インド旅行記(ブログ) 一覧に戻る
タージマハルとアグラ、シカンドラ〜マトゥラーへー6月30日(土)<br />今回のインド旅行は、昨年割愛した鹿野苑参拝とインド仏教の新しい風、ナグプールの現状を視察することが最大の目的だから、この日の二つの世界遺産の見学は付け足しのようなものだ。しかしインド観光としては、最大級のスポットとなる。インドでは2日前の28日に雨期入したとのことだが、それにしても、我々の行く手は不思議なことに、乗り継ぎのため立ち寄った台北以外は全く快晴に近い日々を迎えている。この日も真っ青な空。予定時間にはロビーにガイドのシブ氏が来た。早速車上の人となり、10分ほどでタージマハル入り口に到着。<br />ここで電動マイクロバスに乗り換えた。世界遺産の環境を保全するため、ガソリン車等は乗り入れが禁じられているとの説明。200メートルほどの参道を進むと、受付のある外門に到り下車した。ヤムナー河右岸に聳えるタージマハルはイスラム教を奉ずるムガール帝国の第五代皇帝シャー・ジャハーンが最愛の后ムムタズ・マハルのために22年間を費やして建設した霊廟であり、これは当時の民心を帝国の中心に向けるための政策的意味合いが強かったものと思われる。それは日本の日光東照宮の役割に似ているようだ。一旦ホテルに戻り、朝食後、9時30分荷物をまとめてホテルを出発した。10分ほどでシャー・ジャハーン皇帝が住んだアグラ城を見学。50分ほどの見学後、更に50分ほど離れたシカンドラに参詣。後者は第三代皇帝アクバルの霊廟であるが、アグラから少し離れたところにあるため、多くの観光客が訪れるわけではない。<br />マトゥラーの博物館とナタヴァタ寺院遺跡に行くー6月30日(土)<br />正午過ぎにシカンドラを出て、マトゥラーへ向かう高速道路の傍らにあるレストランで昼食をとったのは午後一時を過ぎていた。食後さらに高速道路を経由してマトゥラーの交差点―と言っても信号がなく、もちろん側道から立体交差するのでない。高速道路の中央分離帯の切れ目を、対向車の来ないのを確認して右折し、踏み切りを通り抜け市街地に入った。そこに民間の料金所があり20ルピーを支払った。地方の都市では別の地区からきて市街地に入る車は必ず入域料を払う事になっているのだという。午後2時ころ博物館に着いた。<br />マトゥラー市はデリーの南東145キロ、アグラの北西58キロに位置し、人口29万8827人(2001年現在)を擁するヤムナー河西岸のウッタル・プラデシュ州に属する都市であり、ここは「クリシュナ」の生誕地として知られ、ヒンドゥー教の聖地である。マウリヤ、シュンガ、クシャーン、グプタの各王朝期には仏教徒の修行の中心地だった。20ある仏教僧院に3000人もの僧侶が押し寄せた時代もあったという。ことにシュンガ朝期の彫像は優れており、ガンダーラの仏像と並び称されるいわゆるマトゥラー仏として注目を浴びている。8世紀になり、インドの北部全体でヒンドゥー教が仏教を駆逐すると、街は衰退し始めた。1017年には、アフガンの将軍ガズニーが仏教とヒンドゥー教の寺院の大部分を破壊し、征服を完了した。一六世紀に入り、マトゥラーがクリシュナの生誕の地(クリシュナ・ジャンマブーミー)であることをヒンドゥー教徒の学者が確認すると、街の復興が始まった。だが、その活動は、アウラングゼーブ帝がケサヴァデオ寺院 Kesava Deo Templeを破壊し、この寺院跡にモスクを建設して頓挫した。1757年、マトゥラーはアフガンのアブダリ王によって焼き払われた。しかしその後、重要な宗教的伝統があるマトゥラーは立ち直り、1982年にはバグワット・バガン寺院が建てられ、今日は多くの人々で賑わう宗教都市となっている。8〜9月に行われるジャンマ・アシュタミー Janmastami(クリシュナの誕生日)のお祭りの時は、ほとんど身動きがとれなくなるほどの人出があり、ドワルカドヒーシュ寺Dwarkadheesh Templeは全体的に装飾が施され、数千もの巡礼者とサードゥ Sadhus (ヒンドゥー教の行者)がクリシュナ誕生を感謝するために訪れるといわれている。<br />マトゥラー博物館は有名な割に、入場はいたって簡単で、入場料20ルピーとビデオの持ち込み料を払えば出入りは自由だった。館内は赤茶けて、丸みを帯びたマトゥラー彫刻が所狭しと並べられていた。この博物館の彫像を鑑賞するのが目的だが、私はもう一つ重要な目的があった。それは、紀元前3世紀のころ、―つまりブツダ滅後100年を経過したころ、この街のウルマンダ山にあるナタ・ヴァタ精舎に住んだウパグプタ比丘の遺跡を是非訪ねてみたいと思っていた。それゆえ事前に各方面からその情報を集めようとしたが、残念ながらはかばかしくなかった。<br />ウパグプタ比丘の住んだナタ・ヴァタ精舎遺跡を訪問<br />ウパグプタ比丘は古来禅門では<br />釈迦牟尼―摩訶迦葉―阿難陀ー商那和修―優婆麹多<br />と五代目の法灯を継承した祖師としてあがめられている。この人の物語は『阿育王経』『付法蔵因縁伝』などに出ている。それらを要約するとおよそ以下の様なものとなる。<br />そのむかしブツダがマトゥラー国に出向いた時の事、青い林が連なり、その林の樹木が非常によく繁茂しているのを見て、弟子のアーナンダに言った。「そこの美しい林はウルマンダ山という山であり、私が涅槃に入って100年の後に、香木商人の息子にウパグプタという者が生まれ、この山に寺を建てるが、それはナタ・ヴァタ精舎という。ここで大いに仏法を世に広めることになるだろう」と予言された。ナタ・ヴァタ精舎というのはナタとヴァタという兄弟二人がウパグプタ尊者のために力を合わせて建立して寄進したと伝えられている。<br />紀元前3世紀のころ、この街に住んだウパグプタ比丘(優婆麹多大和尚)は「無相好仏」と呼ばれ、仏の相好が少し足らないだけで、ブツダと同じ徳を備えていた。この比丘がマトゥラーの郊外ウルマンダ山のナタ・ヴァタ精舎で多くの出家修行者を指導していたが、その名声がやがてパータリプトラ(現在のパトナー)に都したアショーカ王の知る所となり、王をブッダの聖跡に案内し、多くの石柱や仏塔を建立する基となった。以上がその物語の骨格である。『国訳一切経』の「付法蔵因縁伝」の注記には次のように記されている。<br />商那和修は摩突羅の地に布教せりとす。現在、彼の弟子の優婆麹多の伽藍は遺存するも、彼の寺院址は明らかならず。現在のMuttra 市の南部にはサブタルシン・ティラー(tilaaはヒンズー語にて丘塚の意)とドウルヴ・ティラーあり。西部にはカンカリー・ティラー。西北部にはチャウラーシ・ティラー。マハーヴィドヤー・ティラー。アンバリーカ・ティラー等あり。何れも古代仏教の遺址なり。<br />玄奘三蔵の『大唐西域記』の「秣莵羅國」には次のように記されている。<br />マトゥラー国の周囲は五千余里であり、国の中心市街地は二〇余里に及んでいる。・・・・・・・伽藍は二十余箇所、僧侶は二千余人である。大乗と小乗の仏教を兼学する者が多い。通俗神を祀る祠が五箇所あって、そこにはそれぞれの修行を励むものがいる。また三つの仏塔があるが、これらは全てアショーカ王が建立したものである。また過去四仏の遺跡がかなり多く見られ、釈迦如来の弟子の遺骨を祀る仏塔も見られる。それらはシャーリープトラ、モッガラーナ、プールナマイトラーヤニプッタ、ウパーリ、アーナンダ、ラーフラ、マンジュシュリ等の弟子や菩薩のものである。・・・・・街の中心から東に五〜六里行った所に一つの山の伽藍に至る。そこは崖を抉って居室となし、谷にそって門をかたどっている。これはウパグプタ尊者が建てたものである。またそこにはブツダの爪の仏塔がある。伽藍の北側の岩の間にも石室がある。高さは二十余尺、広さは三十余尺である。その石室の中には長さ四寸の細い数取りの串が積み上げられている。ウパグプタ尊者が説法し,夫妻を教え導いて、夫婦共に無学の道を覚った場合は一つの数取り串を石室に投げ入れたのである。覚りを開いた者は、随分いたが、夫婦でなかったり、他の部族出身者などは一々数え切れない。石室の東南へ二十四〜五里ほどの所に大きな涸れ池があり、その傍らに仏塔が建てられている。むかしブツダがここを通りかかったとき、猿が蜜をブツダに差し上げたので、ブツダはそれに水を加えて大勢の弟子たちに飲ませた。その様子を見た猿は喜びすぎて穴に落ちて死んだが、その功徳によって人間に生まれる事ができた。池の北側であまり遠くない所に大きな林があり、そこは過去の四仏がむかし経行(坐禅の合間に静かに歩すること)された遺跡があり、その側にはシャーリープトラ、モッガラーナ等千二百五十人の阿羅漢果を得た仏弟子が坐禅修行した場所があり、そこには仏塔が建てられ、そのことを顕彰している。<br />少し長文となったが、国訳一切経から現代語訳してみた。この中に玄奘は具体的な方角と距離を上げている。玄奘の記す里程は周の1里が405メートルであるから、それによるべきだが、前編ルンビニの項で指摘したように1里を320メートルするのが妥当なので、これによって算出すると、「国の中心市街地は20余里」とは現今の6.4キロメートルとなる。また『西域記』ではウパグプタ尊者の住んだ石室について記されるが、ここが具体的にウルマンダ山のナタ・ヴァタ精舎であるとは書かれていない。しかしその他の記述などを総合するとここがやはりウルマンダ山であり、ナタ・ヴァタ精舎であると見るのが自然だ。その位置は「街の中心から東に5〜6里行った所」となっているので、先の計算式に当てはめ、仮に六里とすれば、320X6=1920となる。これは2キロ弱であり、現在の市街地が二千三百年以前のものと同じとすれば、どのあたりかは大方想定できる。ただし、当時の市街地は現在の市街地に比べ、もう少し南に在ったとされるので、それも考慮に入れるべきであろう。ところで今回の訪問に当たって、日本国内での事前調査ははかばかしくなかったが、昨晩アグラのホテルで逢ったガイドのシブ氏は、その日のうちに、知人でマトゥラー博物館の研修生であるビナヤ、クマル氏に連絡を取ってくれたので、私たちはこの人の案内で、博物館から北へ3キロ程行った遺跡に案内して戴いた。これについては同博物館のシャルマ学芸員も指摘しておられた。ただしシャルマ氏の説明ではウルマンダ山は現在「ムチュリンダ山」といい、その場所はマトゥラー市の北方に位置するヴリンダーヴァンの北にあり、またナタヴァタ精舎遺跡は現在ナット・バット・ヴィハーラ(Nat wat vihar)といい、こちらは博物館からそれほど離れていないとの事であった。シャルマ氏は別に幾つかの仏教遺跡も確認されているといわれたが、私はナタ・ヴァタ精舎遺跡の調査を優先した。博物館から自動車で15分ほど走った高速国道の西側でクリシュナの生誕地(クリシュナ・ジャンム・ヴフーミ)及びモスクの少し北側の住宅地の道を左折して三百メートルほど入ったところに高さ15メートル、周囲400百メートルほどの小高い丘があった。南側から見上げるとちょうど双子山のようになり、右手の丘は2メートルほど高くなり、左手の丘は右手の丘に寄り添う形で右手の丘より三倍程度はある。ヴィナヤ氏は「ここがナタヴァタ精舎遺跡といわれる所です。確定的な証拠はないですが、マトゥラー博物館ではここをそれにあてています。またこのあたりはゴーバルドン地区に当たります。」と語った。ここからも数点の仏像などが発見されて、それは現在博物館に収蔵されているとの事であった。周囲は既に宅地化が進んでおり、私が「ここの保存計画はないのですか」と質問すると、彼は「いずれはここも取り壊されて住宅か工場になると思う」という、何とも頼りない返事を寄せてきた。私はここで日本から持参した線香をたき、読経礼拝をした。遺跡の上に登ると周囲が平地のためか、かなり遠くまで見渡すことができた。インド政府や市当局の積極的な保存を願ってやまなかった。