2010/05/02 - 2010/05/04
11735位(同エリア13935件中)
kazuuzooさん
- kazuuzooさんTOP
- 旅行記128冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 192,878アクセス
- フォロワー4人
2010年5月2日:東京‐岩国‐宮島
2010年5月3日:宮島‐広島
2010年5月4日:広島‐東京
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- ANAグループ
-
再び厳島神社に帰ってきました。
あれっ??水がない…なんとこんなところまで歩いてこれました。ということは… -
鳥居の下にも歩いていけます!
ちなみにこの鳥居、この場所に置いてあるだけ。
ということで流されることもあり得るのだそうです。 -
鳥居の真下にやってきました。
気付きましたか??
なんと"厳島神社"と"伊都岐島神社"文字が
異なります。昔は宮島は伊都岐島と呼ばれていたところからいつくしま神社となったようです。
結構びっくりですよね。 -
鳥居を横からパチリ。鳥居の上の部分に月が描かれてます。これは陰陽を表しているのだそうです。
こちらが陰、ということは… -
反対側は陽になります。
この辺で宮島をあとにします。かなり歩いたので疲れ果てました。あとの時間はちょっとゆっくりします。 -
最終日、1日広島を観光します。
まず向かったのは広島城。
お濠の向こうに見えるのは手前から平櫓、多聞櫓、太鼓櫓です。 -
二の丸を過ぎて本丸へ、ここには護国神社という神社があります。この神社、なんと初詣の時期には厳島神社よりも参拝客が増えるのだとか…
今の時期はこいのぼりの季節ということでたくさんのこいのぼりが泳いでます。
実は広島城は別名鯉城。由来はいろいろと説がありますが、お濠にたくさん鯉がいたからとか…
でもこの鯉城から広島=鯉=広島カープとなったようです。 -
天守閣にやってきました。
この天守閣も1958年に再建されたもの。
その前の天守閣は原爆の爆風で倒壊してしまったそうです。
今の天守閣の中は全国にある他にあるお城と同じで展示&展望台です。
ということで… -
天守閣の上に登ってきました。
広島城は平城と呼ばれる形状の城で1589年、毛利輝元によって造られました。
毛利氏はもともと吉田郡山城という山岳の堅固なお城を持っていたのですが、豊臣秀吉の天下統一による世の安定とともに攻略されない山間のお城からより交易を大事にするため海にも近いこの地にお城を建てたそうです。その後、関ヶ原の戦いで西軍に属して負けた毛利氏はこの地を離れ、変わって福島正則がこの地へ入城。福島正則が城の改築を無断で行ったということでこの地を離れると今度は浅野長晟が入城、その後幕末まで浅野氏の居城だったそうです。 -
続いて前の写真とは反対方向の写真をパチリ。
-
広島城の見学を終えて本丸をもう少し散策。
まずは、広島大本営跡。広島に原爆が落とされた理由の一つが軍事的に重要な都市だったから。
日清戦争のとき戦争指揮を取るため大本営が広島にありました。その大本営の跡です。
大本営は旧帝国陸軍、海軍の最高統帥機関で日清戦争のときにはこの広島城の近くに臨時の国会まで造られ天皇も広島に滞在。つまり一時的ですが広島が実質日本の首都になったのです。
その後、大本営は解散、建物は史跡に指定されましたが原爆で破壊されてしまいこの状態で残されてます。 -
大本営にあるクロガネモチの木です。
実はこの木、原爆を被爆した木。
今でも生きてます!!
爆心地から910m、大本営の建物は倒壊してしまいましたが、この木は生き残りました。 -
同じく大本営のそばにあるこの慰霊碑、実は中国軍管区司令部の跡です。
中国軍管区司令部は戦争末期、中国地方を管轄した作戦司令部です。 -
慰霊碑のそばにある見取り図です。
ちょうど、この場所はあ司令部の地下通信室跡ということが分かります。 -
地下通信室の跡でしょうか!?窓のようなものがあります。この地下通信室、原爆投下の際には投下の第一報を発信した場所。当時比治山女子高校の学生がここで通信員として従事していたようで、いまでも8月6日には比治山女子高校では慰霊碑の前で追悼式が行われているそうです。
-
本丸から二の丸へ戻るときにあるこのマルバヤナギの木。この木も被爆樹木だと本丸散策中に知りました。本丸に向かう時、全く気がつかなかったこの木、普通に自然に溶け込んでいます。
-
マルハヤナギの木の傍にあるユーカリ。この木も被爆樹木です。原爆で焦げた跡もあります。その後台風襲来の際に折れたりしましたが、現在もきちんと生きてます!
