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 天正9年 3月18日 - 吉川経家[きっかわつねいえ]が因幡鳥取城に入城する。三木城を兵糧攻めにより落とした秀吉は、すぐさま但馬[たじま]から因幡[いなば]へと軍を進め、毛利方の鳥取城攻略を開始する。因幡鳥取城の本来の城主、山名豊国は秀吉の謀略によりあっさりと城を出てしまった。秀吉は山名豊国に「城を明け渡せば因幡一国を与える」と言ったらしい。当然、罠だったのは言うまでも無い。開城に反対する一部の重臣を残したまま、まさに落城もやむなしかという時、城内の重臣の要請により、毛利方から臨時城主として吉川経家が因幡鳥取城に送られた。吉川経家は毛利両川[もうりりょうせん]の一人、毛利元就の次男・吉川元春一門の武将である。 <br /><br />7月12日 - 秀吉2万の軍勢が因幡鳥取城とその支城・丸山城を包囲する。三木の干し殺しと並び、数ある戦国時代の合戦の中で最も壮絶な兵糧攻めと言われる、鳥取の渇え殺し[とっとりのかつえごろし]が始まる。 <br /><br />9月 - 早くも城内の兵糧が底をつきはじめる。吉川経家は愕然とした。冬になれば雪で秀吉の包囲網が緩くなり、毛利からの兵糧補給が期待できると踏んでいたからだ。しかし、現実は甘くなかった。これは三木の干し殺しで経験を積んだ秀吉の事前工作が功を奏する形となった。秀吉は播磨の三木城攻めと同様に包囲のための付城[つけじろ]を築城し、兵糧の搬入経路を徹底的に遮断した。しかし、吉川経家が毛利一門だと言うことを考えると、毛利方の兵糧を搬入する援軍の力の入れようは播磨の三木城の時の比では無かったように思われるが、これを阻止した秀吉軍の力は相当な物だったのだろうと容易に想像が付く。 <br /><br /> そして極め付けなのが、前もって因幡国中の米を通常の倍の値段で買い占めたと言う話である。鳥取城でもそれが秀吉の謀略だとは思いもよらず、兵糧米まで売ってしまっていたと言うから愚の骨頂としか言いようが無い。だが、この話は出来すぎなので、もしかしたら創作なのかもしれない。さらに秀吉は鳥取城下の村や町で、兵にいやがらせや乱暴を働かせ、盛んに城中へ人を逃げ込ませていたらしい。人が増えればそれだけ兵糧の消費が早くなると言う巧妙な戦略だった。それにしても秀吉恐るべしである。 <br /><br /> そしてついに城内は最悪の状態を迎えることとなる。飢えた人々は当時は肉食の習慣が無かったにもかかわらず馬や家畜を喰らい、虫、草木、食べられるものは全て食べつくしたあと、餓死した死体まで食べ始めたと言う。 <br /><br /> 吉川経家は決断した。城主切腹、城兵助命である。秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけで良く、吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。困惑した秀吉は信長に「経家が自害しても良いか」との確認を取り、経家の自害を許可している。 <br /><br /> 10月25日 - 吉川経家が切腹。最後は子供達に手紙を書き残している。「鳥取の事、夜昼二百日耐えたが、兵糧が尽き果てた。私が一人切腹すれば、城の皆が助かる。これは吉川一門の名を上げる事になる。これで良い。」 <br />

吉川経家が城兵の助命と引き換えに腹を切った鳥取城登城

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2009/10/13 - 2009/10/13

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吉備津彦

吉備津彦さん

 天正9年 3月18日 - 吉川経家[きっかわつねいえ]が因幡鳥取城に入城する。三木城を兵糧攻めにより落とした秀吉は、すぐさま但馬[たじま]から因幡[いなば]へと軍を進め、毛利方の鳥取城攻略を開始する。因幡鳥取城の本来の城主、山名豊国は秀吉の謀略によりあっさりと城を出てしまった。秀吉は山名豊国に「城を明け渡せば因幡一国を与える」と言ったらしい。当然、罠だったのは言うまでも無い。開城に反対する一部の重臣を残したまま、まさに落城もやむなしかという時、城内の重臣の要請により、毛利方から臨時城主として吉川経家が因幡鳥取城に送られた。吉川経家は毛利両川[もうりりょうせん]の一人、毛利元就の次男・吉川元春一門の武将である。

7月12日 - 秀吉2万の軍勢が因幡鳥取城とその支城・丸山城を包囲する。三木の干し殺しと並び、数ある戦国時代の合戦の中で最も壮絶な兵糧攻めと言われる、鳥取の渇え殺し[とっとりのかつえごろし]が始まる。

9月 - 早くも城内の兵糧が底をつきはじめる。吉川経家は愕然とした。冬になれば雪で秀吉の包囲網が緩くなり、毛利からの兵糧補給が期待できると踏んでいたからだ。しかし、現実は甘くなかった。これは三木の干し殺しで経験を積んだ秀吉の事前工作が功を奏する形となった。秀吉は播磨の三木城攻めと同様に包囲のための付城[つけじろ]を築城し、兵糧の搬入経路を徹底的に遮断した。しかし、吉川経家が毛利一門だと言うことを考えると、毛利方の兵糧を搬入する援軍の力の入れようは播磨の三木城の時の比では無かったように思われるが、これを阻止した秀吉軍の力は相当な物だったのだろうと容易に想像が付く。

