2009/08/21 - 2009/08/21
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4nobuさん
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朝アヌシーを発ってバスでジュネーブへ戻る。ジュネーブ駅でスーツケースをグリンデルヴァルトへライゼゲペックで送り、1日分のザックでヴェルビエへ向かう。しかしその乗り換え駅マーティニの1駅手前のサン・モーリスで途中下車する。
その目的は古代ローマ時代の集団殉教と多くの秘宝で名高いサン・モーリス大修道院と付属の教会を訪れること。かなり前から素通りばかりだったがようやく実現した。
この地は(マーティニも含めて)地中海地域と欧州内陸を結ぶ古代ローマ時代で最も重要なグラン・サン・ベルナール峠街道から広い流域を持つローヌ渓谷に出たところに位置する。この軍事的、行政的な適地に注目したゴール人がここに中心的な集落を設け、さらに1世紀ローマ皇帝アウグストゥス時代にはこの一帯の中心都市となった。後述のサン・モーリスと改名するまではアガウネともアカウヌムとも言われ、ケルト語のアカウノ(岩)に由来する。
サン・モーリスの名の由来。
スイス・エンガディン地方のサン・モリッツ、フランスアルプスのブール・サン・モリースとともに聖モーリスに由来するが、この地の場合が最も明確である。
すなわち
モーリスはローマ皇帝マクシミアン・ヘリキュリウスのテーベ軍団(エジプト・ルクソールのキリスト教徒で構成された)の士官だった。この地で反乱を起こし鎮圧されたキリスト教徒のバゴウダエ人を生贄にせよとの皇帝の命令をこの軍団が拒否した。再度の命令にも反抗しオクトドゥルム(マーティニ)のキャンプからアカウヌムに撤退した。マクシミリアン皇帝は軍団員全員の虐殺を命じた(AD285〜305)。
殉教者の数は一説では軍団全員に相当する6600名とも1000名とも言われるが学者の冷めた見解ではもっと少ないが少なくともモウリスと数名の士官は含まれた。
更にこのキリスト教徒への迫害を拒否する行動は他の軍団、ソロトゥーン、ケルン、ベルガモでも起こった。このことはリオンの主教となった聖ユーケリウスの著書「キリストの受難」(434年)によって伝えられた。
その中の一章「おー皇帝。われわれは兵士です。ですがその前に神のしもべなのです。われわれは軍律に従う義務がありますが神に忠実である義務があります。われわれは自分のした仕事に対する対価を頂いています。しかしわれわれは神から命を授かっています。われわれはわれらを創生した主、そして同じく皇帝を創生した主を否定できないのです」
このエピソードはキリスト社会に伝わり、村人は彼らの墓をこぞって守ることになった。
出展:Catholic online
http://www.catholic.org/saints/saint.php?saint_id=368
6世紀になるとブルゴーニュ王の手で殉教の地に大修道院が建立された。サン・モーリスの名を冠するようになったのは9世紀からだが。
建立時に応援を頼まれたのがスイス最古のロマンモティエ修道院で、その記録がある。
私のロマンモティエ訪問記は
http://4travel.jp/traveler/4nobu/album/1010086
サン・モーリス修道院は設立当初からキリスト教徒の聖地として多くの信者を惹きつけ、巡礼者、キリスト教国の王侯の寄進による宝物でも有名になった。
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 鉄道
- 航空会社
- JAL
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エルグレコによる「聖モーリスの殉教」
右から二人目が聖モーリス。背景左端に共に殉教の兵士が。
聖モーリスは黒いムーア人とも言われこの絵と違ってブランデンブルク美術館の彫刻では黒人として創られている。 -
スイスを通る歴史街道。
欧州のほぼ中心にあるスイスの道路は昔から歴史に深いかかわりがあり、現代でも幹線道路の役目を続けている。
青線=スイス巡礼の道。スイス国内、ドイツ、東欧からスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラに向かう巡礼の道。10世紀頃にピークとなる。巡礼者の便宜を図って修道院が多く出来る。古代の通商路とローマ街道の一部が利用され発展した道路。
茶線=ヴァルサー人の道。スイスアルプスの山地に住み始めた遊牧民の移動の経路。一番古い道でもある。
赤線=スイスの道。スイス建国700年にちなんで1991年にスイス独立に関係の深いウーリ湖周辺につくられたハイキング道。
黄土色線=ローマ街道。古代ローマ帝国が欧州を制覇し、支配するために設けた軍用、施政の道路。新しく建設したと言うより以前の通商道路を拡大、改良したというべき。古代ローマ帝国崩壊後も通商、巡礼の道としてにぎわう。 -
巡礼の道は現代ではサンティァゴ・デ・コンポステラへの道を第一に挙げるようだ。しかしかってはイスラエルの聖地とバチカンのサンピエトロ寺院への巡礼の方が人気だった。
このポスターはサン・モリースの道路の傍にかけてあった「フランチジェーナの道」の掲示。バチカン・サンピエトロ寺院への巡礼街道の一つでここではフランスのベザンソンからイタリアのイヴレアまでが示され、ここサン・モーリスは赤字で示されている。
この巡礼路はかってローマからグラン・サン・ベルナール峠、スイス、フランスを通りドーバーからブリテンのカンタベリーに繋がるローマの道であった。
またこの道はローザンヌから分かれてバーゼル近郊のアウグストからライン流域のゲルマニア防衛線に延びる。 -
ジュネーブからマティニへの途中でレマン湖畔におなじみのシヨン城が見える。
