2009/09/18 - 2009/09/25
6252位(同エリア12057件中)
hirobekさん
- hirobekさんTOP
- 旅行記62冊
- クチコミ16件
- Q&A回答2件
- 85,260アクセス
- フォロワー1人
すさまじい勢いで現代化が進む上海で古い家が保存されるもの、消えゆくものがあるので、今回はいわゆる由緒ある家を中心に、上海の町歩きで老房子を見てきた。
ライトアップされた上海老永安公司公司
- 交通手段
- 鉄道
- 航空会社
- JAL
-
永安公司と張り合った「先施公司」百貨店が併設したホテル「東亜飯店」。当時としては先駆的なアイデア。
1914年に上海へやってきたマカオの商人が香港先施公司の代理人としてやってきてこの地に建設を決める。 -
1914年 イギリスの怡和洋行 Jardine Mathesonの買弁となった潘家邸宅。
屋根に突き出た数本の尖塔が特徴。
息子達はアメリカに留学し、4人の息子がパーティーを開き当時の有名人が集い会話は英語だったという。
解放後にこの家族は海外に逃げて空き屋となり国の管轄になる。
この写真は、汾陽路の駐車場から撮影。
徐汇区淮海中路1131号 -
建物東側
主人潘澄波(広東人)がイギリスが中国での最大の会社の買弁であったため、イギリス風の建築かと思ったが、看板の説明は、ドイツルネサンス式、バロック風建築となっていた。
かつてベルギー領事館になっていたとのこと。 -
東側玄関
-
ユダヤ人クラブ
1920年代から多くのユダヤ人が上海に集まっていた。
1943年〜ユダヤ人はここに集められたとのこと。
徐汇区汾阳路20号 (上海音楽学院内) -
ユダヤ人クラブの入り口
-
入り口の扉
-
ユダヤ人クラブ階段
-
旧フランス租界の白宮(ホワイトハウス)
現在は上海工芸美術博物館 見学料8元
1900年に設計して1905年落成
設計ではこれよりも大きかったが、フランス租界総督があまりにも奢侈なのも良くないと判断して現在の規模になったとのこと。
徐汇区汾陽路79号 -
フランス風の白宮 階段のスロープ
-
白宮 天井
-
2階には丸い広いベランダが設けられている。
袁世凱統治の時代に対抗したフランス領事兼総統の邸宅で当時はもっと大きく豪華だったとのこと。 -
3階へ上がる階段のスロープが美しい。
-
庭の樹木から眺めるとまるでお城のよう
-
梁鴻志の白公館
白崇禧、白先勇父子が上海で住んだこともあり白公館と呼ばれているが、実際は1920年フランス籍冒険家
M.Speelman邸宅でルネサンス風。彼はフランス租界No.1の富豪。
徐汇区汾陽路150号 -
入り口側右手に塔のような建物
-
入り口
現在は日本料理店が開業していた。 -
2階ベランダが円弧形で豪華
庭も広い -
白公館の庭のベンチには天使が座っていた。
-
庭もよく手入れされていた。
-
マーシャル公館 トルーマン大統領の特使としてマーシャル将軍が1945-1947年の間に滞在した。
国務長官時代も対中政策に絶大な影響を及ぼし続け、中華人民共和国の建国に貢献した。>これが後マッカーシー旋風を巻き起こす要因になったこととの説がある。
上海随一品格の高い洋風建築とされている。
1928年頃フランス人の凄腕弁護士が儲けて建てたとのことだがどんな裁判でも勝つので弁護料金が多額で「強盗弁護士」の悪名を持つだけあって大いに儲け自宅用に、建築材料をフランスより取り寄せ建てたとのこと。
毛沢東、江青もお忍びで宿泊したとのこと。
現在は太原別荘で宿泊可能。1056元から
宴会も1卓以上から予約可能とのこと。
アパートも併設されていた。
撮影禁止とのことでこの写真のみ。
徐汇区太原路160号 -
マーシャル公館(太原別墅)の庭
太原別墅の庭園面積8780平方メートル、延べ床面積2050平方メートル。南側のテラスには広々とした緑の芝が広がる。建物の配置も非常に余裕があり、門から玄関までのアプローチも長い。上海の中心部に、個人でこれほどの豪邸が建てられるのだから、このフランス人弁護士の富がいかに莫大であったことが想像できる。さらに、建物全体はフランスルネッサンス様式の宮殿を模し、多くの装飾建材はフランスから直輸入されたそうだ。
