2010/01/13 - 2010/01/13
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井上@打浦橋@上海さん
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私のブログにある大学の建築学部の学生さんから、西本願寺に関しての問い合わせがあり、じゃあ、暇つぶしに、もう一度行って確認して来るかとなったのでした。
行ってみて、その問い合わせに対する答えは得られず、ガッカリしたんですが、ついでだから、「あそこ」へ行ってみようとなったのです。
「あそこ」とは、「上海タイフーン」に使われた場所です。
上海の裏社会の黒幕と思われる男が現れる場面に使われた場所です。その黒幕は車椅子で現れるんですが、そのバックの風景を見て、ああ、コレは浦東空港のどこかだろうと、じゃあ、どうでもイイや、とその時は興味は抱かず。
しかし、SHようめいさんという方から、井上さん、あれは、虹口にある昔の堵殺場です、という情報を頂いたんです。コレには大いに興味を惹かれましたね。コレが去年の4月だか5月だったか。
で、勿論、早速行ったんですが、その時は入場を断られたんです。
先日の西本願寺のあとも、入場無理かなと思いながら行きましたんですが、今度は簡単に入れたのでした。
入ってみて、いやぁ、驚きましたね。複雑怪奇な造りなんです。
今は、しゃれた店や、オフィスなどが入る空間に使われていまして、1933・老場坊という名が付いてるそうです。
どんなに不思議かを、どうぞご覧ください。
西本願寺も十分不思議な建物ですが、それとあわせてご覧ください。
そして、上海に来るのが何度目かで、ありきたりのところは、もうイイから、チョイト変わったところを見てみたいと思う方には楽しめる場所かもしれませんので、是非訪れてみてください。
-
コレが、この日に散歩した地区の案内図です。
「上海歴史ガイドマップ」の地図をデジカメで撮ったものです。
我が家からは17路バスにのり、海寧路四川北路というバス停で降り、
散策しました。
地下鉄ですと4号線の海倫路駅が近いですね。
タクシーやバスでと言うなら海寧路と呉淞路の交差点が目標となるでしょう。
この一帯は戦前は日本人が多く住んでいた地区ですので、日本人関連の建物が多く、それらが今でも残っていたりするんです。 -
コレは芥川賞作家の林京子さんが書いた「ミッシェルの口紅」です。
彼女の一家は当時、虹口に住んでいまして、その頃の虹口での生活などが描かれています。
彼女が通っていたのが上の地図にあります中部日本小学校です。
彼女は母親からは人通りが多く広い呉淞路を利用して通学するように言われていたらしいんですが、それを守らず、いつも川沿いの道を行き来していたらしいです。
そして、その中に、これから出てきます屠殺場(殺牛公司)のことも、書かれているのです。
そのいくつかを、ピックアップしますと・・・
【道の片側の家並みは、どの家もガラス窓を閉めて、静まっている。クリークの向こう岸にある屠場で、屠蓄が行われているからだ。吹いてくる風に、動物の肌のあたたかさがある。】
【登校時に牛の群に出逢うと、三時間目の授業が終わるころには決まって、排水口から泡だった赤い水が流れはじめる。赤い水は、その日の朝に出逢った牛達の血液である。】
【東洋一と言われるこの屠場も、ユダヤ系か、英国の資本だったのではないか。四、五階建てのビルディングは、壁の全面に蜂の巣に似た円形の、ガラスのない窓が開いていた。換気口の役目を主に考えた穴で、内部は、コンクリートの広い床になってるらしかった。】 -
17路のバス停を降りて、対面に見えるのがリッツ劇場です。
今の名は、国際電影院です。
1932年に出来たものでして、当初はハリウッド映画や中国映画などが上映されていたのかと思いますが、日本占領下では国際劇場と名を替え、日本映画の専門館になったようです。 -
乍浦路との角にあるのがウヰルス劇場です。1930年にできたものです。
今の名は勝利電影院です。
英国系の経営時代の名がウヰルス劇場(威利大戯院)でして、その後、日本占領下では昭南劇場と名を替え、国民党政権期には明光電影院となったそうです。 -
