2009/05/06 - 2009/05/06
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(10 http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10346110/ の続きです。)
ゴールデンウィークも1日ぐらいは家でゆっくりしたいと思って、本当は昨夜、家に帰るつもりでした。
でも、米沢、会津、新潟と巡ってきたからには、ここで上杉謙信の居城、春日山城を訪れないわけにはいかなくなってしまいました。
そこで、昨日急遽(きゅうきょ)、新潟で時間をつぶして、米山SA(サービスエリア)で泊まりました。
さあ、出発です。
上越IC(インターチェンジ)です。
出口に向かってハンドルを切りました。
春日山城が見えて来ました。
ここは、戦国時代の最強の武将と謳(うた)われた上杉謙信の居城でした。
NHK大河ドラマ「天地人」の主人公、直江兼継と上杉景勝も実際にこの場所で、謙信と共に過ごしていました。
結果として、今回の旅は「天地人」の舞台を、時代を遡(さかのぼ)りながら巡ってきたことになります。
旅に出る前は、こんなことは、まったく思ってもみませんでした。
これも、どうも謙信公の見えない力によって導かれてしまったような気がします。
今なお、私たち、多くの人間の行動に影響を及ぼし続けているとは・・・
うう〜ん、謙信、恐るべし・・・
です。
春日山には、今でもこのような武士がいました。
ま、待ってくれ!
切らないで〜〜〜!
ああああ、ああ〜〜〜・・・・・・
(5月6日の旅です。)
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
米山PA(パーキングエリア)は遅くまで、多くの車が出入りしていました。
そんな,喧騒(けんそう)の中で、車の中で横になりました。
頭の中では、今日までの旅で訪れた、会津や米沢やいわきなどの様子が、次々と浮んでいました。
そんな中で、米山PAの夜は更(ふ)けていきました。 -
朝です。
さあ、いよいよ最後の訪問地、春日山城に向けて出発です。 -
上越(じょうえつ)IC(出口)が近づいてきました。
-
ICを出て、セルフスタンドで給油してから、春日(かすが)山城に向かいます。
ここにも天地人ののぼりが並んでいました。 -
正面の山が春日山です。
思ったより低い山です。
(この写真は帰りに撮ったものです。) -
春日山です。
今から450年ほど前に、歴史に名高い上杉謙信の兵たちがここを本拠地として、実際にここで暮らしていました。
上杉軍はこんなところから出陣して、神奈川県の小田原で北条氏を包囲したり、長野県の川中島では武田軍と、石川県の能登では織田軍と向き合ったりしていました。
そう思って見ると、どこにでもあるようなこんな小山が、実は昔はすごい山だったんだということで、
おおおお!
というような、感慨(かんがい)を覚えます。 -
春日山の中腹に上杉謙信の銅像がありました。
謙信は戦国時代の1530年にこの春日山城で生まれました。
当時は、謙信は上杉家ではなくて、その補佐的立場の長尾家の三男または四男として生まれました。
この春日山城も、その長尾家の城でした。
長尾家が仕えた上杉家は、室町幕府の守護(しゅご)として、越後(新潟県)を治めていました。
現在でいえば、県知事のような立場だったのでしょうか? -
と、すれば謙信の長尾家は、副知事のような立場の一族だったのでしょうか?
また、越後の守護職の上杉家は特に名門で、そこから関東管領(かんれい)職を出していたこともあったようです。
関東管領というのは、鎌倉を中心に、関東一帯をとりまとめる役職で、室町幕府の最重要職の1つです。
しかし、時は戦国時代、小田原の北条氏や甲斐(かい)の武田氏を始め、なかなか関東管領の力の及ばないような勢力が、各地で台頭(たいとう)していたようです。 -
謙信が生まれたのは1530年ですが、この頃の有名な戦国武将の年齢の関係は次の通りです。(詳細は未確認)
生 年 1560年当時 所属大名家
北条氏康 1515年 (45歳) 北条
今川義元 1519年 (41歳) 今川
武田信玄 1521年 (39歳) 武田
柴田勝家 1522年 (38歳) 織田
明智光秀 1528年 (32歳) 織田
上杉謙信 1530年 (30歳) 上杉
織田信長 1534年 (26歳) 織田
羽柴秀吉 1536年 (24歳) 織田
北条氏政 1538年 (22歳) 北条
徳川家康 1542年 (18歳) 徳川
武田勝頼 1546年 (14歳) 武田
新発田重家 1547年 (13歳) 新発田
毛利輝元 1553年 ( 7歳) 毛利
上杉景虎 1554年 ( 6歳) 上杉
上杉景勝 1555年 ( 5歳) 上杉
直江兼継 1560年 ( 0歳) 上杉
石田三成 1560年 ( 0歳) 織田
北条氏直 1562年 (−2歳) 北条
伊達政宗 1567年 (−7歳) 伊達
この写真は西向きで、この後、ここから右に進んで行きました。 -
北東向きです。
直江津の街並みとその向こうに、日本海が見えます。
謙信の幼名は虎千代(とらちよ)といったそうです。
虎千代は7歳から14歳まで、この山の麓(ふもと)の林泉寺(写真の左下辺り)で、厳しい修行を積みました。
そのため、仏教を深く信仰することになります。
14歳で元服(げんぷく)した虎千代は長尾景虎と名乗りました。 -
そもそも仏教は殺生(せっしょう)を禁じているので、戦って人を殺す戦国武将とは相容れないものです。
しかし、武将の家に生まれてしまった虎千代(謙信)は、戦わなければ滅(ほろ)ぼされてしまうという宿命を背負っています。
この人を殺すことと、仏教の教えとの折り合いをつけるために見出したのが、毘沙門天(びしゃもんてん)でした。
毘沙門天は仏を守るために、邪悪(じゃあく)を倒す神です。
また、毘沙門天は北方を守る神でもあります。
この春日山はちょうど京の都の北東方向になります。 -
そこで、虎千代(謙信)は、自らを毘沙門天の化身(けしん)とみなすことで、戦国時代を生きぬく道を見出しました。