その後、太平洋戦争が勃発、この弁護士も病死し、その妻を通じで中国人に売り渡される。そして戦争終了後、軍に没収されることになる
1945年に当寺の米国大統領トルーマンの特使として、米国陸軍のGeorge Marshallが上海にやってくる。そのときに滞在したのがこの太原別墅で、いまだに太原別墅はMarshall Residenceと呼ばれる。上海人もこの太原別墅のことを「馬歇尓(Marshall)公館」と呼んでいた。今でも当時の面影が残る2階の書斎で、広々とした芝生の庭園を眺めながらMarshallは執務を行ったそうだ。部屋には明・清代の古い家具が配置され、さらに書庫には重要な政治関係の書類が整理されていたという。
その当時、共産党と国民党は上海で何度も談判を繰り返していたものの、いずれも成果を挙げることが出来ず、1946年11月に決裂、翌年1月7日に特使だったMarshallも上海をあとにしている。 -
競馬で儲けて造ったモリス花園1号楼
1867年に上海にやってきたイギリス籍冒険家モリスは、もとは匯豊銀行で仕事をしていたが、その後上海で盛んであった競馬に目覚める。競馬で当てた資金で、1901年の外灘17号への不動産投資を皮切りに、次々と不動産を買収していく。一昔前の上海人の間にも「モリス」の名前は結構知れ渡っていた。というのも、現在の武勝路・延安東路・重慶北路・大沽路一帯にはモリスが建設したアパートが数々あり、「モリス」の中国名「馬立斯」の名前の一部をとって馬楽里、馬吉里などの名前がつけられていた。さらにモリスは市場も設置して、野菜などの販売していた。これら食料品を求めて、市民が沢山訪れてきたという。この当時、上海でアパートなどの不動産投資に成功した外国人は少なくなかった。モリスも親子2代にわたって、上海で投資を続ける
息子が1920年代初めに建てた。
設計者はMaurice Benjyamin -
正面入り口
息子のモリスは1883年4月上海で生まれ14歳から世界旅行にでかけ、1906年に上海へ戻り父親の仕事を継ぐ。
1905以降 老マリスは息子モリスに仕事は任せ本国イギリスに帰国した。1920-1921年小モリスは工部局総督となりこの建築を始める。イギリス古典主義建築。
現在は瑞金賓館1号楼
この邸宅は実に広い。面積は約77000平方メートル、約1135平方メートルの建築物の延床面積は実に9855平方メートルに及ぶ。モリスは馬と犬が非常に好きだったため、りっぱな馬屋と犬小屋が設置された。いずれもなかなかそこらでは手に入らない名馬・名犬を飼育していたようだ。1917年に建物全体が完成する。 モリスは1号楼を自分の邸宅とした。赤っぽい瓦が敷かれた屋根、赤レンガを多用した風格は、まさにイギリスの建築様式を色濃く残す。さらに内装は非常に凝っていて、チーク材で作られたフローリングに使っていたほか、寝室・書斎・ダイニングなど各部屋には木材をふんだんに使った彫刻を用い、さらに水晶でできたシャンデリアなど非常に優雅なインテリアであったという。ガーデンには、噴水や四季折々の花が咲き乱れ、庭園の中を流れる小川には、小さな橋がかかっていた。 -
1924年、モリスは自宅の北面にある4号楼などいくつかの建物を日本の三井洋行に売り払う。イタリア・ルネッサンス建築の風格を持つこの4号楼付近は、「三井花園」とよばれた。その後、太平洋戦争が勃発し、「三井花園」はアヘン取引のアジトとして暗躍する。
1941年第二次世界大戦中は日本軍が一時占拠したとのことで、盛老三が「宏済善堂」を起こしアヘンの販売を始めたと書物に書かれている。 -
煉瓦作りに角をセメントで補強した頑丈な造り。
2階の広々としたベランダ。
戦後は、その広大な敷地と便利な立地条件から、国民党が接収し、国民党の上層部が使用したほか、小平や上海市長の陳毅などもここに住んだ時期があった。その後は国家元首など国賓を接待するいわゆる「迎賓館」的な役割を果たしてきた。そのため建物全体は大切に保存され、モリス時代の面影を今でも十分に残している。