乍浦路と北海寧路の角の様子です。
-
乍浦路をチョイ行った左に見えるのが日本風の建物です。
当時は本圀寺という日蓮宗のお寺だったそうですが、今は数家族が住む家となっています。 -
そして、その先に見えてくるのが西本願寺ですね。
西本願寺は1906年文路(現塘沽路)に別院を開き、1931年にココに新堂を完成し移転したということらしいです。
「上海歴史ガイドマップ」には築地本願寺を模したインド風建築が異彩を放つ、と書かれています。 -
こういったプレートがあるということは優秀建築物として保存されるということなんでしょう。
本圀寺には、それがあったのかどうか・・・なかったような・・・となりますと、いずれは壊されるのかもしれません。
プレートには、岡野重久設計で、島津工作所建設と書かれています。 -
乍浦路に面した壁には丸い文様がいくつもあり、その上の円形屋根部分の装飾などもインド風ということなんでしょうか。
壁の丸い文様は21個あるんですが、それに関しては「上海・旧日本建築探検」なるサイト
http://www.my-city.com.cn/200310/old-shanghai/old-shanghai.htm
に書かれていました。それをコピペします。
[西本願寺上海別院]
1906年秋に乍浦路123号の民家を借り、出張所を設けて誕生。08年5月18日に文路(現塘沽路)に移転し、31年5月20日、乍浦路と老子路の角に本堂と会館を建立した。設計は岡野重久らが担当し、島津礼作工程所が施工した。本堂の正面基部にはインドの“欄楯”を象った21の円形の飾りがあり、採光はインド石窟(26窟)を模している。乍浦路471号。
・・・・・となってます。
欄楯とは・・・「らんじゅん」読みまして・・・
仏説阿弥陀経に「極楽世界には七重にかこむ玉垣(欄楯)と七重につらなる並木(行樹)がある」とある。欄楯は本殿を囲むお飾りとしてインドのサンチーの仏塔やブッダガヤの大塔をはじめ、築地本願寺にも用いられている。・・・・・ということらしいです。 -
これは、西本願寺の東側にある広場から撮ったものです。
お寺の出入り口は、こちら、ということなんでしょう。
建物の中に入りたかったんですが、それは出来ませんでした。 -
その日の西本願寺と、第36回上海歴史散歩の日(2008年4月27日)の西本願寺です。
興浦招待所という赤い看板が掲げられていますので、今は招待所なのか・・・
だったら、泊まってみる手もありますね。
しかし、門扉の脇には上海虹口体育発展実業公司という看板もあります。
となると、中に入るのはなかなか難しいかもしれません。
「上海歴史ガイドマップ」を見ますと、当初は上海虹口体育倶楽部が使っていて、その後はディスコになったとか・・・
今また、上海虹口体育・・・なる看板があるということは、昔から「上海虹口体育」がかかわってる建物であって、それがディスコにしたり招待所にしたりしてるのかもしれません。 -
乍浦路から武進路に入り、東へ行きます。
北側に並ぶこの建物には、当時は日本の旅館がいくつかあったようです。
新田旅館、山崎ホテル、井上旅館などです。 -
南側にあるこの建物は当時の教会です。
以前より中国で布教を続けていましたアメリカの安息日会が1924年にココに建てたものです。
滬北会堂と呼ばれていたそうです。
一時日本のYMCAがココに本拠を置いたこともあるそうです。
今は、金龍火鍋というレストランが入り、大部分は嘉申金旅館という旅館に使われてるようです。
以前は、武進路幼稚園に使われていたようです。 -
呉淞路まで来ますと、向こうに、虹口救火会と上海毎日新聞の建物が見えてきます。
虹口救火会は1915年に出来ました消防署です。
現在も消防署として使われています。
虹口救火会の北隣にあるのが昔の上海毎日新聞社の建物です。
上海歴史ガイドマップによりますと・・・・
1918年創刊の邦字紙。経済関連記事の充実を特徴として急成長する。1943年大陸新報に併合。呉淞路武進路角に残る当時の社屋は5階建て、現在は上に2階分増築されている。・・・・となってます。 -
武進路を東に行きます。
虹口救火会の東にあるのが虹口中学です。昔の中部日本小学校(第四国民学校)です。
