1994/11/01 - 1994/11/03
65位(同エリア340件中)
北風さん
あれほどひどかった高山病が、気がつくと、どうにか歩けるほどに回復していた。
身体が死に物狂いで環境にアジャストしてくれたらしい。
いまだ、下痢やゲップや軽い息切れはあるが、何よりあの言葉にできないぐらいの脳痛が消えた事はありがたい。
そう、動けるならば、次にやる事は、ネパールへ移動手段探しだった。
季節は11月、冬を迎えるこの時期、ラサではネパール方面への定期的な連絡バスは冬眠に入る頃だった。
調べると、やはりバスでネパール国境までは予定が立たない。
氷点下を軽く超える世界の屋根と呼ばれる山脈で、ヒッチ・ハイクは論外だ。
残る手段は、ツアーしかなかった。
ガイドブックには、チベット越えでネパールを目指す旅行者用にツアー会社が2泊3日ツアーを用意していると記載されていたが・・
なんとツアーは満席で今年中は無理との事!
ツアー会社の前に集まった同じ悩みを持つ長期旅行者7人は、同じ考えを確かめ合った。
「ツアーがなければ、自分たちで企画すればいいじゃん!」
・・・そう、こんな辺境の地に個人旅行しているツワモノどもに、「GIVE UP」という言葉はなかった。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス
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旅日記
『ネパールへ』
ラサを出ると、もはや延々と荒野が続くようになった。
外気温は既に昼間でも0℃を超えてはいないだろう。
季節は11月に入っていた。
つまり、冬が目の前に迫っている事を意味する。
本来、ネパールまでローカルバスを乗り継いで行くつもりだったが、肝心のバスが不定期になってしまっていた。
このままでは、マイナスの気温にさらされながらヒッチをしなければならない。
必死の思いでラサで走り回った結果、ツーリスト同士で金を寄せ集め小型バスをチャ−ターする事に成功した。
1994年11月1日、一人頭7000円で、バスは快調にラサを後にしたのだが・・・ -
走り出して3時間、ガゴガゴという振動でバスが停止した。
また薄い空気に対応する為に、部品を交換するのだろうか?
皆で外に出てみると、タイヤが四角になっていた。
パンクだ。
トーマスと2人、以前味わった高山病の恐怖を思い出し、かなりナーバスな気持ちを抱えての移動だったが、自分の健康以外に移動を妨げるものがある事に気づく。
一抹の不安が、チベットの見事な青空に、白いため息と共に上っていった。 -
動物保護団体が見たら卒倒しそうなぐらいの荷物を、ロバに牽かせている老人が、ゆっくりと坂道を越えてきた。
あの荷物の量は街からの帰りだろうか?
では、シガツェ(日喀則)が近いのか? -
<シガツェ(日喀則)>
チベット第2の都市「シガツェ」に到着!
しかし、第2の都市にしては、西部劇に出てくるゴーストタウンみたいだ。
どんよりとした曇り空がよく似合う。 -
寂しい街並みの中、見るからに重そうな荷物を運んでいる行商人の女性たちの姿が目立つ。
チベットの女性と子供によく見られる、「すす」や、ヤクという牛から取れる「バター」を顔中に塗りたくった真っ黒な顔だ。
別に戦闘用のメイクではなく、肌を寒さや乾燥から守る為らしい。 -
うーん、チベット第2の都会かぁ。
-
あまりにもうら寂しい街並みの中、カラフルな色彩に彩られた一角があった。
お土産屋なのだろうか? -
あいかわらず好奇心旺盛なトーマスが、吸い寄せられるように立ち止まる。
すかさずおばちゃんが、チベット密教徒に必需品の宗教グッズ「マニ車」を売りつけ出した。
「マニ車」とは、文字が読めない人間でも、祈りの文字が書かれたローラー状の棒を手でカラカラと回す事で信仰が高まると言う物なのだが・・
一見、赤ちゃんのガラガラや、糸巻き棒にそっくりだ。
ニコニコしながら振り返ったトーマスの手には、金ぴかのマニ車が握られていた。
「キリスト教バージョンはないのかぁ」と、トーマス。
・・・トーマス、罰が当たるぞ。 -
シガツェを過ぎると、町らしき町は地平線の彼方にも見えなくなった。
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おおっ!
何か人工物らしき建物が!
・・・探検家が文明らしきものを発見する時も、こんな気持ちだろうか? -
どれぐらい進んだだろう?
何処までも続く荒野の一角に人の姿が現れた。
なんと、トラクターで畑を耕している。
現在標高4000m、こんな苛酷な環境でも開拓者がいる。 -
木枯らしと呼ぶにはあまりにも冷たい風が吹きすさぶ中、時間はゆっくりと過ぎていく。
-
土100%でできている住居だった。
空以外は全てセピア色に彩られている。 -
旅日記
『ネパールへ Part.2』
次にバスが停車したのは、小さな村だった。
先程トイレ休憩は済ませていたので、別段俺たちのリクエストではない。
バスからのリクエストだった。「故障」と言い換えることも出来る。
ドライバーがレンチ片手に車に潜る間、目的地までの不安な思い(正確にはバスへの不信感だが)を紛らわす為、辺りを散策する事にした。
道端の日陰には、溶けきれない雪が残っていた。
既に何度も降雪があったらしい。
あちこちに雪解け水でできた水溜りが広がっている。
ザバッと音がした。
移した視線の先では、村の女性が一人水溜りで髪を洗っていた。
まぁ、東南アジアではよく見かける風景だ。
ただし、氷の張っている水溜りに腰まで使って、シャンプーしている姿を見たのはこれが初めてだった。
祖先はあざらしだろうか?