こうして、正義の武将、長尾景虎(上杉謙信)が誕生しました。
景虎は14歳で元服すると、林泉寺を出て城主として栃尾城(長岡市)に入りました。
そして、その年すぐに守護職の上杉氏を守る戦いに勝利し、またその3年後の17歳のときにも同じく越後領内の反乱を抑えて、上杉氏を守りきりました。
そしてその2年後の19歳のときに家督(かとく)を継ぎ、 -
兄の春景に替わって越後守護代(現代の副知事?)となりました。
そして、再びこの春日山に入り、春日山城主となりました。(1548年)
その2年後の21歳のときには、守護の上杉家が途絶(とだ)えたため、守護代の景虎が越後の国主となりました。(1550年)
景虎の軍は、毘沙門天の「毘」の字を旗印とし、正義(室町幕府の秩序(ちつじょ))のために戦うことを示しました。
その翌年の1551年、関東管領の上杉憲政が甲斐の -
武田氏や小田原の北条氏らに敗れて関東を追われ、翌52年に越後の景虎のところに逃げ込んできました。
この上杉氏は元々は越後の守護の上杉氏と遠縁であったということもあり、景虎は憲政のために屋敷を建て、保護することにしました。
その屋敷は御館(おたて)といって、この写真の向き(北東)に3〜4kmぐらいのところ(直江津)にあります。
この年から12年間にわたる甲斐の武田晴信との川中島の戦いが始まっています。(1552年〜64年)
1561年には、関東管領の上杉憲政を擁(よう)して -
10万の大軍で北条氏の小田原城を囲みました。
そしてその時に謙信は鎌倉で憲政の養子となって、関東管領職を譲り受けました。
そのときから長尾景虎は、上杉政虎と名乗るようになりました。
31歳のときのことです。
1564年に姉の子(甥(おい))の喜平次顕景(9歳)を春日山城に招き入れ、75年に名を景勝と改めさせました。
1570年には和睦(わぼく)した北条氏から北条氏康の -
七男三郎を迎え入れ、自身の名であった景虎を名乗らせました。
またこの年(40歳)から、上杉政虎は謙信と名乗るようになりました。
その後、七尾城(石川県)で織田信長の軍を撃退しました。(1577年)
そしてその翌年の1578年、京に上ろうとしていましたが、その直前に49歳で病没(びょうぼつ)してしまいました。 -
この写真の後ろに春日山神社があります。
春日山神社は1901年に謙信を祭るためにここに建てられたそうです。
重要な遺跡(いせき)の真正面にこのような神社が建てられてしまっては、当時の様子を偲(しのぶ)ぶためには、大きな妨げとなってしまいます。
とりあえずは、この神社の存在は意識の中から消し去ってしまって、先を急ぐことにしました。 -
神社の右側の道を登っていきました。
写真はそのときの北向きの風景です。
たぶん、当時はこのような檜(ひのき)(杉?)は植えられていなくて、この山は山中からも周囲からもその全容が見渡せるような、山全体が巨大な城の姿をしていたのではないかと思います。
そうであれば、ここからは北の日本海や直江津の町の様子がよく見えていたでしょう。 -
この写真は、その道を回り込んで、左(東)を見たところです。
この道を敵が大勢で攻め進んで行ったとすると・・・ -
ここからこの先の谷に落ちてしまいます。
先陣を競って、次から次から走り込んで来ると・・・
ここから空中に飛び出してしまって、その後、下の谷底へ向かって、真っ逆さまに落下していきます。
同時に大勢で走りこんでくると、気づいて止まろうとしても止まれずに、次々と谷底に落ちて行くことになります。 -
この道は、先ほどの道の右手にあります。
先ほどの道が、仕掛けだと気づいて慌(あわ)てて、今度はこの道を登って行くと・・・ -
やはり、ここも仕掛けで、このようなところから谷底に落ちてしまいます。
しかし、よく考えてみるとこんな仕掛けは子供だましで、最初、数人が落ちた時点で、それを見た兵が大声で叫んで後続の兵を止めてしまうでしょう。
そのため、ここはせいぜい数十秒ほどの時間稼ぎにしかならないでしょう。
実際に落ちてしまった兵は、鎧(よろい)をつけたままこの急勾配(こうばい)を、またここまでよじ登って来るのは大変なことでしょうが・・・ -
ここにこの城の虎口(こぐち)がありました。
虎口というのは、城の正面入り口のことで、通常は合戦のときの防備のためにいろいろな工夫がなされています。
しかし、この城は山城で、造られた当時はそれほどの大規模な戦いは、想定されていなかったためでしょうか、本当に細い、人が一人ずつ通るのがやっとというぐらいの幅でした。
ジグザグにくねった急勾配の道で、防備には適していましたが、日常の生活には大変不便だったと思われます。
このような小さな虎口が、後の江戸時代の城では、堀に突き出すほどの広い場所へと変化していったようです。 -
虎口の上はこのような屋敷跡でした。
何と天地人ののぼりが立っています。
おお、直江何とかと書いてあります。
何とここは、天地人の主人公の直江兼継の屋敷跡のようです。
おおお、今、ブームとなっている人の屋敷跡がこんなところにあろうとは・・・
これは驚きです! -
でもこの屋敷はもともとは、兼継のために建てられたものではなくて、そのずっと前からここにありました。
長尾家にはもともと直江という重臣がいて、その直江氏がここで生活していたようです。
天地人の主人公の直江兼継は、謙信の時代は樋口与六といい、当時ここに住んでいた直江氏とは、まだ何の関係もなかったようです。
与六は1564年に、景勝が9歳で謙信の養子となったときに、景勝に仕えるために4歳で、この春日山に入ったといわれています。 -
与六は、その後4歳から18歳までの14年間、この山中の景勝の屋敷で、景勝に仕えながら過ごしました。(1564年〜1578年)
景勝の主君であり、叔父(おじ)でもある上杉輝虎(謙信)もまた、この山で暮らしながら、ここから何度も戦(いくさ)に出て勝利し、天下にその名をとどろかせていました。
多くの犠牲者を出した、歴史に名高い第四次川中島の合戦は、既にこの3年前に終わっており、この年は、川中島での最後の戦い(第五次川中島の戦い)が行われました。