 そして極め付けなのが、前もって因幡国中の米を通常の倍の値段で買い占めたと言う話である。鳥取城でもそれが秀吉の謀略だとは思いもよらず、兵糧米まで売ってしまっていたと言うから愚の骨頂としか言いようが無い。だが、この話は出来すぎなので、もしかしたら創作なのかもしれない。さらに秀吉は鳥取城下の村や町で、兵にいやがらせや乱暴を働かせ、盛んに城中へ人を逃げ込ませていたらしい。人が増えればそれだけ兵糧の消費が早くなると言う巧妙な戦略だった。それにしても秀吉恐るべしである。

 そしてついに城内は最悪の状態を迎えることとなる。飢えた人々は当時は肉食の習慣が無かったにもかかわらず馬や家畜を喰らい、虫、草木、食べられるものは全て食べつくしたあと、餓死した死体まで食べ始めたと言う。

 吉川経家は決断した。城主切腹、城兵助命である。秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけで良く、吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。困惑した秀吉は信長に「経家が自害しても良いか」との確認を取り、経家の自害を許可している。

 10月25日 - 吉川経家が切腹。最後は子供達に手紙を書き残している。「鳥取の事、夜昼二百日耐えたが、兵糧が尽き果てた。私が一人切腹すれば、城の皆が助かる。これは吉川一門の名を上げる事になる。これで良い。」

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
交通手段
自家用車

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  • 鳥取城、お堀の中に鳥取の名門校、鳥取西高校があります。<br /><br />江戸時代池田家が城主だったので揚羽蝶の幟が立っていました。

    鳥取城、お堀の中に鳥取の名門校、鳥取西高校があります。

    江戸時代池田家が城主だったので揚羽蝶の幟が立っていました。

  • 掘です。

    掘です。

  • この裏は鳥取西高のグランド。

    この裏は鳥取西高のグランド。

    鳥取城跡 久松公園 名所・史跡

  • 久松山全景・標高263mの久松山頂の山上の丸を中心とした山城部、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸などからなる平山城部からなる梯郭式の城郭とすることができる。さらに西坂・中坂・東坂などの尾根筋には戦国期の遺構が数多く残されており、戦国時代から近世、さらに幕末までの築城技術が一つの城地に残る城として貴重である。<br /><br />

    イチオシ

    久松山全景・標高263mの久松山頂の山上の丸を中心とした山城部、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸などからなる平山城部からなる梯郭式の城郭とすることができる。さらに西坂・中坂・東坂などの尾根筋には戦国期の遺構が数多く残されており、戦国時代から近世、さらに幕末までの築城技術が一つの城地に残る城として貴重である。

  • 私は鳥取西高側から登城しました。

    私は鳥取西高側から登城しました。

  • この石段を登って登城開始です。

    この石段を登って登城開始です。

  • 急峻な石垣

    イチオシ

    地図を見る

    急峻な石垣

    鳥取城跡 久松公園 名所・史跡

  • 鳥取城跡 久松公園 名所・史跡

  • 三階櫓跡

    三階櫓跡

  • 三階櫓跡から望む仁風閣

    三階櫓跡から望む仁風閣

  • 菱櫓

    菱櫓

  • 城内のお稲荷さん、ここを抜けると山頂天守への登城道があります。

    城内のお稲荷さん、ここを抜けると山頂天守への登城道があります。

  • 山頂の石垣

    山頂の石垣

  • 山頂郭の長大な石垣

    イチオシ

    山頂郭の長大な石垣

  • 9合目にある山伏の井戸、清水が冷たくて汗だくだったのでタオルを冷やしてしばしの休憩、生き返りました。

    9合目にある山伏の井戸、清水が冷たくて汗だくだったのでタオルを冷やしてしばしの休憩、生き返りました。

  • この石段を登ると山頂郭はもうすぐです。

    この石段を登ると山頂郭はもうすぐです。

  • 急峻な石段<br /><br />もっと急な坂も沢山あり、登るのがとてもきつかったです。

    急峻な石段

    もっと急な坂も沢山あり、登るのがとてもきつかったです。

  • 鳥取市街

    鳥取市街

  • 山頂郭の天守台石垣。ここからの風景が最高でした。<br /><br />登城はしんどかったけれど報われた気持ちがしました。気分はもう天正年間、吉川家家臣になりきっていました。(笑い)

    イチオシ

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    山頂郭の天守台石垣。ここからの風景が最高でした。

    登城はしんどかったけれど報われた気持ちがしました。気分はもう天正年間、吉川家家臣になりきっていました。(笑い)

    鳥取城跡 久松公園 名所・史跡

  • 鳥取砂丘が見えます。

    鳥取砂丘が見えます。

  • 千代川の河口が鳥取港です。<br /><br />千代川ではサクラマスが釣れます。

    千代川の河口が鳥取港です。

    千代川ではサクラマスが釣れます。

  • 湖山池

    湖山池

  • 直下を見下ろすと手前に堀が見えます。

    直下を見下ろすと手前に堀が見えます。

  •  山頂郭にある井戸、籠城するために水の確保は絶対です。

     山頂郭にある井戸、籠城するために水の確保は絶対です。

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