1988/02/25 - 1988/03/04
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ゴライアスさん
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【プロローグ】
あれは高校生の頃、町の本屋である紀行小説の本を見つけた。
その本の題名は「シベリア鉄道9000キロ」。
鉄道紀行作家で名高い宮脇俊三さんの作品である。
その当時、初級鉄道マニアであり、旅行に興味をもち始めていた私は、
早速、「シベリア鉄道9000キロ」を自分のものにした。
宮脇さんは、横浜からナホトカに渡り、ハバロフスク、モスクワ、レニングラードと、
それこそソ連という国を横断してしまったのであるが、
その本を読むにつれ、宮脇さんが体験したソ連という主義の違う国への興味と、
広い平原を雄々しく疾走する「シベリア鉄道ロシア号」の姿に心おどらされ、
だんだんとシベリア鉄道の虜になってしまった。
そのうち、本は何度読み直したのか見当が付かないほどに手垢に汚れ、
それこそ、穴が開くまで目を通されて、高校時代の本棚の重鎮として最上段に鎮座ましましていた。
そして大学受験の頃には一時忘れかけられていたこの中毒症状が、
時を下った大学時代の最後に再発したのである。
「やはり、どうしても「シベリア鉄道」に乗りたい。それも、どうせ行くなら真冬に…」。
卒業がある程度見込めるようになったある日、
「シベリア鉄道ロシア号乗車計画」は進み始めたのである。
まずは、旅行社さがしから始まった。
大手の、「JTB」とか「日本旅行」などへ掛け合ってみたのだが、
行き先が特殊なので、的を得た返事やアドバイスがもらえず、大手旅行社は断念する。
それにかわって旅行雑誌から捜し出してきた、
小さな旅行社にアタックをかける。
なにせ国が国、時期が時期にだけあってなかなかアレンジをしてくれるところが無い。
そんな時、例の「シベリア鉄道9000キロ」の文中から、
「日ソ旅行社」
という旅行社の名前を発見した。
旅行のヒントは何回も読み古している愛書の中にあったのである。
早速、市ヶ谷にある「日ソ旅行社」を訪ねてみた。
すると、相談事や悩み事が一挙に解決してしまったばかりでは無く、
旅程も概ね決まってしまったのである。
「やはりこの本にはシベリア鉄道に誘う何か神通力みたいなものがあるのだろうか…」。
そう考えてしまっても不思議では無い状況だったのである。
この神通力の教えによると、出発は2月25日。
新潟からの出発である。
本来なら12月から1月くらいの間に乗車したかったのではあるが、
その時期は飛行機が飛んでいない時期だったのである。
それに、宮脇さんが乗車したようにナホトカから乗ってみたかったのだが、
これも同様にナホトカへ行く客船便がなくて断念。
仕方がないのでその年の最初に飛ぶ新潟からハバロフスク行きの航空便にて出発し、
結局、新潟−ハバロフスク−イルクーツク−モスクワーレニングラード−ヘルシンキ(フィンランド)と巡っていく事になった。
「日ソ旅行社」では、学生の旅行者のために、
先に示したようなルートとほぼ同じようなパッケージツアーを用意していたのだが、
あいにくそのツアーは満席。
しかし、始めてのソ連と言う事もあって、
モスクワまでは全く同じ行程の添乗員付きのツアーをアドバイスしてくれる。
そして、モスクワから成田へ帰ってくる飛行機代で
レニングラードまでの列車代、レニングラードでの宿泊費、
レニングラードからヘルシンキまでの列車代を付けてくれる事になった。
安いパッケージツアーを考えていたよりコストが少し高い目になってしまったのだが、
これでほぼ私が考えていたとうりのプランが出来上がった。
ビザを作成するためにパスポートを預けて、いざ、出発の時を待つばかりとなった。
付け加えておくのだが、ご存じのようにソ連という国は社会主義の国である。
我々の思いもよらない事が当たり前の事だったりする。
ソ連へ出発する前に2、3の忠告をいただいた。
ソ連と言う国では物見遊山の「観光」と言う概念がない(らしい)。
だから、ソ連へ入国する人はビジネスの人を除いてすべて「視察」にこられた方々なのである(私は民間視察団員)。
だから、「ご案内するガイドをお付けする」のは当たり前。
「いいホテルにお泊まり頂かなくてはならない」し、
「いろいろ見て頂かなくてはならない」。
だから、適当に列車に乗って、適当なところで降りて、
適当な宿を見つけて、というような旅行は許されないのである。
それに、外国人旅行者を接待する役所であるインツーリストというところは、
内務省の管轄で、確かあの、悪名高き(この言葉は適当ではないかもしれないが…)
KGBと同じ所轄であり、
私の推測だと、ようするに、上手く監視されているのである。
でもまあ、長いものに巻かれていれば何不自由なく旅行出来る国なのである。
2月25日
今日は、実家のある京都を発つ日、この旅を始める日である。
いつもの様に、京都駅八条口のバス乗り場より大阪空港行きのバスに乗る。
10:35発。
空港へのリムジンバスは、割合良く利用するが、大きなバックパックを背負っている今日は特に趣が違うように感じる。
バスはいつものように約50分で大阪空港に着く。
チェックインの時間までまだ少しあるので、
国際線のターミナルの方へ行き、東京銀行へ寄る。
両替とT/C(トラベラーズチェック)を購入するためだ。
T/Cもキャッシュもアメリカドルに両替する。
ソ連でもアメリカドルの方が日本円より使い勝手がよいと聞いているからである。
銀行に寄ってから国際線ターミナルと国内線ターミナルとの間にある、ショッピング街にて旅行用品の買い足しをする。
12:15チェックイン開始。
これから海外に行くのではあるが、大阪空港からまず国内線に乗るのも変な趣である。
大阪−新潟はYS−11が運行していて満席でも60人くらいの乗客なのでカウンターはさほど混雑していない。
すんなりとチェックインする。
昼食を取っていないので、
空港内のサンドイッチ屋で野菜サンドをテイクアウトして、機内で食べることにする。
セキュリティ・チェックを終えて、右手奥の23番ゲートへ。