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マティニの(急行で)一つ手前のサン・モリース駅。
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駅前にあったサン・モーリスの市街図。中央上に駅が、その右の崖下の塔のある建物がサン・モーリス修道院/
教会。 -
駅前にある教会。帰ってからいろいろ調べたが教会の名も由来もわからない。ロマネスク様式であり、この町の古地図ではサンモーリス修道院を囲む塀の中にあることから同じ派の教会であろう。
どなたかご教示ください。 -
同教会内陣。簡素な美しさと静寂がとても気に入った。
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教会の低い境界塀の上に転がる塊は?
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手の込んだ彫刻(エンジェルか)の柱頭?
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教会前を通るかってのメイン通りのアガウネ(古代ローマ時代のこの町の名)通りに平行した旧市街を通る大通りという名の通り(グランリュー)。かっては門前町通りでにぎわったのではないかと思うが今では歩行者天国的な通りで道の中央に飲食のテーブルが並んでいる。
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昼が近づくとだんだんと人が増えてきた。
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グラン・リューから見る教会の鐘楼
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通りから見た17世紀に改築された付属教会と11世紀の鐘楼。
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教会の入り口側から見る。入り口の前は広場になっている。
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修道院と付属教会の配置説明図。
左図は隣接する崖上から見下ろした全景。右図はその説明。
左図の青い屋根の部分(右図でE)が17世紀に後述のそれまでの教会に対して直角に新築する。更に1941年の崖からの岩なだれによる損傷の修理と増築が行われる(1948年)。隣接の正方形(右図D)が11世紀の鐘楼。
赤色屋根の棟が修道院。その下の基礎だけの部分がかって教会があった跡で現在は発掘調査中。そのほとんどが8世紀の遺跡でその一部と現在の建屋に隠れた部分に4と6世紀の基礎が見られる。 -
後期バロック様式の内陣。18世紀後半。
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祭壇上のモザイク「冠を戴く聖モーリス」
キリスト教美術の改革者として名高いモーリス・デニ 1920年制作。 -
オルガンは1942年の岩なだれで破壊され、1950年に新調
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教会の一隅にある碑の日本字が目に付いた。
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帰国してから調べると日本26聖人(日本人20、スペイン人4、メキシコ人1、ポルトガル人1)
秀吉の命で長崎で処刑されたカトリック信者の碑。何ゆえにここに? -
教会内資料室に掲げられた俯瞰写真
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教会から修道院への連絡口。
ここから修道院の回廊を通って宝物室と発掘現場へ行く。宝物室は撮影禁止で宝物の写真がない。
次のホームページでご覧ください。
http://www.abbaye-stmaurice.ch/home-home-english.html -
入り口の上にあるモザイク「聖母子と燃える柴」ポール・モニエ 1963制作
注;燃え尽きない柴は、神がイスラエル人の救出をモーゼに命じるきっかけ造りであった。
しかし中世では燃え尽きない事が子供を生んでも処女性を失わない聖母の象徴であった。 -
静寂と美しさの綯い交ぜの修道院中庭。それを味わい佇む女性
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この泉も歴史を見てきたのだろうか。
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花と泉のある中庭
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僧院の壁に架けてあった俯瞰図
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AD515 に建立された教会跡の発掘現場。おそらく右側に近接する崖からの落石による損傷が続いたか、はたまた大きな損傷があったせいで現在の位置に移転したのだろう。
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こことサン・モーリスの墓を結ぶ地下の廊下。カタコンベ(地下納骨所)でもある。
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駅に戻ってヴェルビエに発つ。
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