2010/05/27 - 2010/05/27
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ムッシュさん
岐阜の美濃路は、鵜沼宿に入ります。岐阜県庁の岐阜市に隣接した地域につき平野部を長良川沿いに一路西へ向かいます。
鵜沼宿(日本橋より第52宿、日本橋より402?)
美濃路のほぼ中央に位置する宿場。松尾芭蕉がしばしば訪れたことでも知られてる。
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当初の中仙道は木曽川に沿って鵜沼まで通じていましたが急傾斜で危険でした、そこで慶安四年(1651年)うとう峠越えの「うとう坂」が開削されました。
うとう峠のうとうとは、疎(うとい、うとむ、うとう)で、不案内、よそよそしい、気味の悪い、などの意味があります。 -
「うとう峠」に向かう「うとう坂」は石畳道です。
きれいに整備されているので歩きやすい。
中山道は、太田宿から現在の国道21号線の坂祝・各務原境までは木曽川に沿ってありました。
しかし、この先鵜沼までが大変急斜面の危険な場所であったため、ここから山合いに入りこみ、うとう峠を越えて鵜沼宿につながっていました。
うとう坂登り口の案内板より -
【うとう峠一里塚】 峠を登りきった処に南北一対現存している。
うとう峠の一里塚(北塚)を残しています、直径約10m、高さ約2mの原型を保っています、江戸日本橋より数えてちょうど100里目です。
【旧中山道うとう峠一里塚】 市指定史跡
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利をおさめた徳川家康は慶長六年に東海道各宿に対し伝馬制を敷き、宿駅制の準備に着手しました。美濃を通る中山道では、慶長九年(1604)に大湫宿、同11~12年に細久手宿が設けられ、さらに寛永11年(1634)には加納宿、元禄七年(1694)には伏見宿が新設され美濃中山道十六宿体制が完成しました。また、この間の寛永年間(1624~1644)には大名の参勤交代制が敷かれ、各宿に問屋・本陣・助郷制が整備されています。
各務原地域を通る中山道は、慶安四年(1651)にそれまで木曾川を越えて犬山膳師野から可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山添いを通り、ここ『うとう峠』を越えて太田宿へ至る道に付け替えられました。うとう峠の「うとう」とは、疎(うとい・うとむ・うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味があると考えられます。このうとう峠と鵜沼宿との間は、十六町(約1.8km
)に及ぶ山坂で、長坂・天王坂・塞の神坂などの険しい坂が続き、『うとう坂』と総称されていました。
うとう峠の『一里塚』は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ『北塚』・『南塚』が残っています。北塚は直径約10メートル・高さが約2メートルで良く原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって、南側の半分が壊されてしまいました。
かつて各務原地域には、ここ以外に各務原山の前・六軒東方・新加納村にも一里塚がありましたが、現在ではすべて消滅しています。一里塚は江戸時代の交通・宿駅制度を考えるとともに、当時の旅人の苦労が偲ばれる重要な史跡であり、うとう峠の一里塚は、そのわずかに残された貴重な歴史的財産といえます。
平成六年二月吉日 各務原市教育委員会
【うとう峠一里塚と中仙道】
江戸時代につくられた「鵜沼村絵図」(寛政5年6月)・「中仙道分間延絵図」(寛政12年7月~文化3年)によると鵜沼宿の東側にある一里塚より、東の坂を「乙坂」「長坂」とか「うとう坂」と呼んでいました。「鵜沼の東坂」とか「うとう坂」という呼び方は昭和になってからです。
「うとう坂」にある一里塚、江戸(東京)から、一里ごとにつけられた目印で、旅人にとっては距離のめやす、馬や駕篭の乗り賃の支払いのめやすとなり、日ざしの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられていました。ここでは片側だけ残り巾10m、高さ2.1mあります。塚の上には松が植えられていました。
江戸時代に、各務原を治めていた旗本坪内氏の「前渡坪内氏御用部屋記録」を見ると、天保3年の文書に、この坂を通って10日ほどかけて江戸屋敷へ到着する計画が残されています。それによると1日の歩く距離は9里(36km)から10里(40km)が多い。 -
坂を下ると52番目の宿場鵜沼宿の町並み
