2007/11/04 - 2007/12/27
16397位(同エリア47389件中)
Tシャツさん
■行程
・寧夏西蔵篇 天津→北京→大同→銀川→蘭州→西寧→拉薩
[青海西蔵鉄道]
・間奏 成都→九寨溝
・絲綢之路篇 烏魯木斉→喀什→庫車→吐魯番→敦煌→嘉峪關→西安
・河南江南篇 開封→徐州→南京→杭州→紹興→上海
http://www101.sakura.ne.jp/~gogogo/china/around_china/
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 タクシー
- 航空会社
- 中国国際航空
-
清東陵(2007年11月5日)〜北京・天津
北京市街地東方に約130km、天津市街地北方に約80kmの地点に造営された、清朝皇帝の陵墓群のうちのひとつ。清朝の陵墓は一箇所ではなく、東西に分割して造営された。こちらの東陵には、順治帝・康熙帝・乾隆帝・咸豊帝・同治帝の5人の皇帝の他に、西太后の眠る定東陵もここに有る。特に清朝最盛期に造営された乾隆帝の「裕陵」の地下宮殿のレリーフは秀逸で、必ず見ておきたいポイントである。
しかし、この東陵は1924年に国民党の軍閥孫殿英の手によって盗掘され、その際に数々の副葬品が盗まれたに留まらず、地下の玄室をこじ開けるために、乾隆帝および西太后の地下宮殿の入口がダイナマイトで破壊され、現在も乾隆帝の裕陵の扉は元に戻されていない。西太后の遺体はこの折に切り刻まれ、止めにダイナマイトで木っ端微塵になった。この報を聞いた溥儀は大いに怒り、国民党に失望し日本に近づく決意をしたきっかけになったと言われている。 -
北京駅(2007年11月6日)〜北京
北京から天津・東北地方・上海を結ぶ列車が、多数発着するもっと伝統あるターミナル駅。ツインタワーがシンボル。 -
万里の長城〜八達嶺(2007年11月7日)〜北京
古くは秦の始皇帝が、北方の外敵を抑えるために建造した長大な城壁。現在残っている城壁は、明の永楽帝の頃に再建されたものが殆どである。中でも外国人を含め多くの観光客が訪れる最も有名なスポットは、ここ北京の「八達嶺」である。入口をくぐると、右側に傾斜が緩やかな通称「女坂」、左側は険しい「男坂」となっている。 -
明十三陵(2007年11月7日)〜北京
明朝の永楽帝以降の皇帝及び皇后・皇妃が眠る陵墓群。北京市街地北の約30kmの地点に造営された。現在は永楽帝の「長陵」と万暦帝の「定陵」のみ公開されており、定陵は地下宮殿も発掘され見学することができる。 -
清西陵(2007年11月8日)〜北京
北京市街地から南西に約130kmの易県にある清朝皇帝の陵墓群。東陵のほかにもう半分の皇帝はこちらの西陵に眠る。ここに眠っているのは、雍正帝・嘉慶帝・道光帝・光緒帝・宣統帝の5人である。宣統帝・溥儀の陵墓は、辛亥革命により建設予定の段階で中止になり、その後1995年に光緒帝の崇陵の裏手に、ひっそりと墓石が建てられ、皇帝・廃帝・復権・戦犯・庶民と波乱の人生を送った後、ようやく安息の眠りに就けたことだろう。 -
天壇(2007年11月9日)〜北京
皇帝が天帝と対話し、雨乞いや豊作の祈願をする場所。形は天円地方の原則にのっとり、天と対話する場所を象徴し、全ての建造物や祭壇が円形である。写真の「祈念殿」が天壇のシンボル的存在となっているが、儀式としての重要性が高いのは、そこより南に数百メートルの場所にある祭壇「圜丘殿」である。中央の天心石で、皇帝自ら天帝と会話をなされたとされる。建造したのは漢族である明朝の手によってだが、のちに中原入りした満洲族の清朝はこれをそのまま継承した。 -
天安門(2007年11月9日)〜北京
