6回目のドイツ演奏旅行だが、入団3年目の私は、初めての演奏旅行体験で若干緊張していた。飛行機もちょっとばかり苦手な私。ヨーロッパへ行くのも久しぶりである。
昨年12月10日、すみだトリフォニーホールでのバッハ・マタイ受難曲の本公演を終えた後、客演指揮者のヴォルフガング・ツィルヒャー氏がカントルをなさっているハンブルグ近郊のレリンガー教会で、3月16日に同教会の聖歌隊の方々と共に再び演奏会を行う事になっていた。
次年度の新曲「エリアス」の練習開始と併行して、旅行参加者は月2回のマタイの練習にも参加義務があり、公演終了後に急遽参加を決めた私は慌しい日々を過ごしつつ出発日を迎えた。
飛行機は追い風の影響で予定よりも早く、アムステルダムを経てハンブルグ・フュールスビュッテル空港に到着した。外の気候は身構えていたほどの寒さではなかったが、さすがに夕刻の冷たい風が頬を刺す。送迎バスで2〜30分ほど走ったところに、ハンブルグ中央駅に次ぐ主要駅・ダムトーアがあり、私達の宿泊ホテルはその駅に隣接する高層のラディションSASホテルだ。この24階建ての建物はハンブルグ市内でも飛びぬけて背が高く、街歩きで迷った時の頼みの綱だった。
ホテル到着後は夕食としてランチボックスが用意されたが、長旅の緊張感と疲労でそれほど食欲が出ず、軽くいただく程度で済ませた。
ハンブルグは、ベルリンに次ぐドイツの主要都市で、北海に注ぐエルベ川に面した美しい港を持つが、特別な観光要所はないので、街には浮わついた雰囲気もなく、建物も教会も質実剛健、人々の服装も地味だ。むろんコンビニはなく、携帯電話で話す人も少ない。子供たちはゲーム機を持たず、鳩を追い掛け回して無邪気に遊んでいる。復活祭前の休暇で観光客は多かったようだが、他の日本人にはほとんど出会わなかった。
街並みは落ち着いているが、天候の不順さには驚いた。常に雲が厚く、真っ青な空に浮かぶ季節はずれの入道雲まがいに出会ったり、短いスパンで晴れ曇りを繰り返し、突然の雨は当たり前、時には雹が頬を叩きつけてきた事もある。マフラーと手袋と傘は常に欠かせなかった。
到着翌日の朝10時から早速練習が開始される。ホテル内の会議室を借り、集合した先生と私達はまず今年の新曲「エリアス」の課題曲を始めたが、さすがに長旅の疲れは否めず、思うように声が出ず練習が進まない。井之脇先生もやや嘆かれる。そのままマタイのコラール練習に入ったが、これも慣れないア・カペラで調子が出ない。今まで如何に伴奏に頼ってきたかを思い知らされて反省した。
昼食をホテル近くの素朴なレストランで取った後、夕刻には初めて演奏会場のレリンガー教会を拝む事になっていた。ホテルからバスで高速道路を北西方面に20kmほど行ったレリンゲン地区の片隅に、赤レンガ造りのレリンガー教会は、木々に囲まれて落ち着いたたたずまいを見せていた。周囲には特に何も無い場所だが、この教会では頻繁に音楽会が催されている。地域の重要な文化活動の拠点のようだ。
まず教会の向かいにあるゲマインドハウスの二階に上がり、日本サイドのみの練習開始。程なくツィルヒャー先生も到着し、再会の喜びの挨拶をされる。相変わらず豪快で声もアクションも大きく、笑顔を絶やさない元気なお姿を見られた。レリンガー式(?)の独特の発声練習の後、早速練習に入ったが、12月の公演時と同じく、いやそれ以上に細かい子音の発音タイミング、イレギュラーな休符の指示などが入る。もっとも心構えはしていたので動揺はなく、むしろまた、どんなエキサイティングなバッハになるんだろうと期待がふくらんだ。その後レリンガー唱の方々も加わり合同練習となる。立派な白髪の男女が多く年齢層は私達より高めに感じた。彼らはツィルヒャー先生の指示に逐一、意見(質問?文句?)を出してくるので(しかも口々に!)練習がなかなか進まない。言葉のわからない丁々発止のやりとりを聞きながら、毎回こんな具合じゃさぞかし大変だろうと、指導者のご苦労(?)を思った。
なんとか一通り練習が終了した後で、教会の内部に入り、本番時の位置決めをする。ここで初めて教会内で声を出してみた。いわゆるゴシック様式の天井の高い教会ではないので、それほどひどく反響する訳ではなく、生音が自然に生かされている。思ったより歌いやすかった。夜もとっぷり暮れた午後10時ごろにようやくホテルに戻った。
3日目は午前から教会でオケと共に、昨日の個別練習をラン・スルーで通していく。小松先生やアルトのR.カシミーダーさんら他のソリストも元気な姿を見せていた。しかし今日の練習もかなり難航した。オーケストラが指揮と合わないのだ。このアルトナ室内合奏団はアマチュアらしいのだが、やわらかく温かみのある音を出すので私は好きだった。しかし団員内の力量にかなり差があるようで、指揮を見られない奏者がいる。先生は合うまで辛抱強く何度もやり直させ、うまくいくとGuサインを出されたり、そのやりとりを眺めているのは楽しかったが、正直なところ今日はオケの練習に時間を費やされ、合唱団に大きな指示はなかった。
午後には練習から解放され、久々のフリータイム。私達は街中に繰り出し、運河沿いに歩き壮麗なルネサンス建築の市庁舎を仰ぎ見、教会を見学し、アルスター湖をバックに記念撮影をした。夜は市庁舎地下の魚料理レストランに入り、ずっと飲みたくて仕方のなかった生ビールを堪能する。私はハンブルグ名物のニシンの酢漬けを注文したが、さすがは港町、脂ののった肉厚のニシンはとてもおいしかった。
4日目、夕方5時よりいよいよ本番だが、午後まではフリーのため、念願のブラームス記念館に行く。ここは週2日ほどしか開館しておらず今回の日程では無理だと諦めていたのだが、日曜日も開館してくれるようになったとの事でラッキーだった。
その後はミヒャエル教会にも行ってみた。80mを越す尖塔の展望台まで、えっちらおっちら階段を上ってたどり着く。ハンブルグの市街地のほぼ全貌、港の方まで優に見渡せた。絵葉書さながらの絶景だが、天気が悪く雨風もでて来て、喉に差し支えるとまずいと思い、早めにホテルに戻って一休みする。
今日3月16日は復活祭前の棕櫚の日曜日で、駅や街中でよくバッハの受難曲のポスターを見かけた。大抵は街中の主要教会で、安い入場料で開催されている。こういった音楽が、人々の生活に自然に根付いているのを目の当たりにすると、改めてドイツ人の信仰心や、バッハへの親しみと敬意を感じ、それに与することの出来る機会をありがたく感じた。