その戦いは、60日に及ぶにらみ合いの後、上杉、武田の双方が兵を引いて終わりました。 -
直江屋敷跡からの西向きの眺めです。
この先に富山や加賀があります。
写真の右が日本海、左が信州になります。
川中島は、この左(南)にわずか5〜60kmほど下ったところにあります。
輝虎(謙信)はこの頃(1564年頃)は、関東管領としての職務を遂行(すいこう)するために、武田や北条の他にも、関東の多くの勢力と戦わなければなりませんでした。
そのため関東にも何度も遠征(えんせい)していました。 -
直江屋敷跡から北方を見たところです。
当時は高い木もなくて、もっとよく周囲が見渡せたでしょう。
1569年、輝虎(信玄)は武田氏をけん制するために、北条氏康(うじやす)と同盟を結び、翌年、氏康の七男に自分の幼名、景虎を与え、ここ春日山に養子として迎え入れました。
輝虎(信玄)40歳、景勝15歳、与六10歳のときのことでした。
迎えられた景虎は16歳でした。 -
同じく北方です。
景虎も幼少時は、箱根の寺で僧として過ごし、輝虎(謙信)と同じ境遇で育ってきたため、輝虎(謙信)からはかわいがられていたようです。
景虎を迎えた年、輝虎は謙信と名を変えました。
景勝と景虎は、その後7年間、この春日山城で、共に暮らすことになります。
その間、謙信は西方へ進出し、富山から能登へと進み、織田包囲網を完成させ、信長を滅(ほろ)ぼすための準備が整いました。 -
直江屋敷から山頂の天守閣跡を目指して登っていくと、このような石碑(せきひ)がありました。
毘沙門堂(びしゃもんどう)跡(あと)と書いてあります。
何と、この場所で謙信が毘沙門天に祈っていたようです。
今から460年〜430年ぐらい前に、ここに本物の上杉謙信がいて、お堂の中で、思索(しさく)を練っていたのです。
実際の謙信はどんな人だったのでしょうか?
「ははは、わしはこんな人間じゃ。」 -
と言いながら、謙信が今、ここに現れたとしたら、きっと腰を抜かしてしまうでしょう。
本当に、今にもそのお堂やら謙信やらが現れそうな雰囲気の所でした。
この近くに当時の毘沙門堂が復元されていました。
人ひとり入るのに適したほどの大きさのお堂でした。
NHKのドラマでは毘沙門堂の”堂”と”洞”が混同されているのでしょうか、洞窟(どうくつ)のようなセットになっているようです。
(残念ながらドラマはまだ観ていませんが。) -
毘沙門堂跡の上は本丸跡でした。
たいへん見晴らしのいいところにあります。
謙信はここで生活していたのでしょうか?
広さとしてはそれほど広くはなくて、現在の戸建て住宅がせいぜい1軒か2軒建つほどの広さしかないようです。
それに、こんな山の上に何年も住んでいると、たいそう退屈になってしまうのではないでしょうか?
また、城下に下りるにしても遠いし、帰りにここまで登ってくるのも大変です。 -
北東です。
当時はこの城下は7万人ほどが暮らしていたといいます。
現在の上越市が21万人なので、その3分の1ほどの人口ということになります。
しかし、当時の京都でも10万人ほどといわれており、ここがその京都に次いで2番目だったようです。
ということは、小田原も鎌倉も、大坂も堺も、岐阜や名古屋などの京都以外のすべての町が、ここよりも人が少なかったということになります。 -
本丸跡の隣に天守閣跡がありました。
このあたりが、この春日山城の頂上になります。
城といっても、江戸城や大坂城、名古屋城などと比べるとはるかに狭いところです。
もし、ここに城が建っていたとすると、越後の国主であり、関東管領でもある上杉謙信の居城としては、あまりにも窮屈(きゅうくつ)なところであったことに驚きます。
戦国時代の多くの山城は、こんなところで、戦のときは何百人、何千人という人たちがこもって生活していたと思うと、大変だったと思います。 -
今、ここでキャンプするとしても、100人もいれば、本当に狭(せま)苦しく感じてしまいます。
写真は北東向きです。
直江津の港が見えます。
ここから佐渡ヶ島行きの大型フェリーの定期便が出ているようです。
ここには奈良・平安時代は中央役人の出先機関としての国府がおかれていたので、規模は小さかったかも知れませんが、このあたりの中心地であったと思われます。 -
この春日山城は越後内の西部にあるために、越後の国はこの向き(北東)に広がっていることになります。
守護の上杉氏は、昔の府中であったこの近辺(柏崎市など)を拠点として、越後全域を治めていたようです。
当時の日本の中心はやはり京都で、ここが京に近い上越、この向き(北東)に順に、中越、下越(げえつ)というような感覚で、領地を捉(とら)えていたと思われます。
室町幕府の視点で見ると、この越後や隣の上野(こうずけ)(群馬県)や、相模(さがみ)(神奈川県)などは、一連の地方として、鎌倉府(神奈川県)を中心に治めるという感覚だったようです。 -
南向きです。
室町幕府の頃は、関東一帯で、関東管領の上杉氏とそれを補佐する長尾氏という構図があったようです。
その後、関東管領の上杉氏は、新興(しんこう)勢力の北条氏に押されて、その拠点が鎌倉から上野(こうずけ)に移っていきました。
そして1552年、関東管領の上杉憲政は上野をも追われ、この春日山の長尾景虎(謙信)のところへ逃げ込んできました。
その9年後の1561年には、憲政は景虎に関東管領の職を譲りました。 -
その頃は、北条氏の他にも甲斐(かい)(山梨県)の武田氏などの多くの戦国大名と呼ばれる勢力が台頭し、その領土の拡大を図っていました。
武田氏は、甲斐から信濃(しなの)へと勢力を拡大していました。
その信濃はこの写真の向きです。
この写真の左外の谷(上越自動車道、JR信越本線沿い)を50kmほど南下すれば、川中島(長野市)です。
謙信はそこへ、5度も兵を出し、北上してくる武田信玄と戦いました。(1552年〜64年) -
東向きです。
この下から、写真の左に回り込んで、ここまで登って来ました。
もし、こんなところに、本当に当時の武士がいたとしたら、たいそう驚く・・・
あれ?