紫禁城〜故宮博物院の正面玄関であり、帝都北京のシンボル的存在。1949年10月1日にこの門の欄干で、毛沢東は国共内戦の共産党の勝利と、中華人民共和国の成立を宣言した。門上部の屋根にはかつては「天安門」の額が掲げられていたが、共産党政権成立後に国章に改められ、門中央部には毛沢東の巨大写真、左側には「中華人民共和国万歳」、右側には「世界人民大団結万歳」と掲げられている。明・清朝時代、この門をくぐれるのは、選ばれた極僅かしかいなかった。特に中央の橋と入口は皇帝専用であり、皇帝以外は科挙の合格者トップ3(状元・傍眼・探花)が、合格発表の後の帰り道にのみ通行することが許され、彼らにとってはこの上ない名誉なことであった。この中央の通路と入口は、観光地となった今でも通ることはできない。門の南側には、長安路を挟んで世界最大の広場「天安門広場」があり、欄干の上からも眺めることができる。 -
紫禁城〜故宮博物院(2007年11月9日)〜北京
明・清と約500年にわたり皇帝が居住した世界最大の皇宮。正面玄関の天安門をはじめ、外朝のメインである太和殿までは、端門・午門・太和門と大型の4つの門が続く。故宮内部は、政治などの公事に携わるための「外朝」と、皇帝や皇族の私生活の場である「内廷」と、大きく二つに分割されている。額縁の文字は、基本的に左側に漢字と右側に満洲文字の組み合わせになっているが、清朝崩壊後に袁世凱が中華帝国の皇帝を称した際に、外朝の額のみ満洲文字がはずされ漢字のみとなった。しかし、内外の反発で間もなく帝政を取り消したために、内廷の額の交換までは間に合わず今に至る。
元来故宮は、明3代目の永楽帝が北京遷都の折に、元朝の首都だった大都の皇宮の南側に建設した。丸太材・煉瓦・石盤に至るまで、当時の最高級の素材が惜し気も無く投入された。2008年の五輪開催に向けての整備の一環で、「世紀の大修復」と称し抜本的な修復作業が全体的に行われている。2008年7月にはメインである大和殿の修復が終わり、塗りたての新品同様の額とともにその姿が公開された。 -
圓明園(2007年11月9日)〜北京
乾隆帝の下に来朝したイタリア人ジュゼッペ・カスティリオーネ(朗世寧)の作である西洋庭園。大理石を惜しげもなく投入し建造された西洋館の前に、当時としては最先端技術で作られた噴水も有ったと言う。しかしながらアロー号戦争(第2次アヘン戦争)の折に、北京まで侵攻してきた英仏連合軍により焼き討ちに遭い、見るも無残な廃墟と化してしまった。今に至るまでに何度も修復の話が出たが、その頃の屈辱を忘れないようにする意味もこめて、現在も破壊されたそのままで残されている。 -
頤和園(2007年11月9日)〜北京
乾隆帝の時代に「清漪園」と言う名で、母である皇太后の還暦祝いに造成された庭園。中央には杭州の西湖を模して作られた巨大な人工湖である「昆明湖」が掘られ、その他多額の公費が投入され建造された。しかし乾隆帝の死後、清朝は内憂外患の未曾有の危機的状態になり、清漪園は次第に荒廃していった。1800 年代後半、清朝の実権を西太后が握ると、自らの避暑地及び老後の生活場所として再建し、その折に「頤和園」と改称された。その頃清朝は、日清戦争前夜で明治維新を迎え近代化に成功した日本と今まさに戦火を交えようとしていた。本来であれば、清朝の正規海軍の増強費に充てるはずだった予算を、9割方横流ししてこの巨大な庭園は改装されたが、李鴻章の孤軍奮闘による敗北と言う代償はあまりにも大きすぎた。 -
懸空寺(2007年11月11日)〜大同
大同から南に約50kmの地点にある崖寺。断崖絶壁に建立され、下から見るとまるで天空に懸かっているかの様なので、このような名前が付けられた。入るには、入場料のほかに1元の保険に強制的に加入させられる。しかし高々一人1元の保険で、今までの積み立てが有るとは言え、どれほどの補償ができるのかは謎である。 -
恒山湖(2007年11月11日)〜大同
懸空寺の断崖絶壁の裏にある、人工ダム湖。人工の湖でありながら、周囲の景観に非常にマッチしている。 -
雲崗石窟(2007年11月11日)〜大同
北魏時代に掘られた石窟寺院。中國三大石窟に数えられている。イスラムの勢力の及ばない場所に彫られたので、原形を保ったまま現在に至る。殆どの仏像が非常に巨大であり、日本の大仏に匹敵するものが多く点在する。 -
沙湖(2007年11月14日)〜銀川
巨大な湖を湛える内陸の景勝地。湖面に葦が生い茂っており、対岸には駱駝に乗れる砂漠地帯がある。その中に嘗ての城郭を保存しており、映画「敦煌」の一場面を思わせる。 -