となりのゲートから出る予定の、徳島行きの便が遅れているせいか、搭乗ラウンジがごった返している。
12:50機内への案内が始まる。
大阪にしては珍しくバスを使ってのボーディング。
搭乗機まではわずか数百メートルなのだが、
バスはぐるっと迂回して機に近付く。
普通なら、飛行機には前の扉から搭乗するのだが、
JA8758(きたみ)は貨客混載型なので、
珍しく後ろのドアから乗り込む。
私の席である4Aの席は、すぐ横が非常扉なので窓が小さく、
上空での景色は楽しめそうにない。
ただ前には貨物室があるだけで、
他には何もないので足が楽に伸ばせる。
搭乗率は50〜60%位でさほど混んでいるようには感じられない。
JD795便、新潟行きは定時に快晴の大阪空港を離陸した。
ちなみに、このJA8758(きたみ)という機体、
調べたところ凄い経歴を持っている。
まず昭和45年に半年間ギリシャのオリンピック航空へリースされ、
その後、大韓航空に売却。
さらに49年からはフィリピン航空で5年半活躍して再び日本の空に戻ってきたというつわものである。
離陸後、おしぼりのサービス、
そして、しばらくしてから紅茶のサービスがある。
この時に、先ほど買ったサンドイッチを出して、遅い昼食とする。
機内食が出ない路線の場合、
このように持ち込んで機内食とするというのも楽しいものである。
食事も済み、うとうととしているうちに、15:15新潟に到着。
こぢんまりとした空港だ。
ターンテーブルにて預けたバックパックを受け取り、
すぐさま接続の新潟市内行きのバスに乗り込む。
ここの空港では、航空会社の制服を着た社員より、
茶色い制服の空港職員が良く目立つ。
航空会社の社員は発券業務のみを扱っているようだ。
空港−新潟駅は時刻表によると約25分、¥290であるが、
今日は道が空いていたせいもあり、20分もかからずに新潟駅に到着した。
重い荷物を持ってうろうろするのは辛いので、
すぐに、今日泊まる予定の駅前のホテルへ向かう。
ホテルに落ち着いたあと、
夕方頃から事前に連絡がしてあった新潟在住の友人との街に繰り出す。
明日はいよいよソ連に上陸だ。
2月26日
8:00頃目を覚ます。
今日はいよいよソ連に入国ということなので、第二種防寒体制で身体を固める。
どんな格好かというと、頭には毛糸の帽子をかぶり、
スキーのインナーウェアー(防寒下着の上下)に、上は綿シャツとセーターを重ね、
中綿入りのジャンパーを着る。
下はジーパンで、二重にした靴下にワークブーツという出で立ちである。
9:00頃ホテルを出発する。
新潟駅の食堂にて朝食を取り、バスの時間まで駅の待合室で暇を潰す。
11:30のバスにて新潟空港へ。
今日は国際線(ソウル行き・ハバロフスク行き)が飛ぶため、
バスの中や空港は昨日より賑やかである。
空港に着くとまず、送迎デッキに昇ってみる。
ちょうどソウルから大韓航空のボーイング727型機が、着いたところであった。
デッキの案内板によると、これから乗るSU(アエロフロート)696便Tu(ツボレフ)−154型機は、
14:10に到着するとの事である。
空港のロビーはこれからソ連に行く人、
韓国に行く人で結構混雑している。
私はモスクワまでは日ソ旅行社のツアーに便乗するのだが、
そのツアーの他に2〜3組のツアーがハバロフスク行きの便に乗るようである。
13:00に一旦集合して、ツアーのメンバーの顔合わせ。
そして、14:00にチェックイン開始。
このときパスポートが返される。
パスポートには3枚複写になったソ連のビザが留めてある。
このビザと搭乗券を確認する。
新潟では、アエロフロート(ソ連国営航空)の地上業務はJAL(日本航空)が代行している。
売店でシベリア鉄道の中で飲むための清酒「越の誉」を買って、
15:00少し前にセキュリティ・チェック及び出国審査を受ける。
新潟空港のセキュリティ・チェックは係員が一人ずつボディチェックをしている。
とてもローカルだ。
国内線のような、いや、それよりも小さな待合室にて搭乗案内を待つ。
待合室の片隅に小さな免税店があり、
それが唯一の国際線待合室である証拠である。
ソ連には、ガムを持っていってチップ代わりにすると良いという友人の言葉を思い出し、ここでガムを買う。
15:00ごろ、搭乗開始。
飛行機のサイドまで50mほどなので歩いていく。
ボーイング727のコピーではないか、
というくらいそっくりなシルエットをした、Tu−154は灯油臭い匂いを放っている。
そう言えば航空機の燃料は灯油と同じであったことを思い出す。
タラップを使って機の中央付近のドアから搭乗する。
私の席は16−C、ドアのすぐ後ろなのであるが仕切りがあって目の前は壁である。
座席の配列は3列・3列でボーイング737などと同じである。
出発の15:30になってもランプコーディネーターが慌ただしくしている。
発券枚数と搭乗人数が合わないようだ。
先の大韓航空爆破事件のことも有るので、
荷物を一旦すべて降ろして自分のものを確認して再び積み直す。
お陰で出発が約2時間遅れた。
16:30ごろ夕暮れの新潟空港をテイクアウトする。しばらく日本ともお別れだ。
離陸後、ドリンクと(もちろんお酒も無料)コールドミール(新潟でつくったもの)を
体格のいいスチュワーデスがサービスしてくれる。
さすがに社会主義国の航空会社だけあって、
サービスも素っ気ない。
俺たちはニワトリ小屋のニワトリ扱いされているみたいである。
機内は飾り気がなくどことなくかび臭い。
通路にひかれた絨毯だけが妙に中央アジアっぽい。
トイレも狭く(後ろに2つ)、
ペーパータオルの代わりに、おしぼり(ウェットペーパー)が置いてある。
新潟とハバロフスクとは、1時間の時差があるので時計を1時間進める。
約2時間のフライトでハバロフスク(Хабаровск)空港に到着する。
もう日はとっぷりと暮れてしまっている。
飛行機はえらく古めかしく重厚な建物の前に駐機される。
この建物が空港のターミナルなのである。
ドアに近い所に座っていたので、皆よりも早くタラップを降りることができた。
数人の兵士が自動小銃を持って立っている。
早足で建物の中に入り入国手続きをする。
実は、外があまりにも寒いので建物の中に駆け込んだのである。
入国手続きでは、パスポートとバウチャー(クーポン券みたいなもの)を提示する。
