2009/11/20 - 2009/11/20
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さすらいおじさんさん
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残念さんは1865年頃にひろがった信仰で、幕末期非業の死をとげた人への同情が民衆の反幕思想に拍車をかけたといわれている。大和天誅組の変で憤死した吉村寅太郎(よしむら とらたろう1837−1863年)の墓に1864年頃から参詣する人が増えている時期に禁門の変で京都から敗走してきた長州藩の山本文之助が尼崎北の口門で逮捕され、尼崎藩の取調べ中「残念残念」といって自害した。1865年には民衆が尼崎の東墓(杭瀬字松ヶ下)に群参した。領主の禁制の中、大坂からも大勢の参詣人がつづき、残念さんのお墓はやがて「願かけ神様」として多くの人々に信仰されるようになった。林 芙美子(はやし ふみこ1903−1951年)が1951年に朝日新聞に連載したが林が急逝したことで未完の絶筆となった「めし」にも残念さんに願かけに参る場面が登場する。
残念さん信仰は、幕末政治に反発する民衆の動きを示すもので、長州藩尊攘派指導部による民心収攬策ともみられ民衆の「長州びいき」の生んだ流行だった。山本文之助の墓は、長州と取引のあった油屋喜平の世話で東墓に建てられ、現在は明徳寺支坊墓地に移転されている。
残念さんの近くには「大物くずれの戦い跡」の碑がある。室町幕府の実権を握った細川氏は内部対立で細川政元(ほそかわ まさもと1466−1507年)の養子高国と養子澄元・晴元父子が対立し尼崎の地で戦火を交えた。1531年の決戦で高国勢は総くずれになり、尼崎へ逃げ込むが高国は大物の広徳寺で自刃した。この戦いを「大物くずれの戦い」とよんでいる。大物には史跡が多い。
(写真は残念さんのお墓)
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大物公園の光景。
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大物公園の光景。
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大物公園の光景。
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大物公園の光景。
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大物公園の光景。
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大物公園の光景。
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大物公園に隣接する「残念さんの墓」周辺の光景。
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大物公園の光景。
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大物公園に隣接する「残念さんの墓」周辺の光景。
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大物公園の光景。
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「残念さんの墓」の説明。
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大物公園の光景。
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「残念さんの墓」。
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大物公園の光景。
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「残念さんの墓」。
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大物橋跡の光景。大物主神社よりさらに南へ下がると「大物橋跡」の石碑がある。江戸時代の風景を描写した「摂津名所図会」にこの橋が描かれている。何時から何時まで橋が存在したのかは謎のままであるが、平安時代この橋のあたりは紛れもなく大海原であった事は間違いないであろう。
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大物公園の光景。
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大物公園の光景。
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大物川緑地「歴史の散歩みち」の案内。
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「残念さんの墓」の前の街並み。
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尼崎の史跡地図。
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「残念さんの墓」の前の街並み。
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阪神大物駅近くの「大物くずれの戦い跡」の碑の説明。室町幕府の実権を握った細川氏は内部対立で細川政元の養子高国と養子澄元・晴元父子が対立し尼崎の地で戦火を交えた。1531年の決戦で高国勢は総くずれになり、尼崎へ逃げ込むが高国は大物の広徳寺で自刃した。この戦いを「大物くずれの戦い」とよんでいる。
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「大物くずれの戦い跡」の碑。
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「残念さんの墓」の前の街並み。
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大物橋跡前の大物川緑地「歴史の散歩みち」の光景。
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「大物くずれの戦い跡」の碑。
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大物橋跡前の大物川緑地「歴史の散歩みち」の光景。
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「大物くずれの戦い跡」の碑周辺の街並み。
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大物橋跡前の大物川緑地「歴史の散歩みち」の光景。
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阪神大物駅の光景。
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大物橋跡前の大物川緑地「歴史の散歩みち」の光景。
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中島川近くの尼崎の工場地帯の光景。
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中島川近くの尼崎の工場地帯の光景。
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中島川近くの尼崎の工場地帯の光景。
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中島川近くの尼崎の工場地帯の光景。
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中島川近くの尼崎の工場地帯の光景。
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中島川近くの尼崎の工場の光景。
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中島川近くの尼崎の工場地帯周辺の光景。
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中島川近くの尼崎の工場地帯周辺の光景。
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