<br />次にヴィナヤ氏はゴービンダ・ナガル遺跡に案内してくれた。ここで博物館に展示されている多くの彫像が発掘された。また『西域記』の「マトゥラー国」の注記には次のように出ている。 <br />   仏陀時代の16大国の一。釈尊曽てこの地に遊化され、のち優婆麹多が出て大いに仏教を興隆した。アショーカ王の三塔、優婆麹多伽藍、舎利子及びサル塔などの遺跡は現存し、近時、古城址(今のMuttra 市の南)から多数の仏像、貴霜王朝の刻文、崛多王朝の石柱及び彫刻、迦膩色迦王像などが発見された。<br /> これらの記述について博物館のシャルマ氏に質問したが、彼は「アショーカ王の三塔」の遺跡は確認されていないと答えた。余談になるが博物館でのシャルマ氏との会話の中で彼は「4年ほど以前に日本を訪問し、名古屋にも行きました。」と話された。その時はあまり意識しなかったが、実は平成14年10月から翌年8月にかけて、東京国立博物館、広島県立美術館、名古屋市博物館、奈良国立博物館の四会場で順次「インド・マトゥラー彫刻展」と「パキスタン・ガンダーラ彫刻展」が開かれた。私も名古屋の展示会を訪れ、これらの彫刻を興味深く鑑賞した。しかもその展示会に併せてNHKが発行した冊子にはヴァーラナシー・インド文化研究所顧問」の肩書きでR.Cシャルマ氏が執筆していたのであった。これらはすべて帰国後、当時の資料を読み直して確認した。ただし私たちがマトゥラー博物館で逢ったのはシャトシュガイ・シャルマ(Shatsughay Sharma)と自己紹介されたので、R.Cシャルマ氏とは別人かもしれない。<br />  ウパグプタ比丘とアショーカ王の物語<br />『阿育王経』 にこんな話が出ている。ある時ブツダ世尊が大道を歩いておられると、路上にジャヤとビジャヤという二人の少年が遊んでいた。気品に溢れた修行僧が托鉢しているのを見たジャヤ少年は泥をこねてダンゴを作って、世尊の鉢に恭しく差し出したが、これを見ていたビジャヤ少年は「今ここに生死の苦しみを解脱された慈悲深く、後光に飾られた方が居られる。この方こそブツダ世尊に違いない。供養する物を何も持たない私たちは、手元にある泥をこねてダンゴとしてご供養申し上げます。」と歌を吟んだ。ブツダ世尊は微笑してその少年の供養を受けられた。世尊は傍らにいたアーナンダに向かい「この少年は私が涅槃に入って百年の後パータリプトラの街に出て、王となり、名をアショーカと名づけ、正法を敬い、仏舎利を供養して八万四千の仏塔を建立し、多くの人を救済することになる。」と予言を与えた。これが有名な「アショーカ王授記」の物語だ。日本人は現実的な国民のためか、あまり授記=予言というものを大切にしないが、インド人にとって偉大な人格者からの予言はある意味では絶対性を持っているようだ。つまりアショーカ王の出現は、その前世においてブツダ世尊に子供ながら真心を込めてご供養申し上げた行為が報われて四天下を徳で統治する転輪聖王となったという、現実問題を過去世に遡及させて構成する説話なのだ。アショーカ王については今日かなり詳しい伝記がまとめられており 、大略以下の通り。<br />マウリヤ王朝(首都パータリプトラ)の【初代国王】チャンドラグプタ(位前317頃-前296頃)は紀元前4世紀末にナンダ王朝を滅ぼしてマガダ国を支配し、ガンジス川・インダス川の両流域とデカン高原の一部を統一した。<br />この王朝の三代国王がアショーカ(位前268頃-前232頃)であり、この王朝が最盛期、帝国領域最大となった。即位当初は周囲の国と激しく争い、悪名を馳せたが、【即位後八年】カリンガを征服。数10万人の犠牲者が出たのを機に、仏教に帰依し、ダルマ(法)の政治を決意する。<br />ダルマという語は、真理、法律、義務、正義、生活規範などの広い意味をもち、単に仏教の教えという意味だけではありません。<br /> また、アショーカの政策は仏教を強制するものではなく、他宗教への寛容もあわせもっていたようだ。<br />「アショーカは碑文のなかで、すべての宗教に対する保護を宣言し、仏教をバラモン教やジャイナ教と対等な一宗教として扱っている。・・・仏教信仰がダルマの理念の基礎にあることは確かであるが、アショーカはその政治において仏教色を出さないよう配慮している。かれのダルマは宗教ではなく、あくまでも帝国統治のための理念である。」とされている。<br />即位後8年をへて、神々に愛せられたるプリヤダルシン(アショーカ)王は、【カリンガ】を征服した。この戦争で15万人は捕虜として移送され、10万人はそこで殺され、またその数倍の人々が死んだ。そしていまや【カリンガ】を征服して、神々に愛せられたる王は{法}の実行、{法}への愛、{法}の教えに励んだ。かく王は【カリンガ】を征服して、後悔がおこった。未征服地の征服でおこる人々の戦死、殺戮と移送は、神々に愛せられたる王が思うに、深い悲しみと嘆きである。<br />(江上波夫 監修 『新訳 世界史史料・名言集』 山川出版社 より、アショーカ王詔勅刻文)<br />ここで注目すべきことはアショーカ王の在位年代が、かなり高い確率で前268頃から前232頃とされている事であり、宇井伯壽博士と中村元博士はこの年代に注目して、「ブツダの生没年代を仏陀の誕生は北伝と南伝で多少の相違があるが、宇井伯壽博士は北伝説とアショーカ王即位の年代との関係及び仏滅116後にアショーカ王即位との考証から仏陀の誕生を紀元前466年とする説を立てたが、中村元博士はこの説を継承しながら、アショーカ王即位の年代を宇井説から3年下げて268とし、仏陀の年代を紀元前463〜383に修正した。現在この説が最も有力と見られる。」と主張した。この事からさらにアショーカ王を教化したウパグプタ比丘の生没年代も大略想定できる。北伝仏教ではウパグプタ比丘とアショーカ王は共に仏涅槃後百年に出現するとなっているので、二人の年代は同時代となる。<br />『阿育王経』に「ブツダがウパグプタ比丘に予言を与えられた因縁」という段があり、そこに興味深い物語がある。それはブツダがアーナンダと共にマトゥラーに赴いた折、アーナンダに対して、ウパグプタ比丘がウルマンダ山で多くの人を導くであろうと語っているが、その際にウパグプタ比丘の前世話を紹介している。それはむかしこのウルマンダ山の三つの麓にそれぞれ500人の羅漢と、五百人の仙人と、さらに500匹の猿の群れが別々に住んでいた。猿の群れの親分はある時、羅漢の修行場所に行き、羅漢たちの端正な坐禅姿に非常な感銘を受け、初めは森の木の実や花を取ってきて羅漢に供養していたが、終には僧の末席に坐り、見よう見まねの坐禅をするようになり、こうした供養と坐禅の日々を数日続ける事となった。所が何日かすると羅漢たちは皆坐禅したまま涅槃に入ったために猿の親分の供養を受けなくなった。猿はそのことを非常に悲しんで、別の谷で難行苦行に励んでいる仙人たちの所に行った。仙人たちは羅漢とは異なり、刺の生えた荊の上に寝転んだり、灰土の上に横たわり、種々な炎で体を焼いているのを見て、「この修行は間違っている」と考え、猿の仲間とともに水をかけて火を消し、寝ている灰土を掃き集めて仙人の手の届かない場所に片付け、体に刺さった刺は全て抜き去って、その修行の過ちを正したが、仙人はそれでも木の枝に両手を縛り付けてぶら下がったりした。猿はそれも止めさせ、羅漢たちの行った端正な姿の坐禅を仙人に教え、実際にその坐禅をやらせて「このような修行をしなくてはならない」と言った。それによって仙人たちは皆一様に端正な姿の坐禅をするようになり、やがてそれぞれ羅漢の悟りを開いたので、今度は反対に羅漢となった五百人の仙人が端正な坐禅をする500匹の猿に木の実や花を供えて供養するようになった。そうしたある日、坐禅する猿たちが皆涅槃に入ったために、500の羅漢は猿たちを荼毘に付して大切に供養した。ブツダはアーナンダに語った。「この500の仙人に坐禪を教えた猿の親分こそ未来世のウパグプタであり、私が涅槃に入って後百年後にウルマンダ山でさらに多くの衆生を導くだろう。」と予言したのだった。<br />『阿育王経』はもう一つ興味深い物語を伝えている。それはカリンガ征伐で多くの良民を殺した罪悪を悔い、深く仏教に帰依したアショーカ王は、多くの仏寺を建立し、その中で王都パータリプトラに一際立派に作られたクルクターラーマ(鶏寺)の長老ヤサを訪ねて、ヤサ長老に対して「私は前世においてブツダに泥をこねたダンゴを供養した善業によって仏陀からブツダ涅槃の百年後パータリプトラで転輪聖王となって仏法を守るだろう。」と予言を受けましたが、仏陀は別な予言はされなかったのでしょうか。」と質問したために、ヤサ長老はウパグプタへの予言と、そのウパグプタが現にマトゥラーのナタ・ヴァタ寺に居られると話したために、アショーカ王とウパグプタの運命の出逢いがもたらされた事が書かれている。王は当初ウパグプタをパータリプトラに呼び寄せようとしたが、側近が「尊い覚りを開かれた仏法の体現者は大切に敬わなくてはならないから直接マトゥラーに出かけましょう。」と進言をしからだ。それを聞いたウパグプタが「王がここに出向くとなると道路の整備や接待のために良民に多大な重労働を強いるので、私が都に行きましょう。」と言って舟をヤムナー川に浮かべパータリプトラに行き、王と出逢ったと書かれている。<br />以上、このマトゥラーはアショーカ王とウパグプタを結びつけた非常に重要な場所と理解されるのだが、この事が従来あまり知られず、マトゥラーに出かける日本人仏教徒も「ナタ・ヴァタ寺」のあった事さえ知らない者が多いので、少し冗長になったが紹介した。ナタ・ヴァタ寺遺跡の見学を終えて私たちは、一旦マトゥラー駅近くのホテルのレストランで休息し、午後6時半ころに駅に到着した。ここではガイドのシブ氏がアグラへ帰るため私たちと同列車の乗車券を購入しようとしたが叶わず、別行動となった。  ナグプールに見るインド仏教の現状<br />    ナグプールと佐々井長老の情報収集から<br />今回私がナグプールの仏教事情視察を試みたのは、昨年、祇園精舎、ルンビニ、クシナガラ、ヴェーシャリー、ナーランダ、霊鷲山、ブッダガヤ等の佛跡を巡拝し、ほぼインド仏教の過去の遺産を回ったことから、今年は進んで現在のインド社会に仏教がどのように拘わっているかという、現在及び未来における仏教の現状に触れたかったからであった。それには50年以前にアンベードカル博士がヒンドゥー教から36万人(当事者発表では60万人)と共に仏教へと集団改宗をしたマハラシュトラ州のナグプールへ行くのが当然の結論だった。ただ現地のことについては全く知り合いもいなければ、一体どこを訪問すればよいのか皆目分からなかった。しかし現代社会はインターネットという情報収集の優れた協力者がある。それは神奈川県の田口直道氏と小豆島の円満寺瀬尾師のホームページの記述であり、最初に回答があったのは田口氏であった。<br /> 夜行列車でナグプールヘー6月30日(土)〜7月1日(日)<br />列車はほぼ定刻どおり19時42分マトゥラー駅に入ってきた。例の如くポーターに依頼して私たちの乗る車両まで荷物と私たちを届けてもらって、無事車中の人となった。アグラまでの区間は前の席にフランス人の新婚さんが乗車していて、多いにはしゃいでいたが、アグラからは4歳くらいの男の子を連れたインド人夫婦と一緒だった。<br />私たちが夜行列車でデカン高原の森林地帯を経由してナグプールに着いたのは13時20分であった。到着予定時刻は9時30分だから、予定より3時間50分遅れたので、正味18時間40分乗車していたことになる。途中の駅ではのどかな高原情緒にも出逢い、車窓は雨にぬれていたが、ナグプールが近づいてくると雨は上がっていた。デリーの近くでも、またナグプールの駅近くでも、ともかく大都市が近づいてくると、それまでの田園地帯や、森林地帯から一気に住宅や工場などが増えてくるのだが、それらの立派な家屋とは別に夥しいほどの破れ家が目に止まってくる。