夕方、レリンガーに向かうバスの到着が事故で遅れ、私達は到着してすぐにツィルヒャー先生よりコラールのルバートの再確認と、立ち座りの指示を受けた。入念な発声練習の後、すぐに教会入りして本番に臨む。教会の三階席まで観客が入り、8割方座席は埋まっている。最前列に井之脇先生が陣取られた。
この教会の配列は、コンサートの際、正面祭壇の前の狭いスペースにオケ、それを挟んで左右の信者席に着いた合唱団員が完全対面になり、左に1st、右に2ndと分かれる(日本サイドはそれぞれ1、2列目に配置してもらった)。その手前の聖水盤の前に指揮者台、先生を挟んで左右にソリストが座る。目と鼻の先が客席だ。まさに奏者同士の息遣いもわかるようなフォーメーションだった。心配されていた暖房設備もきちんと通っており一安心。
音楽会の簡単な挨拶と説明が入った後、いよいよ前奏が始まった。今回はカットなしの完全版である。ツィルヒャー先生は12月の公演より更に、また新しいマタイを表現しようとしているようだった。おだやかなアリアで優しく空気をなでていたタクトは、次の瞬間、凶器のように宙を切り裂き、時には自ら先導するように声を発し、大きなアクションで譜面台を倒す(!)場面もあった程だ。ひとつひとつの表現に意味があり、先生はめいっぱい分かりやすく指示を出してくれている。それでも我々はついていくのが精一杯なのだが、指揮を見るより指揮者そのものを睨んでいなければそれも出来ない。特にコラールの独特なルバートの加減は、毎回アドリブ感覚でその時その時で合わせていく。困難を伴うが、その面白さときたら応えられないものがある。私はまさにもう一度その感覚を味わいたくてこの旅行に参加したのだから。
休憩時間がまたヨーロッパらしいもので、出演者も観客も遠慮なくしゃべり、笑い、教会内なのに飲食も撮影も許されているようで、オペラの幕間のような好き勝手さ加減だった。慣れない私はちょっと面食らったが。井之脇先生も前半を終えてひとまずほっとされた表情で、様子をうかがいに来られる。私達の合唱の調子はまずまず良かったらしいが、レリンガー唱サイドの予想のつかない動き(!)にハラハラしているとのこと。
そして後半、緊迫した場面が続くが、前半より更に濃い演出が感じられた。テンポは必ずしも速くないのだが、全パート、ラストの歌詞を徹底して区切り、あえて休符を取ることでいっそう緊張感を高める効果を狙っていたようだ。ドイツ入りして十分な合わせの時間が取れず、アンサンブルの合わない部分も多々あったと思うが、曲が佳境に入ってからの演奏者同士の一体感が強まるのが確かに感じられ、三時間半の演奏時間があっという間だった。
最後の音を長く長く引いて終曲が終わった。八角形の教会の客席の四方からの盛大な拍手を受けつつ、私は心地よい脱力感に見舞われた。
これで14ヶ月つきあってきたこの曲ともしばしお別れかと思うと淋しくもあったけれど。
興奮もさめやらぬ中早々に、すぐ近所のレストランで交歓会が催された。これで心置きなくしゃべって飲めると思うとビール好きの私は胸が躍る。本番後に飲む生ビールほどおいしいものはない。各テーブルごとに「勝手に乾杯」をやっているうちにツィルヒャー先生、小松先生らソリストの方も到着される。互いの代表者の挨拶やお土産の贈呈などを行った後、私達は予定通りア・カペラで「早春賦」「故郷を離るる歌」を十分すべりの良くなった喉で歌った。本番に向かうバスの中で練習した萎縮した声とは大違いである。レリンガー唱は返礼として「荒城の月」をなんと三声のカノンで歌ってくれた。日本人には思いつかないようなアイデアにびっくりした。
日独間で歓談や写真撮影などに興じた後、夜も更けホテルに戻る時刻となった。先生やレリンガー唱の方々が手を振って見送られる中、名残惜しさを感じつつバスはレリンゲンを離れた。
アットホームというのとは一味違う、濃密な空気の中での演奏会だったと思う。合唱団員とオケ、同じアマチュア同士(恐らく)、対等な関係を肌で感じながらの演奏は、なかなかできない体験だったのではないだろうか。そして、日本人が「バッハの宗教曲」を固定観念からくる格式ばった扱いをするのと比べて、生活の一部になっている現地の人々が何とかろやかにバッハを扱う事か、宗教音楽を知り尽くしているカントルのツィルヒャー先生が、バッハをなんと自在に操る事か、音楽をやる人間としてとても羨ましくてならない。
むろん宗教的な行事としての意味合いも含んだ演奏会だったが、「手抜き」というものは私には感じられなかった。演奏の良し悪しは先生方や聴衆に委ねるとして、これはまさしく今を生きる人間のための渾身の音楽だと実感した。感動した、とか、素晴らしかった、というよりもむしろこんなに面白く貴重な音楽体験のできた充実感に満たされて、私は私のマタイを終えた。
翌日は観光コースのメンバーは午後ハンブルグを立ちベルギーに向かった。基本コースは最後のフリーデイを皆思い思いに過ごした。私は同室の人達と、急激な空模様の変化やつぶてのような雹に悲鳴を上げて笑いながら、一日かけて市内を練り歩き、教会をめぐりショッピングを楽しみ、港の近くまで足を伸ばした。
そして翌日、午後のアムステルダム経由の飛行機で帰国の途に着いた。体調を崩す人もなく事故もなく大きなトラブルもなく、つつがなく目的の演奏会を終らせた私達は成田空港で、次回練習時の再会を約束しあってそれぞれ家路についた。
最後に私事になるが、出発の2週間程前から喉の不調に悩まされ続けた。体調は悪くないのに徐々に声がかすれ咳が止まらず、普通にしゃべるのも辛い。出発日が近づいても状況は一進一退、練習も友人づきあいもキャンセルして、時には暗澹たる気分になりながら、このマタイだけはどうか歌わせてください、本番までに私の喉をどうか元通りにしてください、と私は毎日神様に祈った。想いが天に通じたのか、あれほど治らなかった喉がドイツ入りしてから徐々に復調し、本番はほぼベストコンディションで歌うことができたのだ。これ以上の喜びはない。喉が治ったら、井之脇先生、ツィルヒャー先生、小松先生及びソリストの方々、レリンガーと私達合唱団員、オケの皆さん、世話してくださった添乗員さん、聴きにきてくださったお客様、そしてJ.S.バッハ氏、音楽会に関わる全ての人に感謝を込めて歌いたいと思っていた、この願いがかなっただけでこの上なく幸せである。飛行機も白人も怖くて苦手なそれまでの私だったが、勇気を出して参加した甲斐がありました。ありがとうございました。                                (黒田 彩・吉祥寺・アルト )