うとう峠を越えて鵜沼宿に向かう下り阪(天王坂)の途中で、遠くに名城の犬山城が見えてきました。長良川沿いの丘に建つ城です。 -
昼食を頂いたウナギ屋さん。創業40年。
川魚料理”うな神”
各務原市鵜沼東町2丁目 TEL.0583ー84ー9209 -
国道21号線付近。正面を右折すると、岐阜市方面(西)
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著作権フリー作品「木曽街道六十九次」の画像を使用する
【木曽街道 鵜沼ノ驛 従犬山遠望 (英泉)】
犬山城と木曽川越えに鵜沼宿を描いている。1艙見える舟は鵜沼の渡し舟。
英泉は鵜沼として木曽川の左岸段丘上に聳える犬山城と、対岸の鵜沼宿を俯瞰で描いています。
天文六年(1537年)織田信康(信長の叔父)が犬山の丘上に犬山城を築城し、天文十三年(1544年)信康は斉藤道三の美濃稲葉山城攻め(加納口の戦い)で戦死した。
元和三年(1617年)からは尾張藩の付家老成瀬家が城主となり幕末まで続いた。
犬山城は別名白帝城とも呼ばれ、これは長江の丘上に建つ白帝城を詠んだ李白の詩に因み、荻生徂徠が命名したものです。
この犬山城は現存する日本最古の木造天守閣で国宝指定です。 -
【鵜沼宿口の高札場】が復元されてます
鵜沼宿は慶安四年(1651年)うとう峠の開削にともなって、新設された宿場で、古代から東山道の驛(うまや)が置かれ交通経済の要衝でした、この地は明治24年(1891年)の濃尾大地震で壊滅的な被害を受けました。
天保14年(1843年)の頃、鵜沼宿の宿内家数は68軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で、宿内人口は246人でした。 -
【大安寺橋】
宿場中央、大安寺川にあり、西たもとに「太田町へ二里八丁」「岐阜市へ四里十丁」と記された道標がある。
自然石道標「ここは中山道鵜沼宿 これよりうとう峠 左」があります。 -
「岐阜市へ四里十丁」と記された道標がある。
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左手に【安積(あずみ)門(旧大垣城鉄門 )】 市指定重要文化財
大垣城本丸の表門でした、平成二十一年(2009)移築され各務原(かかみがはら)市指定重要文化財です。
構造形式は高麗門です、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠め、火矢による攻撃から門を守っています。
【由来】
当門は、大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家(各務原市蘇原野口町)の自邸の門として維持されてきたことから、「安積門」と呼ばれています。各務原市へ寄付され、平成21年に当地へ移築されました。
規模は、間口約7.5m、高さ4.5mあり、構造形式から高麗門と称されます。高麗門とは、左右二本の本柱上部に小振りな切妻造の屋根を架け、さらにその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。
当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられます。
当門と同様に高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門(二之門)の二例が現存しています。 -
向いに【中山道鵜沼宿町屋館(旧武藤家)】があります、
旧旅籠絹屋で、主屋、東側の付属屋、西側の離れの三棟は登録有形文化財に登録され、景観重要建造物に指定されています。
【由来】
当館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明冶の初めから昭和30年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家の住宅です。平成18年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。
屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の付属屋、西側の離れの三棟からなります。主屋は、明冶24年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたもので、江戸時代の旅籠の形式を残しています。付属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと考えられ、養蚕小屋として利用されていました。離れは、建築部材から昭和初期に建築されたものと見られ、太田宿から移築されたものと伝えられています。