あれは何でしょう?
????? -
・・・・・・・・・。
-
天守閣の下の西側斜面にこのような井戸がありました。
山城に井戸?
山城は攻めにくく、守りやすいので、防備上は大変有利です。
しかし、いったん包囲されて水の補給を断たれてしまうと、たちまち窮地(きゅうち)に陥(おちい)ってしまいます。 -
もし、この井戸がなかったとしたら、ここも他の山城と同じように、水を断たれることを考えて、安易(あんい)にここにこもることはできなくなるでしょう。
しかし、このような井戸があれば、いつでもここに戻ってきて、食料が続く限り、何日でもこもって再起を図ることができます。
そのため、個々の戦局で、かなり大胆(だいたん)な作戦をとることもできるはずです。
この井戸の存在こそが、戦国時代最強といわれた上杉軍団を生み出す大きな要因だったのではないでしょうか。 -
水は高いところから低いところに流れるので、このような山頂に井戸があることなど考えられません。
しかし、ここには確かに井戸があります。
しかも案内板には、この水は1年中絶えることはなかったと、書いてあります。
何とこの下には固い岩盤があって、そこに水がたまるようです。
うう〜ん・・・・。
景虎が、生涯(しょうがい)この春日山を本拠地とした理由は、この井戸にあったのかも知れません。 -
井戸からさらに西に下ったところに、謙信の養子の景勝の屋敷跡がありました。
景勝は1564年、9歳で輝虎(謙信)の養子となって、この春日山城に入りましたが、そのときはまだ長尾顕景(あきかげ)と名乗っていました。
顕景は輝虎(謙信)の姉の子(甥(おい))にあたります。
突然に父が死んだので、輝虎の養子としてこの春日山城に引き取られてきました。
しかし、輝虎には妻子がなかったので、この顕景は後継者の候補として、大切にされていたと思われます。 -
輝虎はその3年前の1561年に、関東管領となり、上杉姓を名乗っていましたが、顕景が上杉姓を名乗り始めたのは、その14年後の1575年で、24歳のときのことでした。
そもそも輝虎(謙信)や顕景(景勝)の長尾家は関東の各地で、守護の上杉家を補佐する守護代としての家柄(いえがら)でした。
現代でいえば、代々知事を勤めてきた上杉家に対して、代々副知事を勤めてきた長尾家といったところでしょうか。
しかし、その上杉家当主で関東管領であった上杉憲政が新興勢力の北条家に押されて、この越後に逃げ込んで来て、輝虎に家督を譲ったために、輝虎が上杉姓を名乗って、越後の守護と関東管領職を引き継いでいました。 -
上杉憲政は、この下の直江津の街に館(やかた)を建ててもらって住んでいました。
その館を御館(おたて)といいます。
憲政がここへ来たのは、9歳の顕景(景勝)がここへ来る12年前のことでした。
そのとき、輝虎は22歳、憲政は29歳でした。
当時はこのあたりも高い木はなくて、周囲の景色がよく見渡せたことでしょう。
しかし、ここも屋敷としては狭いところです。 -
当時は与六(兼継)もこの屋敷で顕景に仕えていたと思われます。
この先にも、もう一つ家臣の屋敷跡があるようでしたが、行きませんでした。
今、調べてみると、その家臣は川中島の戦いで先鋒(せんぽう)を務めるなど、勇猛果敢(ゆうもうかかん)で戦では貢献したけれども、最後は織田信長と通じたとみなされて(誤解をうけて?)謙信に討ち取られてしまったようです。
また、天守台に戻って来ました。
正面の景色(東)です。 -
縦堀の説明が書いてあります。
普通、堀といえば横堀です。
横堀は城の周りに城を囲むようにして掘られていて、敵の進入経路を遮断(しゃだん)しています。
それに対して、縦彫りは進入経路に沿って掘られていて、敵が堀の中を進入してくると、両側から狙い撃ちにすることができます。
また、敵の横への動きを封(ふう)じることもできます。 -
これが自然の地形を利用して造られた縦堀です。
もともとは普通の谷でしたが、削(けず)りこんで堀にしてあるようです。
現在は、土や草木に覆(おお)われてしまって、当時の姿はよくわかりません。
こんなところから進入してきたとすれば、進入者にとっては大変です。
急斜面のために堀の外までよじ上れない上に、上から狙い撃ちにされてしまいます。
どうしてもここから攻めなければならないときは、相手の矢がなくなるか、疲れて矢が引けなくなるまで、大軍で次から次から攻め寄せるしかないでしょう。
それでも最後は、この急斜面を何とかして登りきらなければなりません。
そのときは、ここだけで大変な犠牲者を出してしまうでしょう。 -
二の丸跡です。
この上が本丸です。
この二の丸を攻め落とされると、どうなるでしょうか?
