1998/06/18 - 1998/06/23
1000位(同エリア1655件中)
kovaさん
1998年に訪問した記録を残しました。
また、当時はデジカメが無くフィルムでしたのでプリントからデジタルに変換、色調整をしましたがなにせ新米の撮影技術で満足な写真がありません。
(1998/6/18-23 JTB旅物語ツアー参)
6月18日
成田17:00発のCA-930便、参加者35名、上海経由北京空港着、空港にて現地添乗員宇洪順氏の歓迎を受けバスにて天安門広場前の北京飯店に到着、すでに現地時間23時を回っていた。
ホテルの説明、明日のスケジュールを聞いて早々に部屋に入り、シャワーを浴びる。
北京飯店は由緒のある建物で、特に我々の泊まった部屋は旧館の方で天井も高く古めかし歴史的な建物だった。
北京:人口1,100万人、市内人口600万人
宇(ウ)氏 38歳 中信旅行社の部長(?)
日本の繊維関係に派遣社員として勤め滞在経験有り、日本語堪能にして日本の習慣、経済、産業にも知識有り。
独身である。
彼の勤務する中信旅行社は、彼によれば現副主席の栄毅仁(ryon eijinn)氏によって設立された集団(グループ)企業
6月19日
モーニングコール 4:30 5:00時朝食後、出発し北京空港から西安にむけて飛び立つ。今日も暑そうなモヤが一杯に広がる。眼下に褐色の山並みが延々と広がっている。広大な大地が横たわっているという感じだ。
西安の印象:
兵馬よう坑、華清池は東郊外にあり、ホテル喜来登は西門外に大雁塔は南城外にあり、プラタナスの大樹が繁る大街路を走り回ったが人々は活気にあふれ、また新しく道路や建物の建築に取り組んでいる姿が見受けられた。
盛唐の時代より9分の1とはいえ、清時代の城壁が残っており東門、西門、南門それに鐘楼や鼓楼は充分に中国文化の源流を見る思いがした。
また西安の東近郊にある秦始皇帝陵は巨大な山容をして見える。
未だ発掘もしていないし、またこれからも予定がないという。
夕食は西安名物の餃子宴であった。 親指の先程度の小さな餃子が数多く次から次へと出してくる。 鶏、豚以外はほとんど野菜かゴマ、麦、ピーナツなどの加工品で蒸し、焼き、揚げ、煮と多彩である。
それに麦パン、麺、スープなどがつき眼に食べさせる感覚である。日本の中華の方がやはり贅沢でおいしいとの評価であった。
「見学コース」1)兵馬よう坑
2) 華清池 唐代の避暑地太宗や高宗の静養地
3) 大雁塔 唐の高宗が三蔵玄奘が印度より持 ち帰った経典を収蔵し翻訳研賛のため作らせた塔
宿泊:西安喜来登大酒店(シェラトン)
街の中程にあり、外で夕食を済ませたので寝るばかりだがホテルの上階にある飲食ホールの音が大音響で音楽・歌声が騒々しく眠れない。そのうえ空調が悪く暑くてたまらない。 安定剤を呑めども朝まで安眠できず。
6月20日
7:30 MORNING CALL
朝食 バイキング形式(カフェテリア)中華食
玄米かゆ、肉類少し、野菜、ゆで卵、らいちジュウスなどで軽く、今日も暑くなりそう。
「見学コース」1)碑林 著名な書家の墨跡碑を保存するため に設けられた保存館 書を学ぶ人には憧れの場 所である。
勿論のことこのときまで私には少ししか書の理解 は無かったが・・・
今日の見学は終了、ホテルのレストランにて遅い昼食をとる。
中華4千年の宮廷料理の伝統を持つ西安の食事。主菜20皿もの膨大な量、皆満腹状態で終わる。 洛陽に向かうべく西安駅までバスで向かう。
西安から洛陽へ列車の旅
西安の駅から洛陽まで387km,6時間30分、黄土高原の山裾をめぐって20両以上の長さを持った列車はかなりのスピードで走る。
車窓の右側には険しい山並みがせまり、これが案内書にある華山山塊なのかと一人で納得。