多くは崩れかけた煉瓦積みの囲いに、シートや板切れなどを乗せただけのものや、あるいは原っぱに破れたテントを張って、雨風が容赦なく入り込んできて、とても住居とは呼べないような代物が何十、何百と目に入ってくる。ナグプールは人口220万人を擁するマハラシュトラ州では州都ムンバイに次ぐ大都市のはずなのに、その行政はいったいどうなっているのだろうか。またナグプールは仏教徒の街として教育文化が整っていると聞いてきたが、これらの人はヒンドゥー教徒なのだろうか、はたまた仏教徒なのだろうか、よく分からない。また仏教徒の家は空色の布(ブルー・フラッグ)が家に掲げられていて、仏教徒と分かると言われてきたが、それらも掛けられてはいない。そんなことを思いながら、ようやくナグプールに到着したので、ハイデラバードまで行くと言う家族に別れを告げてホームへと降りた。列車の中からガイドのヤシ氏に電話して二時間程度遅れると連絡していたが、さらに一時間以上遅延しているので、ガイド氏は待っていてくれるだろうか?、などと思いつつ辺りを見回すと、顔なじみのヤシ氏と一緒に赤褐色の袈裟を纏った頑丈そうで、いかにも豪快な日本人僧侶が目に入った。すでに電話では二回ほどお話させていただいていたが、この人が紛れもなくナグプールの仏教徒、いやインド全土の仏教徒の厚い信仰を受けている佐々井秀嶺長老その人であった。「やあー、ようこそお出でくださった。お待ちしていました。私が佐々井です。」と何のわだかまりもなく、ストレートに挨拶をしてこられた。こちらは少し意表を突かれたと言うか、全く予期していなかった駅ホームへの出迎えだった。もう一人日本人の男性がいたが、別に現地人が三人おられ、いきなり私の首に花輪(ハール)をかけて合掌し、「ジャイブヒーム」と挨拶された。同行の佐々木さんにも同じように掛けられた。佐々井長老へは、私たちのナグプール訪問でなるべくご迷惑を掛けないようにとの配慮から駅近くのホテルを予約しており、そこにガイドのヤシ氏を前日の飛行機でデリーから呼び寄せて、専用車も手配してあった。その上で佐々井長老には、到着後にホテルから連絡を取る手はずになっていたのだった。私は非常に恐縮して、「まさか佐々井長老様が、直接駅までお迎え下さるとは、考えても見ませんでした。しかも予定より、4時間近くも遅れての到着で、大変恐縮です。」と告げると、豪快な笑い声と共に「いやー、私も実はデリーから直接こちらに戻る予定だったのですが、ムンバイの方で大雨が降り、向こうは町中水浸しです。そんなわけで、わたしもデリーからベンガルを経由してこちらに到着しました。先生たちがこちらにお出でになるというので野田尚道老師に電話をした所、直ぐに出られて、「あの人はマツラーから夜行列車に乗ってナグプールに向かうと言っていました。」という返事でしたから、「それならこの列車に違いないと言うことで、こちらで待っていました。」ということで、ただただ恐縮するばかりだった。そんな会話をするうちに駅舎の表口に駐められていた頑丈そうなRV車に乗せていただいて私たちの予約していたトゥリ・インターナショナル・ホテルのロビーに到着した。13時40分。佐々井長老は所用で一旦別れたが、午後3時半にもう一度こちらにお出で戴き、アンベードカル菩薩大改宗広場(デークシャ・ブーミ)にご案内下さることになった。これもこちらからは恐れ多いので、「長老様が用事を済ませて再びこちらに戻られるまでの間に、私たちが独自に出かけます」と告げると、直ちに「いや、折角遠くからお出でいただいているのに、私が案内しなければ、内部までよくお参りできないので、案内します。」という返事だった。それ以前のわたしの第一印象は「だみ声の聞いた豪快な坊さんで、少しきどったところがある」ぐらいに思っていたが、次第に「非常に親切で親しみやすく、親身に他人を世話してくれる人」というイメージに変わっていた。私たちはホテルの部屋で一休みし、態勢を立て直してから約束の時間より少し早くロビーで待つことにしたが、長老はほぼ同じころもうやってきた。このときは日本から修行に来ている宮本勝龍さんと、旅行で2日ほど以前にナグプールに来た三浦義金さんとの3人連れだった。しかし72歳だという長老は全く疲れを知らない信念の人という感じだった。早速ロビーで会談が始まってしまったのだが、直ぐに気がついて私たちの部屋に案内して、こちらで話を続けることにした。(以下、長老の許可を得て録音したものの文書起しー省略)<br />  仏教世界最高の仏塔デイークシャ・ブーミに参詣<br /> 午後4時、佐々井長老との会談を一時中断し、宿泊地のトゥリ・インターナショナルホテルを出発した。ホテルはナグプール駅の北西1キロほどの広い道路に面していたが、ここからおよそ六キロほど南に当たるディークシャ・ブーミへと向かった。佐々井長老、埼玉県出身の日本僧宮本龍勝師、岡山県出身の出家希望者で数日前にナグプールへ来たばかりの三浦義金君、ガイドのヤシパル・マダン氏、運転手、佐々木、関口の7人だった。佛旗をはためかせたインド製ジープの「タタ」に乗って市内の目抜き通りを快適に進んだ。<br />ここは北インドとはかなり異なり、街は整然としており、自動車量は多いが、比較的交通マナーが良い。女性が颯爽とオートバイで駆け抜けて行き、学生や生徒もこぎれいな制服に身を包み、品性を保って歩いている。乞食や観光客へのしつこい物売りは全く見られない。高架橋に輪タクを漕ぐ人も有るが、概して貧民街の面影はここにはない。辻々には所々に七メートルほどのアンベードカルの銅像が通行の車両や市民を見下ろしている。10分程の乗車でディークシャ・ブーミ(Deeksha BhoomiまたはDiksha bhoomiと表記する)の入り口に到着した。ディークシャとは改宗を意味する。ブーミは場所を意味する言葉だが、既に日本語へは「アンベード菩薩大改宗広場」などと翻訳されている。ここは1956年一〇月一四日に、この聖地がインド国家遺産(ナショナルヘリテージサイト)と宣言されている。五十年前ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル博士によってヒンドゥー教社会において何百万ものダリット(当時不可触民と言われていた。Dalits)の大規模な仏教への改宗を祝うために利用された場所を記念公園としたところなのだ。その後ここにその改宗を記念し、仏教世界では最も高い仏塔として、また改宗を生き甲斐としているインド仏教徒共通の精舎として一九七二年に建てられた。「Deeksha Bhoomiは、仏教徒が『アショカ王の改宗記念Vijaya Dashmi Day』の日を黄金祭として毎年改宗を受ける仏教徒のための神聖な記念碑となっている。毎年、仏陀世尊のすべての支持者<br />の多勢の会衆が国の内外から、ここに集まってくる。直径とドームの高さは120フィート(一フィートは0.3048メートル=36.58メートル)の大理石によって作られている。またこの大塔建設のために、この4000平方フィートのホールの建設のためにDholpur 砂岩が使われた。インド大統領は、この堂々とした記念碑(つまり国家統合と世俗主義の象徴とNagpuriansのための誇りの場所)を最近開始した。ナグプール駅から南方およそ6キロの地点にある。(以上は現地案内板の日本語訳)このようなすばらしい仏教建築をインドにやってくる海外の仏教徒や一般観光客は何故素通りしてしまうのか不思議なくらいだ。<br />ディークシャ・ブーミでの視察は正味40分ほどだったが、その間、記念大塔の入り口付近で一人の楽師が奏でるアコーディオン風の楽器の音色が辺りに響き渡っていた。もちろんここでは、北インドの仏教遺跡で見られるしつこい物売りや乞食は全く出会わなかった。それどころか佐々井長老の姿を見つけた仏教徒はすぐさま駆け寄ってきて、長老の足下に五体投地の礼拝をし、ついで佐々木師や私の足下にも鄭重に礼拝を繰り返していた。長老に「この儀礼はヒンドゥー教にもあるのですか」と質問すると、「いや、これは仏教徒特有の信仰儀礼です」と答えられた。普通、タイ、カンボジアなどの仏教国で托鉢の比丘を目にすると、比丘は黙ってその喜捨を受けるのと同じような姿だが、長老は相手に気軽に話しかけたり、逆に長老に対して、家族の慶弔のことなどを話しかけたりするのは、ここナグプール独特のものらしい。そうした面からは、やはりここは南伝上座部仏教とは異なった、大乗的なものなのかもしれない。まだ日の高い真夏の夕方、私たちはしばしの佛国土巡り、浄土巡りをさせて戴いた感じだった。いやここは南天龍宮城だから、「乙姫様のご馳走や、タイやヒラメの舞い踊り」を見たのだろうか。もしこれが事実なら、玉手箱だけは辞退しなければと空想を巡らしたひと時だった。<br /> 市職員の退職慰労会、お爺さんの誕生会、民家の団欒<br />ディークシャ・ブーミを出て、退職慰労会の行われる公民館に赴き、三百人ほどの参加者と共に三時間ほどの慰労会に参列した。町の公民館は大型の扇風機は回っているが冷房はない。それでも気温は二十四度ほどに下がっていて、比較的さわやか。始まる前には一人の男性がアンベードカルを称える即興の歌を続けている。佐々井長老は講堂のひな壇に上がり、主賓たちと共にハール(花環)を何回も受けては直ぐにはずし、足の頂礼を受けていた。主賓や来賓もハールを受けたりしていた。そんなことが何回も繰り返されてから、やがて佐々井長老の読経と法話があり、引き続いて主賓や来賓の挨拶が一人15分から20分ほど代わる代わる披露される。式後にガイド氏に聞いたところ、主賓の長年にわたる功績や職務についての慰労などは極めてわずかで、大半は演説であり、自身の業績や功績を自慢することが多く、決められた時間を超過しても、「もっと喋らせろ」というものが多かったとのことだった。言語はラマーティー語及びヒンディー語とのこと、佐々井長老の読み上げたパーリー語の経文以外は何も分からず、雄弁な弁士の演説を長々と鑑賞していただけだった。しかし多くの善男善女がアンベードカルの功績を称え、熱心な信仰に支えられていると言う情熱が伝わってきた。食事や飲み物などは一切出されなかった。<br /> 公民館を出て、次には近くの民家で比較的ゆったりとした庭のある家に案内されたが、ここは日本でいえば古希か喜寿の祝いと言う感じで、そこのおじいさんの誕生祝があり、佐々井長老も招かれていたので、そのお供に行ったという設定であった。正面に立派な白塗りの椅子が置かれ、そこに着座するように促された。例により息子さん夫婦や兄弟、孫子などが次々と長老の足を頂礼に来る。長老の次には、佐々木師や私の許へも頂礼にきて、さらにガイド氏の所へも行くが、さすがにガイド氏は「自分は僧侶ではない」と断っていた。綺麗なお水が出され、食事も手元に運ばれたが、ガイド氏は「お水だけは辞めてください」と遮るので、一口飲んだまねをしてテーブルに置いた。食事は少量いただいた。最後に主賓の当家の主が夫人と共に長老や日本僧二人の足に頂礼し、千ルピー札一枚ずつを布施された。その前には息子夫婦も百ルピー札を布施していった。ともかくここは北インドとは生活態度やら僧侶を大切にすると言う面では格段の相違があった。長老は「ここは仏教徒の街ですから礼儀正しいのです」と何回も話された。もちろん私たちはそんなお金を「ハイ、有難う」で懐に入れるわけには行かないので、運転手さんのポケットに密かに入れさせていただいた。それが終わるともう一軒、今度は三階建ての町屋に行き、七人ほどの家族で夏の夜、団欒のひと時に立ち寄らせていただき、家の角に設けられた仏壇にお参りし、また家族の頂礼を受け、食事やお水の接待を受けた。冷房も効き、テレビや電化製品もそろっていたが、この辺りの普通の民家とのことだった。家族全員の頂礼を受けてから、佐々井長老の読経、説法をするというのが、このナグプールの仏教徒の一般的な信仰形態ということが理解できた。