このバウチャーがこの国を旅行するためには大切な物で、
列車の日時・等級など、受けられるサービスの全てが書き込んである。ビザもこのバウチャーを元にして作成される。だからこの国のビザは何月何日の何時何分着の飛行機(列車)にて入国して、何月何日の何時何分発の飛行機(列車)にて出国するということが書き込んである。それ以外の出入国は原則的に認めてられていない。ちなみに入国時に3枚複写のビザのうちの1枚が、出国時に残りの2枚が破られるだけで、入国スタンプのたぐいの物はパスポートには全く残らない。
さて、無事入国手続きを終わらせたのはいいが、手続きのゲートは5つあるのに、
全員が入国手続きを済まさないと税関が開かないようになっているので、
ホールにて待つ。
このホールも天井が高く大理石が使ってあったりして何十年かまえに戻ったようである。
それに、ちゃんと壁面にはレーニンを称えるような壁絵があり、この国をよく表しているように感じた。
約20分後税関が開く。
税関の前に荷物を受け取るのだが、
ターンテーブルも何もない部屋にただ荷物が置いてあるだけである。
税関では
「ソ連ルーブルはあるか」
「雑誌は持っているか」
「テープレコーダを持っているか」
ということを片言の日本語で聞いてくる。
後から聞いた話なのだが、税関の職員はすきがあれば雑誌とかカセットテープを、
取り上げようと思っているのらしい。
税関で荷物の中をゴソゴソされるのかと覚悟をしていたのだが、すんなりと通関できて、
肩すかしをくわされたようである。
税関を過ぎると、もうそこはソ連。
これから10日程この国にお世話になるのである。
空港内の銀行にて両替をする。
5000円が23Рубль(ルーブル:以後Pと表示)、
計算すると1P=217円位になる。
ちなみに補助貨幣はКопейка(コペイカ=100分の1P:以後Kと表示)である。
皆が揃ったところで荷物をポーターに預けてホテルへ。
白く凍った道をバスはチェーンをつけずに40km/h位で走る。
途中、電光温度計が−17℃を示しているのが見える。
約20分で今日の宿舎であるインツーリスト・ホテル(гостиница Интурист)に着く。
ホテル到着後すぐに夕食が待っている。
飛行機が2時間も遅れたので、夕食も2時間遅れだ。
ホテルのレストランは街の社交場になっていて、
バンドがディスコふうの音楽を流している。
食事をするのには、はっきり言ってうるさい。
食事の内容は、茸のサラダ、鳥の蒸焼きなどで、
全体的に味がうすい。
ついでに、すっぱい味のモサモサとした黒パンが出る。
食後、部屋のキーをもらい、ロビーにあった自分の荷物を部屋まで運ぶ。
部屋は802号室。エレベーターは狭く、訳の分からないボタンがいっぱい付いている。
エレベーターに乗ったままうろたえていると、
おばさんがボタンを一つ押してくれる。
すると、エレベーターは、ゆっくり動き出した。
部屋は、古めかしい家具が置いてあり、ニスの色がなんともいえない。
電気のスイッチは大きくておもちゃみたいである。
各階のエレベーター・ホールの前には、
「ジュールナヤ」または「エタージュナヤ」
と呼ばれる女性がいて(この言葉の違いはいまいちわからないが、)
我々の世話をしてくれる。
テレビは彼女らのいるエレベーター・ホールの前だけにあり(部屋にはない)、
3人ぐらいが映りの悪い白黒テレビを見ている。
コメディの番組らしいのだが、
勿論の事なにがおかしいのか訳が分からない。
今日は出来事がいろいろありすぎて疲れてしまった。
ぬるいシャワーを浴びて(熱いお湯が出なかった)早めに寝ることにする。
明日はいよいよシベリア鉄道に乗車だ。
2月27日
8時頃に目が覚める。
外を見ると空はどんよりしていて、いかにも寒々とした天気である。
ホテルのすぐそばを黒竜江(アムール川)が流れているのだが、
白く凍っている。
その横の公園を、おじさんたちがスコップを持って行進しているのが見える。
どこかへ除雪作業へ行くのだろうか。
9時に朝食を取りに1階の食堂まで行く。
食堂は席が指定してあるようで、
ウエイトレスが「ここに座れ!」と傲慢に指示してくれる。
食事の内容は余りたいしたことはないが昨夜からずっと付きまとっている、
すっぱい黒パンが今日も出る。
今日は、気温が低そうなので第1種防寒体制で身体を固めることにする。
その内容はと言うと、第二種防寒体制にプラスして頭は耳付きの帽子、
首には混毛のバンダナ、
手袋に足下には雪山用のスパッツと、結構重装備である。
9:50に市内観光に出発する。
ガイドはキム・ワロージャ氏である。
彼はこれからモスクワまで我々と同行する。
(私たちは彼のことを「キムさん」と呼んでいたので、これからはそう書かせてもらうことにする)
まず、インツーリストホテルを出発して、
ひとまずコムソモール広場(Комсомольскаяплощадь)へ向かう。
バスはハンガリー製の『イカロス』というバスで最新型のようだ。
広場では、5分間の写真タイムがあり、
皆バスを降りて写真などを撮る。外は結構寒く、
風もあり、身を切られるようである。
広場を囲むように地方労働組合、アムール船舶局などの建物がある。
建物は重厚で飾りっ気はほとんど無いが、かなり立派である。
高さはそれ程無く、たぶん、4階建てぐらいであろう。
写真タイムの後、
バスはツルゲーネフ通り(Улица Тургенев)を走り
、栄光広場(Площадь Славы)へと向かう。
ここには、大戦のときの無名戦士の碑があり、
永遠の灯(вечный огонь)がともされている。
ここからは、アムール川が望めるのだが、高台にあるので風がかなりきつい。
15分〜20分位歩きまわっただけで顔は凍り指先が冷たくなってくる。
やはり、ここシベリアでは帽子と(それも耳あて付き)手袋が必要不可欠のようだ。
キムさんはここで野球拳でもしょうかと冗談を飛ばしている。
彼は、この寒さでも結構平気なようだ。
見るところを見たら素早くバスに逃げ込むように乗り込む。
栄光広場をあとにしてレーニン通りを東に行き
レーニン広場(Площадь Ленина)に向かう。
このレーニン広場は、ハバロフスクの町の中心とも言えるところで、