西部影視城(2007年11月14日)〜銀川
草原と言う広大な土地を上手く利用して作った、映画撮影用セット。日本で言う映画村である。「紅いコーリャン」など、ここから世界に羽ばたいて行った映画も少なく無い。古代から文化大革命のころまで幅広くセットが組まれているので、あらゆる時代に心はタイムスリップをすることができる。 -
西夏王陵(2007年11月14日)〜銀川
西夏の王家の眠る墳墓。墓の形は円形の盛り土状で、漢族のそれとは大きく異なっている。元来遊牧民族を象徴するように、草原の中に突然その姿を現す。資料館も併設されており、そちらは壁全体が、西夏文字で覆われている。 -
中山橋(2007年11月16日)〜蘭州
かつて、黄河最上流に架けられた鉄橋で、「黄河第一橋」と呼ばれている。名前の「中山」は勿論孫文の号から取ったもので、今でも全国からの観光客が多い。橋の両端には獅子が配され、今も行きかう人々の安全を見守り続けている。 -
白塔山公園(2007年11月16日)〜蘭州
チベットからチンギス・ハーンの元に派遣された僧が、この地で亡くなり供養する為に作られた「白塔」を起源とする公園。ロープウェイでも徒歩でも登ることができる。ちなみに私は徒歩で登りました。ここから眺める蘭州市内と黄河は最高。 -
馬子禄牛肉麺(2007年11月16日)〜蘭州
蘭州名物「牛肉拉麺」の老舗。お昼時は行列の堪えない人気店である。名物の牛肉麺は、市内にかなりの数の店舗があるが、日本のガイドブックでも紹介されるだけあって、この店のものが随一である。スープは透き通っていて、一見薄そうだが、見た目以上にコクと旨みがあり、手延べ麺に味がよく絡む。また、具材の牛肉を追加注文することができ、日本で言うチャーシュー麺レベルで食べたい人には、非常に嬉しい。スープ表面にはラー油が浮いているが、思ったほど辛くなく、味に良いアクセントをつける程度の辛味である。 -
北禅寺(2007年11月18日)〜西寧
建立は約2000年前と伝えられる禅寺。北魏時代に一時期道教の施設になり、仏道が混在する寺となった。長い階段を上り、崖の上の本堂に行くことができる。本道から眺める市内の風景は壮観である。私が行った日は、前日かその前に麓のお堂で火災が発生したらしく、その事後処理の真っ最中だった。 -
西寧駅(2007年11月19日)〜西寧
蘭西線の終点であり、青海西蔵鉄道の起点。拉薩行きの始発列車は、隔日で運行され、その他の始発列車と併せると、合計4本が毎日拉薩に向かう。拉薩行きの切符は、シーズン以外は直前になると軟臥でも空席は有るが、日本人を含む外国人はここ西寧駅で直接買うことはできない。外国人がチベット自治区に入るためには、ビザ取得の上、入境許可証(パーミット)を持っていないと買うことができない。またそれらを入手するためには、形だけでも現地旅行会社のツアーに参加しなければならない。つまり個人旅行で行く場合でも、建前はツアーでなければ買うことはできない。
列車切符+現地ホテル+現地ガイドの三点セットが揃っていればOK。
これらが揃っていることを条件にパーミットを取得することができる。 -
青海西蔵鉄道(2007年11月19日〜20日) 西寧→拉薩間
2006年7月1日に格爾木〜拉薩間の開通によって全線で営業運転を開始した高原鉄道である。この路線の開通を以って、中國の全省全自治区に鉄道路線が行き渡った。これにより、チベット自治区への輸送形態が大きく変わり、物流にも大きな変革をもたらした。「地球の屋根」「第三の極」と言われる高原地帯を走り、最高地点は標高5072mと世界最高を更新し初の5000m代を走る鉄道となった。これらの話題性から、単なる輸送機関としてだけではなく、この路線に乗ること自体が観光の目玉になっており、国内のみならず欧米を含む外国からも注目されている。客車は、航空機メーカー製造による密閉式の特別製であり、車内の酸素濃度は平地の80%に保たれている。機関車も高地専用のアメリカ製のディーゼル機関車が投入されている。 -