<br />  マンセル遺跡と幾つかの活動拠点を視察-7月2日(月) <br />この日は午前6時に出発してマンセル遺跡に行く事となった。昨日同様、佐々井長老の協会が所有する佛旗をたなびかせたジープだ。所定の時刻に長老は元気よくホテルのロビーに姿を現した。この日は長老、三浦君、運転手、もう一人インド人の信徒。こちらは両人のほかにガイドのヤシさんも同行するので合計7人の編成。今回私たちは、希望したナグプールの仏教の現状をしっかりと視察した。多忙を極めている佐々井長老自ら案内いただいたので、それだけでも十分に感謝している。長老はさらに私たちの日程を確認した上で翌日、改めてマンセル遺跡にも案内して下さるという、望外の好因縁に恵まれた。これには前話がある。私が前もって日本国内から佐々井長老に電話した折、長老は「今は雨期に当たるのでマンセルに行くのは難しい。発掘地の山はぬかるんで車が入れないから、10月に来てはどうか」と提案されていた。しかしその時期は私の都合がつかないので、あえてこの時期を選んで、「その代わり雨期のためにお寺でゆっくり話ができる」という事でこちらの方針も決まった。ただ雨期にも拘わらず今年はまだ雨が殆んど降らなかったのが幸いした。<br />トリ・インターナショナルホテルを出て、広い自動車道路を北に向かいナグプール駅近くの跨線橋を渡って鉄道の東側に出た。ナグプールの町はよく分からないが、本来駅東側が古くからの市街地のようだ。広くてしっかりと整備された自動車道を東北方向に十分ほど行くと広い交差点があり、そこを右折したあたりに佐々井長老の拠点(長老は法城と呼んでいた)。インドール精舎(INDOL Bbddha Bihal)があった。長老と一緒に門前の小道を歩いてゆくと、早朝の参詣者であろうか、鮮やかなサリー姿の夫人が数人、長老の姿を見つけて、足早に近づいてきて、それぞれが地に跪いて長老の足を頂戴し、挨拶を交わした。精舎正面はちょうど日本の寺院の向拝のような入り口となっており、入り口の右手には台座とあわせると七メートルほどのアンベードカル菩薩の銅像がそそり立っていた。中に入ると正面に金色の仏像とアンベードカル菩薩の写真が飾られ、その前で10人ほどの信者が読経をしたり、静かに祈りをささげたりしていた。ここはほんの数分立ち寄った程度で、直ぐに車上の人となり、インドール・チョーク(交差点)を一路マンセルに向かった。国道7号線で40キロほどの走行となる。そもそもナグプール行政区は13の市町村からなり、マンセルはこの行政区で最も東北部に位置するラムテック区に属する里山地区で、その北側を少し隔ててマディア・プラデシュ州に接している。ラムテック区には153の集落があり、総人口は141000人。小学校127校、中学校10校、高校24校、大学3校となっている。総合病院10。図書館3。鉄道駅はラムテック。主な産業は農業。以上の情報から読み取れるのは、佐々井長老の話されるようにこの周辺は教育、文化、社会福祉は行き届き、北インドのように貧富の差が天地ほどに離れている事はない。なお2001年現在マンセルの人口は6458人、識字率は69パーセント、インドの国内平均より10パーセントほど高い。車中で長老は「この道を真っ直ぐに行くと15時間ほどでブッダガヤに繋がっているので、私はこの道を何回でも往復します。ブッダガヤの管理権の仏教徒への奪還闘争はかなりの成果を挙げているが、まだ完全に仏教徒の手に帰っていない」と話された。十分ほど走行すると市街地を抜けて郊外に差し掛かったが、その右手にちょうどディークシャ・ブーミを少し小ぶりにした建物があり、佛旗が風になびいていた。これは「ブッダ・ブーミ」という仏塔で元々ディークシャ・ブーミを管理していた仏弟子が、路線争いで、別な協会を設立したとの事。カナン川という河川敷を含め川幅1キロほどの大きな橋を渡ると、そこはカムティ区のカナン集落。ここに建設途上の精舎があって、10分ほど立ち寄った。午前7時20分到着。コンクリート造りの二階建て寺院だ。この寺院建設のために多くの資金を野田尚道老師が寄進していると説明を受けた。そもそも私たちが野田尚道師との知り合いだという事を聞いたカナン寺の信徒たちが、私たち一行の「大歓迎会を開きたい」と長老に提案したが、「直接の知人ではないから必要ない」と言って中止させたとの事。もちろん私たちはそんな歓迎会をされる理由がないので当然だが、それほどまでに野田師が現地信徒たちに慕われていると感じた。建設工事中の本堂正面には左に佐々井長老、右に野田老師の写真が飾られていた。佐々井長老は「この建設中の本堂の写真を映して野田老師に見せて下さい」と言われたので、カメラに収めた。<br /><br />  マンセル遺跡、南天鉄塔、文殊師利菩薩大寺<br />ナグプール市は平野のど真ん中だが、カナン川を越えてカムティ区からラムテック区に入る頃には行く手前方に丘陵地帯のような山影が目に入ってくる。前方右手の左側に少し高い頂点があり、次第に右下がりになる丘陵を指差して長老は「あれが龍樹連峰です」と説明された。そう言われてみれば確かに龍が臥しているようにも見えるが、連峰というほどの山地ではなく、丘陵地帯といった方が近い。帰国後地図を調べると「Ramtek」とあったのでラムテック区のラムテック丘陵という関係であろうか。国道を右手に曲がると私たちの車は、左手の小高い丘の麓の広場へと入って行って停まった。マンセルに到着。午前8時。マンセルとは集落の名前だが佐々井長老によれば、これはマンジュシュリーつまり文殊菩薩を意味する語から出ているという。<br />私が長老から受けた説明によると、初めに参拝したのは「文殊師利菩薩大寺」という名前の精舎であり、その北側に鉢を伏せたような小山が「南天鉄塔」であり、その東側に広がる丘陵地帯の遺跡が「南天龍宮城」ということだった。しかし長老の言葉からも「南天鉄塔」というのは実際には特定されておらず、佐々井長老がそのように信じている遺跡に過ぎない。しかも私のような外来者には客観的資料は何もないので、そのまま受け止めるより術がない。しかしこの事は元々ナグプールが龍の城だから、ここが南天龍宮城だと受け止め、さらにここは龍樹菩薩が晩年を過ごした場所だという説も、実は佐々井長老独自のものなのだ。そこで長老には申し訳ないが私が理解しやすいように西側の小さい遺跡を仮に「マンセル大塔遺跡」と呼び、東側の大規模な遺跡を「マンセル王宮遺跡」と呼ぶことにした。長老の呼び名はあくまでも前者が「南天鉄塔」、後者は「南天龍宮城」に変わりはない。<br />  南天鉄塔―マンセル大塔遺跡に登る<br />長老は私に対して「南天鉄塔」は歩いて登らなければならないので、下から眺めるだけにしておいて、東側の「龍宮城遺跡」は車で上がれるので、後ほどそちらに行きましょう」と話されたが、もしここが実際に「南天鉄塔」で、龍樹菩薩がここで竜王から大乗の経典を授けられた場所なら是非直接に言ってこなければならないと思い、長老にお願いして登らせていただいた。長老は精舎で待つ代わりに、マンセル寺の比丘一人を案内役につけてくれたので、比丘、佐々木、三浦、ヤシと関口の5人で登ることにした。この大塔遺跡はちょうどマンセル寺の裏山という感じであり、標高は六十メートルもあるだろうか、周囲は円形で東西二百メートル、南北百メートルほどで西北部は比較的大きな沼に接している。以前は北側にも沼の水が来ていたが、最近は干上がっているとの事。またこの沼には白蓮がたくさん自生しており、沼には三つのストゥーパ跡も発見されているとのことだった。寺から100メートルも行かないうちになだらかな坂道となり、次第に煉瓦の階段やら遺構が現れてきた。<br />    建設中の龍樹菩薩大寺に立ち寄る<br /> 道路の左手には巨大なアンベードカルの銅像が立ち、右手には建設途上の三階建て鉄筋コンクリートの建物があった。これがこの地こそ佐々井長老が龍樹菩薩の法城の中心としたい龍樹菩薩大寺であった。<br /> 龍樹連峰のドライブウエー<br /> ここでしばらく長老のお話を伺いながらお茶を戴いて次の訪問地龍樹連峰にある古代龍樹寺に向かった。そこは現在ヒンドゥー教のお寺になっているとの事。12時30分出発。ここから15分ほど東に行くと大きな湖の畔に出た。「これが龍樹海です」と長老が案内した。地図には「Ram Sagal」とあるので一般には「ラム湖」と呼ばれる湖水で周囲七キロほど。箱根の芦ノ湖ほどはあろうか。かなり大きい。そこに立ち寄って直ぐに引き返し今度は龍樹連峰のドライブウエーを登った。ここも地図には「Ramtek」と記されており、「ラム丘陵」とでも翻訳できそうだ。東西に8キロほどで西側を頂点としたu字型の複合丘陵。ただしインドの固有名詞は時代によってしばしば変遷するので、もしかすると「Nagarujyuna-gil」などが正式名称かもしれない。進行方向右手は深い谷になり、谷底は周囲2キロほどのアムバラ湖があり、湖畔には白い建物が点在する。「ラクシュミー・ナラヤン・アシュラム」始めヒンドゥー教の寺院や巡礼宿などだ。さらに車を進めると麓からは300メートルほどの尾根の広場に出た。前方右手のやや高いところがガドマンディル寺で、これが古代龍樹寺らしい。幾つかの寺院建築が点在するが、それらを総称してラム寺と呼んでいるようだ。車を駐車しようとしていたら、管理人か駐車場の係員か、駐車料金の徴収に来た。私たちはそちらには登らず南側やや低い尾根にある公園に進んだ。カリダス記念公園であった。「Classic」という旅行案内書のラムテク(Ramtek)の項には <br />ラムテクの表現しがたいほどのすばらしさは、偉大な詩人、マハカヴィ・カリダス(Mahakavi Kalidas)の不朽の名作にも登場することから有名である。この丘はナグプールから47km、ナグプール・ジャバルプール(Nagpur―Jabalpur)ハイウェイの途中に横たわる。詩人カリダスの記念碑もある。宗教的にもゆかりのある地で、幽囚されたラーマ神が休息を取った場所とされており、丘の頂上にラーマ神、ラクシュマン、ハヌマーン神を奉る寺院がある。ラクシュマン、ハヌマーン寺院は14世紀に建設された遺跡である。ラムテク行きのバスが頻繁にあることと、MTDCのゲストハウスの予約ができることから、ナグプールからの発着が便利。ラムテクから8kmのところにはキンゼイ・タラヴ(Khindsay Talav)湖がある。深い蒼色をした湖水は神秘的で、とても美しい。湖へ降りる道には階段が整備されている。ウォータースポーツも可能で、観光総合施設による器具の貸し出しなど設備が整っており、観光の目玉の一つとなっている。キンゼイ湖にもMTDCの宿泊施設があり、一日100ルピーで泊まることができる。ラムテクもキンゼイ湖も、ナグプール観光のついでに立ち寄れる範囲にある。<br />と掲載されている。佐々井長老の話ではマハカヴィ・カリダスはインドでは非常に有名な詩人で、「佛所行讃」の作者馬鳴菩薩より有名だとのことだった。眼下に広がる平原の右手はるかにはナグプールの市街地も見える。またこのあたりは水田や沼地も多く、古代から人が住むのに適した環境のようだ。公園内の東屋にはカリダスの詩の物語を描いた壁画が何枚もあった。これだけしっかりと整備された施設を入手するのは簡単ではないと思いながら車にのり龍樹連峰のドライブを終えて本命中の本命「マンセル王宮遺跡」へ向かった。11時20分発。なお龍樹菩薩の伝記等については九年前に書いた拙文が有るのでここに掲載する。<br />龍樹菩薩の生没年代に就いては宇井伯壽先生が『印度哲学史』のなかで詳しく考証して、およそ西暦150〜250であったことを明らかにしています。これは中国では後漢末期の『三国志』の時代でやがて魏、呉、蜀の三国が覇権を競うころ、我国では弥生時代の後期にあたり、やがて邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送ったころにあたります。