この近くには「三国志」に有名な「五丈原」や「函谷関」もこの沿線にあるとのこと、延々と広がる大豆畠、収穫を終えた麦の藁山などがみえる。
車内では添乗の宇さんと、同行の茅沼さんと中国の話、日本経済の話など楽しく語りあったり、アメリカからの旅行者と話し合えたのはバスの旅行では味わえない列車の旅ならではの収穫であった。
洛陽駅着(17:58) 駅前に出てみるとそこは全く別世界のよう、カオスといいたいような喧噪と雑踏、車、人、車、人その中をかき分けてバスへ
洛陽(Lou Yan)
人口1,200万人 市内人口120万人 東西25Km 南北5Km
現地ガイド 宮(Kyu:)
宿舎 洛陽牡丹大酒店 (LOUYAN PEONY HOTEL)
ホテル内の中華料理で夕食、ステージでは若い娘さんが唄を歌ってにぎやか、北国の春を歌って喝采うけている。
6月21日 洛陽郊外観光
陝西省歴史博物館: ここはこじんまりした博物館で古代から現代に至る中国工芸遺物が種類別、年代別に展示してある。
生活用具では石器、青銅器、鉄器・宝飾品では骨、貝、玉、など。
台湾の故宮博物院にはとても及ばないが勉強には充分である。
龍門石窟:
洛外の伊水河畔にあり、現存する窟洞は2,000 仏像10万個だという。岩山に蜂の巣状に穿ってある様は驚きのほかはない。
武則天皇帝が作らせたという最大の仏像群は規模といい、出来映えといい素晴らしいものだ。
文化革命時代、周恩来首相がここを破壊から救ったというが誠に貴重な文化財といえる。
観光客の周りをしつっこくまつわりつくもの売りを追い払いながら伊水河の景色を見ながらバスに急ぐ。
関林堂 :
三国志で有名な関羽をまつった祠堂。
各時代とも関羽に敬愛の心情が深かったことが良く分かり、改めてその偉大さを感じた。
建物の扁額には西太后や書家の王鐸などのものがあった。
ここの中門の辺りに売店があって拓本を売っていたので見ていると公明が劉備玄徳の遺児に宛てた出師の表(宋岳飛書)の拓本があった。欲しいなと思ったが300元と言っているので粘って負けさせたら結局180元になった。
ここの奥殿には関羽の墓があり、孫堅に討ち取られた首が魏の曹操によってこの地に手厚く葬られたものという。
10元をコインに換えて首が納められているスリットに投げ入れたらチーンと音がした。良いことがあるそうだ。
白馬寺 :
仏教寺院 中国に初めて仏教がもたらされた時に建造されたものという。その時教典を白馬に乗せてきたことからこの名称になったという。(後漢明帝の時代 68年 )
山門から一番奥の建物まで幾つもの堂があり一直直線に並んでいる構成で初期の寺院建築様式がうかがえる。
現代中国にあって仏教が深く根付いていることに驚きであった。建物、仏像の保存や修理、寺院の境内のバラや牡丹も植えてあり、それらの手入れが行き届いて気持ちがやすらぐ。
黄河遊覧:
この旅行のもう一つのポイントである黄河を体験するためにバスを走らせていたところ、我々の2号バスがオーバーヒートでストップ、この熱暑のなかで立ち往生のトラブルとはと心配していたところ、先行していた1号バスが気づいて戻ってきてくれたのでこれに便乗、定員オーバーで黄河畔に到着、外はむちゃくちゃ暑い。
孟津県(モウシン洛陽市の県)洛陽市の北東35Km、付近は古代から商、周の時代までの遺跡が50余箇所点在しているそうである。
清時代の帆船を模した木造船にのり黄河を遡り小一時間上下する。大河は濁り流れはゆったりとしているようでも結構早く、川幅はおおよそ2キロ弱か、
川岸のはこ柳が炎暑でモヤっているし、河面が照り返しでまぶしい。猛烈な暑さで乗員は「冷たい飲み物があったら、金はイクラでも出す」なんて大騒ぎである。
船頭は黄河の中から拾い上げた赤石をみやげ物として客に見せ、良かったら気持ちだけの金で良いと言った。
稲光の閃光、暴風雨の中、夜行列車に乗る!