まわりにハバロフスク州共産党中央委員会の建物などがあり、
その名のとおりレーニンの像もある。
レーニン広場から、先程のコムソモール広場までの間にはカールマルクス大通り(проспект Карл−Маркса)があり、
ハバロフスクの目抜き通りになっている。
バスはレーニン広場からハバロフスク駅前の広場へと走る。
駅に掲げられている時計には短針が二つあり、
赤い針がモスクワ時間、黒い針が現地時間になっている。
ちなみにソ連の鉄道は、すべてモスクワ時間にて運行されている。
駅前には1649年にこの地を訪れたエロフェイ・ハバロフの像がたてられている。
ハバロフスクの地名は彼にちなんでいる。
今日の午後ここからロシア号に乗りイルクーツクへと出発する。
ハバロフスクの町の中は仕事時間中だというのに休日のように人が溢れている。
キムさんによると、仕事中にないしよで買い物にいく人が多く、ないしょがないしょでなくなって
こんな人出になるのだそうだ。
人気のある商品を置いている商店では50人くらいの人が行列をつくっている。
しかし、外国人には外貨専用のベリョースカというお土産屋(食料品も売っている)があてがわれていて、
ここで大概の買い物は出来るようになっている。
別に一般の商店で買い物をしても構わないがロシア語が出来ない人はかなり苦労すると思う。
ベリョースカにて私は列車内で飲むようにアルメニアコニャックを買う。
8Pくらいで、日本円にすると約1700円くらいである。
買い物の後、昼食を取りにインツーリストホテルに戻る。
お世辞にも美味しいといえない食事だ。
どうもこちらの食事は全体的に味が薄く、
油っぽく、生野菜類が少ない。
昼食後、ホテルの売店にて絵葉書を買う。
絵葉書にもちゃんと4Kの切手が付いている。
国内郵便は4Kらしい。
海外航空便は35Kで差し引き31Kの切手を買えば良いものを、
始めてで訳が分からず、ご丁寧にも35Kの切手を買ってしまう。
12:45にハバロフスク駅に向かって出発する。
ふと気が付いたのだが、道路が全面凍結しているのにどの自動車もチェーンもスパイクタイヤも着けていない。
バスや自動車はたまたトロリーバスまでノーマルタイヤで坂をぐんぐん登っていく。
ハバロフスク駅に到着し待合室に入る。
待合室は外国人専用でバーのようなものもあり、
多くの日本人で賑わっている。ロシア号は多少遅れているようである。
13:00少し過ぎに地下道を通ってプラットホームへ出る。
プラットホームと言っても、少し段がついているだけのものである。
13:10大きな電気機関車に牽引されて緑色の車体のロシア号が入線してくる。
客車はMECT−36という型の東ドイツ製のものだ。
皆の荷物を積むのを手伝う。
結構いい運動が出来る。
私のコンパートメントは10号車V(5)号室、
ベッドは20番である。
進行方向側の上の段である。
荷物を移動しているとガタッという振動と共に発車する。
フレームザックのフレームとザックを留めるピンがはずれているのに気が付く。
ホテルから駅までポーターに運んでもらったときに取れたのだろう。
応急処置として紐でつなげておく。
発車してしばらくするとアムール川の鉄橋を渡る。シベリア鉄道は全線複線化しているのだが一部の鉄橋は単線になっている。このアムール川鉄橋も単線の鉄橋で、橋を渡り終わると貨物列車が線路が開くのを待っていた。進行方向左側にはキロ程を示すポストがある。ハバロフスクはモスクワから8531km。キロポストは8530…29…28…27と減っていき、モスクワで0になるという。
さて、このシベリア鉄道ロシア号だが、ソ連の大動脈とも言えるシベリア鉄道の起点モスクワと終点のウラジオストックの間の約9297kmを167時間、7日間で結ぶ。16両編成の客車は2重連の機関車に牽引されており、客車はすべてコンパートメント式になっている。コンパートメントの中は悪く言えば狭く、良く言えば機能的に作られていて、下段のベッドは昼間は座席になり、小さなテーブルには白いテーブルクロスがかけられている。各人にはシーツ、毛布のほかに敷き布団も割り当てられるが、暖房が良く効いていてTシャツ姿でも大丈夫である。車両内にはサモワールという湯沸器があり自由に利用できる。勿論このサモワールで珈琲をつくったりカップヌードルもつくれてしまう。また、ゲージ(軌道巾)は1524mmと広く一見揺れないように思えるが、地盤と保線が悪い為か手紙を書くのが困難なほど良く揺れる。やはりソ連の大動脈だけあって貨物列車と良くすれちがう。貨物列車の編成もさほど長くなく50両くらいである。中には幌を張った軍用列車があったりして見ていてなかなかおもしろいものである。
そうこうしているうちに、車掌がやってきた。ロシア号では一車両に一人か二人ずつ車掌が乗車していて、乗客の世話をしてくれる。私たちの車両を担当するのは女性の車掌で(ソ連では別に女性の車掌は珍しくない)おばさんというよりお姉さんという感じの人である。彼女はロシア語でチャイ(お茶)が幾つ要るのか聞いてくる。最初は何の話か訳が分からなかったのだが、そのうち通じてしまった。チャイは勿論紅茶なのだが、日本で言うロシアンティというジャムを入れる飲み方はしなくて、ただ紅茶に砂糖を入れるだけである。その砂糖なのだが岩塩のような角砂糖で、おまけに大きい。一つの包みの中に二つ入っているのだが、一つ入れただけで十分である。後日私はチャイの中に5包みもの砂糖を入れるロシア人を見て唖然としてしまった。閑話休題。
ハバロフスクを出てずっと列車は広い原野の中を走る。見えるものは雪、氷、そして凍て付いた森林とほとんど白と灰色のモノトーンの世界である。18:00夕食を取りに食堂車へ向かう。食堂車へは3両ほど車両を通り過ぎていくのだが、車両と車両の間の渡り板が太鼓橋のようになっていて、凍り付いている。しかも、下の線路が丸見えでかなり怖いし寒い。一瞬緊張してしまう。それと、手すりを素手で持たないように注意される。その理由は、冷凍庫の製氷皿を素手で持ったときのことを想像していただきたい。