あまりの驚きに声も出なかった。
人間は伊達に生物界の頂点に立っているわけではないらしい。
ここまで環境に順応できるなんて・・・ -
道端で子供がじっとたたずんでいた。
ラサで見るような旅行者ずれしている子供ではなく、何もねだろうとはしない。
それどころか、一言も口をきこうともしない。
その非常に大人びた視線は、この苛酷な環境がさせるのだろうか? -
遠くにかすかにエベレストが見えてきた頃、バスが再び停車した。
今度は故障じゃないらしい。
ドライバーが「今夜のホテル」と言ってくれる。
うれしい!非常にうれしい!別段バスの旅が辛いわけではない。
どうにか、バスがここまで走ってくれた事がうれしい!
ホテルの名前は、「エベレスト・ビュー・ホテル」
・・そのまんまやんか!などと突っ込む暇など無い。
とりあえず、エベレストが見える所まで来たのだから。 -
これは、正確に言うとホテルと言うよりモーテルかもしれない。
何故なら、ホテルの周りはチベット高原以外何も無いから・・・ -
ホテルの前には、チベットの万能アイテム「ヤク」がいた。
この牛、さすが毛深いだけあって寒さに強く、荷物運び、耕運機、乳製品製造、番犬、の代わりに重宝され、その上、死んだら毛皮にまでリサイクルできる優れものだ。
ホテルでウェルカム・ドリンクとして、作ってくれたチベット名産「バク茶」もヤクバターから作るらしい。 -
バズーカ砲のような筒にお湯と、ヤクバターと、なにやら聞く事が怖そうな食材を入れて、餅つきのようにおばさんがガシュガシュ突き回して出されたこのバク茶、味は・・・
・・・俺の味覚には合わなかったとしか言えない。 -
チベットのおばあちゃんが、孫を背負いながら、何もない荒野を歩いてきた。
数え切れないぐらいのシワが刻まれた顔が作る表情は、それだけでも目が離せないほどの存在感がある。
人は、「明日まで生きる」というシンプルな目的を持たざるを得ない苛酷な環境では、自然と尊厳というオーラを身に纏うのかもしれない。 -
-
ラサを出発して3日目、朝4時にたたき起こされてネパール国境に向かう。
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地平線には、朝日に浮かぶエベレストが白く輝いていた。
今、世界の屋根と呼ばれる山々が目の前に! -
標高5300m、高山病は一度その高度に慣れると、1年程は身体が、その高度でのアジャストを覚えているらしい。
チベット入国時の殺人バスで、ものすごい高山病にかかった時の経験からか、現在身体に不調は感じられない。
「人間塞翁が馬」とはよく言ったもんだ。
チベットの空は、あいかわらずとても濃い、深い青色を頭上に広げている。
その青の中を、純白の雲がゆっくりと、しかし確実に流れ、風の存在を教えてくれていた。
「世界で一番好きな空は?」と、聞かれたなら俺はこの空を思い出すと思う。 -
旅日記
『鳥葬』
遠くの荒野に、チョルテン?(墓標とでも言うのだろうか?)らしき、積み重ねられた石の山が並んでいた。
チベットでは、鳥葬の風習が未だにあると言う。
死んだ者を荒野に横たえ、鳥に食わせ、その魂を鳥が天に運ぶらしい。
あの遠くで、大きな翼がばさばさと羽ばたいているのがそうなのだろうか?
好奇心で踏み出される足を、ガイドが引きとめる。
この高地で生き抜いている大型の鳥(禿げ鷹)は、とても獰猛で別段死体でなくても、人を襲う事があるらしい。特に、血に狂った場面ではなおさらとの事。
「そして、これは見世物ではない」
との一言で、俺たちはバスに戻った。
魂が鳥に運ばれて天に昇るという青空は、限りなく青く澄んでいた。 -
ドライバーがあと2時間ぐらいで国境に着くと叫んでいる。
確かにうれしい言葉だが、俺たちの目は窓に張り付いたままだった。
バスは、V字型に切れ込んだ谷間の道をくねくねと急ハンドルを切りながら降りている。
もちろん、この足場の悪い砂利道にガードレールなんて気の利いた物は無かった。
確かネパールのカトマンズは、標高3000m以下にあったはずだ。
と言う事は、標高5000mを走っていた俺達のバスは、現在2000m程下降している最中らしい。
なんともすごい話だ。
このバスのやっている事は飛行機と変わらない。
後は、このバスのタイヤが最後まで地面にしがみついてくれている事を祈るだけだが・・・ -
とうとう、国境の街に入った。
しかし、これは本当に街なんだろうか?
険しい山脈の中腹を蛇行する狭い道に街ができている。
平たい場所なんて、道路以外見当たらなかった。
住居は山の中腹にどうにか張り付いている。
ここもかなり寒くなるんだろう。
ヤクの毛皮が羊のようにフサフサだ。
さて、それで国境管理事務所は何処なんだろう? -
バスが街中を走る山道を大きく曲がった時、いきなり道路が封鎖されていた。
田舎の踏み切りの様な、竹竿にペイントした遮断機といい、どう見ても国を代表するゲートには見えないが、どうやらここが、中国国境らしい。
1994年11月3日、とうとう中国を出国する。
毎日が漢民族との戦いだったが、今思うと、肉まんや煙草をおごってもらった事も何度もあった。
そう言えば、中国では気にいられると必ず煙草を勧められた。
いろんな思い出が頭をよぎっている内、あっという間にパスポートには出国スタンプが押されていた。
さて、次はネパール入国だ。
場所を尋ねた女性の指差す先は、川沿いにある白い建物だった。
・・嘘だろ?はるか彼方の谷底だぞ。
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