1978/06/18 - 1978/06/22
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YOSHITOさん
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休みにはShakespeare Country Tourに参加。
日帰りの1日ツアーで?17.00 当時のレートで
約¥6,800ほど。
ストラトフォード・アポン・エイボンの途中には
Oxfordにそして帰りにはCotswoldsに寄り道。
そして翌週にはもちろんまたビジネス。ロンドン
市内の会社。一方イングランド西部のベイジング
ストークへの日帰り出張と続く。
写真はシェークスピア子孫の住居とタウンホール。
(この記録をUPしてから10年にもなります。
Title を32年前のEnglandの旅から修正しましたー
2019年5月)
(そして当時その元となった私のHome Pageは
以下です http://travelingmaki.kilo.jp/stratford1978.html )
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-
およそロンドンを少し出ると車窓からWindsor
Castleが見えた。実際訪れたのはこの時
から16年後になる。 -
ロンドン市内から北西に150キロの
Stratfordーupon-Avonに向う。 -
ロンドンを離れて20分も行かない内に
緑の絨毯。そしてのんびりとその草を食む
牛達の姿。私にとってはこれもまた一種の
カルチャーショック。 -
当時の私には家並が途切れる事の無い東京
とその郊外の関係しかイメージ出来なかった。
それが都心から少し走っただけで一変した景色。
ほとんどメルヘンの世界に変っていた。 -
バスはオックスフォード・シェアに入っ
てきた。この川はテムズ川の上流だろうか。 -
これもバスの車窓からのスナップ。
-
オックスフォード市内。
-
オックスフォードのCoffee Shoppe
-
何カレッジだったか覚えていない。
-
立ち寄ったパブでのスナップ。
ピンボケ写真。 -
オックスフォードのあと途中下車したの
はウッドストックのブレナム宮殿。
しかし門は閉ざされていた。 -
門扉の間からシャッターを切っていた。
ウッドストックを再び訪れ宮殿に入った
のは実に23年後の一人ドライブの折だった。 -
ブレナム宮殿からすぐ近くの小さな教会。
実はここにはブレナム宮殿の主でもあった
チャーチルが眠っている。 -
墓碑銘にはWinstone Leonard Spencer
Churchill 1874-1965 と刻まれている。
イギリスの偉大なる政治家の墓は実に
シンプルであった。 -
ウッドストックから50キロも走った
だろうか。やっとストラトフォード・アポ
ン・エイボンに着いた。
お昼は17世紀シェークスピアと同時代の建
物と言われるシェークスピア・ホテルで頂
く。天井はとても低い木造家屋であるが
400年の重い歴史を感じる。 -
ストラトフォード・アポン・エイボン
のタウン・ホール。 -
シェークスピア夫人のアン・ハサウエーの
実家。屋内の写真は暗くて厳しい。 -
ストラトフォード・アポン・エイボン
市内風景。 -
右の女性はガイドのMrs.Thomas Fujii
-
シェークスピア生家の前で。
ツアーで一緒だった大阪の信国さん一家。
JALの現役スタッフの娘さんが嫁ぐ日を控
えてご家族での英国旅行と伺った。
以来32年日本でお会いする機会はないが
年賀状は続いている。
私はこの数年前に神戸勤務から東京に戻っ
たばかりだった。 -
シェークスピア生家の正面入口前で。
これから丁度20年後に再訪した時はこの
正面入口は閉ざされていた。 -
シェクスピア演劇の常設館である
Royal Shakespear Theater -
劇場前の広場で寛ぐ人々。
-
市内を流れるエイボン川。
-
ロンドンへの帰途に途中下車したコッツウ
ォルズの村で。この藁葺きの家が何処の村
であったか残念ながら覚えていない。 -
翌週からはまたビジネスに戻る。
ロンドン市内のアメリカのUniversity
Microfilm International社の英国
支社を訪ねる。
Mr.Mcloughlin マックラハリン部長
に面談。彼はこの時が初対面であった
がその数年後東京で再会した折には
