2009/04/12 - 2009/04/12
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本多 重次(ほんだ しげつぐ1529−1596年)は徳川家康(とくがわ いえやす1543−1616年)の三河三奉行の一人で通称は作左衛門。勇猛果敢で豪胆な性格から「鬼作左」と恐れられたが1575年、長篠の合戦の陣中から妻あてに書いた「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」という日本一短い手紙で有名になった。
「お仙泣かすな」と簡潔な父親の愛情を受けた息子の「お仙・仙千代」は成長して本多 成重(ほんだ なりしげ1572−1647年)と名乗り越前国丸岡藩の初代藩主、丸岡城6代目城主になった。
1993年から丸岡町では「一筆啓上賞」を設け表彰された短い手紙文を城の周辺に展示している。
(写真は一筆啓上茶屋周辺の光景)
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丸岡城周辺に掲示されている一筆啓上賞受賞作品。
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丸岡城の霞ヶ城公園の中にある一筆啓上茶屋周辺の光景。
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丸岡城の霞ヶ城公園の中にある一筆啓上茶屋周辺の光景。
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丸岡城周辺に掲示されている一筆啓上賞受賞作品。
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丸岡城の霞ヶ城公園の中にある一筆啓上茶屋周辺の光景。
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丸岡城の霞ヶ城公園の中にある一筆啓上茶屋周辺の光景。
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丸岡城の歴史民族資料館前の光景。
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人柱お静の説明。
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人柱お静の慰霊碑。柴田勝家(しばた かついえ1522−1583年)の甥、柴田勝豊(しばた かつとよ1556−1583年)が1576年に丸岡城を築城の際、天守閣の石垣が何度も崩れるので二人の子をかかえて苦しい生活をしていた片目のお静を人柱にして天守閣の中柱の下に埋められ無事完成した。お静の条件は子を侍に取り立ててもらうことだったが勝豊は他に移封され、お静の子は侍にしてもらえなかった。
お静の霊はこれを恨んで、毎年河川に生える藻を刈り取る藻刈りをやる卯月(うづき・旧暦4月)になると、春雨で堀の水があふれ出た。約束を守らなかった柴田勝豊も28歳で早世した。人々は"お静の涙雨"と呼び墓、慰霊碑をたて霊をなぐさめているそうだ。 -
丸岡城八幡神社。
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丸岡城八幡神社の説明。
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丸岡城の説明。
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桜の花びらが舞い散っている丸岡城の光景。
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丸岡城の説明。
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桜の花びらが舞い散っている丸岡城の光景。
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丸岡城に近い中野重治(なかの しげはる1902−1979年)生家跡の説明。小説家、政治家、評論家、詩人と幅広く活躍した中野重治の生家は1948年の福井大地震で倒壊したが当時の土台跡・礎石が復元され東京世田谷の書斎が移築されている。中野家で使われていた石材を用いた「中野重治ここに生まれ、ここにそだつ」と刻まれた主碑や「梨の花の古地」と刻まれた副碑などもある。
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中野重治生家跡の書斎。東京世田谷の書斎を移築したもの。
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丸岡城に近い中野重治生家跡の光景。
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丸岡城に近い中野重治生家跡の光景。
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丸岡城に近い中野重治生家跡の光景。
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丸岡城に近い中野重治生家跡の光景。
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丸岡城に近い中野重治生家跡の光景。
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道の駅三国の光景。
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道の駅三国の光景。
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道の駅三国の光景。
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