第6回ドイツ演奏旅行記

1.ドイツ・ハンブルクへ

平成20年3月13日(木)の朝10時に成田空港第1旅客ターミナルビル4FのGカウンターに混声合唱団コーラル・アーツ・ソサイアティの参加メンバー(後に合流する方を含めて延べ48名)が集まった。今回は第6回目のドイツ演奏旅行で、曲目はバッハのマタイ受難曲である。また演奏後オランダ、ベルギーを見学する予定となっている。
参加した団員は全員元気いっぱい、井之脇先生もにこやかに現れた。それに内外航空サービス?から添乗員の山根さんが参加した。
成田空港第1ターミナルは木曜日の朝であるためか混雑はなく、むしろ気抜けするほど閑散としていた。荷物の検査も出国の手続きも厳重ではあった。カメラのフィルムはスーツケースに入れておいても感光してしまうということで、検査の前にわざわざスーツケースを開けて取り出さざるを得ない人も散見された。パソコンは手荷物にして検査の際は別に取り出して検査を受けるという方式になってきた。
出国手続きが済み、普段より厳しいボディチェックを受けてゲートを潜ると免税店がずらりと並んでいる。ここでドイツの合唱団のメンバーと打ち上げに一緒に飲もうと日本酒を買おうとしたがアムステルダムでハンブルク行きに乗り換える際に再びチェックインせねばならずその際に水の入った壜類は廃棄処分になるので残念ながらあきらめた。事実後に乗り換えの際にせっかく機内で持っていたペットボトル入りの水は摘みあげられてポイと捨てられてしまった。
飛行機はオランダ航空アムステルダム行き12時10分発のKLM862便、428人乗りボーイング747−400であった。座席はほぼ満員で、かなり遅れの12時55分に動き出して約12分間空港内を移動し13時7分に離陸、全長70メートルの機体をヨイコラショと持ち上げてオランダまでの約9500キロの遠い旅にスタートした・
機は1時間後には時速890キロメートルで1万メートル、−60度Cで札幌を抜け北海道を縦断して日本海に達し、3時間でハバロフスクを通過しロシアの大地を見下ろしながら進んだ。飲み物にはオランダのビール「ハイネッケン」をオランダのスモークアーモンドをかじりながら味わい、昼食はアムステルダムのホテル・オークラの日本料理屋「山里」の日本食をチリ産の赤ワインで味わった。きのこの炊き込みご飯、イカと野菜の煮付け、白身の魚、それにウドンとプリンであった。
機は夕日を追いながら、どこまで行っても厚い雲海を見下ろしながら北海に沿って高度1万メートル、時速930キロを保って進んだ。機内ではマタイ受難曲、現在始めているメンデルゾーンのエリアスの音取り、それに帰国すると待っている男声合唱団アンサンブル・レオーネの創立30周年演奏会の暗譜となかなか忙しい。2度目の食事は軽食でトマトとナスのパスタ、ポテトと牛肉のサラダを南アフリカ産の白ワインで味わった。
機は10時間50分間飛んで、定刻前15分前15時57分にオランダの広大なスキポール空港に無事着陸した。
ここでドイツのハンブルク行き17時10分発KLM1785便に乗り換えた。機は全長35メートルのフォッカー100型103人乗
りで、17時12分に動き出し、9分間空港内を移動して17時21分に夕暮れのアムステルダムを飛び立った。水平飛行に入るとすぐにハムとチーズのサンドイッチの軽食が出た。私はフランスの白ワインで美味しく味わった。機は46分飛んで慌ただしく18時7分にハンブルク空港に降り立った。
ハンザ同盟自由都市として栄えたハンブルクは人口170万人、ドイツ第二の都市である。古くから王様に支配されない自由都市として発達してきた。バッハがかつてオルガニストとして就職を希望したアルプ・シュニットガーの4段鍵盤を持つ大オルガン(現在も実際に演奏に使っている)があるヤコブ教会の高い尖塔がそびえている。現在では都市の景観を維持するため、街路樹より高い建物は禁止されているそうだ。その中でも例外中の例外として、われわれが宿泊するホテル、ラディソン・SAS・ホテル・ハンブルクが入っている22階建ての建物がある。国際会議場があるビルで、ハンブルク中央駅の次の駅、ダムトーア駅の前にそびえている。ダムトーア駅は時速270キロメートルで走る超特急・ICEの停車駅でもある。
空港から30分ほどでホテルに着くとサンドイッチやカツ、ハンバーグ、ヨーグルト、果物等が入ったランチボックスが各部屋に配られたが、飛行機の機内食でおなか一杯の我々にはとても食べ切れなかった。
明日からの練習もあり、夜10時には眠い目をこすりながらベッドに入った。時差が8時間ある日本時間は丁度朝6時、われわれは完全徹夜したことになる。

2.練習