上海歴史ガイドマップによりますと・・・
日本居留民団立、上海4校目の日本人小学校として1929年4月創立。1939年当時の生徒数1484、職員数34.鉄筋コンクリート造4階建ての校舎が今もどっしり建つ。
下の写真は、第36回上海歴史散歩の日(2008年4月27日)の時のものです。ツタが絡まる校舎で、歴史が感じられます。 -
武進路の東端に行きますと、川といいますか運河にぶつかるわけですが、その川向こうに煙突が見えます。
林京子の「ミッシェルの口紅」には・・・・・
【牛も豚も、小学校の前を通ってクリークに向かう動物たちは、上海市民の食肉になる。動物達はそれを感じるのか、インドさんが立っている通用門の前までくると、尻込みを始める。
(中略)
牛も豚も鞭に従い、鳴きながら通りを走っていった。通りを走り抜けると、T字に交わるクリーク沿いの道に出て、真正面に屠場がみえた。】
・・・・と書かれています。
小学校の前の道が武進路で、T字路というのが、その武進路が運河にぶつかるところということで、まさにこの写真の場所なんでしょう。 -
川沿いの道を北に行き、橋まで来まして、振り返りました。
遠くに見えるのが九龍賓館です。
右に見えるのが先ほどの中部日本小学校(第四国民学校)です。
林京子は、昔住んでいた上海に30年ぶりだかに訪れたときの旅行記「上海」の中で、こう書いています・・・
【クリークにかかる橋の手前から、流れに沿って建つ第4国民学校の校舎の裏が見えるはずである。・・・下流に向かって、私はクリークの岸を目で追った。校舎のガラス窓が見えた。塀から上の二階、三階、四階の窓が、縦に細長く重なってみえた。 】
また「ミッシェルの口紅」では・・・
【私の二十米ほど先の、コンクリートの橋のたもとを、中国人の少年が歩いていた。紺色のキャップをかぶった、フランス学校の少年である。私と同じ年頃の八、九歳だろうか。父親か母親が、欧米の教育を受けた家庭の子供なのだろう。道を歩いているのは少年と私だけで、道の片側の家並みは、どの家もガラス窓を閉めて、静まっている。クリークの向こう岸にある屠場で、屠蓄が行われているからだ。吹いてくる風に、動物の肌のあたたかさがある。
(中略)
向こう岸の排水口は半分、水の中に没し、残った半円の穴から、赤い汚水が噴き出ている。
(中略)
その日の朝、私は登校の途中で、屠場にひかれていく牛の群に出逢っていた。三時間目の授業が終わって帰り仕度をはじめたころ、教室の裏を流れる虹口クリークに、汚水が流れ出した。登校時に牛の群に出逢うと、三時間目の授業が終わるころには決まって、排水口から泡だった赤い水が流れはじめる。赤い水は、その日の朝に出逢った牛達の血液である。】 -
橋を渡り、先ほどとは反対側の川沿いの道を北西方向に行きます。
「1933 老場坊」と表示されています。
「博斐」とは何でしょうか? -
沙路をはさんで1933老場坊の対面にあるのが、この異様な建物です。
これがまさに、当時殺牛公司と呼ばれていた屠殺場なんでしょう。
林京子が「ミシェルの口紅」の中で・・・・・
【東洋一と言われるこの屠場も、ユダヤ系か、英国の資本だったのではないか。四、五階建てのビルディングは、壁の全面に蜂の巣に似た円形の、ガラスのない窓が開いていた。換気口の役目を主に考えた穴で、内部は、コンクリートの広い床になってるらしかった。】
・・・・と書いていますが、「壁の全面に蜂の巣に似た円形の、ガラスのない窓」がシッカリ確認できます。 -
優秀歴史建築のプレートもあります。
そこには・・・
工部局宰牲場、1933年建造・・・と書かれています。 -
回廊というのでしょうか、建物の1階部分の外には、アーケードになっていまして、2階以上の建物を支える柱が、装飾的です。なんで、こんなに、凝った柱にしたんでしょうか・・・。
向こうに見える煙突のある建物が焼却場だったんでしょう。 -
中に入れるのかどうか・・・
前回来たときには入れなかったんですが、この日はスンナリは入れました。
中に入って、おおお・・・という感じでしたね。
なんかオーラが感じられるような・・・
何千頭も殺された牛の怨念なのか・・いや、そんなこたぁないですね・・・
やはり、不思議な空間に、そのオーラのようなものを感じたということなんでしょう。 -
