2009/11/08 - 2009/11/08
4540位(同エリア5392件中)
亀吉さん
役10年間の修復工事を終え復活なった唐招提寺金堂を見に行ってきました。
- 交通手段
- 私鉄
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開門前の金堂です。
3枚の扉が開けられた直後の画像です。
国宝。奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである(奈良・新薬師寺の本堂は奈良時代の建築だが、元来は食堂として建てられたものである)。2000年から解体修理(「平成の大修理」)が行われ、2009年11月1日−3日に落慶行事が行われた。寄棟造、本瓦葺きで、大棟の左右に鴟尾(しび)を飾る。このうち西側の鴟尾は創建当初のもので、東側は鎌倉時代の元亨3年(1323年)の補作であったが、いずれの鴟尾も劣化が甚だしいため、平成の大修理に伴い、屋根上から下ろして別途保管することとなり、屋根上には新しい鴟尾が飾られている。 -
唐招提寺金堂の平成の鴟尾(しび)です。
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1200年以上金堂を支える柱と梁。
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堂内には中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する(仏像はいずれも国宝)。廬舎那仏、薬師如来、千手観音の組み合わせは他に例がなく、経典にもみえないことからその典拠は明らかでない。東大寺(本尊は廬舎那仏)、下野薬師寺、筑紫観世音寺を「天下三戒壇」と称するが、唐招提寺の三尊は廬舎那仏・薬師・観音の組み合わせで天下三戒壇を表しているとする説もある。
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南大門に掲げられた孝謙天皇が書かれたとされる看板。
しかしこれは模造で、本物は講堂にあります。 -
国宝「講堂」です。
平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、天平宝字4年(760年)頃、平城宮の改修に伴って移築されたそうです。 -
国宝「鼓楼」です。
金堂・講堂の東側に建つ、小規模な楼造(2階建)の建物。入母屋造、本瓦葺き。鎌倉時代・仁治元年(1240年)の建築。頭貫は端部を大仏様(だいぶつよう)の木鼻とする。西側の対称的位置に建つ鐘楼に対し「鼓楼」と称するが、この建物には太鼓ではなく、鑑真が唐から請来した仏舎利を安置しており、そのため舎利殿とも称する。毎年、5月19日に行われる梵網会(ぼんもうえ、通称「うちわまき」)の際は、この建物の楼上から縁起物のうちわが撒かれる。 -
国宝「経蔵」右と、国宝「宝蔵」左です。
礼堂の東側に並んで建つ。ともに奈良時代の校倉造倉庫。経蔵は唐招提寺創建以前ここにあった新田部親王邸の倉を改造したものとされ、宝蔵はここが寺になってから建てられたものと推定される。 -
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重文「礼堂」(らいどう)です。
鼓楼の東にある南北に細長い建物。もとの僧房を弘安6年(1283年)に改築したものである。桁行19間、梁間4間、入母屋造、本瓦葺き。中央やや南寄りに馬道(めどう、土間の通路)があり、それより北の10間分が東室、南の8間は仏堂となり、隣の鼓楼(舎利殿)に安置された仏舎利を礼拝するための堂として礼堂(らいどう)と呼ばれる。礼堂内には清凉寺式釈迦如来立像(重要文化財)と日供舎利塔(重要文化財)を安置する。 -
戒壇です。
境内西側にある。戒壇は、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所。戒壇院の建物は江戸時代末期の嘉永元4(1851年)に焼失して以来再建されず、3段の石壇のみが残っている。1980年にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が壇上に置かれた。唐招提寺の戒壇は創建時からあったものとする説と、鎌倉時代の弘安7年(1284年)に初めて造られたとする説とがある。 -
鑑真廟です。
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この旅行記へのコメント (1)
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- 義臣さん 2009/12/02 09:52:18
- 素晴しい
- 初めまして 素晴らしい写真。。
大修理中の一般公開を見た私には感慨無量で。
12月4日には伺いたいと思います。
有難うございます。
義臣
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