食堂車は8号車と9号車の間にあり車両の外側にはРестране(レストラン)と言う表示があり、他の車両と容易に区別ができる。食堂車内は4人掛けのテーブルが10ほどあり、単純に計算すると約40人が同時に食事ができることになる。年配のウェイトレスと元ヤクルトのホーナーとフィルコリンズを足して2で割ったような感じのウェイターがてきぱきと給仕をしてくれる。余り大したものは出なかったが、太いキュウリのサラダ(?)が印象深かった。
食事後、時計を1時間遅らせる。これで日本時間と同じになった事になる。この調子でいくと1日が25時間ということになる。1時間ずつ寝坊ができるのが嬉しい。夕食後は勿論我々のツァーの仲間内で宴会である。会場は通称タコ部屋の3号室である。新潟の免税店で買ったジョニ黒やハバロフスクのベリョースカで買ったアルメニアコニャックが、テーブルの上に並べられ、ワイワイと酒盛りが始まる。外は真っ暗。列車は雪煙を上げて快走する。
22:28ベラゴールスク(Белогорск)に停車。ここで水と暖房用の石炭を補給する。暖房器が故障すれば凍死を覚悟しなければならないシベリアでは、確実でしかも故障の少ない石炭暖房が必要不可欠なのであろう。ベラゴールスクでは15分の停車であった。ハバロフスクでの遅れは、ベラゴールスクの前の駅のアルハラ(Архара)にて完全に取り戻している。シベリア鉄道では30分くらいの遅れは、遅れのうちに入らないようである。寝台は2段ベッドの上段で寝るのだが、上段には転落防止の柵もロープもない。よって、寝返りが一度も打てないという状態である。仕方無く壁に寄って寝る。「落ちませんように…」
2月28日
7:45に目を覚めるが、外はまだ薄暗い。8:00に朝食ということなので、寒い連結部を4回も通って食堂車に向かう。デッキは完璧に凍っていて、雪も吹き込んでいる。朝食で乳白色の飲み物が出る。牛乳かと思って飲んでみると、妙に酸っぱい味がする。ヨーグルトドリンクなのである。メニューはサラミソーセージの前菜?と目玉焼きである。目玉焼きも小さな銀色のフライパン(のようなもの)をそのまま火に掛けトバッと油を注ぎ、卵をぶち込んだようなものでかなり大雑把である。
9:56ウルシャ停車。退屈なので降りてみる。売店では新聞(たぶんプラウダだと思う)、ステッカー、ボールペン(三色組の物)、そして映画スターのものだろうかブロマイドを売っている。外は相変わらずに寒いが少しぐらいは寒さに慣れたようである。
13:00お昼ごはん。ここソ連では昼食がメインのようで結構豪華なものが出る。今日のメニューはスープ(赤くて、肉が少しと、キャベツが入っている。酸っぱい。ボルシチだという説もある。)と、ハンバーグみたいなもの(中にお米が入っている)が出る。これが、まずいソ連の食事の中では珍しく美味い。始めてのヒットである。(これが最初で最後のヒットだった…)食事が終わる頃、13:32アマザール停車。ここでも降りてみると子供が何か売っている。聞くところによると、棒状のガムみたいなものを売っているらしい。1本20K。少し折って口の中に入れてみると、口の中の熱で柔らかくなるが、ほとんど味はなく妙に歯にくっつく。あまり美味しいものではない。
昼食後12号車にいる日本人の団体の所へ遊びにいく。その中の一人、梅岡さんという人から、これから行くフィンランドについての情報(ヘルシンキ大学の学食のPortaniaが安くてうまいとか、タンペレ教会は必見だとか、酒はLapponiaというリキュールがうまいとか…)を仕入れる。彼女はフィンランドのことについて詳しく、フィンランド語も出来るのでワンポイント・レッスンもしてもらう。12号車にはスネジェーニカという5才くらいの子供が両親と一緒に乗車していて、暫く一緒に遊ぶ。言葉は通じないけど子供ってやはり可愛いものである。スネジェーニカは自分のコンパートメントから出てきては、私たちと遊んでいるが、彼女の両親や兄弟たちはあまり顔を出さない。何か警戒をしているような感じも受けられる。
18:00夕食を取りに食堂車へ行く。我々は3回の食事を食堂車にて取っているが、車内販売もあり、食事を銀色の丸い器にいれて、それらを重ねてぶら下げながら売っている。その形が新潟名物のワッパ飯に似ているので、私たちはそれを「ワッパメシ」を呼んでいて、売っているおばさんを「ワッパおばさん」と呼んでいる。
さて、食堂車の方はまもなく食料がなくなるようで、パンに枚数制限がついてしまった。別に、あのすっぱいパンを腹いっぱい食べようとも思っていなかったので関係ないが、日本では考えられないことである。
今日は日中は−5℃。日が沈むと冷え込んで−15℃位になる。しかし、車内は暖かくてTシャツ1枚でも歩きまわれる程である。また、今日はずっと45分遅れの運行。きのうの30分遅れといい、今日の45分遅れといい、どうも1時間以内の遅れは遅れのうちに入らないようである。
夜はもちろんタコ部屋3号室にて宴会である。夕食後にまた1時間時計を遅らせたため、今日も一日が25時間である。1時間寝坊ができるのが嬉しい。
2月29日
7:30に目が覚める。といっても昨日時計を遅らせたため8:30に起きたのと同じ事になる。列車は粉雪を舞い上がらせながら、白い原野を快走する。モスクワまであと5800kmの表示がある。今日は夜にイルクーツクに着く日である。
8:00に朝食を取りにいつものごとく食堂車へ。毎日大した運動もせず、良く食べるものである。食堂車はもう殆ど食料がない様子で食パンのかわりに菓子パンが出る。キムさんの話によると、12:18着のウランウデにて食料を補給するとのこと。よって、昼食の時間は列車が遅れることを予想して時間を定めず、ウランウデの発車30分後ということである。
9:57ピョートルの工場という意味のペトロフスキーザボット(Петровский Завод)という駅に着く。久し振りの停車なので思わず外に出てみる。ここは12分の停車時間があるので、駅舎の中の売店をのぞく。菓子パンだとか、砂糖がいっぱいかかっていかにも甘そうなケーキが並んでいる。私は朝食を取ってからあまり時間がたっていなかったので、買うのはやめたが、他のロシア号の乗客たちは、こぞってそれらのパンを買い求めていた。工場の町らしく、駅を発車して30分くらい鉱山のような所を走る。それにしてもすごい規模である。