翌3月月14日(金)の朝4時頃には目が醒めてしまいそのまま起床、外はまだ真っ暗で、窓から見下ろすとホテルの前のダムトーア駅に行き来する人々や、ハンブルク市内の朝の電気の光が一面に目にはいってきた。昨日もらったランチボックスから美味しいカツやハンバーグを食べてから6時半の朝食に降りた。このホテルの朝食はおいしいとの評判だそうで、さすがに質・量とも豊富である。沢山の料理の中からたとえ一切れづつ取っても食べきれないほどの山盛りになってしまう。私は今日は野菜と果物、それにヨーグルトだけ、それにコーヒ−をお代わりしてのんだ。
朝食後ホテルの前のダムトーア駅構内の早くから開いている商店街を見学し、街を歩いて内アルスター湖のほとりまで散歩してハンブルの繁華街を見学した。ホテルのすぐ横に大きな公園「プランテン・オン・ブローメン」がある。丘や池を配して散策に適している。日本庭園などを散歩した。
朝10時からホテルの2階の宴会室で練習を行った。メンデルスゾーンのエリアスの音取り、それにマチ受難曲を昼までぎっしりと練習した。
昼食は全員で街に出て、アルスター湖畔に近いレストラン「フランシスカナー」で地ビールとローストビーフの昼食を摂り、マタイ受難曲関連の深いバッハの旧跡を訪ねた。まず聖ヤコブ教会を訪れた。ここにはシュニットガーの大オルガンがあり、バッハがこのオルガンを演奏するオルガニストに就職するのを希望したことがあった。バッハがケーテンの宮廷楽士長だった1720年に13年連れ添った妻、マリーアバルバラを亡くした。そのころ、ハンブルクのヤコブ教会のオルガニストが死亡し、後任にすぐれたオルガニストを募集していることを聞いて早速応募したのであった。バッハはその年の十月にハンブルクにやってきた。そして教会委員会に会い、7人の志願者に混じって試験演奏を行うことになった。そしてバッハ独自のオルガン演奏会を同じハンブルク市内にあるアーダム・ラインケンがオルガンを弾いていた聖カタリーナ教会で開き、聴衆をすっかり魅了した。彼はラインケンが作曲した「バビロンの流れのほとりにて」を多彩な編曲で自由闊達に即興演奏し、老ラインケンをして「死に絶えたと思っていたオルガン技術がまだ引き継がれていた」と感嘆させたという。勿論バッハのオルガン技術が一番で、バッハに採用通知がきた。ところが採用の条件として当時の習慣だった多額の献金を教会にしなければならないということだった。もちろんお金の無いバッハは断り、結局オルガニストの地位は富裕な親方の息子、ヨハン・ハイトマンになった。こ
の間の事情をヨハン・マッテゾンが書いているが、ヤコブ教会の主任牧師エートルマン・ノイマイスターが「たとえベツレヘムの天使が、だれか一人降り立ち、神々しい音を奏でて聖ヤコブ教会のオルガニストになろうとしても、金がないばかりに再び天へ飛び立ってゆくであろう」と説教したという。
このようないきさつを持った教会であるが、そのシュニットガーの大オルガンが四百年の風雪に耐えて燦然と金色に輝き、今も演奏会などに使われていう。
ここから10分ほど行くと聖カタリーナ教会がある。有名なオルガニスト・ラインケンの弾いていた大きな教会であったが戦災で焼け落ち完全には修復されていない。13世紀半ばに設立された歴史の古い教会で、ハンブルクにおけるルター派の最初の説教が行われたのはこの教会であったし、バッハの教会カンタータの台詞を多く書いた作詞家、フィリップ・ニコライもこの教会に居た。有名なバロック・オルガン奏者のアーダム・ラインケンが居て、彼の音楽を学ぶためにバッハがハンブルクにやってきたのであった。現在はまだガランとした雰囲気であるが、修復作業の工事中であった。
ハンブルクはマタイ受難曲でも中心地となってきた。古来マタイ受難曲は300曲はあるといわれているが、1642年にハンブルクの作曲家トーマス・ゼレが従来のマタイ受難曲の形式を大幅に改善して、楽器の伴奏を伴ったマタイ受難曲を始めて作曲し、た。また約30年後の1673年にはハンブルクのヨーハン・タイレがさらに多くの楽器を使用した、バッハのマタイ受難曲に近い形式で作っている。またバッハと同じ時代に活躍し、ハンブルクの町の音楽監督だったテレマンもバッハ同じ時期にマタイ受難曲を作っているのである。こうした積み上げの中でバッハは集大成した形で普及のマタイ受難曲を作曲したのである。
午後4時にホテルをバスで出発して40分くらいのところにある、レリンガー教会へ移動した。ここで日曜日本番の指揮をとるヴォルフガング・ツィルヒャー氏により練習があり、たっぷり2時間、マタイ受難曲の練習をおこなった。夕食はハンブルクにある日本食のレストラン、「まつみ」のおにぎり弁当で、美味しく食べ、引き続き19時からレエリンガー教会のカントライ(合唱団)も加わって一緒に練習を行い、約2時間へとへとになるまで練習を行い、ホテルに帰着した。