この上には、3件ほどの屋敷と本丸と天守閣と毘沙門堂ぐらいしかありません。
そこに収容できる兵の数はせいぜい数百人でしょう。
こんな限られた広さのところに数百人がひしめけば、食料などのことを考えると、数日持ちこたえられればいいところでしょう。 -
この二の丸に圧倒的な数の兵を配置して責め続ければ、斜面の下という位置的な不利はあったとしても、落城は時間の問題でしょう。
守備側の兵も人間ですから、戦い続けることによって、いずれは体力が消耗(しょうもう)して、動けないほどになってしまうでしょう。
そのときが守備隊が全滅し、本丸が陥落(かんらく)するときでしょう。
ということは、援軍が期待できない場合は、この二の丸が陥落した時点で既に勝敗は決してしまうことになり、それから後は、守備兵たちが華々(はなばな)しく散るためだけの舞台ということになるでしょう。
また、敵に攻め込まれない場合にしても、本丸はあんな高いところにあるので、普段の生活はとても不便でしょう。
輝虎が本丸で暮らしていたとすると、あんな狭いところで何日も暮らすと、退屈で仕方がないでしょう。
普段は、この二の丸や、周りの屋敷を頻繁(ひんぱん)に行き来していたに違いありません。
もちろん戦国時代はこんな山の中で駕籠(かご)などを使っていたとは思えないので、毎日こんなところを登ったり下ったりと、とても不便だったのではないでしょうか? -
ここにも井戸があったようです。
ここもこの山では、かなり高いところにあるので、不思議なことです。
やはりここも井戸丸と同じ岩盤があって、地面がこの山に降った雨水を蓄えているのでしょう。
この二の丸も、当時はたくさんの人が働いていたようですが、広さからすると、せいぜい数十人でしょう。 -
二の丸から降りてきました。
写真の左中腹あたりが二の丸で、そこから写真左の道を降りてきました。
途中右に行く道がありますが、そこを進んで行くと虎口やら、直江屋敷やらがあったところに出ます。
この写真の頂上は毘沙門堂あたりでしょうか。
その左に本丸や天守閣があります。
来たときは、この写真の外の右側の道から回り込んで、直江屋敷の方から頂上に登りました。
写真の頂上の左外あたりに本丸があって、その向こう(西側斜面)に井戸丸があり、そのさらに向こう(南西)に景勝の屋敷がありました。
頂上から二の丸へは写真の左外から降りてきました。
さて、この城は、他の有力大名たちの居城と比べて、もうひとつ大きな特徴があります。
それは、ここは日本でも屈指の豪雪(ごうせつ)地帯だということです。
今は温暖化で、積雪量もかなり少なくなっています。 -
ということは、数百年前は、今よりもずっと積雪が多かったということになります。
そのような気候は、戦国時代のこの城にとっては、どのように影響していたのでしょうか。
やはり雪の中を多くの兵が、食料を持って暖をとりながら進むということは大変なことでしょう。
だから他の地域の武将たちは、わざわざ冬場に雪に慣れた越後兵と戦うようなことは、まずしなかったのではないでしょうか。
ということは、ここは寒くて不便だけれども、冬の間はまず安心できるところだったのではないでしょうか。
では、越後兵同士が戦った内乱はどうだったのでしょうか?
これは、詳しく調べてみないとわかりません。
もし、冬場の戦いがあったとすると、雪の中でよろいを着けて戦っている様子を想像すれば、双方共に大変だったのではないでしょうか。
もし、片方が何らかの理由で逃げ始めたとしたらどうでしょう? -
これは、逃げるほうも追う方も実に大変だったと思われます。
雪の中では、体力も相当消耗してしまうでしょう。
そして追いつかれて切られると、雪が真っ赤に染まって、とても惨(むご)い光景になったであろうと思われます。
下る途中に、このような土塁(どるい)跡がありました。
ここが三の丸のようです。
写真は東向きです。 -
土塁の上からの光景です。
北東向きです。
この谷が先ほど見た縦堀です。
来たときは、この道を車で登ってきました。
この写真の左に進んでいけば、あの謙信公の銅像があった広場に着きます。 -
この土塁があるところが三の丸です。
土塁はこの写真の左後ろあたりにあります。
ここは二の丸やこれまでの屋敷跡に比べて、少し広いようです。
おそらくここにいろいろな設備があって、ここでは大勢の人たちが働いていたと思われます。
食料の貯蔵庫跡もありました。
ということは、戦(いくさ)のときは、実際にはここが最後の砦(とりで)となることを想定してあったのでしょう。 -
篭城(ろうじょう)するときは、ここに食料を運び込んで、ここで多くの兵が、交代で休みながら、攻め上ってくる敵を撃退し続けるというようなことが、想定したあったのでしょう。
これならば、この城が難攻不落といわれる城であったことが、十分に納得できます。
何と、謙信が北条氏から養子として向かえた三郎の屋敷がここにあったと書いてあります。
この三郎も天地人の前半の重要な登場人物です。
三郎は北条氏康の七男で、1570年、謙信と氏康との間で結ばれた越相同盟の人質という形でここに入りました。 -
北条氏は伊勢盛時(早雲)が伊豆を支配し、その後小田原城を居城としてその勢力を拡大していきました。
(ブログ「関東の旅 相模編」を見てください。)
北条氏康(うじやす)は盛時の孫にあたります。
氏康の初陣(ういじん)は1530年の15歳のときのことで、相模の国で勝利を収めました。
この春日山城では、その年に虎千代(謙信)が生まれました。 -
虎千代は7歳までこの春日山城で暮らし、その後この山の麓(ふもと)にある林泉寺に入りました。
そのとき長尾家の跡取りとしては既に兄がいたので、虎千代は心置きなく仏門の修行に専念できたのかも知れません。
その翌年の1538年、小田原城では、氏康(23歳)の次男の氏政が生まれました。
虎千代(謙信)が8歳のときのことです。
その3年後の1541年には、氏康の父氏綱が亡くなり、氏康は北条家の3代目当主になりました。 -
虎千代は14歳で元服して景虎となり、19歳で兄に替わって家督を継ぎました。(1549年)
その3年後の1552年には関東管領の上杉憲正を春日城下の御館(おたて)に保護しました。
1554年、景虎が24歳のときに、小田原城では、氏康(39歳)の七男として三郎が生まれました。
ちょうどこの年に、武田、今川、北条の間で三国軍事同盟が結ばれています。
そのためにこの頃の景虎は、同時に信濃(武田)と北関東(北条)での2方面の戦いを強いられていました。 -
その後、北条三郎は箱根の寺に預けられ、仏教の修行を積んだといわれています。
ということは三郎は、林泉寺で修行した虎千代(謙信)と似た境遇で育ったということになります。