夕食は洛陽市内に戻ってきて飯店で洛陽名物水席料理とゆうことである。
その名の由来はスープ類が多いことと、料理が次々と流れるように出てくることから付いたという。 百聞は一見に如かず、全く驚くべき早さで次から次から料理が運ばれてくる。
西安では田舎料理といっていたが、ここ洛陽ではさすが三千年の歴史の重さ、伝統が今も息づいているのだ。 数えてみたら主菜皿が二十五皿であった。 胃袋の小さい私には恨めしく思うだけだった。
夕食後、列車に乗るには小一時間ほどあり、自由時間となったので街路に出てみる。
街路の両側、公園広場はいたるところに露天が出ており、雑貨、衣類、ペット類、書画(とくに洛陽の名物牡丹を描いたもの、馬、鍾馗)などが売られており、町の人々も暑さを逃れて家族連れで夜店をぶらぶらと見て歩くあり、公園でござを引いて涼んでいるものありで、どこの通りでも店と人であふれている。
洛陽は牡丹の町、公園のなかも牡丹の樹がいっぱいあったし、大道の書画にも牡丹の絵が多く見られた。 夜になっても暑さは依然としてものすごくおおよそ38度くらいか。
バスにて洛陽駅に着く。 駅前の雑踏昨日よりものすごい。車の騒音、売り子の呼び立てる声、人々の怒鳴り合う声、駅前の広場で寝具を広げて寝場所を確保する人の群、列車待ちする人の行列、暑さの中で混乱して頭の中にも雑踏のように飛び込んでくる。
団体で軟座待合い室に入る。さすが静かで冷房も利いている。 国営の売店もあり一同ようやく落ちついてホットした雰囲気になった。
これで軟座の冷房車でゆっくりと、少なくとも今日の暑さのなかで歩いた疲れのため安らかに眠れるものと皆期待していたに違いない。
特にわが輩は、昨夜体調がおかしく安定剤を飲めども朝まで一睡もしていなかったのでなおさらのことだった。
西安駅に長い長い列車が入ってきた。我々は旗を持った現地添乗員を先頭に目的車両に向かった。
表示を見ると成都発の北京行きだ。寝台車に乗り込んだとたん汗がドット吹き出してきた。
冷房ではない、暖房列車だ! 一斉にみんながわめきだした。これは、話が違うじゃないか! とか これでは眠れないどころか、ぶったおれてしまう!といったものだった。
旅行案内に、中国では一方的に変更や中止があり得ますと書いてある一項が頭に浮かんだ。
二度目のハプニングである。
誰かが、「我々は日本の感覚で冷房車と思いこんでいたが、この国では当たり前ななんだなー、失敗だった。」といった。 これが正解だったのか、あるいは冷房車を増結する手配をしていなかったのか帰るまでわからずじまいだ。
ともかく十時を回っていて疲れ切っているので寝ようということで、窓という窓を半開きに開けて寝ることにした。
大陸の列車は力強くグイグイと闇夜の中、風を突いて進んで行く。暑いものの夜風が身体にかかる部分は涼しく感じる。
現地添乗員の宇さんは、申し訳ないといって眠れない人の部屋で話し相手になっている。
横になって眠ろうとしたものの、列車の轟音と振動、それに暑さでなかなか眠りに入れない。
妻は上段へ、同室のご夫婦はご主人が上段でものすごいいびきで寝込んでいるし、下段の奥さんも寝込んでいるらしい。そんな想いでだいぶたったころ、冷たい雨風が飛び込んできた。 室内のカーテンはめくれるし、掛け布団やシーツが吹っ飛ぶ騒ぎになった。皆起き出して窓を閉めようにもぴくりとも動かない。
手を外に出してみるとヒョウが降っていて手にびしびしと当たる。 雷鳴は列車の轟音でわからないが、稲光がすさまじい。 広い空一杯の放電で地上が明るくなり、それが絶え間なく続き、雨風の吹き込みよりも大地の饗宴にひとりで「ああ、これが大陸の天地の祭典なのか!」と感じ入った。
雨が急速に猛暑を奪い取り涼しくなった。列車の乗員がハンマーを持ってきて窓の引き手を叩いて下ろしをしてくれたのでようやくにして嵐が納また。
稲光が窓の外を照らしつづけ、列車は轟音をたてて土砂降りの中を引っ張って行く。
いつの間にかぐっすり眠り込んでいたらしく目が覚めたときは朝で列車は停まっていた。
それぞれ顔を洗うやら、着替えをするなどしているものの列車は一向に動かない。窓から外をのぞいても最後尾に近く先の方は全くわからない。