3.リハーサル
第3日はリハーサルの日である。お弁当代わりにホテルの前のダムトーア駅の中に沢山ある、立ち食いのパン屋さん兼食料品屋さんに行き、ハムなどを挟んだサンドイッチやブドウパンや水などを買ってきてお昼の準備とし、午前8時50分にロビーに集合、10時からのオケ合わせに演奏会場に向かった。
ハンブルク近郊、バスで20分くらいの所に250年の歴史を持つレリンガー教会があった。八角形の形をしたレンガ造りで音響はとても良いように思える。第1合唱隊と第2合唱隊が左右に向き合って並ぶ形をしている。
10時からオーケストラ、ソリストも含めてオケ合わせが始まった。オーケストラはアルトナ管弦楽団。オルガンは教会に聳える30ストップのオルガンの演奏台をオーケストラの席まで持ってきてパイプがきれいな音を出すのである。
練習は第1曲から始まり、休みなしで12時過ぎまでで約半分以上を消化し、そのまま会場で持ってきたパンのお弁当を食べ、12時40分には後半の練習が始まった。昼食のための昼休みは少なくとも1時間以上あるのではと予想していたが、30分程度のもので、持ってきたパンを半分も齧らないうちに、もう午後の練習の開始となった。休憩時間がほとんど無いのにもかかわらず、どんどん練習にかかるドイツ人のエネルギーには心から感心した。
3時前にはオケ合わせが終わり、バスで弁当の残りを食べながらホテルに引き上げた。
午後5時から毎日やっている聖ミヒャーエリス教会のオルガン演奏を聴きに行くつもりであったが、翌日日曜日に行われる「マタイ受難曲」のオケ合わせがあるためにオルガン演奏は無いことがわかった。どこでも明日3月16日(日)はマタイ受難曲が盛んに演奏されるものだなと感心した。
当日夜は劇場でマタイ受難曲のバレエもあるようで、何人かはこれを聴きに行ったが、われわれはゆっくりとハンブルク名物の食事をとるため、繁華街の中央にある市庁舎の地下にある「ラートハウス・ケラー」に出かけた。行ってみると経営が変わったらしく「パーラメント」という名前に変わっていたが、店の伝統ある雰囲気は同じで大勢のお客が土曜の夜を楽しんでいた。
ドイツのビールの大ジョッキとハンブルク名物のひらめのムニエル、ジャガイモのスープを楽しんだ。大きな皿にひらめ一匹がドーンと載っていてジャガイモも添えてあり、美味しいが全部食べきれたメンバーは居なかった。スープは温かいスープと冷やしたスープが両方お盆に載せられてくるのもはじめての体験であったが美味しかった。
夜の9時前にはホテルに帰り、一日の練習の疲れでドッとベットに倒れこんで寝てしまった。