14:18食料の積み込みの場所、ウランウデ(Улан−Удз)に到着。食堂車のホーナー氏は荷物の積み込みで忙しそうである。ここでも12分の停車なので、その辺をぶらっと歩いてみる。売店でピロシキらしきものと、ギョウザのオバケみたいな「肉饅頭」を売っていたので昼食前だと言うのに買ってみる。ピロシキが20K、肉饅頭が40K。観光客用の値段なのかわりと高いと感じた。
15:00頃、昼食を取る。列車の中では、食べる→寝る→トランプ→停車したら外に出る。という生活の繰り返しである。
タコ部屋3号室の住人が、どこからかロシア人の若い男性を連れてくる。彼は名前をミヒャエル君といい、年齢は20代半ばくらい。鉱山の技師と言うことである。彼は多少英語ができるので、英語を軸として、日本語−英語−ロシア語と、両国語講座を開く。カンのいい彼は、我々の言うエッチな日本語も耳まで赤くしながらマスターし、我々も「街の中では絶対言わないように」とミヒャエルの警告のついたエッチなロシア語を幾つかマスターしてしまった。もちろん、コンパートメントのドアを閉め切り、密室での国際交流であったことは言うまでもない。
右窓には、いつの間にか真っ白に凍りついたバイカル湖が見える。湖の対岸は見えず、水平線ならず氷平線が見える。車内が暖かいため、やわらかな陽射しが湖を照らしていると一見暖かそうに見えるが、本当は外は氷点下20℃位なのである。
そうこうしているうちに、またもや食事の時間がやって来る。食事中にイルクーツクの一つ手前のスルジャンカを発車する。スルジャンカを出るとイルクーツクまで2時間半。そろそろ下車の準備をする。Tシャツで歩き回っていたのをきちっと防寒具に身をかため、帽子・手袋もしっかりして、イルクーツク(Иркутск)に着くのを待つ。10分しか停車時間が無いので、キムさんから「荷物を降ろすの手伝ってね」とポーターを頼まれてしまう。
定刻よりやや遅れてイルクーツク着。外気の寒さも忘れて荷物降ろしで汗をかいたため、あまり寒く感じない。久し振りにじっくりと地面に足をつけていられる感触はなんとも言えない。
例のごとく、駅前にバスがスタンバイしていて、すぐに我々を宿舎の「インツーリストホテル」へ運んでくれる。ここでもハンガリー製のイカロスというバスが活躍している。イルクーツクの街の中をアンガラ川という川が流れていて、インツーリストホテルは駅から川を挟んでちょうど対岸に建っている。
イルクーツク市は人口約55万人、シベリア鉄道の中継地である。またバイカル湖観光の拠点でもあり、先程のアンガラ川はそのバイカル湖を源にしている。
さてさて、ホテルでのチェックインも無事に済ませ(といってもキムさん達がチェックインをやってくれるので我々はただ待つだけなのだが…)部屋に落ち着く。そして示し合わせのとうり、ホテルの地下のバーへ行き一杯ひっかける。ここのバーはキャッシュオンデリバリ−になっていて、カウンターで一人で頑張っているバーテンに注文をして自分のテーブルへ持ち帰って飲むという形式である。最初はレモネードをたのむ。ラムネのような味がして、ここのところ変なジュースしか飲んでいなかったのでひときわおいしく思える。その後でキムさんがコニャックをおごってくれる。この店は10:00に閉店なのだが、閉店時間になるとバーテン氏は電気をスイッチで点滅させて客を追い払っていた。
二次会は、列車内の残りのジョニ黒などで盛り上がる。バーの中でコールガールに声をかけられたり、部屋にポン引きの電話がかかってきた奴もいたりして、結構賑やかなイルクーツクの夜であった。
3月1日
7:45に起床する。うすく茶色い色のついたお湯が出るシャワーを浴びた後、9:00朝食を取りにレストランへ行く。今日の予定は午前中はイルクーツク市内観光、その後バイカル湖へ行くというスケジュールである。
10:00頃にインツーリストホテルを出発。イルクーツクの町中を時々写真タイムで止まったりしながら、ぐるぐるまわる。イルクーツクは特に目立ったスポットもない(と思う)が、無名戦士の碑だとか、金色のタマネギがのっているような屋根の教会だとか、ソ連では珍しくちゃんと活動している教会(ソ連では「宗教は麻薬だ」と言われて弾圧されていた時期があった)とかを巡る。寒さは帽子や手袋が要るものの、ハバロフスク以後なれてしまってあまり感じない。
一通り市内見物をした後、一路バイカル湖へ。凍て付いたまっすぐな道をバスは100km/hくらいのスピードで走っていく。途中、ここでハンカチを木にくくり付ければまたここに来れるというアンガラ川が良く見える丘に立ち寄ったりして、約1時間強でバイカル湖畔に到着する。
バイカル湖はタタール語で「豊かな湖」と言う意味で、その大きさは3万5千平方キロメートル、幅48kmに及び、琵琶湖の約50倍という。また水深は平均700m、最深部が1742mあり、世界で一番深い湖である。
我々は小さな村のスーパーマーケットみたいなところでバスから降ろされ、「あそこにある教会は有名なんだぞ」というキムさんの言葉につられて、約10分の道のりをてくてくと歩く。なんで有名なのかも聞かずに…(この教会、只の何の変哲もない教会なのだが、ソ連では珍しくちゃんと活動しているということで有名な教会なのだそうだ)
たかが10分といっても、ここはマイナス何十度という世界である。歩いているうちにだんだんと顔が凍り始めてくる。そして足元が変だなと思い足元を見ると、何と、凍り付いた川の上ではないか。おまけに雪がかぶった小船まで置いてある。氷が割れるのではないかと一瞬ヒヤッとしたが、その辺りに足跡がたくさん付いていたので安心する。どうもここの村人たちは、凍った川の上を生活道路として利用しているらしい。
寒いながらもピンク色した教会を往復し、バスから降ろされたところまで帰ってくると、バスがいない!しかし置いてきぼりを食ったのではない様子なので安心して、今度は凍り付いて真っ白な氷原となっているバイカル湖の上に立つ。冷たい身を切るような風が湖上を吹き抜けていてかなり寒い(…というより痛い)。あとで、この日バイカル湖畔ではマイナス30度だったことを知らされた。
バスは我々を降ろしてから約1時間後に帰ってきた。寒さに絶え切れず、バスの中に駆け込む。眼鏡が曇ってしようがない。後から聞いた話なのだが、バスが予定より早くバイカル湖に着いてしまったものだから、予定外に我々を村で降ろし、時間を潰したのだそうだ。(それならそうと早く言え!)