したがって今から1700年ほど以前のことになります。『傳光録』では西インドとなっていますが、現今の研究では龍樹はアンドラ王朝の南インドの人となっています。龍樹の傳を伝えるものとしては『付法蔵因縁傳』、『釋氏稽古略』、『佛祖統記』、『景徳傳燈録』、羅什譯『龍樹菩薩傳』などがあります。宇井伯壽先生の『三論解題』(宇井伯壽著作選集第四)所収)の「中論 龍樹菩薩章」には次のように出ています。<br /> 龍樹菩薩は南天竺の婆羅門にして幼より極めて頴悟、弱冠にして当時の学術一切に通じ、名声遠近に轟きしが、事によりて出家し、年ならずして小乗の三蔵に精通し、更に経典を求め、雪山に於て一老比丘より大乗経典を授けられ、後又龍宮に於て龍王より経典を受け、之を研究して諸の深義に通ずるを得たりといふ。此の如き伝説は固より厳密なる史実にあらざれども、是れ恐らく菩薩が出家後、諸所を遍歴して探索研究せるの事実を示すものなるべし。学成りて後は主として南天竺マカコーサラ国の首府(現今のワイラガルフ)並びに其南方キストナ河の上流に留錫したり。<br />  チェンナイ(マドラス)は南インド最大の都市で北緯13度、ベンガル湾に面した人口536万人を擁し、タミルナードゥ州の州都に当たります。この西北部にデカン高原があり、そこはもうアンドラ・ブラディシュ州となります。チェンナイから720キロメートルの地にその州都ハイデラバードがあります。ここからさらに180キロほど南側をクリシュナ(キストナ)河が流れています。この河の下流域は紀元前二世紀から五世紀にかけて建立された仏塔、僧院、祠堂などを擁する仏教遺跡が数多く残り、サータヴァーハナ、イクシュバーク両王朝期におれるアンドラ地方での仏教の隆盛を伝えているとされています。クリシュナ河の河口から90キロほど遡ったところにヴィジャヤワードの町があり、さらにそこから280キロほど遡った南岸一帯にアマラヴァティーの仏教遺跡があり、ここからさらに170キロほど遡ったクリシュナ河南岸にナーガールジュナコンダの仏教遺跡があります。コンダとは丘のことで、大乗仏教の大成者でインドでは「八宗の祖」、「第二の釈迦」などと呼ばれるナーガールジュナ(龍樹)がその晩年、ここに住んだという伝承からこの名が生まれたのだといいます。そうするとこのナーガールジュナコンダが龍樹晩年に住んだ吉祥山に当たりそうです。<br />(平成十年十一月、『両祖の主著に見られる龍樹祖師の教え』関口道潤)<br /><br />マンセル王宮遺跡(龍宮城)の視察<br /> 龍樹連峰ドライブウエーを走り、私たちは再びマンセルにもどり、今回本命となる発掘中の龍宮城遺跡(マンセル王宮遺跡)に案内された。初め訪問した大塔遺跡の一キロほど東に位置する。<br />    サゴン樹園〜老人ホーム〜ホテル〜空港〜デリー〜台北〜   <br />    名古屋―7月2日(月)〜3日(火)             その後車は長老が植樹して管理する「サゴン樹」の園に立ち寄った。そこは一千坪ほどの林で一面にサゴンという沙羅樹に似た樹が植えられており、管理棟もあった。この樹はチーク科の植物で大きくなると建築材などに利用されて、将来的な財産になると語られた。ここでもお茶の接待を受けた。さらに10分ほど走ったところに「有方静恵老人ホーム」があり、視察した。男女の入所者十七人とともにお茶を戴き、長老の説法に耳を傾け(マラティー語かヒンディー語のため理解できるのは2人の日本以外だが)また入所者の礼拝を受けたり、所内の視察をし、4人の介護士がすべて比丘僧で、特別な資格は持たないがみな橙色(オレンジ)の作業着で手際よく車椅子を押したり、お茶を運んだりする様子を見た。元気な入所者は自身でお茶を入れて配り、菜園の野菜の手入れや収穫をしているという。最高齢は80歳の女性。最若年は60歳の女性で、それぞれ身内がなかったり、深刻な理由があったりして、ここで生活しているとのこと。入所資格に仏教徒という制限はなく、先月亡くなった女性はキリスト教徒との事。この老人ホームは有方静恵という日本の兵庫県赤穂市の90歳を越えた女性の一寄進で建てられたとされ、そのために敷地内には有方さん夫妻の等身大の銅像があった。龍樹菩薩大寺の開基家となっている人だ。ここに30分ほど立ち寄り、約1時間10分ほどしてナグプール市内のホテルに戻った。長老にはホテルまでお送り戴いてもう十分だったが、さらに小刻をおいて私たちが乗る国内線飛行機のために空港まで送って下さった。<br />私たちは今回不思議なご縁を戴き、別にいじめられている亀を助けたわけでないのに龍宮城へ行き、乙姫様ならぬ乙長老様にナグプール仏教徒の実情視察という「山海珍味のご馳走」とマンセル遺跡という「鯛やヒラメの舞踊り」を見せていただき、月日の経つのも夢のうちであった。ただ幸か不幸か「玉手箱」だけは戴いてこなかったので、帰国後急激に老化することはなかった。<br /> アンベードカル国際空港には所定の時間よりやや早めに着いたが、ここで見送りに来られた長老、宮本、三浦両君などと最後のお礼を告げてターミナルビルへと入った。ナグプール17:30発デリー行きS26126便はムンバイ地方の豪雨のために2時間以上遅れたが、何とか就航して深夜デリーに着いた。しかしもう市内で買い物やら食事をする時間がないので、直接国際線に乗り継ぐ具合になった。しかしそうした遅れを計算して早めの国内便を予約しておいたことも功を奏して所定の中華航空便で台北経由で無事中部空港に到着した。その時間だけはちゃんと定刻だったのがなぜか不思議に感じた。多分インドで延着に慣れたためだろう。<br />                           <br /><br />

知られていないマトゥラーとナグプールに見る仏教の現実

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2007/06/25 - 2007/07/03

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erindojunさん

タージマハルとアグラ、シカンドラ〜マトゥラーへー6月30日(土)
今回のインド旅行は、昨年割愛した鹿野苑参拝とインド仏教の新しい風、ナグプールの現状を視察することが最大の目的だから、この日の二つの世界遺産の見学は付け足しのようなものだ。しかしインド観光としては、最大級のスポットとなる。インドでは2日前の28日に雨期入したとのことだが、それにしても、我々の行く手は不思議なことに、乗り継ぎのため立ち寄った台北以外は全く快晴に近い日々を迎えている。この日も真っ青な空。予定時間にはロビーにガイドのシブ氏が来た。早速車上の人となり、10分ほどでタージマハル入り口に到着。
ここで電動マイクロバスに乗り換えた。世界遺産の環境を保全するため、ガソリン車等は乗り入れが禁じられているとの説明。200メートルほどの参道を進むと、受付のある外門に到り下車した。ヤムナー河右岸に聳えるタージマハルはイスラム教を奉ずるムガール帝国の第五代皇帝シャー・ジャハーンが最愛の后ムムタズ・マハルのために22年間を費やして建設した霊廟であり、これは当時の民心を帝国の中心に向けるための政策的意味合いが強かったものと思われる。それは日本の日光東照宮の役割に似ているようだ。一旦ホテルに戻り、朝食後、9時30分荷物をまとめてホテルを出発した。10分ほどでシャー・ジャハーン皇帝が住んだアグラ城を見学。50分ほどの見学後、更に50分ほど離れたシカンドラに参詣。後者は第三代皇帝アクバルの霊廟であるが、アグラから少し離れたところにあるため、多くの観光客が訪れるわけではない。
マトゥラーの博物館とナタヴァタ寺院遺跡に行くー6月30日(土)
正午過ぎにシカンドラを出て、マトゥラーへ向かう高速道路の傍らにあるレストランで昼食をとったのは午後一時を過ぎていた。食後さらに高速道路を経由してマトゥラーの交差点―と言っても信号がなく、もちろん側道から立体交差するのでない。高速道路の中央分離帯の切れ目を、対向車の来ないのを確認して右折し、踏み切りを通り抜け市街地に入った。そこに民間の料金所があり20ルピーを支払った。地方の都市では別の地区からきて市街地に入る車は必ず入域料を払う事になっているのだという。午後2時ころ博物館に着いた。
マトゥラー市はデリーの南東145キロ、アグラの北西58キロに位置し、人口29万8827人(2001年現在)を擁するヤムナー河西岸のウッタル・プラデシュ州に属する都市であり、ここは「クリシュナ」の生誕地として知られ、ヒンドゥー教の聖地である。マウリヤ、シュンガ、クシャーン、グプタの各王朝期には仏教徒の修行の中心地だった。20ある仏教僧院に3000人もの僧侶が押し寄せた時代もあったという。ことにシュンガ朝期の彫像は優れており、ガンダーラの仏像と並び称されるいわゆるマトゥラー仏として注目を浴びている。8世紀になり、インドの北部全体でヒンドゥー教が仏教を駆逐すると、街は衰退し始めた。1017年には、アフガンの将軍ガズニーが仏教とヒンドゥー教の寺院の大部分を破壊し、征服を完了した。一六世紀に入り、マトゥラーがクリシュナの生誕の地(クリシュナ・ジャンマブーミー)であることをヒンドゥー教徒の学者が確認すると、街の復興が始まった。だが、その活動は、アウラングゼーブ帝がケサヴァデオ寺院 Kesava Deo Templeを破壊し、この寺院跡にモスクを建設して頓挫した。1757年、マトゥラーはアフガンのアブダリ王によって焼き払われた。しかしその後、重要な宗教的伝統があるマトゥラーは立ち直り、1982年にはバグワット・バガン寺院が建てられ、今日は多くの人々で賑わう宗教都市となっている。8〜9月に行われるジャンマ・アシュタミー Janmastami(クリシュナの誕生日)のお祭りの時は、ほとんど身動きがとれなくなるほどの人出があり、ドワルカドヒーシュ寺Dwarkadheesh Templeは全体的に装飾が施され、数千もの巡礼者とサードゥ Sadhus (ヒンドゥー教の行者)がクリシュナ誕生を感謝するために訪れるといわれている。
マトゥラー博物館は有名な割に、入場はいたって簡単で、入場料20ルピーとビデオの持ち込み料を払えば出入りは自由だった。館内は赤茶けて、丸みを帯びたマトゥラー彫刻が所狭しと並べられていた。この博物館の彫像を鑑賞するのが目的だが、私はもう一つ重要な目的があった。それは、紀元前3世紀のころ、―つまりブツダ滅後100年を経過したころ、この街のウルマンダ山にあるナタ・ヴァタ精舎に住んだウパグプタ比丘の遺跡を是非訪ねてみたいと思っていた。それゆえ事前に各方面からその情報を集めようとしたが、残念ながらはかばかしくなかった。
ウパグプタ比丘の住んだナタ・ヴァタ精舎遺跡を訪問
ウパグプタ比丘は古来禅門では
釈迦牟尼―摩訶迦葉―阿難陀ー商那和修―優婆麹多
と五代目の法灯を継承した祖師としてあがめられている。この人の物語は『阿育王経』『付法蔵因縁伝』などに出ている。それらを要約するとおよそ以下の様なものとなる。
そのむかしブツダがマトゥラー国に出向いた時の事、青い林が連なり、その林の樹木が非常によく繁茂しているのを見て、弟子のアーナンダに言った。「そこの美しい林はウルマンダ山という山であり、私が涅槃に入って100年の後に、香木商人の息子にウパグプタという者が生まれ、この山に寺を建てるが、それはナタ・ヴァタ精舎という。ここで大いに仏法を世に広めることになるだろう」と予言された。ナタ・ヴァタ精舎というのはナタとヴァタという兄弟二人がウパグプタ尊者のために力を合わせて建立して寄進したと伝えられている。
