2010/04/18 - 2010/04/18
9902位(同エリア12548件中)
ひま人さん
久方ぶりに三重県を訪ねた。「三重」の名称は、古事記では「倭建命」、日本書紀「日本武尊」と表記されるヤマトタケルノミコトが東方遠征を終えて尾津前(桑名市・尾津浜)から能褒野(亀山市)へ向かう途中、『古事記』に『”吾が足は三重の匂がりの如くして甚だ疲れたり”とのりたまいき。故、其地を號けて三重と謂う』との記述に由来するとされている。
最初に亀山市にある能褒野神社と能褒野陵を訪れた。次に鈴鹿市の加佐登神社へ、昼食後、津市の関の観音さん(石山観音)へ。そして東海道四十七次・関宿を散策。最後に伊賀市の新大仏寺を拝観、帰路についた。
写真は石山観音磨崖仏。
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス JRローカル
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能褒野神社本殿、明治42年に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を主祭神として創建された。
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能褒野墓(のぼの)、日本書紀によれば、景行天皇の皇子・日本武尊が東国を平定して大和へ帰る途中、草薙剣(くさぎのつるぎ)を持たずに「伊吹山」の神と戦って亡くなった。能褒野陵に葬られるが白鳥となって飛び立ち、大和国琴弾原(ことひきはら・御所市)に留まり、そこに「陵」を造ったところ、さらに白鳥となって河内国旧市邑(ふるいちむら・羽曳野市)留まったので、そこにも「陵」を造ったが、また白鳥となって天に上ったということで、三箇所の陵は「白鳥三陵」と呼ばれている。
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加佐登神社本殿、加佐登の地名は昭和17年の鈴鹿市制実施以降の名前で、古代この地は景行天皇が行在所を置かれたことから高津瀬村高官と呼ばれていた。
神社は日本武尊の能褒野陵墓と伝えられた白鳥塚古墳の横に鎮座し、尊が死の間際まで持っていたといわれる笠と杖を御神体として祀られていることから御笠殿社(みかさどのしゃ)と呼ばれ「かさどの」が略されて「かさど」になったと言われている。 -
石山観音磨崖仏、石山は安芸郡芸濃町楠原地区の西部の丘陵部で、標高160m。室町時代始めから修業僧が岩を刻み最初の磨崖仏を彫り上げ、やがて西国三十三所観音霊場巡りになぞられた観音像が岩肌に刻まれていき、石山観音と呼ばれるようになった。
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石山観音磨崖仏。
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石山観音磨崖仏。
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石山観音第二十五番。
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石山観音第二十九番。
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石山観音第三十一番。
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石山観音第三十二番。
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石山観音磨崖仏。
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東海道四十七次・関宿町並み。街道は国中に通ずる官道。東海道は江戸時代に整備された京と江戸を結ぶ五街道の一つです。慶長6年(1601年)に徳川幕府により宿駅の制度が定められた。「東海道宿村大慨帳」によると、天保14年(1843年)には家数632軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠42軒、酒食99軒とあり、その賑わいぶりがうかがえます。
関宿はわりかた昔の面影が残っている方だと思う。 -
新大仏寺三門。
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新大仏寺本堂、真言宗智山派。本尊は廬舎那仏。
建仁2年(1202年)源頼朝が後鳥羽法皇の勅願寺として開創。 -
大山田郷土資料館、農林業具をはじめ民族資料や地域のルーツを物語る遺跡からの出土品が展示されている。
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