最初のうちは、なんで停まっているのか誰もわからず添乗員が聞いてもハッキリしたことはわからなかった。
その内車内の連絡があったらしく、昨夜の雨で信号が停止信号を出しているので先に進めないとのこと、また現在二、三時間の遅れが出ているとのことだった。 ああ、第三番目のアクシデントになってしまったかと思った。
仲間はそれぞれ顔を洗ったり、衣服を着替えたりしている。
もう、六時を回っているか、少し食べたい気分になっている。相当の暑さだったので昨夜夜差し入れの弁当から、さし当たり大丈夫そうなバナナだけ食べる。
やがて列車が動き出して駅名を見たら「宝釈寺」とあった。
沿線を眺めると、昨夜の雨が豪雨と突風だったことが見て取れた。鉄道の下を潜る幹線道路のくぼんだ部分に雨水がプールのように溜まりトラックが立ち往生している。 通勤の人たちが通れないので自転車を抱いて鉄路を横断している。列車は警笛を鳴らしながらの徐行して行くのである。 住宅の壊れた屋根やなぎ倒されている大木が至る所に見える。
大陸のにわか雨はすごいものだと眺めていた。そのうち駅について停車した。石家荘(シーチャチョワン)とゆうところだった。
後から急遽頼んだ弁当が配布される。ジャガ芋パンを揚げたようなもの、キャベツの千切り、あまりおいしくないが我慢して少し食べる。
ようやく、正確な情報が入った。
豪雨のため信号機が停止信号を出していたので二時間半ほどの停車があり、そのため列車が詰まっており北京まで後一時間半を要し、計四時間の延着の予定となった。
ああー、こりゃまた観光地カットかーと誰しも思う。前回沿岸を旅したときも訳も分からないバス行方不明事件で、上海の有名な観光地がカットされたっけ。
ともかくも列車が走り出し、広大な農村部を走り抜け、また工業地帯を疾駆してゆく。
北京に近くなった頃、緑の木々が多くなり農村の家も大きくなり茶色の煉瓦造りの家並が見えた。
北京市の観光
午後二時過ぎ、北京西駅に到着、バスで北京市博物館の八階にある中華飯店で遅い昼食、皆空腹でがつがつ食べ、かつ飲む、何と美味しいことよ。
故宮
北京の観光の目玉、何といっても柴禁城、つまり故宮、清朝の大宮殿、あの巨大な茶色の壁にぐるりと囲まれた建築、午門の前に立つ、映画「ラストエンペラー」で見た時の大いなる興奮がよみがえる。
大和殿の前庭に出る。広い、大きな瓦を敷いた広場が広がる。文武百官が拝礼をとるこの広場に向かって皇帝が儀礼を行う、その様な姿がここにあったのだと思えば歴史の過去の舞台に迷い込んだかの感があった。
謁見の間の玉座や柱などは、今は金箔もくすみ当時の輝きはないものの、荘重な造作と威厳には圧倒されるものがある。
前宮から後宮へ進む。後宮の橙色の屋根甍が広大で、その彼方に景山が見える。
歴代の皇帝、皇后、家族、宦官たちが生活した区域であり、とくに西太后や溥儀などの生活があったところである。
万里長城
小雨の降り出した高速道路を長城めざし急ぐ、頂上では夕闇がすでに迫り、夕霧のなか長城を登る。
巨大な煉瓦積みの長城、途方もない建築、驚くべき精魂の蓄積、闇の中に三角旗がはためいている。
ああ!ついに来たんだ。この感激、夕闇なのが残念、またいつの日にか来て眺めたいとそう思った。
夕闇迫る中、同行者は時間を惜しんで長城入り口の売店をのぞきみやげ物を漁っている。
売り子が大勢居て、6枚千円! 7枚千円!とか呼ばわっていたり、10枚千円で買ってきたよ!などと言う人もいる。
天安門広場を実地に見聞してあまりの広大さにあきれ、かつ集会時の臨時トイレ用のマンホールが幾つも並んでいるのには驚きをもって見た。
夕食は、有名な趣徳全だったが、全員の希望によって昼食と同じ北京市博物館八階の中華料理店でのお別れの食事会となり、初めて北京ダックなるものを食した。まずくもないし、かといって特別美味しいとゆうものでもなかった。
皆、変化多い旅行の打ち上げに大いに食べ、飲んで騒いで楽しい時間を過ごした。
単独参加の茅沼さんは、「おいしいというのは中国語で何というのか」と言うので「ハオチー」と教えたが、なかなか「チー」が出来ず苦労していた。