紀元前3世紀のころ、この街に住んだウパグプタ比丘(優婆麹多大和尚)は「無相好仏」と呼ばれ、仏の相好が少し足らないだけで、ブツダと同じ徳を備えていた。この比丘がマトゥラーの郊外ウルマンダ山のナタ・ヴァタ精舎で多くの出家修行者を指導していたが、その名声がやがてパータリプトラ(現在のパトナー)に都したアショーカ王の知る所となり、王をブッダの聖跡に案内し、多くの石柱や仏塔を建立する基となった。以上がその物語の骨格である。『国訳一切経』の「付法蔵因縁伝」の注記には次のように記されている。
商那和修は摩突羅の地に布教せりとす。現在、彼の弟子の優婆麹多の伽藍は遺存するも、彼の寺院址は明らかならず。現在のMuttra 市の南部にはサブタルシン・ティラー(tilaaはヒンズー語にて丘塚の意)とドウルヴ・ティラーあり。西部にはカンカリー・ティラー。西北部にはチャウラーシ・ティラー。マハーヴィドヤー・ティラー。アンバリーカ・ティラー等あり。何れも古代仏教の遺址なり。
玄奘三蔵の『大唐西域記』の「秣莵羅國」には次のように記されている。
マトゥラー国の周囲は五千余里であり、国の中心市街地は二〇余里に及んでいる。・・・・・・・伽藍は二十余箇所、僧侶は二千余人である。大乗と小乗の仏教を兼学する者が多い。通俗神を祀る祠が五箇所あって、そこにはそれぞれの修行を励むものがいる。また三つの仏塔があるが、これらは全てアショーカ王が建立したものである。また過去四仏の遺跡がかなり多く見られ、釈迦如来の弟子の遺骨を祀る仏塔も見られる。それらはシャーリープトラ、モッガラーナ、プールナマイトラーヤニプッタ、ウパーリ、アーナンダ、ラーフラ、マンジュシュリ等の弟子や菩薩のものである。・・・・・街の中心から東に五〜六里行った所に一つの山の伽藍に至る。そこは崖を抉って居室となし、谷にそって門をかたどっている。これはウパグプタ尊者が建てたものである。またそこにはブツダの爪の仏塔がある。伽藍の北側の岩の間にも石室がある。高さは二十余尺、広さは三十余尺である。その石室の中には長さ四寸の細い数取りの串が積み上げられている。ウパグプタ尊者が説法し,夫妻を教え導いて、夫婦共に無学の道を覚った場合は一つの数取り串を石室に投げ入れたのである。覚りを開いた者は、随分いたが、夫婦でなかったり、他の部族出身者などは一々数え切れない。石室の東南へ二十四〜五里ほどの所に大きな涸れ池があり、その傍らに仏塔が建てられている。むかしブツダがここを通りかかったとき、猿が蜜をブツダに差し上げたので、ブツダはそれに水を加えて大勢の弟子たちに飲ませた。その様子を見た猿は喜びすぎて穴に落ちて死んだが、その功徳によって人間に生まれる事ができた。池の北側であまり遠くない所に大きな林があり、そこは過去の四仏がむかし経行(坐禅の合間に静かに歩すること)された遺跡があり、その側にはシャーリープトラ、モッガラーナ等千二百五十人の阿羅漢果を得た仏弟子が坐禅修行した場所があり、そこには仏塔が建てられ、そのことを顕彰している。
少し長文となったが、国訳一切経から現代語訳してみた。この中に玄奘は具体的な方角と距離を上げている。玄奘の記す里程は周の1里が405メートルであるから、それによるべきだが、前編ルンビニの項で指摘したように1里を320メートルするのが妥当なので、これによって算出すると、「国の中心市街地は20余里」とは現今の6.4キロメートルとなる。また『西域記』ではウパグプタ尊者の住んだ石室について記されるが、ここが具体的にウルマンダ山のナタ・ヴァタ精舎であるとは書かれていない。しかしその他の記述などを総合するとここがやはりウルマンダ山であり、ナタ・ヴァタ精舎であると見るのが自然だ。その位置は「街の中心から東に5〜6里行った所」となっているので、先の計算式に当てはめ、仮に六里とすれば、320X6=1920となる。これは2キロ弱であり、現在の市街地が二千三百年以前のものと同じとすれば、どのあたりかは大方想定できる。ただし、当時の市街地は現在の市街地に比べ、もう少し南に在ったとされるので、それも考慮に入れるべきであろう。ところで今回の訪問に当たって、日本国内での事前調査ははかばかしくなかったが、昨晩アグラのホテルで逢ったガイドのシブ氏は、その日のうちに、知人でマトゥラー博物館の研修生であるビナヤ、クマル氏に連絡を取ってくれたので、私たちはこの人の案内で、博物館から北へ3キロ程行った遺跡に案内して戴いた。これについては同博物館のシャルマ学芸員も指摘しておられた。ただしシャルマ氏の説明ではウルマンダ山は現在「ムチュリンダ山」といい、その場所はマトゥラー市の北方に位置するヴリンダーヴァンの北にあり、またナタヴァタ精舎遺跡は現在ナット・バット・ヴィハーラ(Nat wat vihar)といい、こちらは博物館からそれほど離れていないとの事であった。シャルマ氏は別に幾つかの仏教遺跡も確認されているといわれたが、私はナタ・ヴァタ精舎遺跡の調査を優先した。博物館から自動車で15分ほど走った高速国道の西側でクリシュナの生誕地(クリシュナ・ジャンム・ヴフーミ)及びモスクの少し北側の住宅地の道を左折して三百メートルほど入ったところに高さ15メートル、周囲400百メートルほどの小高い丘があった。南側から見上げるとちょうど双子山のようになり、右手の丘は2メートルほど高くなり、左手の丘は右手の丘に寄り添う形で右手の丘より三倍程度はある。ヴィナヤ氏は「ここがナタヴァタ精舎遺跡といわれる所です。確定的な証拠はないですが、マトゥラー博物館ではここをそれにあてています。またこのあたりはゴーバルドン地区に当たります。」と語った。ここからも数点の仏像などが発見されて、それは現在博物館に収蔵されているとの事であった。周囲は既に宅地化が進んでおり、私が「ここの保存計画はないのですか」と質問すると、彼は「いずれはここも取り壊されて住宅か工場になると思う」という、何とも頼りない返事を寄せてきた。私はここで日本から持参した線香をたき、読経礼拝をした。遺跡の上に登ると周囲が平地のためか、かなり遠くまで見渡すことができた。インド政府や市当局の積極的な保存を願ってやまなかった。
次にヴィナヤ氏はゴービンダ・ナガル遺跡に案内してくれた。ここで博物館に展示されている多くの彫像が発掘された。また『西域記』の「マトゥラー国」の注記には次のように出ている。 
   仏陀時代の16大国の一。釈尊曽てこの地に遊化され、のち優婆麹多が出て大いに仏教を興隆した。アショーカ王の三塔、優婆麹多伽藍、舎利子及びサル塔などの遺跡は現存し、近時、古城址(今のMuttra 市の南)から多数の仏像、貴霜王朝の刻文、崛多王朝の石柱及び彫刻、迦膩色迦王像などが発見された。
 これらの記述について博物館のシャルマ氏に質問したが、彼は「アショーカ王の三塔」の遺跡は確認されていないと答えた。余談になるが博物館でのシャルマ氏との会話の中で彼は「4年ほど以前に日本を訪問し、名古屋にも行きました。」と話された。その時はあまり意識しなかったが、実は平成14年10月から翌年8月にかけて、東京国立博物館、広島県立美術館、名古屋市博物館、奈良国立博物館の四会場で順次「インド・マトゥラー彫刻展」と「パキスタン・ガンダーラ彫刻展」が開かれた。私も名古屋の展示会を訪れ、これらの彫刻を興味深く鑑賞した。しかもその展示会に併せてNHKが発行した冊子にはヴァーラナシー・インド文化研究所顧問」の肩書きでR.Cシャルマ氏が執筆していたのであった。これらはすべて帰国後、当時の資料を読み直して確認した。ただし私たちがマトゥラー博物館で逢ったのはシャトシュガイ・シャルマ(Shatsughay Sharma)と自己紹介されたので、R.Cシャルマ氏とは別人かもしれない。
  ウパグプタ比丘とアショーカ王の物語
『阿育王経』 にこんな話が出ている。ある時ブツダ世尊が大道を歩いておられると、路上にジャヤとビジャヤという二人の少年が遊んでいた。気品に溢れた修行僧が托鉢しているのを見たジャヤ少年は泥をこねてダンゴを作って、世尊の鉢に恭しく差し出したが、これを見ていたビジャヤ少年は「今ここに生死の苦しみを解脱された慈悲深く、後光に飾られた方が居られる。この方こそブツダ世尊に違いない。供養する物を何も持たない私たちは、手元にある泥をこねてダンゴとしてご供養申し上げます。」と歌を吟んだ。ブツダ世尊は微笑してその少年の供養を受けられた。世尊は傍らにいたアーナンダに向かい「この少年は私が涅槃に入って百年の後パータリプトラの街に出て、王となり、名をアショーカと名づけ、正法を敬い、仏舎利を供養して八万四千の仏塔を建立し、多くの人を救済することになる。」と予言を与えた。これが有名な「アショーカ王授記」の物語だ。日本人は現実的な国民のためか、あまり授記=予言というものを大切にしないが、インド人にとって偉大な人格者からの予言はある意味では絶対性を持っているようだ。つまりアショーカ王の出現は、その前世においてブツダ世尊に子供ながら真心を込めてご供養申し上げた行為が報われて四天下を徳で統治する転輪聖王となったという、現実問題を過去世に遡及させて構成する説話なのだ。アショーカ王については今日かなり詳しい伝記がまとめられており 、大略以下の通り。
マウリヤ王朝(首都パータリプトラ)の【初代国王】チャンドラグプタ(位前317頃-前296頃)は紀元前4世紀末にナンダ王朝を滅ぼしてマガダ国を支配し、ガンジス川・インダス川の両流域とデカン高原の一部を統一した。
この王朝の三代国王がアショーカ(位前268頃-前232頃)であり、この王朝が最盛期、帝国領域最大となった。即位当初は周囲の国と激しく争い、悪名を馳せたが、【即位後八年】カリンガを征服。数10万人の犠牲者が出たのを機に、仏教に帰依し、ダルマ(法)の政治を決意する。
ダルマという語は、真理、法律、義務、正義、生活規範などの広い意味をもち、単に仏教の教えという意味だけではありません。
 また、アショーカの政策は仏教を強制するものではなく、他宗教への寛容もあわせもっていたようだ。
「アショーカは碑文のなかで、すべての宗教に対する保護を宣言し、仏教をバラモン教やジャイナ教と対等な一宗教として扱っている。・・・仏教信仰がダルマの理念の基礎にあることは確かであるが、アショーカはその政治において仏教色を出さないよう配慮している。かれのダルマは宗教ではなく、あくまでも帝国統治のための理念である。」とされている。
即位後8年をへて、神々に愛せられたるプリヤダルシン(アショーカ)王は、【カリンガ】を征服した。この戦争で15万人は捕虜として移送され、10万人はそこで殺され、またその数倍の人々が死んだ。そしていまや【カリンガ】を征服して、神々に愛せられたる王は{法}の実行、{法}への愛、{法}の教えに励んだ。かく王は【カリンガ】を征服して、後悔がおこった。未征服地の征服でおこる人々の戦死、殺戮と移送は、神々に愛せられたる王が思うに、深い悲しみと嘆きである。
(江上波夫 監修 『新訳 世界史史料・名言集』 山川出版社 より、アショーカ王詔勅刻文)
ここで注目すべきことはアショーカ王の在位年代が、かなり高い確率で前268頃から前232頃とされている事であり、宇井伯壽博士と中村元博士はこの年代に注目して、「ブツダの生没年代を仏陀の誕生は北伝と南伝で多少の相違があるが、宇井伯壽博士は北伝説とアショーカ王即位の年代との関係及び仏滅116後にアショーカ王即位との考証から仏陀の誕生を紀元前466年とする説を立てたが、中村元博士はこの説を継承しながら、アショーカ王即位の年代を宇井説から3年下げて268とし、仏陀の年代を紀元前463〜383に修正した。現在この説が最も有力と見られる。」と主張した。この事からさらにアショーカ王を教化したウパグプタ比丘の生没年代も大略想定できる。北伝仏教ではウパグプタ比丘とアショーカ王は共に仏涅槃後百年に出現するとなっているので、二人の年代は同時代となる。
