2010/05/21 - 2010/05/26
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rojinさん
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1日目:2010.5.21(金)タオルミーナの宿を早朝5時半出発
AZ 174便 カターニャ → ローマへ飛ぶ
AZ 886便 ローマ → マルタへ飛ぶ 13;15到着
その後<青の洞門>から世界遺産<ハジャー・イム神殿>へ
宿:DIPLOMAT HOTEL (スリーマ地区)3連泊
2日目:2010.5.22(土)マルタ島内観光
ヴァレッタからイムデイーナ・ラバト観光
3日目:2010.5.23(日)ゴゾ島内観光 アズレーウインドウから大城塞チッタデル、世界遺産ジュガンデイーヤ神殿
4日目:2010.5.24(月)マルタ島のクルージング
12:00 ホテル出発
AZ 887便 マルタ → ローマへ飛ぶ 15:30到着
宿:PORTA MAGGIORE HOTEL
5日目:2010.5.25(火)
11:00 ホテル出発まで自由時間
AZ 792便 ローマ → 関空へ
6日目:2010.5.26(水)関空到着
(JTB西日本旅物語ーシチリアとマルタ周遊9日間の後編です)
マルタ共和国に住む人々の歴史は、はじめにギリシャ人が定住し、あとからサラセン人が移住してきて、農耕生活や漁業中心の生活が定着していたが、聖ヨハネ騎士団(700人)がオスマントルコによってロードス島から追放され、地中海を流転中に、シチリア支配者スペイン王から、このマルタ島を活動拠点として与えられた(1530年)後は、カトリック大司教やヨーロッパ諸国の貴族達の莫大な財政援助を受けて、対イスラム勢力に対抗する前線軍事基地として栄えたようです。 聖ヨハネ騎士団という名前も<聖マルタ騎士団>と変わったのです。
しかし、歴史の偶然からエジプト遠征帰りのナポレオン軍が船の補修のため、マルタ島を占拠して<聖マルタ騎士団>を追放してしまい、結局フランスがマルタ島を占領・支配したのです。 その占領政策が横暴すぎて現地住民を苦しめた結果、現地民の反抗を招き、僅か2年後には、助けを求められたイギリス海軍が、ナポレオンを追放してしまい、1800年以降200年間もイギリス統治が続き、それを契機にヨーロッパからの人々がやってきたという歴史があります。
マルタ共和国として独立したのは1974年。
人口は40万人、面積は淡路島の半分という小さな国ですが
現地人が家庭で話す言葉は<マルタ語>といってアラブ・マグレブ語の一方言です。イタリア語やフランス語も混入しているようですが・・・
住民の人種的起源はギリシャ系とアラブ・サラセン系それにラテン系と考えられます。
今回の旅の印象としては、<素朴さ・優しさ>をもつ人々だなあーという感じでした。
公用語は英語ですが、テレビはイタリア語。
とにかく複雑ですね。
現在、マルタの雇用情勢は厳しいようで、定年は50代の由。観光産業関係で働く人々が7割だそうです。
しかし、気候は温暖、風光明媚な海に囲まれている上に、歴史的遺産も多くあり、旅行、マリンスポーツの魅力もあるので、観光立国が鍵です。
最近はヨーロッパから老後を過ごす場所として人気があるようで、 マンション分譲や賃貸物件が目につきました。
ちなみに不動産屋の掲示板には、2LDKのマンション価格が日本円で1500万ぐらい、賃貸マンションは月額5万位からあるようです。
実際に喋った片言マルタ語を書いておきます:
ボンジュ! ( お早う! )
ボンスワ! ( こんちわ! )
キフィンテイ? ( 元気? )
タイヤップ ( とても いいよ )
インテイ ( あなた )
イエナ ( わたし )
イエナ ヤップニース (わたしは日本人です )
インテイ ゴデイタン? (あなたはゴゾ島人?)
イーヴァ ( YES )
グラッシー! ( 有難う! )
グラッシー ハフナー!( どうも有難う! )
タイヤップ ハフナー!( とても素晴らしい!)