ただし、ここの店のウエイトレスは若い女性で愛想が良く好印象だった。ただ、田舎出の様なはにかみと新鮮さがあり、中国人らしい角張った顔立ちだったが、どこへいっても愛想のない女性が多かったのに、ここは教育が良いのか印象がよかった。
終わりよければ全て良しとするか。
最後の夜は、再び北京飯店の旧館で泊まることになった。
(注)この旅行にかかった費用は次の通り。
旅行代金 114,000
VISA 料 3,000
渡航手続き料 4,000
旅行保険料 4,620
計 125,620 円(1人分)
空港利用税 4,200 narita
; 2,500 beigin
冷房車慰謝 - 6,000(JTBより返還)
小遣い 25,000
二人分 合計 276,940 円
主な買い物
兵馬よう坑 印刷物 2,500 発見者サイン入り
碑林ガイド 180 ( 10G) 海賊版
拓本 出師表 3,240 ( 180G) 孔明の遺書
白檀扇子 二個 360 ( 20G)
鐵斎 墨 二個 3,600 ( 200G) 湖開文の銘墨
記念写真 1,500
唐三彩 馬傭 180 ( 10G) 海賊版
(注)中国製品は粗雑品多く、紛い物、偽物多く価格も、全く品質と比例せず、買うに値しない。
cf1. 碑林ガイド 著名書家の碑文の拓本を掲載した案内書で正規には100元以上で売っているもの、しかし碑林場外で買ったものは、本物をコピーして表紙だけ本物のようにしたまがいものであった。
cf2. 唐三彩の馬よう 関林門前のみやげ物店で買った。
三彩は多くの窯元が国道沿いにあり、ここの物は高い。芸術的価値の高い物は、それは素晴らしい物がある。しかし、文化革命以後の全ての伝統製品の品は品質の低下が著しいと言われる。
cf3. 鐵斎墨 北京市博物館の売店で購入した。残った外貨元を使いきるための購入で店員(公務員)の説明によれば一番良い墨だという。しかし、帰国して使ってみたら異物があり摺り心地の悪いもので墨色もタール分が多くネットリしていて良くない。
覚え書き
張さん: 張震宏(Zhang Zhen Hong)接待部 課長
蘇州海外旅遊公司
注 栄毅仁 87歳
上海を地盤とする財閥一族に生まれる。解放前まで、銀行、紡績会社、食品会社などを兼ねる実業家として活躍して業績も上げていたという。
共産党が上海を解放した49年初夏から上海の資本家達は資産没収を恐れて香港や台湾に逃れたが、栄氏は愛国心が強いため(栄氏談)本土に留まった。
新中国の指導者達はとりあえず官民共同公私合営路線で商工業を振興させる手法により公有制経済を定着させる移行措置をとった。
栄氏は社会主義体制下で企業活動を続ける道を選んだ。
莫大な資産を政府にゆだね、見返りに配当金を受け取るようになり、共産党も、経験豊かな彼らビジネスマンの手腕に注目した。
栄氏は上海副市長、国務院紡織工業省次官などを歴任し、経済政策の先頭に立った。
経営者マインドを発揮しながら社会主義国家建設に当たる栄氏は「紅い資本家」と呼ばれるようになった。
67年毛沢東が文化大革命を発動したとき「走資派」として公職を追放された。
78年登小平が市場経済を導入し、経済重視路線に切り替え、栄氏は79年中国国際信託投資公司(CITIC)を設立、外資導入の窓口となり商工業の振興を後押しするなど改革・解放の象徴的な存在として知られる。
産業金融や不動産業にも進出して投資銀行の機能も担い、中国経済の牽引役になってきた。 93年国家副主席に選ばれた。
(1999-6-5 読売新聞 50歳の中国 )
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西安 (Xi'An)
西安空港には現地ガイドの史 俊乾氏が付き、バス二台に分乗して観光することになった。
氏によれば、西安は人口600万人で、古代から何度も都とした悠久の歴史を持っており、現在は古都として多くの遺跡、文化遺産を持っており観光客も激増しているとのこと。
史氏は、当意即妙、才気煥発、多彩な知識のある人物とみえバス内で乗客とのやりとりも面白く、飽きさせなかった。
秦よう博物館(兵馬佣坑) -
最初にこの旅行のハイライト「兵馬佣坑」を見る。