1559年には、氏康は氏政(うじまさ)に家督(かとく)を譲り、氏政が北条家4代目の当主となりました。
氏康44歳、氏政21歳、三郎5歳、景虎29歳のときのことです。
その2年後の1561年の3月、景虎は10万の大軍で、北条氏の小田原城を囲みました。 -
このとき景虎は既に、上杉家の家督と関東管領職を譲り受けていたので、関東の治安を整えるという重責を背負っていました。
そのためにはどうしても、(室町幕府の)体制の秩序に従わない北条氏を抑えなければなりませんでした。
この春日山城と小田原は距離にすれば数百kmも離れています。
甲斐には武田がいるので、関東方面から攻めていくことになりますが、当時は関東には大きな勢力はなかったので、比較的容易に進軍することができたと思われます。
結局このときは、北条氏が小田原城を守りぬきました。 -
政虎(謙信)は、何とその数ヵ月後の8月には、今度は信玄の北上を抑えるために信州の川中島に兵を出しました。
そしてこの戦いが、あの多くの犠牲者を出した第四次川中島の戦いとなりました。
(旅行記「ゴールデンウィーク高速道路千円の旅 7 米沢上杉祭り」を見てください。)
その3年後の1564年、甥の長尾顕景(あきかげ)(景勝)を9歳で養子に迎えました。
そしてその6年後の1570年、北条氏との同盟が成立し、氏康の七男の三郎を16歳で養子に迎えました。 -
三郎には自分の初名であった景虎を名乗らせました。
そのとき顕景は15歳でした。
これで、政虎(謙信)は、この春日山城に同じ年頃の二人の養子をかかえることになりました。
景虎の屋敷はこの三の丸に、顕景の屋敷はあの二の丸の裏の屋敷跡にありました。
二人の屋敷間の距離は数百mぐらいでしょうか。
小田原で育った景虎と、越後で育った顕景は仲良く暮らしていたのでしょうか、それとも・・・? -
これは直江屋敷からの西向きの写真です。(再掲)
この向こうは越中(富山県)や能登や加賀(石川県)になります。
その先に京の都があります。
1530年に生まれた謙信は、40年代は越後の混乱を収める戦い、50年代と60年代は信玄や北条氏との戦いに明け暮れていました。
1570年代に入ると、今度はこの方面の戦い(西部戦線)を強いられることになります。
当時はそこは織田信長の勢力範囲でした。 -
最初は信長と同盟を結びながら、一向一揆を収める戦いを行っていました。
しかし、1576年には非道な殺戮(さつりく)を繰り返す信長との同盟破棄(はき)し、信長を討つための包囲網を調えました。
1577年の9月には、大軍で押し寄せる織田信長を撃退し、翌年3月には大軍を集め、今度は謙信が信長を討つための遠征(えんせい)の準備を整えました。
しかしその出発の直前に、謙信はこの春日山城で倒れ、帰らぬ人となり、それにともなって、信長討伐(とうばつ)の遠征も中止となりました。 -
景勝の屋敷跡(東向き)です。(再掲)
この先を少し降りたところにある道を進んで行くと二の丸に出ます。
その下が景虎の屋敷があった三の丸です。
謙信が倒れたのは突然であっため、まだ後継者は、はっきりと定まっていませんでした。
ここに居住する景勝と三の丸に居住する景虎のどちらかが後継者の候補(こうほ)であったことは、ほぼ間違いなかったようです。 -
謙信の死後すぐに、この両者の間で小競(こぜ)り合いが起こり、景勝方はすぐにこの上(左上)にある、本丸を占拠(せんきょ)しました。
そもそも、景勝と景虎は22歳前後でしたが、それぞれに縁(ゆかり)のある家臣たちの利害が複雑にからまっていたと思われます。
景勝は養子に来る前の家(魚沼市)を中心とした勢力に支持されていたでしょうし、景虎はそれに反する勢力や、小田原の北条氏とその同盟する諸国の勢力に支持されていたと思われます。 -
本丸跡です。(再掲)
1578年4月11日、この春日山城内のどこかで謙信は倒れました。
この本丸に居住していたとすれば、ここで倒れた可能性が大きいと思われます。
そして、ここで意識が戻らないまま6日間眠り、4月15日、ここで重臣たちに見守られながら息を引き取りました。
享年(きょうねん)49歳でした。 -
そしてその後の小競り合いの後すぐに、景勝方の兵がこの本丸を占拠して、景虎(三郎)方の兵は、この下の三の丸の屋敷にこもりました。
この本丸には、巨万の軍資金が貯蔵されていたようで、占拠した景勝方は、その軍資金を手に入れました。
この本丸にもっとも近いお屋敷は直江屋敷です。
その屋敷はここへ登ってきたとき、通ってきた屋敷跡(写真の左約100m)にありました。
このような本丸に一番近い屋敷に住んでいたということは、第一の家臣であったことは間違いないでしょう。 -
当主の直江景綱は謙信の父や兄の時代から仕えてきましたが、謙信が倒れるちょうど1年前の3月24日に亡くなりました。
景綱が亡くなった後は、その娘婿(むすめむこ)で謙信の親族でもあった信綱が、直江家を継いでその屋敷に入っていました。
そして、その信綱も景勝方として、そのときこの本丸を占拠していました。
また、景勝に仕えていた与六は元服して樋口兼続(ひぐちかねつぐ)と名乗っていましたが、やはりこのとき景勝方として、この本丸にいました。 -
もしこのとき彼らが素早くこの本丸を占拠しなかったら、軍資金は得られず、景虎を担(かつ)ぐ勢力が北条や武田の財力を使って景勝らを追い詰め、上杉を後継していたでしょう。
そうなれば会津や米沢は上杉とは何の関係もなくなり、このような天地人のブームも起こり得なかったでしょう。 -
この写真の武士が歩いているところは二の丸で、三の丸はその下の右外あたりになります。
景勝たちもここからこのようにして、三の丸に立てこもる景虎たちの様子を見ていたでしょう。
このような微妙な距離を隔てて、両勢力のにらみ合いは、ひと月以上もの間続いていました。
その間にここでの両陣営の対立は越後中に広がっていきました。
そしてさらに、小田原の北条氏やその縁戚(えんせき)関係にあった武田氏をも巻き込んだこう広範囲のものへと拡大されていきました。 -
これは三の丸から本丸を見上げた写真です。(再掲)
あの山頂は景勝らの兵が陣取っていました。
もしも景虎側が、上杉家の後継をねらう意思がなけえば、この時点で服従の意思を伝えていたでしょう。
しかしこのようなにらみ合いを続けていたということは、後継をねらうような行動をとっていたということになります。
山頂を占拠した景勝の書状に”うっぷんを晴らすための行動”とあるようですが、もしそれが事実だとすれば、景虎側の跡目をねらった行動に対して、景勝方が立腹して、本丸を占拠したということになるでしょう。
景虎自身の意思はどうだったのでしょうか?