インテイ ニケレム マルテイ ?( マルタ語を話すの?)と
聞かれて、返事。
フテイット フテイット ( すこしだけ )
マルテイ フェイン (マルタ語をどこで ? )
と聞かれて、
インターネット。
サッハー! ( さようなら! )
カメラはデジタル
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 観光バス 船
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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-
ローマからマルタへ1時間半、飛行機は漸くマルタに到着。
写真は、マルタ到着直前の飛行機の窓から見た景色です。
マルタ共和国にはマルタ島のほか、もう一つゴゾ島があります。
ゴゾ島も観光地として人気があるようで、今回の旅ツアーでも、フェリーで行く予定です。 -
広いマルタ空港には機影は少なく、のんびりした空港です。
-
ここはマルタ語でLuqa(ルア)と呼ばれている新しい空港だそうです。
-
ツアー一行は出迎えのバスに乗り込みます。
-
バスの運転手さんは名前をクリスさんというマルタ人。
毎朝、バスに乗り込む時、運転席に座っている彼に向かって、マルタ語で挨拶したら、いつも笑顔でマルタ語で返してくれた。こんな具合だ。
”Sinjur Kriss, Bonju! Kifinti?" ( クリスさんお早う!元気?)
シニョル クリス ボンジュ キフィンテイ?
と声をかけると、
ニッコリ笑顔で 「 Tajjeb. Inti?」 ( 元気だよ。オタクは?)
タイヤップ インテイ?
当方が " Tajjeb. Tajjeb. Grazzi!"(元気、元気、有難う!)
タイヤップ タイヤップ グラッシー
午後は、" Bonswa! Tajjeb ?"---と聞くと「 Tajjeb!」と返事。
ボンスワ! タイヤップ? タイヤップ
この写真を記念に撮らせて貰ったときは、イタリア語で
" Sinjur Kriss! Posso farLe una foto ?"
と頼むと、ー「 イーヴァIva.」(いいよ)という返事。
当方から、" Grazzi hafna! "( どうも有難う!)
グラッシー ハフナー
バスを降りる際には、" Ciao! Sahha! "(さよなら)
チャオ! サッハ!
初めて喋ったマルタ語がこんなに簡単に通じるとは! -
バスがはじめに向かった先は<ブルー・グロット青の洞門>
-
断崖絶壁から真下にキラキラ輝く地中海の水面が見える。
地中海の海は本当に青い。 -
バスを降りて坂道を下り、ボート乗り場へと向かいます。
-
そして5〜6人乗りの小さなボートに乗り込み、救命具を身に
つけて青の洞門へ出発です。 -
マルタ島の南東側にある岬の岸壁は石灰岩でできているので
南風が強く吹くと、洞窟の中に石灰岩のエキスが蓄積して
周囲の海面よりもっと澄んだブルーの底面を映し出すそうですよ。 -
これが<そのブルー>。 成る程青の洞門ですね。
-
青の洞門探訪のボートを降りて、陸地に戻ってくると、岸壁の上には塩野七生さんの書物に出てくる<サラセンの塔>というもの
がありました。 サラセン人の襲撃を周囲に狼煙で知らせる見張りの塔だったそうです。 -
バスに戻る途中、お土産屋さんで記念の
バッジをひとつ購入することに。 -
崖の岩場では太陽を浴びて休息中の旅行者を見かけました。
-
青の洞門からバスで5分、丘の上には世界遺産に登録された古代巨石文明の神殿があります。 名前は<Hagar Qim Temple>
マルタ語の読み方がガイドブックによって異なるのですが、
ハジャー・イム・テンプルが正しいようです。
丁度、マルタで著名な考古学の権威が、目の前で訪問客と
神殿の専門的説明をしている場面に出くわしました。
神殿の事務所前にピカピカの黒のベンツが駐車してありました。 -
観光地を後にして、バスが向かったのはホテル。宿はスリーマ地区の海岸沿いにあるDIPLOMAT Hotel.といいます。
三つ星程度のホテルです。 -
夕食はホテルでなく、別のレストランで摂りました。 食事を終えて8時半ごろレストランを出たら、ラッキーなことに見事な夕焼け空が見えました。
-
幸運は、翌朝にもやってきましたよ。 早朝6時ごろホテルの玄関を出たら、目の前の海面から朝日が昇る瞬間に出くわしたのです。
-
貴重な瞬間をパチリと一枚。
朝のレストランで食べ終えたあと、テーブルの後片付けに
やってきた給仕さんに、覚えてきたマルタ語で
” Tajjeb hafna! タイヤッップ ハフナー!”