巨大な館内に兵佣が並んでいる。色はグレイだが土埃をかぶった軍団が動き始めるかのようだ。
一号館は歩兵軍団、二号館は騎兵軍団、三号館は司令本部と成っているそうだ。
これら陶人形が作られたときは彩色されていたととのこと、これらの陶人形を深さ2メートルばかりの壕に縦列隊形を組みこれが幾列もあり、陶人形を保護するために壕と壕上に大木を渡してその上を菰(コモ)で覆い土を被せたものという。
発掘されたものはバラバラの状態であり、展示されている兵馬ようは一部分であるといい、未発掘の物、復元中の物は膨大でこの復元にはかなりの歳月と費用がかかるという。 -
展示館を出たところに多分国営だと思われる売店があり、そこに楊志発という老人がいてガイドブック「秦の始皇帝の地下軍団」に直筆でサインして売っている。
べらぼうに高くて日本円 2,500 円だ、記念にこれを買う。
聞いてみれば、彼は農夫でここの畑地で井戸を掘るべく作業していたとき傭坑を発見したそうである。
観光客は発見者の彼に握手を求め、彼は次々に握手をし、そしてこの本にサインをして行く、一大有名人で高給取りか。 -
気温猛烈にあがり暑くて水を飲む。
昼食には西安料理の中華であった。
史氏によれば西安の田舎料理とゆうことで、野菜、鶏、鶫(ツグミ)、豚肉料理で味は割とさっぱり味で美味しかった。
同行者は塩味が薄く物足りなく感じたようだ。
御者のよう像 -
楊志発 爺さんのサイン
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華清池(かせいち)
唐の太宗が避暑地として設けた宮殿で、もとは随の文帝が 593年に建設を開始し二年後に完成、のち唐の太宗の貞観5年(631) に改修されて九成宮と改名された。
ある時太宗が散策しているときに、潤いのある地面をつついたらそこから水が湧き出したので、これは皇帝の徳が高いから神が感化されたものとして太宗が喜んだと言われる -
温泉地でもあり保養地として後の皇帝、玄宗と楊貴妃が使用したといわれる温泉、石組みの浴槽が残っており見物の観光客でにぎわっている。
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また、西安事件(1936蒋介石が長学良に拉致され国共合作が成った)の舞台となった建物(現在五間庁という)もこの一角にあり現存しており説明書きされ保存されている。 -
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大雁塔
慈恩寺ともいい、652 年唐高宗の永徽年間に五層として建造、目的は三蔵法師がインドより持ち帰った経本を収蔵するため経蔵であった。
その後武則天が十層に改修。現在は七層 64 メートルの高さである。
大雁塔に入ると最初は広く天井も高いが、左回りに木造螺旋階段を上がって行くほどに狭くなる。
各階の東西南北には窓があり四方を眺めることが出来る。
最上階からは見晴らしが素晴らしく西安市郊外の展望ができる。 -
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5年前、退職して念願の中国旅行を希望しながら病床にあったとき、「中国旅行に絶対行ける様に頑張ろう」と七夕に祈願して以来、大好きだった歴史の舞台、大唐の都西安、大雁塔を実際に眼で見て登って、今この手で大雁塔に触れることができたという感激で胸が熱くなった。
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塔の最上階に登る。 一階は広く木製の階段で登るほどに狭くなり、体力の無い私にはきついきつい、ヘコヘコして先ずは外を眺める。
この道は西方に向て延びる街路、ここよりシルクロードが延びて行くのだ。
幾多の人物や文物が行き交い西方の文化がもたらされますます唐の文化の隆盛を極めることとなった。
三蔵法師が経典を携えて帰国した時は、唐の皇帝高祖が盛大な出向かいをしたという。 -
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碑林へのアプローチ、木立が深い陰影をつくり落ち着いたたたずまい。