4.演奏会
昨夜早く寝たので、朝4時には目覚めてしまい、起きて洗面し、パソコンで旅行記を整理した。6時半には食堂に降りていつもの美味しい朝食を摂ってから簡単に今日の演奏会の準備と明日ベルギ−に移動するためスーツケースもある程度整理して出発の準備を整えた。
朝食後演奏会場に出発までの午前中の空き時間を利用して散歩に出た。古い風情のある街を歩いて楽しみ、ブラームス博物館を見学した。
若い頃からの写真や筆跡など豊富に展示してある。ブラームスはハンブルクで生まれ育っている。ブラームス博物館を訪れる半分は日本人だそうで、日本人のブラームスに対する人気は大きいようだ。われわれの合唱団も来年はブラームスのレクイエムになりそうで、これを演奏しに再び当地を訪れる可能性もあるようだ。
途中ビスマルク像の近くにある「ハンブルク歴史博物館」を訪れこの中のガフェに寄ってコーヒーを楽しんだ後、ここからホテルまで一直線に続く公園の中を歩いてホテルへ帰り昼食を摂った・
午後2時にホテルを出発する予定であったが、迎えのバスの遅れで出発が30分ほど遅れた。しかし演奏会のゲネプロもゆったりとしたペースで予定の開始時刻よりもスタートが遅れた。発声の先生による入念な発声練習が30分間行われ、続いては指揮者による細部の確認の作業で、午後5時の開演の時間にはまだ別棟の控室で立ち座りの場所の指示が行われてている段階で、われわれが演奏会場に並んだのは20分前後遅れた時間だった。ヨーロッパでは比較的開演の時間は厳守しないようである。
会場は3階席まで人が入っており比較的盛況だった。
演奏会に先立ち、教会の牧師が受難曲の演奏の意味を話しされた。指揮者が台に立つと会場は静まり、静寂が会場を包み、祈りのような雰囲気が流れたところで静かに演奏が始まった。そして前半の29曲まで一気に進み、約15分の休憩をとって再び最後の曲まで3時間の演奏だった。
会場には拍手が渦巻き、スタンディング・オペレーションとなり、盛大な拍手が渦まき、大任を果たした喜びで心から演奏してよかったと思った。
終了後近くの大きなレストランの宴会場に双方の合唱団約100名が集まって盛大に開かれた。ローストビーフ、鰊の酢漬け、サラダ、ジャガイモ、それになんといっても美味しい地ビールで大いに飲み、味わい、今までの練習の苦しさを吹き飛ばして楽しいひと時を過ごした。我々の合唱団コーラル・アーツ・ソサイアティから指揮者のヘンシェン氏に鎌倉彫りのお盆をプレゼントした。また「早春賦」とドイツの曲「別れ」の2曲、ドイツの曲はドイツも入れて歌い、プレゼントした。ドイツ側からは「荒城の月」を日本語とドイツ語で歌ってくれた。そして両方の合同で荒城の月を輪唱して楽しんだ。
夜も更け我々はバスでホテルに戻り連日の疲れを吹き飛ばすようにぐっすりと寝た。

5.ベルギーへ
演奏会が終了して肩の荷がおりた我々は翌朝、バスでエリカ街道の入り口にあたるリューネブルクへの小旅行を行った。リューネブルクは昔から岩塩の産地で栄えてきたが現在はかつての繁栄は無い。しかエリカ街道の入り口として重要な地理的位置を占めている。そして我々マタイ受難曲を演奏したグループにとってもかつてバッハが青春の一時期を過ごしている土地として見逃せない。
バッハが幼い子供のときに両親を亡くして兄弟は離ればなれになり、バッハは長兄がオルガニストとして独り立ちし、結婚もして一家を構えているオールドルフに引き取られた。ここでバッハはオルガンも学び学校にも通って15歳までになったが、子供も増えていく兄の家にもだんだん兄の家にも居づらくなってきた。折もおりバッハの通う学校の先生がリューネブルクの聖ミヒャエル教会の付属ラテン語学校に入ることを薦めてくれた。寄宿舎にも入ることができ、聖ミヒャエル教会の毎朝の礼拝に聖歌隊員としてお勤めすれば無料で勉強ができるということであった。バッハにとっては有難い勧めで、推薦を受けた友人のエートルマンと2人でリューネブルクへやってきたのである。
このラテン語学校は現在でいえば専門学校にあたるわけであるがラテン語、ギリシャ語をはじめ高度な教育を受けることができた。また聖ミヒャエル教会には北ドイツ最大の音楽図書館があり、豊富な楽譜の蔵書もあったのでバッハは音楽の勉強に力を入れたようだ。同じ町のヨハネ教会には当時巨匠の一人だったオルガンのベームがアンブルクにはラインケン、リューベックにはブクステフーデという巨匠がいたからバッハのオルガンの腕も相当上がったに違いない。また、ラテン語学校の壁ひとつ隔てた建物には貴族や富裕な家庭の子弟が通う大学に相当する学校もあったので優雅な日常を見るにつけてバッハも競争心を煽られたかもしれない。この子弟から紹介を受け、当時フランス音楽が盛んだったツェレの王宮の管弦楽団にバッハはヴァイオリニストとして潜り込んで演奏し、フランス音楽も吸収できたとも言われている。
こうして約3年近くここで過ごしたバッハは18歳のときにアルンシュタットの新教会のオルガニストとして赴任するまでこのリューネブルクで多感な青春時代を過ごした。
リューネブルクとバッハについてはこのような関係があるが、我々はリューネブルクの岩塩の採掘事業の跡地が博物館になっているのを見学して岩塩の生産の様子を知ることができた。リューネブルクからハンブルクに昼過ぎに戻って中華料理屋で食事した後、引き続きハンブルク空港に出かけ、次のベルギーを目指した。
ハンブルク空港では一緒にマタイ受難曲を演奏したレリンガー・カントライの指揮者・ヘンシェンさんをはじめ10人前後の団員が空港に見送りにきていた。そして我々と一緒に「Mu si den(別れ)」を合唱した。さらにトランペットを入れて「虹の彼方に」等々の曲を歌ってくれ、別れを惜しんだ。
機はKLM1782便アムテルダム行きフッカー50型の50人乗りで、動き始めてから9分間空港内を移動し、14時58分に全長5メートルの機体を青空に向けて飛び立った。水平飛行に移るとすぐハムとチーズのサンドイッチが出て、オランダのビールを飲みながら楽しんだ。
59分間でアムステルダムに到着すると乗り換えて、KLM1731便ブリュッセル行き、82人りのフッカー70型に乗り換えた、機は17時50分に動き出し8分間移動してから17時58分に31メートルの全長を空中に持ち上げて飛び立ち、オレンジジュースや木の実などを食べながら飛ぶこと20分でブリュッセル空港に到着し、待っていたバスでアントワープのホテルに到着した。その夜はホテルの食堂で、ベルギーのビールを楽しみつつ食事し疲れも頂点にきて早く眠ってしまった。