14:00バイカルホテルにて昼食。しゃれた石造りの、感じの良いホテルである。ボルシチとストロガノフという日本人にとってメジャーな料理がでる。でも、やっぱり全体的に美味しくない。
昼食後、ホテルのテラスでバイカル湖を見ていると、イギリス人の老夫婦が写真をとっていたので、二人並んでの写真を撮ってあげる。「Are you haneymooner?」といって冗談を飛ばすと、二人とも大喜びして、抱き合いながら写真におさまっていた。その老夫婦は我々とは逆に、これからハバロフスクへ向かうそうである。
15:00頃バイカルホテルを出発しイルクーツクへ。宿舎のインツーリストホテルへは直行せずに、市内のマーケットに寄る。列車の中で食べるようにと、リンゴ(8個で5P)とくるみ(1袋で3P)を買う。ここはフリーマーケットということで結構活気があり、値段は多少高めのものの、品揃えは結構良かったと思う。同じパン屋でも、お客が列をつくるほど忙しい店と、まったく暇な店の差が極端でおもしろい。
マーケットの向かい側はデパートみたいな建物があり、衣料から工具、玩具まで売っている。フレームザックを直すためのボルトを探すが、言葉が通じないのと勝手が分からないのとで見つけることが出来ない。デパート内をうろうろしたが、高いと思ったのが自転車で、日本でいう普通の形の自転車が、日本円にすると10万円弱くらいしていた。あと、電化製品もけっこう高い値を付けていた。デパートの外には宝くじみたいな物を売っている所もあり、けっこうな賑わいを見せている。買い物の後、ホテルまでは歩いて帰る。約20分の散策は列車の中でカンヅメ状態だった我々にとって良い運動であった。
18:00に夕食。ソ連に入国してから初めてコーヒーが出る。あまり美味しいものではない。
食後、列車に乗り込むための支度をする。ちょうど、昨日我々が乗ってきた列車の24時間あとの列車に乗ることになる。(1日に1本しか外国人の利用できない列車が走っていないのでそういうことになる)これから乗車する列車はイルクーツクを20:05に発車するのだが、ポーターが荷物を降ろすのが遅かったため、ホテルを出るのが19:55。案の定、駅でも荷物の到着が遅れ、慌てて荷物を列車に積み込む。積み込んでいるうちに列車が動き始めるし、結局、列車は15分遅れの20:20に発車となる。でも、2駅先のジマー(Зима:「冬」の意味)では、遅れを取り戻していた。
今度のコンパートメントは8号車の9号室。一番端の部屋だ。それに、ハバロフスク→イルクーツク間では、進行方向に向かって右側に通路があったのだが、今度は左側。どうも勘が狂いそうである。コンパートメントに落ち着くと直ぐに車掌がチャイを持ってくる。男性の車掌と女性の車掌の二人組で乗務をしている。男性の車掌のほうは気さくで年齢は25才くらい名前をニコライという。
今日も7号室の例のタコ部屋で宴会である。0:30就寝する。
3月2日
8:00に起床するが起きてから1時間遅らせたので、7:00に起きたことになる。外を見ていると、モスクワまであと4146kmの表示が見える。キムさんが“ヌウッ”と現れて「ザックを出せ」という。何のことかと思えば、どこから持ってきたのか壊れたザックの修理用のボルトを持ってきて直してくれた。これでこの先、大丈夫である。ザックが直った後、よいタイミングで車掌のニコライくんがチャイを持ってきてくれる。良く気の利く青年である。
9:15朝食をとりに食堂車へ向かう。イルクーツクからモスクワまでは食堂車が2両先にあるので、移動はかなり楽である。この食事も大して記述するものもないので、割愛させていただく。
イルクーツクを出てから、地面に積もっている雪が多くなったような気がする。そして、気温も下がってきたようで、瓶詰めのジュースを車両のデッキのところに置いておくと、凍ってしまう次第である
正午を過ぎてから、次の大きな駅、クラスノヤルスク(Красноярск)が近くなったせいか、人家が多く見られるようになる。マッチ箱のような小さな庭付きの家が並んでいる。12:30列車はゆっくりとエニセイ川を渡る。ここの鉄橋も単線で橋の向こう側で何編成かの貨物列車が待機していた。12:34クラスノヤルスク着。工場が立ち並ぶ工業の町のようである。ここでは15分停車なので、いつものように外へ出てみる。列車の中から見ていると陽射しが柔らかく気持ちのよさそうな天気なのだが、やはり実際に外に出てみるとかなり寒い。やはり外に出るときはコートが絶対に必要である。
14:30遅めの昼食をとる。先程のクラスノヤルスク駅で食料を補給していたので、必然的に昼食が遅くなった。今回の食堂車のウエイターは背が低くて浅黒く割りと目鼻立ちがはっきりしている。少し里見浩太郎に似ているところを取って、「コーちゃん」とニックネームがついてしまった。もっともつけられた本人は知る由もない。
ここで先程から登場している我らがガイド、キム・ワロージャ氏について紹介することのする。彼は以前にNHKがシベリア鉄道の特集を取材したときのソ連側のスタッフとして撮影に同行している。その事を話したり、NHK出版のシベリア鉄道の本(ところどころキムさんが登場している)を見せるととてもはづかしがるのである。そして、彼の名前から分かるように、彼は朝鮮系のロシア人なのである。出身がサハリンということから、旧日本軍が朝鮮半島から強制連行していった人達の子孫ということが想像できる。日本語はラジオで勉強し、英語もほとんど独学で勉強したらしい。みかけも我々日本人とほとんど変わらないので、食堂車の「コーちゃん」なんかはキムさんの事を「ロシア語が凄くうまい日本人」だとずーっと思っていたらしい。それから、驚いたことに、トランプの「大貧民」を知っていて、(ちゃんとと言うべきか、さすがと言うか「革命ルール」まで知っている)暇さえあるとトランプに興じている。ハバロフスクのインツーリストのナンバー2ともなると、芸がこまかくなるものである…。
さてさて私はというと、イルクーツクで買った10枚ほどの葉書をコンパートメントの中で書いていたのだが、揺れがひどくてなかなか書けない。夕方になってやっと書き上げることが出来て、20:55に着いたタイガ(Тайга)にて青い色の「Почта」(ポスタと読む)と表示のある箱(これがポストだと教えてもらった)に投函する。寒い雪空のもと「Почта!」「Почта!」と言って走り回る東洋人の姿が、ロシア人の彼等の目にどの様に映ったのであろうか…。(5分しか停車時間が無かったのでそうするしかなかった…)