( とても美味しかったよ )
と言うと、目を丸くして驚いていました。 -
本日の最初の観光先は<ヴァレッタ>です。ー世界遺産です。
ここは16世紀後半、聖ヨハネ騎士団によって築かれましたが、財政面のバックにはヨーロッパ貴族とキリスト教会本部があったのです。
イスラム勢力の中心であったオスマントルコ軍の大攻撃にさらされた
聖ヨハネ騎士団が、次なる攻撃に備えて築きあげた要塞ですが、幸いなことにトルコ軍は攻撃してこなかったのです。
現地マルタ人も当然ながら要塞都市建設に従事させられたでしょうが
豊富な資金援助のお陰で、マルタ経済は潤ったことでしょう。
要塞ヴァレッタの入り口前に大きな広場があり、
現在では公共バスのターミナルとなっていて、ここから島の四方へ路線バスが出ているそうですよ。(写真) -
そんなバスの群れに混じって、観光馬車もありました。
-
ツアーの一行が市街地に入って真っ先に向かったのが、
<Upper barracca Garden >という湾内を一望できる素敵な公園。 -
要塞が築かれる前に、トルコ軍との戦闘舞台となったスリーシテイーズが正面に見えます。
-
有料トイレ番のおじさんです。
チップを手渡しながら、日本から来た旅行者だが写真を
撮らせて・・・とイタリア語で頼むとにこやかに頷いてくれます。
" Grazzi! Sahha! "
グラッシー サッハー!
(有難う、さよなら!) 最後はマルタ語で挨拶です。 -
騎士団長の館付近の広場は大勢の旅行者で賑わっていました。
-
ツアー参加者に、「 フリータイム後、ここへ集合して下さい。
目印はこの丸い緑色の店ですよ 」という添乗員さんの声を
あとに、人混みのなかヴァレッタの自由時間を散策に出かけます。 -
お土産屋さんに入って、マルタのシンボルマークがついた帽子を買いました。
ちなみに値段は3.50ユーロー安い!
”Grazzi! Chiao !" -
昼食をとったのは昔から営業している老舗レストラン。
店内の壁には古い銃砲や当時の装飾品が飾ってありました。 -
レストランの横の路地の先に青い海が見えます。
時間があったので降りて海岸まで行ってみました。 -
次にバスが向かった先は、丘の高台に築かれたイムデイーナ。イスラムのサラセン人が強固な城塞にしたという歴史的場所です。
聖ヨハネ騎士団が1530年、スペイン王からこのマルタを与えられてやってきた当時、最初に住んだのはここ古都
イムデイーナだったそうです。
しかし防御の観点からは不十分とみて、スリーシテイーズと
名付けられた湾岸の岬に要塞を築いて移り住み、そこで
オスマン・トルコとの激戦が展開されたのです。 -
古都イムデイーナの入り口です。
-
静かな路地に若い修道女が立っていましたので、イタリア語で
" Posso farLe una foto ?"
( 写真を撮ってもいいですか ?)と話しかけると、
にこやかに微笑んでOK。
帰り道でも、同じ場所に佇んでいたので、
" Bonswa! "と挨拶して、先程撮った写真をデジカメ
画面で見せてやると、喜んでくれました。
”Sahha! ”( さようなら!)今度はマルタ語です。
ーー(返事)「 Sahha!」手を振って見送ってくれました。 -
ここの街中はブーゲンビリアが白壁とミックスして見事な景観をつくり
出しています。 -
熱い日差しも苦にならなりません。
-
堡塁広場にやってきました。
-
堡塁から眼下に広がる風景を見続ける旅行客達です。
-
この景色を観るだけでも、マルタ島にくる価値はあるかも。
-
イムデイーナに接しているラバトの街には聖パウロ教会があります。
-
その聖パウロ教会内で説明してくれた管理人です。
-
翌日はフェリーで隣のゴゾ島へ渡りました。(25分)
-
船上のベンチに家内と二人座っていたら、乗客が混んでき
たようで、立ったままの旅行客もでてきた。
前の席に大柄な男女が「 Excuse me・・」言いながら
腰掛けてきたので、
”Please. Prego.”(どうぞ、どうぞ)
”From what country are you ?”