6.ベルギーの見学
アントワープのホテル「ラマダプラザホテルアントワープ」はアントワープ駅からトラム(路面電車)10ケ目、15分のところにあるDe Singelで下車する静かな町にある。朝食を済ませてベルギーの古い町「ゲント」に小旅行した。
ゲントは7世紀から始まり織物工業が発達し、民主的な政治もあって大いに発展してきた町である。町はいたるところ大きな教会が立ち並び、中でも「サン・バボン大聖堂」(12世紀にロマネスク様式で建てられ、その後ゴチック様式にロココ風も加わって威厳のある美しい教会であった。この教会に「神の子羊の礼拝」(ジャントユベル・ヴァン・エイク兄弟が1432年に完成させた)のすばらしい絵があり心行くまで鑑賞できた。また町には商人の力で建てた鐘楼が聳え立っており市庁舎(1302年建築)も含め、眺めがいい町であった。
昼食は街中の「’T Brantijser」でベルギーの地ビールに前菜のムール貝に魚料理、サラダ、フライドポテトを食べたがムール貝は我々にとって一人前の半分で丁度いいくらいの量だった。
アントワープに帰って「フランダースの犬」の舞台となった大聖堂を見学、キリストの静かな眼差しの前で死んでいたという話であるが、その絵が静かなたたずまいの中にあった。
夕食は昼の食事が量が多かったことと、遅い時間に食べたこともあってもうそんなに食べれない気分で、近くのスーパーのカップヌードルなどで部屋で済ませてしまった。

ドイツ演奏紀行 〜バッハ・マタイ受難曲演奏旅行〜第7日〜
オランダへ
朝、アントワープをバスで発って風車のあるキンデルダイクへ移動、世界遺産のオランダの風車が立ち並ぶ風景を見て、ここがオランダの風景ということを実感した。風車の内部に入ると太い木で本体の回転軸や大きな歯車等が組み立てられており、暖かそうなベットとキッチンもついて長いオランダの歴史をささえてきた実感がこみ上げてきた。
引き続きユトレヒトを訪問、オルゴール博物館を訪れた。大小珍しいオルゴールが展示され、実際に動いていたが、特に町音楽師が使ったストリートオルガンやダンスホール用のオルガンなど珍しいものが豊富にてんじされていた。
昼食はレストラン「ロッヘン」でオランダを代表するハイネッケン・ビール、オランダのスープ、豚肉のソテー、サラダ、フライドポテト、アイスクリーム等を楽しんだ。ユトレヒトの大聖堂もすばらしい建築であった。
ユトレヒトを4時前に発ち約1時間でアムステルダム中央駅(デザインが東京駅と酷似している)駅前のホテル「NHバルビゾンパレス」に到着した。早速夕食前にトラム(路面電車)に乗って15分くらいのところにあるアンネの日記で有名な「アンネ・フランク一家の隠れ家」訪れた。大きな教会が近くにある街路に面した古びたビルの一角であった。大勢の若者たちが列を作って見学に来ていた。元気な若者がこのような、二度とおきてほしくない記念の実物を実際に見聞してくれることは心強いことだと思う。細い急な階段を登って本棚の後ろに隠れたドアがあるのも実際に見ることができた。前回のニュールンベルクでの演奏旅行ではアウシュビッツの見学をしたが、これで両方の記念の現場を体験できたことになる。
夕食はアムステルダム中央駅近くの船上レストランでハイネッケンビールと魚料理を心行くまで味わった。
こうして改修工事と若者で喧騒なオランダ駅前広場を眺めながらオランダ第1日を終わった。