今日の酒盛りはというと、いつもの部屋で、新潟で買った「越の誉」と「柿の種」で盛り上がる。異国の地で飲む日本酒もなかなかいけるものである。
3月3日 ひなまつり
8:00に起床する。今日もまた起きてから1時間遅らせたので、実質、7:00に起床したことになる。9:00の朝食までには十分おなかがすいてしまう。
外の景色を見ると人の気配が多くなってきたのに気がつく。今までは原野とか森林を走ってきたので、景色が変化してくれて嬉しい。午前中はなにもすることがなく、トランプにも飽きてきたのでほとんど寝ている。あまりにもよく寝るので、「ネルネンコ」とニックネームがついてしまった。
後から知ったことなのだが、この日の早朝に一人欠員ができているタコ部屋の7号室に途中からのって来た(と思われる)ロシア人が2人も詰めこまされた。よりによって連日の宴会で酒臭くなっているタコ部屋とは、乗って来た人も可愛そうである。でも、わりとすぐにどこかへ移動していったので、暫定的な居場所に7号室を使っただけだったようである。
9:19イーシム(Ищим)に停車。朝食中だったので、食堂車の中から駅の様子を見ていたら、コーちゃんがいっぱい食料を買い込んでいて、窓越しに「いっぱい買ったから大丈夫だ。たくさん食べろ。」とポーズをとっている。いつまでたっても料理が出てこないはずである。
我々が乗っているこの車両にはトイレが2カ所ある(しかない)のだが、同室のきよしくんは朝のトイレの混雑の中、トイレに行くタイミングを失ってしまってあたふたしている。彼はとうとう昼近くまでトイレに行けずじまいであった。
とっても暇なので、ワッパメシのお兄ちゃんに声を掛ける。彼はなにかを買ってくれるものだと思って最初のうちは愛想が良かったのだが、ミーシェという名前を聞いただけだったので、御機嫌ナナメで行ってしまった。
外の風景はだんだんと雪が少なくなってきた。外に出てもさほど寒いと言う感じではなくなってきた。12:45チュメニ(Тюмень)に停車。ここでは予定では10分しか停車しないのだが、10号車の車輪がおかしくなったと言うので交換するのだと言う。中に乗客を乗せたまま車両をジャッキみたいなもので上げて、台車ごと交換している。中にいる日本人の旅行者たちはなにも知らされていないようで、大騒ぎをしている。結局、定時より40分余り遅れて発車。
でも今回は、次のスベルドロフスク(Свердловск)でも15:30に到着し(定時では14:47)遅れを取り戻すのに時間がかかりそうである。困った。なぜ困っているのかと言うと、夕方にアジアとヨーロッパの境界を越えることになるのである。その境界に立つ石碑を写真に収めたいのだが、あまり暗くなると写らなくなるのでその心配をしているのである。今か、今かとカメラを構えていると1777kmの表示がある辺りに高さ2m〜3m位の石碑が立っている。18:55アジアからヨーロッパへ入る。
20:00ロシア号で食べる最後の夕食をとる。鯖(だと思う)のトマト煮がでる。缶詰なのだがなかなかおいしい。でもここ数日間で味覚がだいぶんロシアンナイズドされているので、はたして、本当においしいのか疑わしいものである。今夜は最後と言うことで、タコ部屋は大宴会。そして始めて下段のベッドで寝かせてもらう。今夜はベッドから落ちることを心配しながら寝なくてもすむ。
3月4日
7:30起床する。外を見ると雪が降っている。ヨーロッパ風の造りの家が吹雪の中に見える。キロポストを読もうとするのだがよく見えない。モスクワまであと600km〜500km位だろうか。朝食をとりに車両を移動するのだが、例のごとくつるつるとよく滑る。
朝食後キムさんがやっってきて「トランプをやろう」と言うので、しばらく盛り上がる。12:05ボルガ川を渡る。この辺りまでくると雪は止んでいる。12:10ヤロスラブリ(Ярославль)に到着。この駅を出発すると、次はモスクワのヤロスラブリ駅である。モスクワでは方面別に駅があり、その駅には行き先の地名がつけられている。(パリやロンドンなどヨーロッパの大都市の駅はそうなっている)モスクワのヤロスラブリ駅はまだシベリア鉄道がヤロスラブリまでしか行ってなかった頃の名残なのである。
モスクワに近くなったせいか、ちゃんとしたプラットホームのある駅が多くなる。だんだんと都会らしくなり町並みも騒がしくなってきた。そろそろ荷造りをしなければならない。他の乗客たちも騒がしく行き来をしている。車掌達も久し振りに家に帰れるのか、普段よりニコニコしている。モスクワまであと20km位のところから複々線になり、いわゆる「電車」も多く見掛けるようになる。キロポストも、もうどこかに、まぎれ込んでしまったみたいで確認が出来ない。ここはもうモスクワなのである。
そうこうしているうちに、シベリア鉄道ロシア号はゆっくりとした速度でポイントを踏みしめ、まるでモスクワに敬意を表するかのごとく、駅構内に進入し、15:50、定刻よりも5分程早くモスクワ・ヤロスラブリ駅に到着した。
モスクワ・ヤロスラブリ駅はシベリア鉄道の終点(本当は起点)なのだから、さぞかし大きな駅なのだろうと想像していたのだが、以外にプラットホームが6本位でホームには屋根もないと言う簡素な駅である。ひょっとすると、今までに止まってきた駅の方が遥かに大きかったかもしれない。が、今までに止まってきた駅よりも遥かに賑わっている。
駅前にはバスが待機していて、宿泊先のコスモスホテルへ送ってくれる。モスクワの町はシベリアの町とは違い、暖かくもうすでに春の装いである。
これから私は、モスクワ−レニングラード−フィンランド−スウェーデン−ドイツ−フランスとまわって帰国したのであるが、ここまで書くと膨大な量になるので割愛させていただく。
だらだらと書かせていただいたがこれを読んでソ連に行きたくなってくれれば幸いである。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 2.0
- グルメ
- 2.0
- ショッピング
- 2.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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