2010/03/11 - 2010/03/11
37位(同エリア58件中)
スキピオさん
風光明媚な町マントンは頂上に墓地をいただきます。写真をご覧の通り、その墓地からの眺めはまさに絶景の極み・・・
陽光降り注ぐなか、空(くう)に舞いながら彼女はなにを語っているのでしょうか。
今から百年以上前、文豪モーパッサンは愛用のヨットに乗り、地中海とりわけこのコート・ダジュールを愛し、漫遊していました。彼の美しい紀行文はここで生まれます。
しかし、『女の一生』の作者は、こともあろうに、この明るい陽気な町に死を見いだしていたのです。
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【旧市街入り口】
旧市街は、前回の「マントン1」の最後の写真となった Quai Gordon Bennett (ゴルドン・ベネット波止場)の上に広がっています。そして、頂上に墓地をいただいています。
左にこの不思議な窓を見て、旧市街にいたる階段を上りましょう。 -
【ダイヤモンドの抜け道 Traverse des Diamands】
昼なお暗き階段を恐る恐る上ります。
この旧市街の通りは横に平らでまっすぐな通りが何本かあり、それをつなぐように狭い抜け道が通っています。ようするに、あみだくじを横にしたようになっているのです。 -
【Rue Lonque】
ダイヤモンドの抜け道を過ぎると、この「長通り」に出ました。この通りは丘の中腹を横に走り、坂道ではありません。 -
【Traverse rue Mattoni マットニ通りの抜け道】
「長通り」から縦に、またこんな抜け道がありました。とにかく上へ上へとあがります。 -
【Rue Cappodona】
今度は抜け道ではなく、縦に登る通りです。ちなみに、日本はこのような坂道に「・・・坂」というように名前を付けますが、フランスでは坂道の名前ではなく通り名になります。
かなり疲労していますが、さらに階段をあがります。 -
【Traverse du Vieux Château】
すると、「古城の抜け道」に出ました。ここは開けたところです。 -
【Rue du Vieux Château】
墓地のすぐ下の「古城通り」に出ますと、古い水道栓がありました。1883年と書かれています。 -
【Rue du Vieux Château】
古城通りの壁に、おなじみのサン・ミシェルの絵が描かれていました。左手にはかりを持っています。
最後の審判のとき、魂の重さを量るのがサン・ミシェルと言われています。 -
【古城通りからの眺め・・・旧港】
ずっと続く上り坂のため、ひどく疲れてしまいましたが、旧市街の屋根の上にこの景色が見えると、疲れも吹き飛んでしまいました。
墓地はこのすぐ上です。 -
【古城の墓地】
墓地に来て驚いたのは、そこに並ぶ墓の豪華さでした。百年前ですと、町は人口1万人にも満たない小さな漁村だった筈です。写真は、墓地に入るとすぐ目に留まった墓です。彼女は誰でしょうか。コクトーが描いたマントンの漁師の娘でしょうか。
そんな時、ふとモーパッサンの紀行文が思い出されました。
作家ギー・ド・モーパッサンは、1883年に『女の一生 Une vie』、85年に『ベラミ Bel-ami』を発表し、短編作家のみならず長編小説家としての地歩も築き、押しも押されもせぬ大作家となりました。が、眼疾と梅毒に犯された彼の晩年・・・といってもまだ38歳くらいのことです。というのも41歳で発狂し43歳で他界しましたから・・・は、孤独とペシミスムの色合いを濃くしていったのです。そんな生活の中で、愛用のヨット「ベラミ号」で地中海を漫遊することは彼にとって最大の快楽でした。
紀行文『水の上 Sur l’eau』(1888年)はそこから生まれます。 -
【古城の墓地】
墓石に「Prince Andre Nikita LWOFF 1901-1933」と読めます。名前からするとスラブ系の人でしょうか。Prince の称号がありますから、大貴族だったのでしょう。32歳で夭折しています。