三棟とも、登録有形文化財に登録され、景観重要建造物に指定されています。 -
【芭蕉句碑】
脇本陣坂井家に三度逗留し吟行した芭蕉を偲び、二宮神社脇、坂井家跡に建てられた。
”ふぐ汁を喰えば喰わせよ菊の酒”
【鵜沼宿と芭蕉】
貞享二年(1685)、「野ざらし紀行」途中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に滞在したと伝えられています。
その後、貞享五年(1688)七月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、
「汲溜の水泡たつや蝉の声」
の句を読み、さらに同年8月頃、再度訪れた脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折には、主人の求めに応じて、楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。
「ふく志るも喰へは喰せよきく之酒」
その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、
「おくられつ送りつ果ハ木曾の秋」
と詠み、美濃の俳人たちと別れを惜しんだといわれます。 -
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脇本陣坂井家の隣が【ニノ宮神社】です。
明治六年(1873年)建立の拝殿は、登録有形文化財に指定されています。
社殿への石段脇に二ノ宮神社古墳が残されています、古墳の形は円墳で、大きさは直径29m、およそ六~七世紀に造られた古墳と考えられます。 -
菊川酒造の向いが【鵜沼宿本陣跡(解説)】です。
桜井家が本陣を勤め、問屋、庄屋を兼ねました。
建坪174坪余り、門構え、玄関付で、御上段、二之間、三之間、広間、御前間、御料理間、勝手上段、納戸、台所等が配置され、御上段の北には築山や泉水がありました。
文化六年(1809年)伊能忠敬と測量方が宿泊し、幕末皇女和宮は当本陣にて昼食を摂りました。
次いで右手に髭文字南無妙法蓮華経題目碑があります、並びが鵜沼宿脇本陣跡です、坂井家が代々勤め、安政五年(1858)からは当家に代って野呂家が脇本陣を勤めました。
隣の鳥居は【二宮神社】
明治六年(1873年)建立の拝殿は、登録有形文化財に指定されています。
社殿への石段脇に二ノ宮神社古墳が残されています、古墳の形は円墳で、大きさは直径29m、およそ六~七世紀に造られた古墳と考えられます。 -
【梅田昭二家住宅】です
主屋は本家(梅田吉道家)に次いで古く、明治元年(1868)の建築です、離れは明治25年(1892)濃尾震災の翌年の建築です。
本家は、茗荷屋という屋号で旅籠を営んでおりました梅田吉道家住宅です、現在の建物は約百六十年前に建てられ、濃尾震災にも耐えた、中山道鵜沼宿で唯一、江戸時代に甦遡る貴重な建物です。 -
鵜沼宿の馬頭観音
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弘法堂を過ぎると鵜沼西町から鵜沼羽場町に入ります。
空安寺手前の右手奥に【衣裳塚古墳】があります。
墳丘の規模は直径52m、高さが7mあり、県下最大の円墳です。 -
村国座「各務の舞台」
国指定重要有形民俗文化財。舞台では、毎年秋祭りに子供歌舞伎が奉納される。
【皆楽座】
客席を持たない舞台のみの農村舞台ながら、廻り舞台、奈落、セリ、太夫座などを備える。公演時は舞台前面にむしろを敷いて見物席とし、花道は仮設で設けられた。明治二四年の濃尾地震により倒壊したが、明治三二年に再建された。津島神社藩塀は皆楽座の南側に隣接して立つ。 -
JR高山線の各務原駅。無人駅でした。ちょっと立ち寄り。
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【六軒の一里塚跡】
旧中山道六軒一里塚跡(標柱)があります、江戸日本橋より数えて103里目です、この辺りが六軒茶屋の立場跡でしたが、
往時「野をわけゆけば六軒茶屋の村はわびしきさま也」といわれました。 -
新加納一里塚(標柱)があります、江戸日本橋より数えて104里目(416km)です。
右は、中山道分間延絵図 -
これは高田川にかかる橋。
各務が原市の中心部近くなのですが、また、この近くに航空自衛隊岐阜基地があり、戦闘機が、ものすごい爆音をたてて繰り返し離陸しています。これを聞けば、沖縄基地問題を思い出してしまいます。
なにしろ、耳に響く爆音!!
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