80年代に瑞金賓館として対外開放され、上海でもっとも古いオールドホテルの一つとして、今でも訪れる客は絶えない。さらに現在では、新婚写真を撮りにやってくる新婚カップルも少なくない。モリスが住んだ1号楼の前の広い芝生では、野外パーテイーなどもよく開かれている。 -
1903年商務印書館の董事長、出版会の重鎮
『東方雑誌』『小説月報』『教育雑誌』『辞源』『中国人名大辞典』『二十四史』
張元済の私宅
現在は個人の住宅でお布団が干してある。
徐汇区淮海中路1285弄 -
1945年張元済はここで日本の終戦を聞いた。
-
蒋介石の息子蒋経国が1948年に上海に来て台湾に逃げるまでの約1年住んだ家
ここで杜月笙の息子杜維屏を捕らえるが、杜自らこの家に来て請願したがはねつけ反対に孔一族の脱税を摘発され、大騒ぎになりやり込められる。
香港人が70万ドルで入手してから100万ドルで台湾人に売ったとのこと。
徐汇区淮海中路1610弄 -
弄堂口にの柱に「逸邨」鮮やかな赤で書かれていた。
-
高い塀越しに蒋経国邸
-
1932年竣工
元イタリア領事館とのこと。(未確認) -
中華民国 汪精衛政権の財政部長周佛海の邸宅
門は堅く閉じられ、開けられることは滅多委にないとのこと。
1931年スペイン風建物として建設、当時は外国人の住居だったが、周佛海が購入して周家花園となる。周佛海が湖南人だったためこの通りを湖南路とよぶ。
解放後、周佛海は南京で獄死。
賀子珍が一番長く住む、小平、陳毅も一時期ここに住んでたとのこと。
徐汇区湖南路262号 -
-
李鴻章の丁香花園ということで有名だが実際は李鴻章夫人の女中莫氏が生んだ息子李経邁(1876年生まれ)の花園。
20世紀初めイギリス式住宅
徐汇区華山路849号 -
シルク業界の巨頭 莫觞清(1877-1938)の家
莫觞清は浙江省呉興(現在湖州)の人、20歳頃上海にやってきてアメリカの買弁になりシルク工場を造り、国内外に販売し、上海最大のシルク工場主となる。
茅盾の小説『子夜』の主人公のモデル。
武康路2号 -
上海実業家 郭棣活の住宅だったが文革後、工商聯に使わせる。 1948年落成
徐汇区華山路893号 -
30年代の女優 白楊の家
徐汇区華山路 -
有名な京劇俳優 周信芳の家
堅く閉ざされ、塀も高く内部は不明 -
1949年3月北京が人民解放軍に開城したため、北京大学学長の肩書きの胡適が北京より慌てて上海に着き中国大陸の最後の宿泊した上海合衆図書館。
1949年4月9日胡適は、上海よりアメリカの船で出国。 -
周公館
スペイン風の3階建て。
中国共産党上海事務所の看板が掛けられないので、周公館という名称にして回避し国共合作が失敗する1946年11月まで続く。
周恩来夫妻、董必武の部屋、護衛の部屋、女子部員の部屋が残されている。
盧湾区思南路73号 -
周公館
地下(1階)が食堂となっている。 -
周公館
内部は撮影禁止
地面から見上げる -
周公館
第2入り口 -
孫文の家
孫文は上海に何度も足を運び、住んだ家が3軒ある。
これは孫文が1918年6月26日以降6年間住んだスペイン風の屋敷で、南洋の華僑が孫文にプレゼントした家。
廬湾区香山路7号 -
孫文の家
庭には小鳥の餌台が置かれている。 -
孫文の家の隣の孫文記念館
内部撮影禁止
入場料20元 -
現在は上海市新聞出版局ビルになっていたが、来意を告げると中に入れてくれた。
廬湾区紹興路5号 -
門を入ると朱公館
スペイン風で本来は3階建てであったのを後で、4階部分を付け足したとのこと。
解放前、上海市電力公司の老板の朱季琳の住宅で西洋趣味でカトリック信者であったため、当時は家の中に祭壇が設けられていた。十数人の子供をすべてフランスカソリックの学校に送り、上海に戻ってからは教会で働くようになった。朱一族は数十名が長いテーブルに着いて全員で食事をしたとのこと。毎週末は洋風のパーティを開催。子供達は英語、フランス語を使い、中国語がむしろ苦手だったとのこと。 -