モーパッサンのベラミ号が停泊したカンヌの町は、今のように華やかな避寒地ではありませんでした。避寒地ではありましたが、華やかではなかったのです。「死」の町だったのです。ここを散歩する若い女も男も、
《しきりにせきをして、息を弾ませている。・・・絶望的な、いじわるい目で道行く人々を見送っている。
この人たちは病んでいる。この人たちは死んでいく。それというのも、このうるわしい温暖な国は、世界の病院であり、貴族ヨーロッパの花の墓地でもあるからである。》(『水の上』青柳瑞穂訳pp.905-6・・・モーパッサン全集1) -
【古城の墓地】
明るい太陽と風光明媚を我がものとしても、文豪の思うことは暗い運命、「死」のことなのです。このようにカンヌについて感想を述べたあと、筆はマントンに及びます。
《それにつけても思い出されるのは、これら避寒地の中でも、とりわけ温暖で、健康に適しているマントンの町である。尚武の都市には、周辺の丘陵に城塞の高くそびえているのが見えるのと同じに、この瀕死者たちの浜辺からは、小山の頂に墓場が認められる。・・・
そして、ここに眠っているのは、十六歳、十八歳、二十歳の若い人たちばかりである。・・・続く -
【古城の墓地】
十字架に CREDO PAX (信仰 平和)と書かれています。
---【水の上】続き---
不治の病のため、このように年若くして倒れた人たちの名まえを読みながら、墓石の間をぶらついてみる。これは少年少女の墓場だ。既婚者は加わることを許されないあの未婚少女の舞踏会にも似た墓場だ。
『水の上』続く -
【古城の墓地】
彼女の竪琴はなにを奏でているのでしょう。耳をすませても生者たちにはなにも聞こえません。 -
【古城の墓地】
極寒の地から、ここに療養に来ていたのでしょうか。いえ、療養しているのでしょうか。安らかに! -
【古城の墓地】
少女は永遠に東を見つめています。 -
【古城の墓地からの眺め】
モーパッサンの目はここで墓地からの風景に転じ、次のように続けます。
《この墓場から、眺望は左の方へ、遠くイタリアまでひらけて、その尽きるところがボルディゲラの小みさき、町の白い家々が海の中へ長く伸びている。右のほうはマルタンみさきまで広がり、青葉につつまれたその横腹を水に浸している》
この写真の風景は、手前の家も含めて、文豪が見た眺望とほとんど変わりないかもしれません。 -
【墓地からの眺め・・・サン・ミシェル教会の鐘楼】
モーパッサンはコート・ダジュールについて次のように続けています。
《ただここばかりでなく、この明媚な沿岸一帯が、いたるところ「死」の家である。ただ、その死は、つつましやかで、ベールをかつぎ、お行儀がよくて、恥ずかしげで、要するに、深窓の育ちである。われわれはたえずすれちがっていながら、ついぞ面とむかって見たものはない》(『モーパッサン全集』1 青柳瑞穂訳 p.906・・・春陽堂)
今でこそ世界的に有名なリゾート地は、百年前のモーパッサンの頃、結核患者たちの養生の地だったのです。そういう患者たちは、王侯貴族の子弟でした。彼らは、遠くロシアや北欧から、ここを終焉の地にするためにやってきたのです。富裕な貴族たちは、夭折した愛娘や息子のために、青い海を見下ろす絶景の地を永遠の住まいにしたのです。
そう、マントンはかつてカンヌと並び「死の町」だったのです。この古城の墓地はそれを静かに物語っています。
・・・合掌・・・ -
【サン・ミシェル教会】
古城の墓地から、南に下ると町のシンボルともいえるサン・ミシェル教会があります。 -
【サン・ミシェル教会内陣】
聖壇の中心にこの町のシンボル、サン・ミシェルがいます。 -
【サン・ミシェル教会内】
イエス降下像でしょうか。 -
【Chapelle de Pénitents Blancs 白色苦行会礼拝堂】
サン・ミシェル教会と寄り添うように建っていました。かつてどれだけ祈りの言葉を聞いたことでしょうか。 -
【Rue de la Conception】
Conception とは、今では「概念」の意味でよく使われますが、もともとは「懐胎」のことでした。