すごい生命力です。 -
この後、広島城を散策をこのくらいにして、原爆ドームに向かいました。
-
原爆ドームに到着です。
もともと広島県産業奨励館として1915年に完成しました。
原爆投下の際には爆心地から160mの位置にあり、館内にいた人全員が即死してしまったそうです。 -
建物の中の写真です。
被爆当時の姿を残すため補修は何度かされてますが、基本的には被爆当時の姿を残しています。
そして、1996年、世界遺産に登録されました。 -
原爆ドームの左にある橋。相生橋です。
珍しくT字の形をしてます。この珍しいT字、上空から目立つ存在で原爆投下の際には目標になったといわれてます。
原爆の際には爆風で大きなダメージを受けました。
現在の橋はその後老朽化で1983年に掛け替えられたものだそうです。 -
原爆投下の目標は相生橋ですが、実際の爆心地は??というとここです。相生橋から300mここの上空580メートルで1945年8月6日午前8時15分、原子爆弾が世界で初めて実戦使用されました。
-
平和記念公園を少し散策します。
このちょっと古い建物、レストハウスって書いてあります。今はその名の通り売店などになってますが、もともとは呉服屋だったそうです。
第二次世界大戦のとき、広島県燃料配給統制組合に買い取られ、燃料会館と呼ばれてましたが、原爆で大きなダメージを負いました。
現在でも使用している爆心地から一番近い被爆建造物でちなみに爆心地から170m。 -
平和の鐘です。戦争、そして核兵器のない世界を願って造られたそうです。
国境のない世界地図、そして鐘に棒が当たる部分には核のマークが描かれていて誰でも鐘がつけるようになってます。 -
原爆の子の像です。この像を語るには佐々木禎子さんの話をしなければなりません。12歳で白血病で亡くなった禎子さん、2歳のときに被爆、12歳で白血病と診断された後、生きれると信じて鶴を折り続けたそうです。亡くなった後、禎子さんの旧友などが呼びかけて禎子さんをはじめとした原爆で亡くなった子供のための像を創りました。
いまでもここにはたくさんの千羽鶴が持ち込まれています。 -
原爆死没者慰霊碑です。正式には広島平和都市記念碑と言うそうです。ここには死没者名簿が納められています。名簿に載っている人の数は26万人を超えており、名簿はすでに90冊を超えています。
-
慰霊碑の後方にある平和の灯と言う聖火です。
1964年に点灯し始めて45年以上既についています。
この火は世界から核兵器が無くなった時に消されるそうです。
あと何年、この火は点灯し続けるのでしょうか… -
この後、平和記念資料館に向かいます。
ここは原爆投下や原爆投下後の惨状に関しての展示がされています。 -
展示のうちの一部です。
この模型、原爆投下前の原爆投下地点付近の街並みです。たくさんの建物が建ち並び、模型を見ても活気があったんだなぁと感じることができます。
ちなみに左のT字の橋が相生橋です。 -
そして…原爆投下後の模型です。
右側の赤い棒の部分が爆心地。木造建築は100%爆発の際の熱風で跡型もなくなってしまいました。 -
原爆に関する展示です。特に印象的な展示をいくつか…。
これは人影の石です。爆心地から260mにあった銀行が開くのを待っていた人がいたそうです。爆発でこの人は跡形も無くなってしまいましたが、原爆の高熱に直接さらされた他の部分との間に色の違いが出来たそうです。 -
爆心地から40mにあった石です。表面にぶつぶつができています。原爆は爆発して0.3秒後に200mの火玉を作り出し、その火玉の表面温度は7,000度にもなったそうです。高温にさらされた石の表面は一度溶けてこのようなぶつぶつが出来たそうです。ものすごいパワーです。
-
この楯に線が入ったもの、実は雨の跡です。原爆の後爆心地から北西側に雨が降りました。その雨は黒い雨で原爆のすす、そして放射性物質も含まれていたそうです。
-
展示を見終えて外に出てきました。
この日はフラワーフェスティバル?というお祭りをやってました。出店がたくさん、催しものもいろいろとやっていました。 -
そろそろ帰る時間ということでひとまず広島駅に向かいました。すると…帰りも高速渋滞でリムジンバスが動いておらず電車+バスで空港へ向かいました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
35