どうですか、この複雑怪奇な造り・・・・
-
こういったタイプの屠殺場は当時、ロンドンとアメリカにもあったそうですが、現存するのはこの上海のものだけらしいです。
そのことは、SHようめいさんのブログ「上海えセレブ日記」
http://blog.livedoor.jp/zeyoumei/archives/51293017.html
に書かれていました。
彼女は、通ってる学校の課外授業でココに来たそうです。
彼女がその課外授業で聞いたところによると、牛は、みな、イギリスから船で運んできたとか・・
そして、エレベーターで屋上まで連れて行き、そこで処理したとか・・・
当初、牛はみなイギリスから運んだのは間違いないと思いますが、時とともに、上海の郊外でも牛が飼育され、それも利用されたのかと、想像します。
エレベーターで上まで運んだとありますが、スロープを自走させたとも、思えます。
なぜなら、それらしきスロープもありますから・・
SHようめいさんが見学した日には、河南省からの建築学科の学生さんも大勢見学に来ていたようです。 -
ココは2階だったか、3階だったか・・・・
なんのための空間なんでしょうか。
コレを良く見ますと、全くの円形ではないですね。
私の知り合いの「上海歴史、発見!」の、この屠殺場を扱った記事
http://www.sbfnet.cn/useful/history/21.html
では、その形状な正二十四角形なのだ、と書かれています。
SHようめいさんが聞いた話によりますと、この忘れ去られていた屠殺場が、このようなものに再生されたのは・・・・
数年前に隣りのホテル(九龍賓館のことです)最上階で行われた結婚式に出ていたお金持ちさんが、タバコを吸うのに外を眺めて発見した場所だとか。朽ち果てた建物のドームが美しかったので、改修して再利用しようとプロジェクトが進んだそうです。・・・・ということらしいです。
上から見たら、正二十四角形が確認できたのかもしれません。
なお「上海タイフーン」で、上海の裏社会の黒幕が車椅子で現われた場面に使われたのが、ココです。 -
この両脇に壁があるスロープの形状、そして、それらが複雑に行き交う造りは、牛の解体後の部位の処理、牛の血液や洗浄水などの処理に非常に意味のある設計なんでしょうね。
-
ココは4階にあたるのか・・・
牛はスロープを歩き上がり最上階に行ったとあります。この大きな広場ともいえる部屋に集められたんでしょう。
その後、個別の加工処理室に送られ、た屠殺されたということらしいです。
「ミッシェルの口紅」に出てきます「壁の全面に蜂の巣に似た円形の、ガラスのない窓が開いていた」の円形窓が、いくつもありますね。
これは、この部屋に関していえば、牛に恐怖心を与えないための、ものなのかも知れません。
他の階の円形素通し窓は臭いをこもらせない為の通風の意味があったんでしょう。
しかし、この柱の形状が面白いですね。
これが「上海歴史、発見!」http://www.sbfnet.cn/useful/history/21.html
に出てきます「梁なし円柱(別名、梁なし帽子柱)」ということなんでしょう。 -
大きな部屋の隅っこに螺旋階段がありまして、そこを降りていきましたら、その階段から、この部屋が見えました。
オフィスに使われてるんですね。
この部屋にも「梁なし帽子柱」があります。 -
螺旋階段は下で行き止まりでしたので、また上に上がり、大きな部屋に出て、更に、そこから外に出ました。
ここも複雑なスロープで正二十四角形の建物と、それを囲む四角形の建物とが繋がれています。 -
いやぁ、ホントに複雑怪奇です。
よく、まあ、こんな複雑なものを設計し、造り上げたものです。 -
若い女性2人もアッチャコッチャ写しまくっていました。
-
最上階に出ました。
この階までエレベーターが来ています。
エレベーターホールにするために、ガラスの壁で囲んだんでしょう。
ガラスの壁からは、周りに建つ高層マンションが見えます。 -
この画像は
「上海歴史、発見!」
http://www.sbfnet.cn/useful/history/21.html
にアップされてます写真です。
作者のSNさんから元画像を送ってもらい、それを加工したものです。