『阿育王経』に「ブツダがウパグプタ比丘に予言を与えられた因縁」という段があり、そこに興味深い物語がある。それはブツダがアーナンダと共にマトゥラーに赴いた折、アーナンダに対して、ウパグプタ比丘がウルマンダ山で多くの人を導くであろうと語っているが、その際にウパグプタ比丘の前世話を紹介している。それはむかしこのウルマンダ山の三つの麓にそれぞれ500人の羅漢と、五百人の仙人と、さらに500匹の猿の群れが別々に住んでいた。猿の群れの親分はある時、羅漢の修行場所に行き、羅漢たちの端正な坐禅姿に非常な感銘を受け、初めは森の木の実や花を取ってきて羅漢に供養していたが、終には僧の末席に坐り、見よう見まねの坐禅をするようになり、こうした供養と坐禅の日々を数日続ける事となった。所が何日かすると羅漢たちは皆坐禅したまま涅槃に入ったために猿の親分の供養を受けなくなった。猿はそのことを非常に悲しんで、別の谷で難行苦行に励んでいる仙人たちの所に行った。仙人たちは羅漢とは異なり、刺の生えた荊の上に寝転んだり、灰土の上に横たわり、種々な炎で体を焼いているのを見て、「この修行は間違っている」と考え、猿の仲間とともに水をかけて火を消し、寝ている灰土を掃き集めて仙人の手の届かない場所に片付け、体に刺さった刺は全て抜き去って、その修行の過ちを正したが、仙人はそれでも木の枝に両手を縛り付けてぶら下がったりした。猿はそれも止めさせ、羅漢たちの行った端正な姿の坐禅を仙人に教え、実際にその坐禅をやらせて「このような修行をしなくてはならない」と言った。それによって仙人たちは皆一様に端正な姿の坐禅をするようになり、やがてそれぞれ羅漢の悟りを開いたので、今度は反対に羅漢となった五百人の仙人が端正な坐禅をする500匹の猿に木の実や花を供えて供養するようになった。そうしたある日、坐禅する猿たちが皆涅槃に入ったために、500の羅漢は猿たちを荼毘に付して大切に供養した。ブツダはアーナンダに語った。「この500の仙人に坐禪を教えた猿の親分こそ未来世のウパグプタであり、私が涅槃に入って後百年後にウルマンダ山でさらに多くの衆生を導くだろう。」と予言したのだった。
『阿育王経』はもう一つ興味深い物語を伝えている。それはカリンガ征伐で多くの良民を殺した罪悪を悔い、深く仏教に帰依したアショーカ王は、多くの仏寺を建立し、その中で王都パータリプトラに一際立派に作られたクルクターラーマ(鶏寺)の長老ヤサを訪ねて、ヤサ長老に対して「私は前世においてブツダに泥をこねたダンゴを供養した善業によって仏陀からブツダ涅槃の百年後パータリプトラで転輪聖王となって仏法を守るだろう。」と予言を受けましたが、仏陀は別な予言はされなかったのでしょうか。」と質問したために、ヤサ長老はウパグプタへの予言と、そのウパグプタが現にマトゥラーのナタ・ヴァタ寺に居られると話したために、アショーカ王とウパグプタの運命の出逢いがもたらされた事が書かれている。王は当初ウパグプタをパータリプトラに呼び寄せようとしたが、側近が「尊い覚りを開かれた仏法の体現者は大切に敬わなくてはならないから直接マトゥラーに出かけましょう。」と進言をしからだ。それを聞いたウパグプタが「王がここに出向くとなると道路の整備や接待のために良民に多大な重労働を強いるので、私が都に行きましょう。」と言って舟をヤムナー川に浮かべパータリプトラに行き、王と出逢ったと書かれている。
以上、このマトゥラーはアショーカ王とウパグプタを結びつけた非常に重要な場所と理解されるのだが、この事が従来あまり知られず、マトゥラーに出かける日本人仏教徒も「ナタ・ヴァタ寺」のあった事さえ知らない者が多いので、少し冗長になったが紹介した。ナタ・ヴァタ寺遺跡の見学を終えて私たちは、一旦マトゥラー駅近くのホテルのレストランで休息し、午後6時半ころに駅に到着した。ここではガイドのシブ氏がアグラへ帰るため私たちと同列車の乗車券を購入しようとしたが叶わず、別行動となった。  ナグプールに見るインド仏教の現状
    ナグプールと佐々井長老の情報収集から
今回私がナグプールの仏教事情視察を試みたのは、昨年、祇園精舎、ルンビニ、クシナガラ、ヴェーシャリー、ナーランダ、霊鷲山、ブッダガヤ等の佛跡を巡拝し、ほぼインド仏教の過去の遺産を回ったことから、今年は進んで現在のインド社会に仏教がどのように拘わっているかという、現在及び未来における仏教の現状に触れたかったからであった。それには50年以前にアンベードカル博士がヒンドゥー教から36万人(当事者発表では60万人)と共に仏教へと集団改宗をしたマハラシュトラ州のナグプールへ行くのが当然の結論だった。ただ現地のことについては全く知り合いもいなければ、一体どこを訪問すればよいのか皆目分からなかった。しかし現代社会はインターネットという情報収集の優れた協力者がある。それは神奈川県の田口直道氏と小豆島の円満寺瀬尾師のホームページの記述であり、最初に回答があったのは田口氏であった。
夜行列車でナグプールヘー6月30日(土)〜7月1日(日)
列車はほぼ定刻どおり19時42分マトゥラー駅に入ってきた。例の如くポーターに依頼して私たちの乗る車両まで荷物と私たちを届けてもらって、無事車中の人となった。アグラまでの区間は前の席にフランス人の新婚さんが乗車していて、多いにはしゃいでいたが、アグラからは4歳くらいの男の子を連れたインド人夫婦と一緒だった。
私たちが夜行列車でデカン高原の森林地帯を経由してナグプールに着いたのは13時20分であった。到着予定時刻は9時30分だから、予定より3時間50分遅れたので、正味18時間40分乗車していたことになる。途中の駅ではのどかな高原情緒にも出逢い、車窓は雨にぬれていたが、ナグプールが近づいてくると雨は上がっていた。デリーの近くでも、またナグプールの駅近くでも、ともかく大都市が近づいてくると、それまでの田園地帯や、森林地帯から一気に住宅や工場などが増えてくるのだが、それらの立派な家屋とは別に夥しいほどの破れ家が目に止まってくる。多くは崩れかけた煉瓦積みの囲いに、シートや板切れなどを乗せただけのものや、あるいは原っぱに破れたテントを張って、雨風が容赦なく入り込んできて、とても住居とは呼べないような代物が何十、何百と目に入ってくる。ナグプールは人口220万人を擁するマハラシュトラ州では州都ムンバイに次ぐ大都市のはずなのに、その行政はいったいどうなっているのだろうか。またナグプールは仏教徒の街として教育文化が整っていると聞いてきたが、これらの人はヒンドゥー教徒なのだろうか、はたまた仏教徒なのだろうか、よく分からない。また仏教徒の家は空色の布(ブルー・フラッグ)が家に掲げられていて、仏教徒と分かると言われてきたが、それらも掛けられてはいない。そんなことを思いながら、ようやくナグプールに到着したので、ハイデラバードまで行くと言う家族に別れを告げてホームへと降りた。列車の中からガイドのヤシ氏に電話して二時間程度遅れると連絡していたが、さらに一時間以上遅延しているので、ガイド氏は待っていてくれるだろうか?、などと思いつつ辺りを見回すと、顔なじみのヤシ氏と一緒に赤褐色の袈裟を纏った頑丈そうで、いかにも豪快な日本人僧侶が目に入った。すでに電話では二回ほどお話させていただいていたが、この人が紛れもなくナグプールの仏教徒、いやインド全土の仏教徒の厚い信仰を受けている佐々井秀嶺長老その人であった。「やあー、ようこそお出でくださった。お待ちしていました。私が佐々井です。」と何のわだかまりもなく、ストレートに挨拶をしてこられた。こちらは少し意表を突かれたと言うか、全く予期していなかった駅ホームへの出迎えだった。もう一人日本人の男性がいたが、別に現地人が三人おられ、いきなり私の首に花輪(ハール)をかけて合掌し、「ジャイブヒーム」と挨拶された。同行の佐々木さんにも同じように掛けられた。佐々井長老へは、私たちのナグプール訪問でなるべくご迷惑を掛けないようにとの配慮から駅近くのホテルを予約しており、そこにガイドのヤシ氏を前日の飛行機でデリーから呼び寄せて、専用車も手配してあった。その上で佐々井長老には、到着後にホテルから連絡を取る手はずになっていたのだった。私は非常に恐縮して、「まさか佐々井長老様が、直接駅までお迎え下さるとは、考えても見ませんでした。しかも予定より、4時間近くも遅れての到着で、大変恐縮です。」と告げると、豪快な笑い声と共に「いやー、私も実はデリーから直接こちらに戻る予定だったのですが、ムンバイの方で大雨が降り、向こうは町中水浸しです。そんなわけで、わたしもデリーからベンガルを経由してこちらに到着しました。先生たちがこちらにお出でになるというので野田尚道老師に電話をした所、直ぐに出られて、「あの人はマツラーから夜行列車に乗ってナグプールに向かうと言っていました。」という返事でしたから、「それならこの列車に違いないと言うことで、こちらで待っていました。」ということで、ただただ恐縮するばかりだった。そんな会話をするうちに駅舎の表口に駐められていた頑丈そうなRV車に乗せていただいて私たちの予約していたトゥリ・インターナショナル・ホテルのロビーに到着した。13時40分。佐々井長老は所用で一旦別れたが、午後3時半にもう一度こちらにお出で戴き、アンベードカル菩薩大改宗広場(デークシャ・ブーミ)にご案内下さることになった。これもこちらからは恐れ多いので、「長老様が用事を済ませて再びこちらに戻られるまでの間に、私たちが独自に出かけます」と告げると、直ちに「いや、折角遠くからお出でいただいているのに、私が案内しなければ、内部までよくお参りできないので、案内します。」という返事だった。それ以前のわたしの第一印象は「だみ声の聞いた豪快な坊さんで、少しきどったところがある」ぐらいに思っていたが、次第に「非常に親切で親しみやすく、親身に他人を世話してくれる人」というイメージに変わっていた。私たちはホテルの部屋で一休みし、態勢を立て直してから約束の時間より少し早くロビーで待つことにしたが、長老はほぼ同じころもうやってきた。このときは日本から修行に来ている宮本勝龍さんと、旅行で2日ほど以前にナグプールに来た三浦義金さんとの3人連れだった。しかし72歳だという長老は全く疲れを知らない信念の人という感じだった。早速ロビーで会談が始まってしまったのだが、直ぐに気がついて私たちの部屋に案内して、こちらで話を続けることにした。(以下、長老の許可を得て録音したものの文書起しー省略)
  仏教世界最高の仏塔デイークシャ・ブーミに参詣
 午後4時、佐々井長老との会談を一時中断し、宿泊地のトゥリ・インターナショナルホテルを出発した。ホテルはナグプール駅の北西1キロほどの広い道路に面していたが、ここからおよそ六キロほど南に当たるディークシャ・ブーミへと向かった。佐々井長老、埼玉県出身の日本僧宮本龍勝師、岡山県出身の出家希望者で数日前にナグプールへ来たばかりの三浦義金君、ガイドのヤシパル・マダン氏、運転手、佐々木、関口の7人だった。佛旗をはためかせたインド製ジープの「タタ」に乗って市内の目抜き通りを快適に進んだ。
ここは北インドとはかなり異なり、街は整然としており、自動車量は多いが、比較的交通マナーが良い。女性が颯爽とオートバイで駆け抜けて行き、学生や生徒もこぎれいな制服に身を包み、品性を保って歩いている。乞食や観光客へのしつこい物売りは全く見られない。高架橋に輪タクを漕ぐ人も有るが、概して貧民街の面影はここにはない。辻々には所々に七メートルほどのアンベードカルの銅像が通行の車両や市民を見下ろしている。10分程の乗車でディークシャ・ブーミ(Deeksha BhoomiまたはDiksha bhoomiと表記する)の入り口に到着した。ディークシャとは改宗を意味する。ブーミは場所を意味する言葉だが、既に日本語へは「アンベード菩薩大改宗広場」などと翻訳されている。ここは1956年一〇月一四日に、この聖地がインド国家遺産(ナショナルヘリテージサイト)と宣言されている。五十年前ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル博士によってヒンドゥー教社会において何百万ものダリット(当時不可触民と言われていた。Dalits)の大規模な仏教への改宗を祝うために利用された場所を記念公園としたところなのだ。その後ここにその改宗を記念し、仏教世界では最も高い仏塔として、また改宗を生き甲斐としているインド仏教徒共通の精舎として一九七二年に建てられた。「Deeksha Bhoomiは、仏教徒が『アショカ王の改宗記念Vijaya Dashmi Day』の日を黄金祭として毎年改宗を受ける仏教徒のための神聖な記念碑となっている。毎年、仏陀世尊のすべての支持者