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碑林:
北宋の時代(1087)著名な碑石を保存する目的でつくられ、現在四棟の碑石室があり壮観である。
秦、漢の時代から北魏、隋、唐をへて明、清に至る碑石が林立している。 -
第四室にて拓本をとっているのをそばから見た。 ベテランらしく瞬く間に写し出されていく、そしてこれらが売店で売られているのだが、欲しかった米沸が西安を詠んだ詩の拓本は400元(7,200yen)だったので止めた。
もっとも300元まで負けるといっていたけれど。 -
今日の見学は終了、レストランにて遅い昼食をとる。主菜20皿もの膨大な量、皆満腹状態で終わる。 洛陽に向かうべく西安駅までバスで向かう。
洛陽に向かう。詳しいことはまた前書きで参照してください。 -
車中より流し撮りした農村風景
レンガ作りの二階屋で一階が作業兼水事室らしい。
比較的良い方の農家だろうか? -
同じく農家。 収穫した小麦らしいワラが山のように積まれている。
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果てしない段丘の地平、至る所耕されてとうもろこしかが栽培されている。
このように整備された畠地は人間のたゆまざる努力と根気の賜物である。 -
6月21日 洛陽
竜門石屈の見学
洛外の伊水の流れ 水量はそれほど多くない。 -
洛外の伊水河畔にあり、現存する窟洞は2,000 仏像10万個だという。岩山に蜂の巣状に穿ってある様は驚きのほかはない。
武則天皇帝が作らせたという最大の仏像群は規模といい、出来映えといい素晴らしいものだ。
文化革命時代、周恩来首相がここを破壊から救ったというが誠に貴重な文化財といえる。 -
則天武功が作らせたという巨大な仏像壇への階段。
かつては王侯貴族達が威儀を正して昇殿したのか? -
これが中ほどにある仏像である。
則天武功の顔に似せて作られたという。 -
仏像展開基壇の左端の諸仏
いずれも見事な大彫像。 -
武 則天 の尊顔を拝したく接近!
やはり、美人でいらっしゃる。 中国の偉大な三大女帝様は・・・ -
これが基壇右端にある諸仏 仁王様かな?
動きのある二体 諸仏に圧倒されて・・・ -
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白馬寺 入り口
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白馬寺の中庭にある鼎・・中国では権威の象徴
それにしても大きいな・・お線香でも焚くのか? -
関羽像
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孟津県(モウシン洛陽市の県)洛陽市の北東35Km、付近は古代から商、周の時代までの遺跡が50余箇所点在しているそうである。
清時代の帆船を模した木造船にのり黄河を遡り小一時間上下する。大河は濁り流れはゆったりとしているようでも結構早く、川幅はおおよそ2キロ弱か、
川岸のはこ柳が炎暑でモヤっているし、河面が照り返しでまぶしい。猛烈な暑さで乗員は「冷たい飲み物があったら、金はイクラでも出す」なんて大騒ぎである。
船頭は黄河の中から拾い上げた赤石をみやげ物として客に見せ、良かったら気持ちだけの金で良いと言った。 -
これが黄河の大きさだ。 暑さのため川からもやが立ちあって向こう岸がかすんでいる。
水温はかなり冷たく水流は結構と速い。
この川の底には幾万と流れ来た文様のある石がありここの船頭も北京の土産店でも売っていた。 -
-
宮殿の広さにただ圧倒され、くたびれた足も忘れてただただ歩まなければならない。
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紫禁城の中心、文武百官を整列させて・・・
ヨーーハーイーー
大和殿は凄い・・ -
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