この写真は、そのSNさんが、決死の覚悟で九龍賓館の上階から撮ったものらしいです。
非常に貴重な写真ですね。
2・3年前のものと思われますが、長方形の屋上には建材などが置かれていまして、まだ完成前のようです。
この画像を見ます、円形(実際は正24角形)の建物は、東西南北にそれぞれ配置された4つの長方形の建物に囲まれてるのがよくわかります。
そして、円形部分と長方形部分が何本ものスロープと繋がってるのも・・・。
正24角形であることまでは、ハッキリとは分かりませんが、屋根の構造を見ますと、それが見えてきます。
屋根全体が24枚の楔形の部材で成り立っていますから・・・。 -
これはGoogle Mapからのものです。
九龍賓館、殺牛公司の位置関係が分かるでしょう。
中部日本小学校の位置も分かりますね。
殺牛公司は、東西南北の方向に対して正確に配置された造りになっていますね。 -
エレベーターホールから外に出ますと、そこは北の位置に配置された長方形の建物の屋上でして、全面は板張りになっています。
遠くを見渡すと高層マンションが見え、手前には古くからある2・3階建ての家々の屋根が見えます。
内側を見ますと、正24角形建物と、それを囲む長方形の建物とがスロープで繋がれてる様子が分かります。 -
近くを見渡しますと、鋭くカーブして流れる沙港の姿が見えます。
左には煙突が見えますから、ここが焼却場なんでしょう。
その右の建物も、殺牛公司関連の建物だと思いますが、なんに使われていたのかは分かりません。 -
東側に配置された建物の屋上に移りました。
遠くには最近建てられた高層建築が見えますが、手前には1930年代40年代に造られたと思われる2階建て、3階建ての家々が見えます。
屋根の上にはルーフウィンドーが設置されていますね。
上海では、これを老虎窗と言います。
これの発音は「ラオフーチュアン」なんですが、「ラオフー」が「ルーフ」のことで、「チュアン」(窓)が「ウィンドー」ということなんでしょう。 -
民家がビッシリ並ぶなか、小さな幼稚園も見えてきます。
-
この建物をもっとジックリ見たかったんですが、それは次回にということで、下におりてきました。
殺牛公司の建物の北西角には、どういうわけだか機関車が置いてあります。
その向こうに見える煙突のある建物が焼却場ですね。
その手前には上海万博のキャラクター・海博君がいます。
北西方向から殺牛公司を撮りました。
機関車の全体が見えます。
円形の窓があるのは西側の壁面のみなのかも知れません。 -
建物を離れ、九龍賓館の前をとおり、海寧路に出て、17路バスのバス停を目指しました。
これで「虹口の不思議な建物・西本願寺&1933老場坊(殺牛公司)」は終わりです。
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この旅行記へのコメント (2)
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- nomo1215さん 2010/08/14 20:43:01
- 不思議な建物・・・。
- 井上@打浦橋@上海さん
はじめまして・・・。
上海の旅行記からこちらにお邪魔させていただきました。
普通の旅行記とは異なり、とても興味深く
拝見させていただきました。
単なる旅行者が入れるような所ではなく
コメントもしっかり読ませて頂きました。
nomo1215
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2010/08/15 11:50:40
- RE: 不思議な建物・・・。
- nomo1215さん、どうも。
上海は炎熱地獄です。
今日も40度を越えるでしょう。
昼間暑いのは、まあ、しょうがないんですが、
早朝でも32度なんですから、コレが参ります。
あの建物は、ホントに不思議な建物です。
いや、あれだけでなく、上海には不思議な建物がたくさん・・・
今でも、ドンドン出来ていっています。
また、上海に来る機会がありました、
田子坊も訪れてみてください。
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