オランダの出版社の部長の名刺を受け
取った。 -
朝9時 Taylor & Francis社のスタン
レー・ルイス社長が私の泊るヒルトン・
ホテルに自ら運転する車で迎に来てくれた。
私は彼とは前年東京でお会いしていた。
当時ロンドン・オフィスとは別に本社はロ
ンドンから7,80キロ西のBasingstokeに
あった。
写真は本社で私と打ち合わせ中のルイス氏。 -
ベージングストークは英国南部のハンプシ
ャー州にある。近年はIBMやエクソンとハ
イテク企業が集っている街だが当時は静か
な田舎町と言って良かった。
テイラー&フランシス社は18世紀末創業の
英国でも屈指の学術出版社であった。
丁度前年1977年には同社の会長ネヴィル・モットー博士
(前ケンブリッジ大学教授)はノーベル物理学賞を受賞されていた。 -
本社では主だった役員とスタッフを集めて
私に紹介してくれた。その中の一人
Production Director Mr.Sibley
午後には彼が印刷の現場を案内してくれた。
本社ビルの裏には大きな印刷工場があった。
彼の英語は酷いコクニー訛りで、ただでさえ
よく判らなかった私にはまるでドイツ語でも
聞いている感じだった。しかし彼は好漢だ
った。
二年後この田舎町に再訪した折にも彼にお会
いしているが、後年アムステルダム出張中に
客死したと言う訃報に接した。 -
帰りはルイス氏が駅まで見送ってくれ
Waterlooまでの切符をさりげなく私に
手渡してくれた。
後年彼を箱根に案内する機会があった。 -
ロンドンのウオータールー駅を後年訪れた
時にはパリへのユーロスター鉄道のターミ
ナル駅。しかし最近それはセント・パンク
ラス駅に移ったと聞く。
ロンドン・アイへ行く時の最寄駅であるの
は変らない。 -
ロンドンから帰国の段になってトラブルが
発生した。それは当時では特に珍しい事態
ではなかったがJALの帰国便がストにぶつ
かった。
急遽PAN AM パンアメリカン航空に振替え。
当時日英間を日英国以外の航空会社が飛んで
いたのは如何にPAN AMが世界最大の翼であ
ったかと言う証左でもある。
マンハッタンに巨大な本社ビルを構えていた
パンナムが1991年末にはまさかの倒産に見舞
われる。それは80年代にはいって航空業界の
規制緩和による価格競争、そして直接のきっ
かけはスコットランド上空での爆破事故の
発生。 -
しかしこの振替えが曲者だった。南回りで
あった。当時北周りはアンカレッジが唯一
の寄航であったがロンドンを飛び立って
フランクフルトー>テヘランー>バンコッ
クー>香港ー>成田と飛んだ。 -
これもイランのテヘラン・メハラバード空
港。奥の壁にはバーレビ国王の写真が掲げ
られていた。実はこの半年後にはイラン革
命がおきて国王は追放されている。 -
やっとタイまで辿り着いた。何しろ私はこの
時が始めての海外旅行である。無事仕事を終
えたと言う安堵感や達成感こそあったが慣れ
ない外国でビジネスをやる事の難しさや苦労
は充分味わっていた。 -
バンコク空港。飛行機の整備の名目で実に
3時間も機内に閉じ込められた。
私は飛行機では寝れないので既に疲労困憊。
その上行きのJALのスチュワーデスと違って
パンナムのごついおばさんのきつい英語は
余計応えた。
唯一若さと好奇心が疲れた私の心身を日本
まで支えてくれた。 -
香港に到着。勿論香港の旧啓徳空港。
この空港は1998年に廃港になり別の地
に香港国際空港がオープンしている。
跡地は2013年には大型客船のターミナ
ルが完成するという。 -
実際に観光で香港を訪ねる機会があった
のはこれから7年後である。 -
香港の免税店。
沢山の日本人がいた。 -
ここも香港の免税店。
香港を発って10日ぶりに着いた成田空港は
もう深夜に近かった。ロンドンを発ってか
ら既に29時間が過ぎていた。
私は空港からタクシーを飛ばして当時住んで
いた立川の自宅に着いたのは既に1時を回っ
ていた。
翌朝は土産物も持参で新宿の本社に出社して
いた。 -
初めての英国旅行からはや40余年。光陰矢の如し。
Londonには8度ほど訪れる機会があり、2冊の英国旅行紀と
写真の個展を開いた。
現在はこの書斎で趣味のDVD制作を続けている。
しかしこの旅でお会いした英国人、日本人の何人かは既にない。
何と残酷な時の流れ!
2019年5月 合掌 牧義人
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