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10*30 ギリシャ テッサロニキ/<br />朝起きて、急いで駅に向かった!何とかギリギリ間に合い列車に乗り込んだ。めっちゃ混んでる、昨日の内に切符を買っといて正解だった。国境では俺のパスポートだけ取り上げられ、オフィスに向かった。スタンプを押す為だったのといくつか質問された。テッサロニキに到着した!また読めない字だらけだ。いろいろと列車の時間を調べたら、トルコ行は夕方七時の便のみで、アテネやメテオラには夕方過ぎに着く。当社はマケドニアに行く予定だったが便も悪く、マケドニアに夜に着き、朝一番か夜行列車しかない。結局はテッサロニキに二泊しないといけない。悩んだあげく、今日の夜行でトルコに行く事にした。正直、スプリットからの一人旅の孤独に参っていたし、読めない文字にも嫌気がさし、早くバッパーが集まるイスタンブールに行きたかったからだ。とにかくこの場から逃げ出したかった。荷物を預け、テッサロニキにを観光した。ガイドブックも何も情報がなかったので、インホメーション地図をもらい、地図を頼りに観光した。道を聞こうとしたら、「ノーチャイニーズ」とか「シィーナ」とか車から叫ばれたりもした。シィーナとは中国人に対する差別用語だとフランスで教わった。それにしてもどのヨーロッパを回っても、中国人は嫌われてる。理由はわかる気がするけど…。でも良いギリシャ人も多い!親切な人と何人か出会った。街は至る所にギリシャ正教の教会があった。トルコからの便もあるため、アラブ系の人も沢山いた。アドリア海も見に行ったが、運悪く雲っていた。とにかく、一人の孤独から逃げたい!iPod〜、音楽が聞きたい!トルコへの列車は睡眠薬強盗で有名である。眠らされて金品を奪われる。だから万一を備え、列車料金に加え、+30Euroで寝台ベットを取った。明日には日本語で会話してるのかな〜?外人でもいい、皆が集まるホステルに泊まりたい!<br /><br />概要<br />ギリシャの第二の都市。中央マケドニア地方の首府である。<br />東ローマ帝国時代の教会や城壁が多数残されており、アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街だと言われている。アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。<br /><br />歴史 <br />テッサロニキは紀元前315年前後にマケドニア王アレクサンドロス大王によって創建。アレクサンドロスの王統より王位を奪ったカッサンドロスは王妃テッサロニカ(アレクサンドロスの腹違いの姉妹)の名を取りテッサロニケーと名付けた。紀元前168年にマケドニア王国が滅びてから、共和制ローマ領の都市となる。ローマとビザンチウム(後のローマ帝国の首都コンスタンティノポリス、現在のイスタンブル)を結ぶエグナティア街道沿いの重要拠点となり、東西交易の場所として栄えた。ローマが東西に分割されたあとは、東ローマ帝国の権力下に置かれ、コンスタンティノポリスに次ぐ、帝国第二の都市として栄え、多くの教会が建設された。テッサロニキの人々は聖像破壊運動の時代にもイコンを隠して守ったため、他の旧東ローマ帝国領内では失われてしまった聖像破壊運動以前の貴重なイコンやモザイク画が数多く残っている。1430年にオスマン帝国によって占領され、以後オスマン帝国の都市となる。トルコ人からはセラーニク(Sel&amp;acirc;nik)と、また近在のスラヴ人からはソルン(Солун, Solun)と呼ばれた。この期間、イスラム教徒とユダヤ教徒の人口が増え、社会基盤が整備されていった。バルカン半島の中心都市として、東西貿易の拠点としてオスマン帝国でも最も重要な都市の一つとなっていた。1888年に鉄道が敷設され、1896年から1904年の間には港湾が整備された。現代トルコの建国の父、ケマル・アタテュルクは1881年にこの町で生まれた。青年トルコ人革命はここが本部となっていた。1912年にバルカン戦争でギリシャ軍がテッサロニキに攻め込み、オスマン帝国領から奪還した。1913年にギリシャの国王ゲオルギオス1世がテッサロニキ訪問中に暗殺されるという事件が起こった。1915年には第一次世界大戦の最中、連合国軍がテッサロニキに集結し、ドイツ・ブルガリア連合軍と対峙した。ギリシャの当時の首相エレフテリオス・ヴェニゼロスは当時の国王の反対を押し切りここに臨時政府を建てた。1917年8月17日の大火災で町のほとんどが消失し、エレフテリオス・ヴェニゼロス首相の命でフランス人設計による都市計画による欧州的な近代都市が建設された。その後希土戦争が勃発し、小アジア地方からの多くの難民を受け入れた。第二次世界大戦時には、1941年4月から1944年10月までナチス・ドイツの支配下に入り、連合国側からの空爆で町は被害を受けた。1978年6月20日にマグニチュード6.5の大地震に見舞われた。 1988年には町のビザンティン様式の建築群が、ユネスコ世界遺産に登録された(テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群)。