たとえば、「無原罪の御宿り」は Immaculée Conception と言うそうです。 -
【Rue de la Conception】
墓地とサン・ミシェル教会方面、これから行く「黒色苦行会礼拝堂」を結ぶこの美しい通りを、かつて病身の若者がお供を連れて行き来したことしょう。 -
【Chapelle de la Miséricorde ou des Pénitents Noirs ミゼリコルド礼拝堂あるいは黒色苦行会礼拝堂】
アヴィニョンの「灰色苦行会」が一連の苦行会の最初だったようです。それから、1488年に、「黒色苦行会」、1527年に「白色苦行会」、1557年に「青色苦行会」、1622年に「紫色苦行会」、1700年に「赤色苦行会」というふうに次々と苦行会が創設されました。この増殖に終止符を打ったのはフランス大革命でした。今ではこれらの苦行会もほとんど活動をしなくなり、存続しているのは「灰色」だけだそうです。(wikipédia による) -
【Chapelle de Pénitents Noirs 黒色苦行会礼拝堂内】
不治の病を得たひとたちは、ここで静かにお祈りしていたのでしょう。 -
【Rue saint Michel】
礼拝堂から数十メートル下ると、にぎやかな「サン・ミシェル通り」に出ます。 -
【Rue Saint Michel】
サン・ミシェル通りの店、缶詰はなんでもという専門店。 -
【Rue Saint Michel】
サン・ミシェル通りの店、石鹸・化粧水・クリーム、香りの専門店でしょうか。 -
【Rue Piétra】
サン・ミシェル通りの枝分かれした通り、ここは果物専門店でした。 -
【Rue Piétra】
今ではマントンはレモン・オレンジで有名な町となって、夏も冬も一年中「生きる喜び」であふれています。 -
【Plage du Marché からの眺め】
背景に山々を従えて、サン・ミシェル教会の鐘楼が美しい。 -
【コクトー美術館からの眺め】
かつての「死の町」は、今では陽気で愉快な町に変貌し、世界中から、歓楽と感動を求める人たちを引きつけています。
さて、明日はバスに乗ってニースに向かいます。
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この旅行記へのコメント (2)
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- パルファンさん 2010/04/11 23:02:08
- タイトルの意味が・・
- こんばんは、スピキオさん
「死の町マントン」のタイトルをみて、えぇ?? と
でも・・最後まで読んでみて、なる程。納得させられました。
かき進むコメントと共に、古城の墓地・教会、そしてそこから望む海・・
さすがスピキオワールドの旅行記でした♪
かっては結核療養所の地だったことや、モーパッサンに関してなど
また、また沢山のことを教えてもらえまして・・ありがとうございます。
坂道・路地歩きもたのしそう♪^^
50肩は大丈夫でしたか?
これからも、楽しみにしております♪
パリの旅行記に投票を頂きまして・・
フランス・パリに関する権威者スピキオさんから頂くとは!!
どう表現してよいかわからないくらい・・
ありがとうございました。
パルファン
- スキピオさん からの返信 2010/04/14 07:58:18
- RE: こんにちは
- パルファンさん、こんにちは。
旅行記に遊びに来てくださり、ありがとうございます。
駆け足のような旅行でしたが、これから少しずつ、旅行記が書ければと思っています。
花粉症と同様、フランスに行けば五十肩が治るのではないか、と奇妙な楽観主義を抱いていましたが、やはり、花粉症とは違いました(当たり前か)。まだ、少し痛みますが、だいぶ楽になってはいます。ご心配いただき、恐縮しております。
では失礼します。
スキピオ
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