ポタラ宮(2007年11月21日)〜拉薩
チベットの宗教と政治を司るダライ・ラマの居城。 紅山に築かれ、拉薩市内のどこからでも望むことができる。主に赤茶色の壁の「紅宮」と、白壁の「白宮」に分かれている。白い壁の塗料は、石灰石とヤクの乳を混合したもので、毎年塗り替えが行われる。
しかし現在は中華人民共和国の領土になり、 ダライ・ラマ14世はご存知の通りインドに亡命しており、 城内には共産党が選んだパンチェン・ラマが住んでいる。 そして中國の世界文化遺産として登録されており、共産党の支配をより強烈にアピールすることとなった。 私はこのような世界遺産の使い方には疑問を感じる。 -
措那湖(2007年11月20日)〜チベット自治区
チベット族が神の湖と崇める、高地の淡水湖。高地のため紫外線が強く、平地よりも濃い青空を湖面に映し、碧く輝いている。チベット鉄道最大の目玉で、湖畔を行くときには、観光者向けに減速をかけてくれる。 -
ノルブリンカ=夏宮(2007年11月21日)〜拉薩
代々ダライ・ラマが避暑地としてすごした離宮。 昔のままの休館と、近代設備の整った新館とがある。 夏場の避暑地だったことから「夏宮」とも呼ばれる。 1950年のチベット動乱の際に、共産党の銃弾が撃ち込まれた。 -
ジョカン寺(大昭寺)(2007年11月21日)〜拉薩
唐代、中國からは文成公主が、ネパールからも姫が、 ソンツェン・ガンポ王のもとに嫁いだ。 漢人とはまた違った仏教観で寺院建立を望んだネパールの姫によって建立された。 -
ヤムドク湖(2007年11月22日)〜チベット自治区
チベット高原・標高4800mに浮かぶ淡水湖。 晴れていれば遠くにヒマラヤ山脈を望むことが出来る。 普段は風が強く10月後半から3月にかけては非常に寒いとのこと。 しかしこの日(11月)はたまたま無風で、 快適に景色を楽しむことが出来た。 -
チベット上空(2007年11月23日)〜チベット自治区・四川省
チベットは北極・南極に続き「第三の極」と言われ、周囲を5000〜7000m級の山脈に囲まれている。写真は上空10000mより撮影したものだが、それほど高さを感じないくらい接近して見える。遠くに聳え立つのは、ヒマラヤ山脈。 -
五花海(2007年11月24日)〜九寨溝
九寨溝の中で、ツアーのパンフレットの写真に、最も多く使われるポイント。湖底に沈殿した石灰が、日光を碧く反射させて、奇蹟の風景を作り出している。湖底を簡単に見ることができるくらい、透明度が非常に高い。 -
長海(2007年11月24日)〜九寨溝
九寨溝最深部の大型の湖。四川省の山々を背後に、ヨーロッパと見まがうばかりの風景を作り出している。 -
五彩池(2007年11月24日)〜九寨溝
長海手前にある、比較的浅い湖で、その分碧みが深い。 -
鏡海(2007年11月25日)〜九寨溝
九寨溝の中で、湖面反射が最も美しい湖。その鏡のような反射具合が、名前の由来となっている。映りこんだ山々は、逆さまにしても解らないくらいである。 -
珍珠灘瀑布(2007年11月25日)〜九寨溝
透明度の高い湧き水が、飛沫を上げて段々状に落ちていく絶景。急激な流れにもかかわらず、浄化された水のおかげで、壁面には植物が根付いている。 -
成都雙流国際空港(2007年11月27日)〜成都
四川省の中心的な役割を果たす国際空港。 中國国際航空のハブになっており、
中国各地への路線網は勿論のこと、 成田からは北京経由の同一機材による直行便が毎日就航している。 メインのターミナルは国際線と殆どの国内線が出発し、 四川省内と重慶市内行きの便は旧ターミナルから出発する。 なので、ここを軸として組まれる九寨溝行きの便に乗るときには、 タクシーの運転手に「候機楼到九寨溝」と書いて見せると、 旧ターミナルに横付けしてくれる。 -
天山山脈(2007年11月27日)〜烏魯木斉
タクラマカン砂漠北側に聳える神々の山。 砂嵐の中、山頂付近が霞んで天まで続くように見えたことから、 この名がつき、仙人が住んでいると言い伝えられてきた。11月末のこの時期、北壁側は白銀の世界になる。 喜多郎もシルクロードのサウンドトラックに「天山」と言う曲を入れているが、 この景色には非常に合う一曲である。 -