と尋ねたら、南アイルランドからきたという。
”火山爆発があった国ですね”
「 Yes、Yes. そちらはどこの国から」
” From Japan. Vengo dal Giappone。”
「 どこの都市?」
”From Osaka。”
「 職業は? 休暇で?」
”I have retired。I am now 73yeas old.”
「 いやー60代に見えますよ 」
「 職業なにをやってきたの?」つぎつぎと質問を
浴びせてくる。
”Life Insurerance Company. "と答えた瞬間、
二人が、おーと声を揃えて歓声を上げた。
「 わたしたちも同じよ 」
男性はITのプログラマー、女性は大学では考古学専攻
今は、保険事務職とか。
いやー偶然とはいえ話が盛り上がってしまいました。
男性はこの島へスキューバー ダイヴィングをしに来た由。
” Can I take your picture? "
「 勿論喜んで。 こちらも 撮らせて? 」
船が港の入るまでの20分間、とても楽しい時を
共有できた。 -
ゴゾ島で真っ先に向かったのは<Azure Window>という場所。
-
ここがスキューバダイバーの活躍場所だったのかな。
-
海辺に咲くケッパーの花です。
-
次に向かったのは大城塞チッタデル。
-
ゴゾ島の中心にも昔築いた大城塞があったのです。
当時1700人いた住民のうち、1000人がフェニキア人に拉致
され、奴隷として売られたとか。
残りの700人がこの城塞に立て篭もって暮らした由。 -
ゴゾ島巡りで乗った地元観光バスです。
-
そのバスの運転手さんがMr.Georjiさん。
ゴゾ島のジュガンテイーヤで生まれ育った生粋のゴデイタン。
(ゴデイタンとはゴゾ人のことで、マルテイーズはマルタ人の意。)
英語教育は受けていない由(現地ガイド・AKIKOさん話)
”Skuzi sinjur, jiena Gappuniz.Inti Ghawdjtan? "
スクージ シニュール、イエナ ヤップニース インテイ ゴデイタン?
すみません、わたしは日本人ですが、あなたはゴゾ人?
と話しかけてみたら、口元を緩めて「Iva。」(うん)
イーヴァ
続けて" Ggantija Temples tajjeb hafna."
ジュガンテイーヤ テンプル タイヤップハフナー
(ジュガンテイーヤ神殿は素晴らしいねえ)
と言ったら、笑顔がさらに広がり、うん、うん。
そこで今度はイタリア語で、
" Posso farLe una foto ?"(あなたの写真撮っていい?)
と聞くと、OK。
デジカメの画面を見せてやると嬉しそうだった。
ー「 Inti nitkellem Malti ?」
( マルタ語を話すのかい?)
" Ftit,ftit. "
(すこしだけ)
ー「 Malti fain?どこでマルタ語を習ったの?」
”インターネットさ”
" Grazzi hafna! Sahha! "(有難う、さようなら!)
グラッシー ハフナー サッハ
ー「 Sahha! 」(さようなら!) -
現地ガイドのアキコさんと一緒に記念撮影です。
-
帰りのフェリー乗り場へ戻る途中に、たくさんの
新築マンションがみえてきました。 -
いろいろなタイプのマンションがあるらしいが、
どれもヨーロッパ人向けの分譲か賃貸物件の由。
マルタ島にも同じような物件が最近多くなったが、
価格からしてもゴゾ島のほうが人気があるらしい。 -
ここもマンション地区です。
-
海に面したリゾートマンションは最高でしょうね。
リタイヤー組が自宅を処分して老後を過ごすために
購入するケースも多いとか。 -
いよいよマルタ最後の日になりました。本日は湾内クルージングを楽しみました。
-
地元の小学生もクルージングにやってきたようです。
マルタ語で、日本からきた者だが、写真と撮らせて、
と呼びかけると、嬉しそうにポーズ。 -
湾内には大型フェリーも停泊していましたよ。
ヨーロッパの他国からきたフェリーでしょうか。 -
湾内クルージングを最後に、マルタ島からアリタリア航空でローマへ移動しました。ローマでのホテルは<Porta Maggiore Hotel>というところ。
-
午前中の自由時間を利用して、有名な<コロッセオ>まで
往復3時間、徒歩でローマの一部を観光してきました。
今回の<シチリアとマルタの旅>も、これで終了です。
様々な出会いがあり、地中海の歴史の一端を自分の足で確かめる事ができて充分満足の旅となりました。
終わり
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