ドイツ演奏紀行 〜バッハ・マタイ受難曲演奏旅行〜第8日〜

チューリップ園とヨハネ受難曲

朝食を終えるとオランダで最も有名な「キューケンホフ公園」を訪れた。美しい花々、チューリップ、蘭の花ほか見るべき植物が広大な公園の中に展示され、オランダでしか見ることのできない体験をすることができた。実際にこれをみて育っていくオランダの子供たちの中から、花を愛する国民が育っていくだろうと感じた。園内に散在するコーヒーショップでスープヤケーキ類、コーヒーなどを楽しんで、めったに経験できない感動を得ることができた。
オランダの芸術家といえば画家のレンブラントがいる。この作品を中心に名画が集まっている国立美術館を訪れた。大勢の来館者が列を作って順番を待っていた。レンブラントの名作「夜警」が圧倒的な迫力で展示してあった。この作品は大きすぎて、かつて周りの部分が切り取られているようであるが、世界の3大名画のひとつとしてこの美術館にある限りオランダを訪れる人は絶えないであろう。オランダの子供たちが絵の真近まで寄ってスケッチブックに写生していたが、このように親しみやすく展示されているのも大変すばらしいことと思った。
この美術館の見学の後、ゴッホ美術館に回った元気な方も多かったが、国立美術館の迫力ある展示にどっと疲れを覚えてホテルで一休みした。今夜はアブステルダム・コンセルトヘボウのホールで夜8時15分から「ヨハネ受難曲」の演奏会があり団員の殆どが予約チケットを入手して聴きに行った。演奏会は満員の聴衆の中で定刻通りに開催された。
演奏会の内容は次の通りであった。

日 時:3月20日(木)20時15分開演
場 所:アムステルダム・コンセルトヘボウ
曲 目:ヨハネによる受難曲BWV245(ヨハン・セバスティアン・バッハ1685〜1750)
1724年作曲、バルドルド・ハインリッヒ・ブロッケスその他のテキストによる。
合 唱:モンテヴェルディ合唱団
管弦楽:英国バロック・ソロイツ
指 揮:サー・ジョン・エリオット・ガーディナー
テノール(エヴァンゲリスト):マーク・パドモア
バス・バリトン(キリスト):ディートリッヒ・ヘンシェル
合唱団から登演する上級ソリスツ:
ソプラノ:ユリア・ドイル
カウンターテナー:アンドリュー・レードリー
カウンターテナー:リチャード・ウィン・ロバーツ
テノール:ジェレミー・バッド
バス:マシュー・ブック
バス:サミュエル・エヴァンス
バス:ローレンス・ウォリントン

以上の内容であった。大拍手の中に夜11時終演であった。参加者は14名。
演奏会に行かなかったメンバー5人は夕方9時半まで開いているというデパートに寄ってゆっくり見学かたがた買い物をし、この旅の期間中お世話になった添乗員の山根さんたちとレストランで最後の夜のオランダ料理に舌鼓みを打った。

ドイツ演奏紀行 〜バッハ・マタイ受難曲演奏旅行〜第9日〜

帰国

いよいよ帰国の3月21日(金)の朝となった。朝食後演奏旅行最後にアムステルダムの街を散歩して見学し、お土産屋さんを覗き、街のスーパーにも寄って多少の食料品を買ってホテルの部屋でお腹に入れ、午後1時、ホテルをチェックアウトしてアムステルダム空港に向かった。
スキポール空港は雪で、乗客も混雑していた。スーツケースの重量が厳しくなって。20キロ制限がパスするかどうか心配ではあったがどうやらクリアすることができた。随分並んでチェックインの手続きをした後、免税店でお酒やチョコレートなどのお土産を買って15時15分発のオランダ航空のKLM861便の機上の人となった。
機は428人乗り、全長70メートルのボーイング747−400型で、3時29分に動き出して20分間空港内を移動し、3時49分に雪のスキポール空港を飛び立った。機長が流暢な日本語で機内放送で挨拶して我々の気分を和らげてくれた。1時間で高度9400メートル、時速918kmでコペンハーゲンを通過し、シベリアの上空を飛び10時間41分の飛行の後、翌3月22日(土)10時30分無事成田空港に着陸した。
空港では全員揃って指揮者の労いの挨拶を受け、空港内でお茶を飲んだりしながら別れ、それぞれの思い出を胸に元気で帰宅した。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
4.5
グルメ
3.5
ショッピング
4.0
交通
5.0
同行者
社員・団体旅行
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
観光バス 飛行機
航空会社
ルフトハンザドイツ航空
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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この旅行記へのコメント (2)

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  • わんぱく大将さん 2014/03/16 10:10:11
    リズム
    レオーネさん

    アーモンドの旅行記見ていただき有難うございます。最近年か、長い文章は読めなくて、のはずなのですが、あなたの文章はリズムがあり、読みやすかったです。正直最後まではまだですが、 うまいなあ〜この人、って感心しました。

     大将
  • nadeshiko28さん 2014/01/12 11:31:31
    レオーネさんはじめまして~~
    レオーネさん ご訪問&投票とありがとうございます

    レオーネさんって凄い方なんですね
    音楽 しかも海外での演奏旅行とは凄すぎます!!!

    世界を飛びまわれるお仕事って大変なことが沢山あると思いますが
    お身体に気をつけてくださいね。

    またよろしかったら旅行記覗いてみてみてください
    拙いですが〜

    レオーネさんへ     nadeshiko28

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