烏魯木斉(2007年11月28日)
新疆維吾爾自治区の区都。 世界で最も内陸にある都市である。 ここからは東シナ海・インド洋・北氷洋・大西洋と、いずれの海にも4000km以上離れている。しかし内陸部とは言え、ビルが林立し非常に栄えており、日本企業のオフィスや工場も進出している。
※写真は香港ではありません。ウルムチです。 -
エイティガール寺院(2007年11月29日)〜喀什
新疆最大規模を誇るイスラム寺院。846年に建立され、その後幾多の修復を経て、現在に至る。イスラムの祭日であるローズ節やクルバン節には、2〜3万人の信者が、ここを訪れる。 -
盤橐城〜班超記念公園(2007年11月29日)〜喀什
班超=後漢時代の将軍にして西域を平定し、西域都護府を設置した。その西域都護府が置かれたのがここカシュガルである。 それを記念し漢族が作った公園がこれである。 市内の毛沢東像と同様中央の支配の象徴でもある。奥には漢代の東西交易の様子が、都長安・洛陽からここに至るまでを、物語風に描いたレリーフが有る。 -
喀什駅(2007年11月29日)〜喀什
中国鉄路最西端の駅。現在の南疆線はここが終点だが、今後はここからカザフスタンやキルギスに線路を延ばす計画もある。 -
キジル千仏洞(2007年12月1日)〜庫車
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鳩摩羅什の像(2007年12月1日)〜庫車
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グズルガハ烽火台(2007年12月1日)〜庫車
漢代の狼煙台。ここから煙で中継して都・長安には1日以内で情報が伝達されたと言う。 -
グズルガハ千仏洞(2007年12月1日)〜庫車
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スバシ故城(2007年12月1日)〜庫車
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蘇公塔(2007年12月3日)〜吐魯番
トルファンの町外れ東に6kmにあるイスラム寺院とその塔。 土を固めて作られており、 砂漠の中で育まれた文化を偲ぶ事ができる。1779年にトルファン郡王・スレイマンが、父・オーミン・ホージャの為に建立し、塔の横にはモスクも併設されている。 -
交河故城(2007年12月4日)〜吐魯番
かつてトルファン周辺に栄えた高昌国の遺跡と言われている。 建物は朽ち果ててはいるが、整然とした都市を形成している。 かつての信仰の中心である寺院跡まで残っている。 -
ベゼクリク千仏洞(2007年12月4日)〜吐魯番
かつての高昌国によって彫られた仏教石窟寺院。 6世紀頃から掘削が始まり、当時の仏教文化を垣間見ることができる。その後イスラムの侵攻により、大部分が破壊・剥離されて、現在は一部しか保存されていない。殆どの石窟に鍵がかけられ入れるのはごく一部である。 となりの砂漠ではラクダに乗ることができる。 -
高昌故城(2007年12月4日)〜吐魯番
かつての高昌国の中心都市の遺跡群。 唐代の僧侶・玄奘三蔵法師もここに滞在したと言う。 シルクロードを西に向かう旅人やキャラバン隊は、 タクラマカン砂漠に入る前にここで旅の準備を整えて行った。
※見学は鉄製の馬車に乗って奥まで入る。 ガイドさんは日本語が上手なのでそれに従って回ると良い。 -
火焔山(2007年12月4日)〜吐魯番
西遊記の「火焔山」のモデルになった山。横に長い山があたかも燃えている様に見えたり、夏場には山頂の台地に陽炎が見えるなど、遠くからも燃えているように見えたことから、この名前が付けられた。 -
吐峪溝(2007年12月4日)〜吐魯番
火焔山麓のウィグル人の村。一歩内部に入ると、RPGの村に来たような感覚になる。奥には石窟寺院もあり、下界からは隔絶された村で、人々は暮らしている。外部の人間が村内を見学する際には、入村料が必要になる。 -