逃げ出した。。。。 ギリシャ テッサロニキ

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2009/10/30 - 2009/10/30

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kawabekentarou

kawabekentarouさん

10*30 ギリシャ テッサロニキ/
朝起きて、急いで駅に向かった!何とかギリギリ間に合い列車に乗り込んだ。めっちゃ混んでる、昨日の内に切符を買っといて正解だった。国境では俺のパスポートだけ取り上げられ、オフィスに向かった。スタンプを押す為だったのといくつか質問された。テッサロニキに到着した!また読めない字だらけだ。いろいろと列車の時間を調べたら、トルコ行は夕方七時の便のみで、アテネやメテオラには夕方過ぎに着く。当社はマケドニアに行く予定だったが便も悪く、マケドニアに夜に着き、朝一番か夜行列車しかない。結局はテッサロニキに二泊しないといけない。悩んだあげく、今日の夜行でトルコに行く事にした。正直、スプリットからの一人旅の孤独に参っていたし、読めない文字にも嫌気がさし、早くバッパーが集まるイスタンブールに行きたかったからだ。とにかくこの場から逃げ出したかった。荷物を預け、テッサロニキにを観光した。ガイドブックも何も情報がなかったので、インホメーション地図をもらい、地図を頼りに観光した。道を聞こうとしたら、「ノーチャイニーズ」とか「シィーナ」とか車から叫ばれたりもした。シィーナとは中国人に対する差別用語だとフランスで教わった。それにしてもどのヨーロッパを回っても、中国人は嫌われてる。理由はわかる気がするけど…。でも良いギリシャ人も多い!親切な人と何人か出会った。街は至る所にギリシャ正教の教会があった。トルコからの便もあるため、アラブ系の人も沢山いた。アドリア海も見に行ったが、運悪く雲っていた。とにかく、一人の孤独から逃げたい!iPod〜、音楽が聞きたい!トルコへの列車は睡眠薬強盗で有名である。眠らされて金品を奪われる。だから万一を備え、列車料金に加え、+30Euroで寝台ベットを取った。明日には日本語で会話してるのかな〜?外人でもいい、皆が集まるホステルに泊まりたい!

概要
ギリシャの第二の都市。中央マケドニア地方の首府である。
東ローマ帝国時代の教会や城壁が多数残されており、アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街だと言われている。アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。

歴史
テッサロニキは紀元前315年前後にマケドニア王アレクサンドロス大王によって創建。アレクサンドロスの王統より王位を奪ったカッサンドロスは王妃テッサロニカ(アレクサンドロスの腹違いの姉妹)の名を取りテッサロニケーと名付けた。紀元前168年にマケドニア王国が滅びてから、共和制ローマ領の都市となる。ローマとビザンチウム(後のローマ帝国の首都コンスタンティノポリス、現在のイスタンブル)を結ぶエグナティア街道沿いの重要拠点となり、東西交易の場所として栄えた。ローマが東西に分割されたあとは、東ローマ帝国の権力下に置かれ、コンスタンティノポリスに次ぐ、帝国第二の都市として栄え、多くの教会が建設された。テッサロニキの人々は聖像破壊運動の時代にもイコンを隠して守ったため、他の旧東ローマ帝国領内では失われてしまった聖像破壊運動以前の貴重なイコンやモザイク画が数多く残っている。1430年にオスマン帝国によって占領され、以後オスマン帝国の都市となる。トルコ人からはセラーニク(Sel&acirc;nik)と、また近在のスラヴ人からはソルン(Солун, Solun)と呼ばれた。この期間、イスラム教徒とユダヤ教徒の人口が増え、社会基盤が整備されていった。バルカン半島の中心都市として、東西貿易の拠点としてオスマン帝国でも最も重要な都市の一つとなっていた。1888年に鉄道が敷設され、1896年から1904年の間には港湾が整備された。現代トルコの建国の父、ケマル・アタテュルクは1881年にこの町で生まれた。青年トルコ人革命はここが本部となっていた。1912年にバルカン戦争でギリシャ軍がテッサロニキに攻め込み、オスマン帝国領から奪還した。1913年にギリシャの国王ゲオルギオス1世がテッサロニキ訪問中に暗殺されるという事件が起こった。1915年には第一次世界大戦の最中、連合国軍がテッサロニキに集結し、ドイツ・ブルガリア連合軍と対峙した。ギリシャの当時の首相エレフテリオス・ヴェニゼロスは当時の国王の反対を押し切りここに臨時政府を建てた。1917年8月17日の大火災で町のほとんどが消失し、エレフテリオス・ヴェニゼロス首相の命でフランス人設計による都市計画による欧州的な近代都市が建設された。その後希土戦争が勃発し、小アジア地方からの多くの難民を受け入れた。第二次世界大戦時には、1941年4月から1944年10月までナチス・ドイツの支配下に入り、連合国側からの空爆で町は被害を受けた。1978年6月20日にマグニチュード6.5の大地震に見舞われた。 1988年には町のビザンティン様式の建築群が、ユネスコ世界遺産に登録された(テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群)。

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  • このときは、寂しさの限界でした。。<br />早くトルコに行きたい  涙

    このときは、寂しさの限界でした。。
    早くトルコに行きたい  涙

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