謙信のように、幼少時は寺で育ち、謙信にかわいがられたようなので、謙信の嫌う、利を追うタイプの人物ではなかったと考えられます。
とすれば、彼もまた実家(北条氏)や景勝方に反する勢力の利害によって、押し上げられていたのではないでしょうか?
そうだとすれば、この三の丸から本丸を見上げていた景虎の気持ちは、実に複雑だったのではないでしょうか? -
一ヶ月以上もにらみ合いが続いた後、ついに景勝方はこの山頂からこちらの三の丸に総攻撃を開始しました。
実際にはどのように攻撃を仕掛けてきたのでしょうか。
この急斜面を駆け下ってきたのでしょうか?
いや、気心の知れた身内同士の争いなので、そのような大掛かりな攻撃ではなくて、この写真の左外の通路から、追い払うように攻め込んで行ったのかも知れません。
その結果、景虎方はこの三の丸を放棄(ほうき)して、春日山の麓(ふもと)へと避難しました。
城下の御館(おたて)には、上杉憲政(のりまさ)が住んでいました。
謙信を養子にして関東管領(かんれい)を譲った人物です。
ということは、景勝にとっても景虎にとっても憲政は義理の祖父ということになります。
景虎はその憲政の御館に避難して、そこに立てこもりました。
そのため、この戦いは”御館の乱”と呼ばれるようになりました。 -
城下の方向(北東)です。
手前の谷が縦堀で、三の丸は写真の右外にありました。
景虎方はその三の丸から、城下の方へ避難しました。
御館はこの少し左(北)にあります。 -
直江津駅の向き(北東)です。(写真は再掲)
直江津駅のすぐ南あたりに御館がありました。
春日山の景勝たちから、景虎が立てこもる御館はこのように見えていたのでしょう。
そしてこの後、越後を二分する戦いが繰り広げられていきました。
最初は景虎方が有利でしたが、景勝方は本丸で得た大金を使って武田と和睦(わぼく)し、形勢を逆転させました。 -
雪の季節が終わりかけた頃、和睦(わぼく)を求めて御館を出た憲正が殺害され、御館を脱出して小田原に逃れようとしていた景虎も、ここから数十キロ南下した辺りの城で自害させられました。
謙信の死後、ちょうど1年後のことです。
その後も各地で戦いが続きましたが、それからさらに一年ほどして、御館の乱はついに集結を迎えました。
その翌年、景勝の側近の直江信綱が殺害される事件が起き、信綱には子がなかったため、代々の長尾家の家臣であった直江家が途絶えることになってしまいました。 -
そこで、樋口与六が信綱の妻、船を娶(めと)って直江家を継ぎ、直江兼継としてあの春日山城山頂の直江屋敷に入りました。
こうして天地人の主人公、直江兼継が誕生しました。
その後、新発田城(新発田市)の新発田重家が反乱を起こし、景勝は新潟まで出向いて戦いました。
(旅行記「10 新潟市内巡り」を見てください。)
その乱はさらに7年もの間続きました。 -
謙信公の銅像のところまで降りてくると、そこにこのような武士がいました。
二の丸のあたりを歩いていた武士のようです。
どうせ、タイムトリップの研究か何かで、この時代に運ばれて来てしまったのでしょう。
後ろに謙信の銅像が見えます。
行くときはここを右から進んで、登って行きました。
帰りは、左の道から下りてきました。
もっと迫力のある写真を撮りたくなったので、武士に尋ねてみました。
「すみません、その刀は抜けますか? あ、いや、作り物ですね。抜けませんね?」
(こんなところで刀を抜くと観光客を驚かせてしまうので、きっと抜けないような造りになっているのでしょう。) -
「抜けます!」
ええ? ウソッ!
シャキ〜ン!!!
あ、あああ、ま、待って!
切らないで〜〜〜!