塔克拉瑪汗砂漠(2007年12月4日)〜吐魯番
塔克拉瑪汗砂漠の端。塔克拉瑪汗(タクラマカン)とは、ウィグル語で「迷い込む」「抜け出せない」などの意味があり、GPSなどの便利なものが無い時代の砂漠の旅の危険性がうかがえる。砂漠の砂は非常にきめ細かく、握っても手にまとわり付くことなく、サラサラと流れていく。このきめ細かい砂が、春先の偏西風に乗って、日本に「黄砂」としてやって来るのである。 -
莫高窟(2007年12月7日)〜敦煌
4世紀半ばより掘削が始まり、その後約1000年に渡り彫り続けられた石窟寺院。庫車や吐魯番と違い、イスラム勢力がここまで来なかったのが幸いして、仏像や壁画がほぼ原形を留めて保存されている。しかし、近代に入り欧米列強に加え日本が壁画などを持ち去り、完全に盗掘や破壊から免れたわけではない。ここ莫高窟だけで、仏教美術史の大半を見ることができるくらい、膨大な史料が眠っている。内部は写真撮影をすることができない。 -
鳴沙山(2007年12月7日)〜敦煌
敦煌郊外の砂漠地帯。人が歩くと、たまに地響きのような音が聞こえることから、この名前が付けられた。入口では駱駝に乗ることができ、まさしく「月の砂漠」を地で行く場所である。入る前に、靴ごとスッポリと覆う「砂漠プロテクター」と軍手を貸してくれる。これさえあれば、靴に砂が入る心配は全く無い。 -
月牙泉(2007年12月7日)〜敦煌
鳴沙山の中にある砂漠のオアシス。かつてのキャラバン隊は、皆ここで喉を潤し果てしない塔克拉瑪汗砂漠に挑んで行ったのであろう。ちなみに「月牙」とは三日月を差し、泉がまさにその形をしていることから名付けられた。 -
嘉峪關(2007年12月9日)〜嘉峪關
長城西端の関所。ここを抜けると、漢族の世界とは隔絶された異民族の世界であった。西方からの外敵の最後の砦であり、「天下第一雄關」の異名を持つ。簡単に突破できぬよう、両側の門は内部で一直線には繋がれておらず、三重の楼閣で堅固に守られており、最悪内部で食い止められるよう設計されている。ここを突破されてしまうと、そのまま怒涛の勢いで一本道を蘭州まで侵攻されてしまうであろう。 -
懸壁長城(2007年12月9日)〜嘉峪關
山岳部を越えた長城が、西端の嘉峪間を目指し平地に降りてくる場所。壁に懸かったように山伝いを降りてくることから、この名前が付けられた。 -
長城第一墩(2007年12月9日)〜嘉峪關
東の山海関から約3000km続く「万里の長城」が終わりを告げる場所。この辺まで来ると、全く整備されておらず、盛り土が壁のように建てられているだけである。この先は切り立った崖になっており、自然の境界線が外敵の侵入を防いでいる。 -
秦兵馬俑坑(2007年12月12日)〜西安
1974年に農夫の楊氏によって偶然発見された、秦始皇帝陵の守り人達の像の群れである。全員等身大で、かつひとりひとり身長も違えば顔までも差異をつけて作られている。当初は、矛などの武器を持っていたが、咸陽を攻略した後の項羽の軍勢が持ち去ったと言う。一号坑から三号坑まである。出土した時には塗料が塗られていたが、空気に触れることで、数ヶ月で色が落ちたため、その保存技術が見つかるまで、発掘を止めている部分も有る。内部はフラッシュを焚かなければ撮影は可能である。
以前、兵馬俑の首を盗み出し、香港の骨董品屋に売ったところ足がつき、処刑され自らの首を飛ばしてしまった者がいる。このように、中國では文化財の冒涜は、即死刑になるほど厳罰に処せられる。
また2007年には、ドイツ人留学生が、肌を兵馬俑と同じ色に塗り、同じ色の鎧を着て、この群集の中に紛れていたのを、展示時間中に見つかると言う珍事も発生した。この時は、特に文化財を傷物にしたわけではないので、厳重注意のみで帰されたと言う。 -
秦始皇帝陵(2007年12月12日)〜西安