百貨店の王様といわれる大新公司
現在は中百一店
大新公司の老板は香港大新公司の蔡昌、1934年に上海へ来て当時大慶里と呼ばれる不動産王周湘雲の土地であったが、気に入り共同経営を申し出る。
1936年に落成、1階から3階までが百貨店、真ん中にレストラン、6階から10階まで大娯楽施設として劇場、ダンスホール、カフェなどを完備。
。1階から3階までエスカレーターが付いていて市民の好奇の的となった。蔡昌は当時の百貨店業界を牛耳る
南京東路、西蔵路口 -
南京東路沿いの古い商家
-
中国銀行
隣の和平飯店が当時ユダヤ商人サッスーンの住宅がてっぺんにあったので其れより高いのは許可しないということで17階を削られ低くさせられたとのこと。
1905年に創設された「大清戸部銀行」が、1908年に「大清銀行」と改称され、1937年外灘中山東一路23号に移転する。 -
昔 横浜正金銀行は各地で工商銀行にかわっているのが興味深い。
-
黄浦飯店 黄浦路106号
プレート説明によると、1911に建設された「灰楼閣 Gray Building」 元国連救済署とのことで、
「紅楼 Red Building」日本領事館と書かれているのが気になり中に入る。 -
国連アジア太平洋経済社会委員会 ESCAP
が1947年3月に上海ここに設置されたとのこと。 -
玄関の天井が高い
-
重厚な扉を入ると階段になっていた。
-
今回の目標であった1911年に建てられたという日本領事館、現役で使われていた。
平野勇造の設計した元日本上海総領事館
二〇世紀に入り、上海の都市建設は急ピッチで進み、日本の建築家たちが上海へ進出し始めた。西洋風の建物が目を引く上海だったが、日本の建築家の作品もその中である程度の位置を占めていた。日本の建築家の代表的な人物が、いち早く上海で会社を興したが、その中でも数多くの作品を残したのが東北生まれの建築家、平野勇造である。
平野勇造は、元治元年(1864)11月に青森県大畑新町に堺喜藤治の四男として生まれた。盛岡藩主の実母の典医、磯田幸太郎の下で語学を学び、17歳で大畑小学の代理教師になった。その後、不治の病とされていた結核の病因と治療法を学ぶべく、平野は渡米を心に決め、父に函館に住む叔父から二百円の借金をしてもらい、東京浅草の待乳山中で勉学に励んだ。
1883年、勇造は長崎屋の貨物船に密航し、ロスアンゼルスに渡る。レストランで皿洗いをしながら建築学を学び続け、その努力が実り、数年後にはカリフォルニア大学を卒業。当時の日本人留学生の中には、後の日本紡織業の創始者や《時事新聞》社の社長など、傑出した人物がいる。 -
1890年、8年間の留学生活を終えた勇造は帰国し、建築事務所を開設。すぐに東京愛宕山の五重塔の主任建築家としての仕事を得る。翌年にはその成功が認められ、勇造は一躍有名になり、丸の内ビルの設計を任されるまでになった。
1894年、勇造は長崎出身で、三井物産と密接な関係にある平野富二の養子になり、平野勇造と改名。この関係から1899年に三井物産本社に入社し、すぐに上海支店長に就任。のちに上海に建築事務所を開いた。1916年出版の《在留官民人名録》(金風社)に平野勇造の上海での住所が記載されている。北四川路一八二号、電話番号は1853だった。
米国留学経験を持つ日本人建築家として、平野勇造は上海で「脱亜」的な卓越した才能を発揮。三井会社台北支店のビルを設計した後には、1903年にイタリア風の近代的な三井会社上海支店ビルの設計に携わり、上海で活躍する13人の外国人建築家の一人としてその名を連ねた。彼の代表作は現在の黄浦路にある元日本上海総領事館。三階建の暗褐色レンガ作りのその建物は、折り重なった屋根が美しい曲線を描くローマ風のデザインで、細部の彫刻にまでこだわっており、非常に華麗。1911年9月29日、日本総領事館落成記念パーティには上海道台劉燕翼や各国の領事、VIPが参加した。 -
ロシア領事館
4階建て、19世紀折衷式
4回閉鎖され4回開かれる
1914年から3年がかりで建設。
1917年ロシア十月革命で閉鎖。