ああああ、ああ〜〜〜・・・・・・ -
謙信公の銅像はこの写真の左上にあります。
そこから左を見たところです。
来たときはここからこの向きに進んでいきました。
この奥の左に春日山神社があります。
右には上越市の市街が広がっています。
この後、車でこの右の道から下って行きました。
ここへ登って来た道です。 -
春日山から下りてきました。
来たときもここを通りました。
ここも天地人に関する何かが展示してあるようです。
来たときは早すぎてまだ開いていませんでした。 -
林泉寺にやって来ました。
西向きです。
春日山はこの左上の方向です。 -
ここは謙信が幼い頃、預けられていたところです。
この寺で、戦国史上最強とうたわれた上杉謙信の人格が作り上げられていきました。 -
やはり天地人の影響でしょうか、多くの人が訪れていました。
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周りはこぎれいに整えられています。
昔はもっと、違った雰囲気だったのでしょう。 -
山門は復元でしょうか。
昔は瓦(かわら)ももっと粗雑なものだったでしょう。 -
参拝者が次々に鐘を突いて、ゴンゴンと煩(うるさ)かったのでしょうか、今は突くのを禁止されています。
-
こちらは宝物館です。
-
こちらは謙信の墓です。
やはり多くの人が参っていました。 -
これは川中島の戦いでの戦死者の供養塔です。
第四次の戦いでは上杉方3千人、武田方4千人もの人が亡くなったということです。
戦場は至るところで血にまみれた兵士たちのうめき声が響き、実に惨憺(さんたん)たる光景だったでしょう。
兵士の多くは普通の農民で、あまり深く理解しないまま、戦って勝たなければ自分たちの生活は保障されないという状況の中で、死んでいったのでしょう。
謙信も当然このような犠牲を払いたくはなかったに違いありません。
いつものようににらみ合ったまま、お互いにけん制し合って、事を収めようとしていたのではないでしょうか。
現在で言えば核兵器による戦争の抑止力(よくしりょく)のようなものに頼っていたのかも知れません。
しかし、そのような幻想は何かのきっかけで、もろくも崩れ去ってしまいます。
武田方がきつつき戦法で仕掛けてきたため、止むを得ず、夜、粛々(しゅくしゅく)と川を渡って、もはや避けられない戦闘に突入していったのではないでしょうか。 -
これが謙信の墓です。
謙信の遺骸(いがい)は、後に景勝が会津、米沢と
転封となったときに、その都度移され、現在は米沢の上杉神社に安置してあります。
(何と、次回ブログでは、奇(く)しくも私は再び米沢を訪れ、その神社に参ることになります。やはり何か謙信と因縁(いんねん)のようなものがあるのかも知れません。次回も乞(こ)うご期待!) -
宝物館です。
入ってみると、謙信や景勝に関連した衣装や書状などが収めてありました。
撮影禁止でした。 -
山門を出ました。
ほとんど当時のままのようです。 -
このように駐車場はいっぱいでした。
-
直江津の駅前でも天地人に関する企画展示をしているところがありました。
その会場はこの写真の左後ろです。
ところで、正面のあの建物は何でしょうか? -
あ?
あれ? あれ? あれ?
あんな高いところを自転車のようなものが進んでいきます。
お、おったまげたべぇ!
(今、東北地方のある街でこれを書いているので、ごく自然にこんな表現になってしまいました。) -
西向きです。
昔はこの直江津の港は、北前船(日本海北方と上方(かみがた)を結ぶ船)の寄港地として多くの船で賑(にぎ)わっていたことでしょう。 -
何と私はずっと昔の高校生の時代にこの直江津で記念写真を撮っていました。
信州で大学受験のためのサマースクールに参加した帰りに、列車の接続待ちをしていたときに、通りすがりの人に撮ってもらったものでした。
そのため、ここがマイヒス(自分史)の中では長い間、国内で訪れた最北の地となっていました。 -
その後、職場の旅行で新潟空港から佐渡ヶ島に渡ったので、それが2度目の新潟訪問となりました。
そのため新潟県を訪れるのは今回で3度目になります。
私はこれまで新潟とは、時代劇の”越後屋”のようなイメージが強すぎて、常に私腹を肥やそうとしている腹黒い人が多いのではないかというひどい偏見を持っていました。
しかし今回の旅で謙信のことを知り、謙信を信奉するような”心に曇りなき人”たちも多いということを知って、とても嬉しく思いました。
私もここで、謙信から人間として大切なことを教えられたような気持ちになりました。 -
ここが天地人のイベント会場です。
ここでは、NHKのドラマの撮影セットが再現されていました。 -
ポスターです。
この人が、主人公の直江兼継役の俳優で、上杉祭のゲストとして米沢に来ていました。 -
内部は撮影OKでした。
-
左は小道具置き場で、奥の部屋がスタジオです。
-
小道具です。
本当の撮影のときも、このようにして置いてあるようです。 -
おお、ここで衣装を来て写真を撮ってもらえるようです。
-
はい、ポーズ!
カシャ! -
さあ、私の番です。
まずは立ったままで・・・
カシャ! -
次は座って・・・
カシャ!
うう〜ん、戦国時代の大名は、このように実に質素なものだったようです。
部屋も狭〜い!
志村けんさんが演じるような、江戸時代の殿様とは大きな違いです。 -
ハイ、もう一枚・・・
カシャ!
セットの部屋の後ろはこのように通路になっていて、スタッフなどが通れるようになっています。
後ろの階段は何と、壁に絵が張ってあるだけです。
こうして見ると、奥行きのある階段に見えます。 -
次の人も、はいポーズ!
カシャ! -
これが実際のドラマでの様子です。
こんな狭いところに十数人もの人が座っています。
実際の本丸跡もこのような広さでした。
本当にこの頃の城は、江戸時代の城とは大違いです。 -
ここで、この人と並んで記念撮影ができるようです。
あまりにも作り物っぽかったので、頼んでシャッターを押してもらうほどのこともないと思ったので、このまま・・・
カシャ!
でもこうして見ると、上半身を撮れば本物のように見えたかも知れません。
う〜ん、残念! -
帰路につきました。
富山県のパーキングエリアです。
後ろは北アルプスの山々です。
5月初旬の風景です。 -
さあ、これで今回の旅も終わりです。
今回は、生まれて初めて福島県を訪れた、記念すべき旅でした。
山形県(米沢)も初めてでした。
今回もこれまで知らなかったたくさんの風景と出会えた、とてもいい旅になりました。
きっとこの旅も、これからずっと私の心に残り続けるでしょう。
う〜ん、旅って本当にいいですね! -
さあ、明日からはまた仕事です。
気持ちを切り替えて、頑張らねばなりません。
では、また!
さようなら!
(完)
ゴールデンウィーク高速道路千円の旅 09春 [写真版] セレクション http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10359649/
福島の旅 吾妻小富士と浄土平 09春 [写真版] http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10335795/
福島の旅 東北サファリパーク 09春 [写真版] http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10339471/
福島の旅 磐梯山 幻の滝 09春 [写真版] http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10335675/
※ 次回の旅は東北6県と函館です。(http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10363862/)
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