兵馬俑から西に約1.5kmの場所に、始皇帝の眠る陵墓がある。方形をしており、北側に入口が有る。内部はまだ発掘調査がされておらず、司馬遷の「史記」によれば、水銀の川・自動で発車される弩によって侵入者を防ぎ、死後の生活を描き、天井には星座が散りばめてあると言うが、現在定かではない。1時間おきに、墓前でかつての墓守や墓前の儀を再現したアトラクションが行われている。 -
華清池(2007年12月12日)〜西安
西安郊外の臨潼区にある温泉地。かつて唐の玄宗皇帝は、楊貴妃を連れて、毎年冬にはここに長期滞在をし、暖を取ったと言う。しかし、その影響で名君と謳われた玄宗は、次第に政治を蔑ろにし、やがて安禄山と史思明が挙兵し、所謂「安史の乱」の一因になった。その様子は、白居易の「長恨歌」にも詠まれている。
近代に入ってからは、蒋介石の別荘として使われ、1936年の西安事変で、華清池の「五間庁」にいる蒋介石が標的となった。その際の銃弾の跡が、今も生々しく残されている。 -
大慈恩寺〜大雁塔(2007年12月13日)〜西安
玄奘三蔵法師が、天竺(インド)から持ち帰った仏典を収めた仏教寺院。入口には、江沢民の揮毫による「大慈恩寺」の額が掲げられている。内部の大雁塔からは、西安市内を360度眺めることが可能で、西安市街地南部のシンボル的存在である。 -
青龍寺(2007年12月13日)〜西安
かつて遣唐使留学生僧として唐に渡った空海が修行をした寺。写真のような空海記念碑や空海祈念堂が境内に建ち、日中文化交流の架け橋になっている。境内には、日本の香川県が寄贈した染井吉野が植えられて、春には一斉に花開く。 -
興慶宮公園(2007年12月13日)〜西安
唐玄宗が政治を執り行った宮殿の跡地。彼の治世に、遣唐使留学生ながら唐の科挙に合格し、彼の元で官僚になった阿倍仲麻呂の記念碑が、園内に立つ。石碑には、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」の漢訳詩と、友人李白が仲麻呂の死を悼み詠んだ「哭偲兆衡」が彫られている。 -
鐘楼(2007年12月13日)〜西安
明代城壁内部のほぼ中央に建つ西安のシンボル的建造物。現在も定刻に時を告げつ鐘がなるが、生の音ではなく録音を使っているようである。 -
明代城壁(2007年12月13日)〜西安
明代に「長安」から「西安」と呼称が変わり、西部への睨みを利かす重要地点になったのを機に、当時の市街地を囲んだ城壁。城壁には真南の「永寧門」から登ることができ、一周する事も可能である。 -
書院門(2007年12月13日)〜西安
碑林博物館前に書道具専門店が軒を連ねる一画。碑林博物館で書を学ぶ学生の為に、あらゆる道具をそろえている。 -
徳発張〜餃子宴(2007年12月13日)〜西安
西安の名物宴席料理。特に鐘楼の側の「徳八張」が有名。写真のような色彩々の餃子からスープ餃子まで、数種類の餃子を順番に楽しむことができる。 -
西安駅(2007年12月14日)〜西安
かつての大唐帝国の都・西安の玄関口で、 北京・上海・成都・ウルムチなど各方面から列車が集中する内陸のターミナル。大学城と呼ばれるくらい大学が多く、入学シーズンには学生でホームがいっぱいになる。 -
大相国寺(2007年12月15日)〜開封
開封で最も歴史の有る仏教寺院。長安に向かう途中の空海もここに立ち寄り、その祈念堂が境内の奥に建っている。 -
龍亭(2007年12月15日)〜開封
かつての宋王朝の宮殿を復元した建造物。かなり急な階段を昇り、玉座にたどり着く。幾度か複数の王朝に支配されたため、原形は残っておらず、その威厳は北京の紫禁城や西安の城壁には遠く及ばない。 -
鐵塔(2007年12月15日)〜開封
全身瑠璃瓦で固められた塔で、遠くから見るとまるで鉄の塊でできているように見えたことから、その名前が付けられた。それぞれの瓦には龍や鳳凰などが掘り込まれ、かなり精巧な作りになっている。 -
禹王臺(2007年12月15日)〜開封
黄河の恵みを受けて育まれた開封の地も、やはり洪水などの水害と隣り合わせであった為、古代伝説の治水の名人にして名君の禹を祀った廟。
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