1924年中国との関係が回復され再開
1927年11月7日十月革命十周年記念日で襲撃され閉鎖
1932年 再開
1939年閉鎖
1945年再開
1962年中ソ関係悪化で閉鎖
1986年再開
黄浦路20号 -
最も早くから中国に進出してきた外国企業
イギリス怡和洋行大楼 Jardine Matheson
乾隆47年(1782年)に広州に進出。
1843年上海に事務所設立
アヘン輸入、シルク、茶の輸出を手がける。
アヘン商売で富を築く。
林則徐が広州で2万箱以上のアヘンを没収した時、7000箱以上が怡和洋行のものだったという。
黄浦区中山東一路27号
現在外貿大楼 -
怡和洋行大楼
-
競馬総会 1930年代
上海競馬場最後の建築物
上海では1850年より競馬が始まったとのことで、最初はここよりも南京東路、河南路あたりだったのが、1864年太平天国事件以後移動したらしいが、この建物が競馬場に面していたとのこと。
塔の部分は8階建て。
最後に競馬が行われたのは1943年
現在は上海美術館
黄浦区南京西路325号 -
競馬はもちろんイギリス人の社交であるが
サスーン洋行の老板も数十頭の競馬を飼っていたとのこと。 -
1階ロビー
-
吹き抜けの階段
-
階段の手すりが美しい
-
郵政大楼
1922年12月より建設が始まり1924年11月竣工
三面が道路に面したU字型の建築物
1915年天津駅前郵政大楼、1922年北京天安門広場の郵政大楼に次いで3番目に建てられたが、唯一現存し、現在も郵政楼として使われている。
四川路橋に面している。 -
正面入り口
昔80年代ここからよく本を船便で送ったことがある。 -
正面玄関を入ると
-
すばらしい曲線の階段
-
郵政大楼の2階
-
郵政大楼の中側
-
郵電大楼のバロック式の塔
解放軍と国民党軍がここで戦ったとのこと。 -
建築当時から極東第一の名建築の称号で
1986年国家の歴史建築物に指定される。 -
張学良が1934年ヨーロッパの視察から上海へ戻って来たので、銀行より借りて上海の別荘とした。
张学良故居的大门
廬湾区皋兰路1号 -
スペイン風の瀟洒な洋館
-
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- 井上@打浦橋@上海さん 2011/02/17 07:29:22
- 日本総領事館
- hirobekさん、どうも。
「上海老房子めぐり」楽しく拝見しました。
【盛老三が「宏済善堂」を起こしアヘンの販売を始めたと書物に書かれている】
と言う書き込みがありますが、コレが大いに興味深いですね。
阿片王と言われました里見甫の生涯を描いた西木正明の「其の逝く処を知らず」
には、そのようなことが出てくるんですが、それが、瑞金賓館のあそこだったとは・・・
盛老三とは盛文頤のことだと思っています。
その甥っ子が東京の芝で留園という中華料理レストランをやっていた盛毓度さんらしいですね。
ところで、日本総領事館の写真がありますが・・・・
よく撮れましたね。
あそこは、今は軍関連の施設になっていました、
入りこと出来ないはずなんですが。
いや、私が参加しています上海歴史散歩の会でも、
何度か見学を申し込んだんですが、無理だったんです。
- hirobekさん からの返信 2012/01/21 13:14:18
- RE: 日本総領事館
- 打浦路様
書き込み有り難うございます。
上海歴史散歩の会、いいですね。
私も上海在住なら参加したところです。
私も上海の老房を尋ね散歩するのが好きです。
古い日本総領事館の写真。
ちょうど、大阪で上海博物館の上海歴史の講演があり、その先生の
紹介で是非見てくるようにと言われ、探しにでかけて
ずいぶん捜しました。
別に隠し撮りでもありません。
撮影禁止なんですね、貴重な写真です。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
上海(中国) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
78