の多勢の会衆が国の内外から、ここに集まってくる。直径とドームの高さは120フィート(一フィートは0.3048メートル=36.58メートル)の大理石によって作られている。またこの大塔建設のために、この4000平方フィートのホールの建設のためにDholpur 砂岩が使われた。インド大統領は、この堂々とした記念碑(つまり国家統合と世俗主義の象徴とNagpuriansのための誇りの場所)を最近開始した。ナグプール駅から南方およそ6キロの地点にある。(以上は現地案内板の日本語訳)このようなすばらしい仏教建築をインドにやってくる海外の仏教徒や一般観光客は何故素通りしてしまうのか不思議なくらいだ。
ディークシャ・ブーミでの視察は正味40分ほどだったが、その間、記念大塔の入り口付近で一人の楽師が奏でるアコーディオン風の楽器の音色が辺りに響き渡っていた。もちろんここでは、北インドの仏教遺跡で見られるしつこい物売りや乞食は全く出会わなかった。それどころか佐々井長老の姿を見つけた仏教徒はすぐさま駆け寄ってきて、長老の足下に五体投地の礼拝をし、ついで佐々木師や私の足下にも鄭重に礼拝を繰り返していた。長老に「この儀礼はヒンドゥー教にもあるのですか」と質問すると、「いや、これは仏教徒特有の信仰儀礼です」と答えられた。普通、タイ、カンボジアなどの仏教国で托鉢の比丘を目にすると、比丘は黙ってその喜捨を受けるのと同じような姿だが、長老は相手に気軽に話しかけたり、逆に長老に対して、家族の慶弔のことなどを話しかけたりするのは、ここナグプール独特のものらしい。そうした面からは、やはりここは南伝上座部仏教とは異なった、大乗的なものなのかもしれない。まだ日の高い真夏の夕方、私たちはしばしの佛国土巡り、浄土巡りをさせて戴いた感じだった。いやここは南天龍宮城だから、「乙姫様のご馳走や、タイやヒラメの舞い踊り」を見たのだろうか。もしこれが事実なら、玉手箱だけは辞退しなければと空想を巡らしたひと時だった。
 市職員の退職慰労会、お爺さんの誕生会、民家の団欒
ディークシャ・ブーミを出て、退職慰労会の行われる公民館に赴き、三百人ほどの参加者と共に三時間ほどの慰労会に参列した。町の公民館は大型の扇風機は回っているが冷房はない。それでも気温は二十四度ほどに下がっていて、比較的さわやか。始まる前には一人の男性がアンベードカルを称える即興の歌を続けている。佐々井長老は講堂のひな壇に上がり、主賓たちと共にハール(花環)を何回も受けては直ぐにはずし、足の頂礼を受けていた。主賓や来賓もハールを受けたりしていた。そんなことが何回も繰り返されてから、やがて佐々井長老の読経と法話があり、引き続いて主賓や来賓の挨拶が一人15分から20分ほど代わる代わる披露される。式後にガイド氏に聞いたところ、主賓の長年にわたる功績や職務についての慰労などは極めてわずかで、大半は演説であり、自身の業績や功績を自慢することが多く、決められた時間を超過しても、「もっと喋らせろ」というものが多かったとのことだった。言語はラマーティー語及びヒンディー語とのこと、佐々井長老の読み上げたパーリー語の経文以外は何も分からず、雄弁な弁士の演説を長々と鑑賞していただけだった。しかし多くの善男善女がアンベードカルの功績を称え、熱心な信仰に支えられていると言う情熱が伝わってきた。食事や飲み物などは一切出されなかった。
 公民館を出て、次には近くの民家で比較的ゆったりとした庭のある家に案内されたが、ここは日本でいえば古希か喜寿の祝いと言う感じで、そこのおじいさんの誕生祝があり、佐々井長老も招かれていたので、そのお供に行ったという設定であった。正面に立派な白塗りの椅子が置かれ、そこに着座するように促された。例により息子さん夫婦や兄弟、孫子などが次々と長老の足を頂礼に来る。長老の次には、佐々木師や私の許へも頂礼にきて、さらにガイド氏の所へも行くが、さすがにガイド氏は「自分は僧侶ではない」と断っていた。綺麗なお水が出され、食事も手元に運ばれたが、ガイド氏は「お水だけは辞めてください」と遮るので、一口飲んだまねをしてテーブルに置いた。食事は少量いただいた。最後に主賓の当家の主が夫人と共に長老や日本僧二人の足に頂礼し、千ルピー札一枚ずつを布施された。その前には息子夫婦も百ルピー札を布施していった。ともかくここは北インドとは生活態度やら僧侶を大切にすると言う面では格段の相違があった。長老は「ここは仏教徒の街ですから礼儀正しいのです」と何回も話された。もちろん私たちはそんなお金を「ハイ、有難う」で懐に入れるわけには行かないので、運転手さんのポケットに密かに入れさせていただいた。それが終わるともう一軒、今度は三階建ての町屋に行き、七人ほどの家族で夏の夜、団欒のひと時に立ち寄らせていただき、家の角に設けられた仏壇にお参りし、また家族の頂礼を受け、食事やお水の接待を受けた。冷房も効き、テレビや電化製品もそろっていたが、この辺りの普通の民家とのことだった。家族全員の頂礼を受けてから、佐々井長老の読経、説法をするというのが、このナグプールの仏教徒の一般的な信仰形態ということが理解できた。
マンセル遺跡と幾つかの活動拠点を視察-7月2日(月) 
この日は午前6時に出発してマンセル遺跡に行く事となった。昨日同様、佐々井長老の協会が所有する佛旗をたなびかせたジープだ。所定の時刻に長老は元気よくホテルのロビーに姿を現した。この日は長老、三浦君、運転手、もう一人インド人の信徒。こちらは両人のほかにガイドのヤシさんも同行するので合計7人の編成。今回私たちは、希望したナグプールの仏教の現状をしっかりと視察した。多忙を極めている佐々井長老自ら案内いただいたので、それだけでも十分に感謝している。長老はさらに私たちの日程を確認した上で翌日、改めてマンセル遺跡にも案内して下さるという、望外の好因縁に恵まれた。これには前話がある。私が前もって日本国内から佐々井長老に電話した折、長老は「今は雨期に当たるのでマンセルに行くのは難しい。発掘地の山はぬかるんで車が入れないから、10月に来てはどうか」と提案されていた。しかしその時期は私の都合がつかないので、あえてこの時期を選んで、「その代わり雨期のためにお寺でゆっくり話ができる」という事でこちらの方針も決まった。ただ雨期にも拘わらず今年はまだ雨が殆んど降らなかったのが幸いした。
トリ・インターナショナルホテルを出て、広い自動車道路を北に向かいナグプール駅近くの跨線橋を渡って鉄道の東側に出た。ナグプールの町はよく分からないが、本来駅東側が古くからの市街地のようだ。広くてしっかりと整備された自動車道を東北方向に十分ほど行くと広い交差点があり、そこを右折したあたりに佐々井長老の拠点(長老は法城と呼んでいた)。インドール精舎(INDOL Bbddha Bihal)があった。長老と一緒に門前の小道を歩いてゆくと、早朝の参詣者であろうか、鮮やかなサリー姿の夫人が数人、長老の姿を見つけて、足早に近づいてきて、それぞれが地に跪いて長老の足を頂戴し、挨拶を交わした。精舎正面はちょうど日本の寺院の向拝のような入り口となっており、入り口の右手には台座とあわせると七メートルほどのアンベードカル菩薩の銅像がそそり立っていた。中に入ると正面に金色の仏像とアンベードカル菩薩の写真が飾られ、その前で10人ほどの信者が読経をしたり、静かに祈りをささげたりしていた。ここはほんの数分立ち寄った程度で、直ぐに車上の人となり、インドール・チョーク(交差点)を一路マンセルに向かった。国道7号線で40キロほどの走行となる。そもそもナグプール行政区は13の市町村からなり、マンセルはこの行政区で最も東北部に位置するラムテック区に属する里山地区で、その北側を少し隔ててマディア・プラデシュ州に接している。ラムテック区には153の集落があり、総人口は141000人。小学校127校、中学校10校、高校24校、大学3校となっている。総合病院10。図書館3。鉄道駅はラムテック。主な産業は農業。以上の情報から読み取れるのは、佐々井長老の話されるようにこの周辺は教育、文化、社会福祉は行き届き、北インドのように貧富の差が天地ほどに離れている事はない。なお2001年現在マンセルの人口は6458人、識字率は69パーセント、インドの国内平均より10パーセントほど高い。車中で長老は「この道を真っ直ぐに行くと15時間ほどでブッダガヤに繋がっているので、私はこの道を何回でも往復します。ブッダガヤの管理権の仏教徒への奪還闘争はかなりの成果を挙げているが、まだ完全に仏教徒の手に帰っていない」と話された。十分ほど走行すると市街地を抜けて郊外に差し掛かったが、その右手にちょうどディークシャ・ブーミを少し小ぶりにした建物があり、佛旗が風になびいていた。これは「ブッダ・ブーミ」という仏塔で元々ディークシャ・ブーミを管理していた仏弟子が、路線争いで、別な協会を設立したとの事。カナン川という河川敷を含め川幅1キロほどの大きな橋を渡ると、そこはカムティ区のカナン集落。ここに建設途上の精舎があって、10分ほど立ち寄った。午前7時20分到着。コンクリート造りの二階建て寺院だ。この寺院建設のために多くの資金を野田尚道老師が寄進していると説明を受けた。そもそも私たちが野田尚道師との知り合いだという事を聞いたカナン寺の信徒たちが、私たち一行の「大歓迎会を開きたい」と長老に提案したが、「直接の知人ではないから必要ない」と言って中止させたとの事。もちろん私たちはそんな歓迎会をされる理由がないので当然だが、それほどまでに野田師が現地信徒たちに慕われていると感じた。建設工事中の本堂正面には左に佐々井長老、右に野田老師の写真が飾られていた。佐々井長老は「この建設中の本堂の写真を映して野田老師に見せて下さい」と言われたので、カメラに収めた。

マンセル遺跡、南天鉄塔、文殊師利菩薩大寺
ナグプール市は平野のど真ん中だが、カナン川を越えてカムティ区からラムテック区に入る頃には行く手前方に丘陵地帯のような山影が目に入ってくる。前方右手の左側に少し高い頂点があり、次第に右下がりになる丘陵を指差して長老は「あれが龍樹連峰です」と説明された。そう言われてみれば確かに龍が臥しているようにも見えるが、連峰というほどの山地ではなく、丘陵地帯といった方が近い。帰国後地図を調べると「Ramtek」とあったのでラムテック区のラムテック丘陵という関係であろうか。国道を右手に曲がると私たちの車は、左手の小高い丘の麓の広場へと入って行って停まった。マンセルに到着。午前8時。マンセルとは集落の名前だが佐々井長老によれば、これはマンジュシュリーつまり文殊菩薩を意味する語から出ているという。
私が長老から受けた説明によると、初めに参拝したのは「文殊師利菩薩大寺」という名前の精舎であり、その北側に鉢を伏せたような小山が「南天鉄塔」であり、その東側に広がる丘陵地帯の遺跡が「南天龍宮城」ということだった。しかし長老の言葉からも「南天鉄塔」というのは実際には特定されておらず、佐々井長老がそのように信じている遺跡に過ぎない。しかも私のような外来者には客観的資料は何もないので、そのまま受け止めるより術がない。しかしこの事は元々ナグプールが龍の城だから、ここが南天龍宮城だと受け止め、さらにここは龍樹菩薩が晩年を過ごした場所だという説も、実は佐々井長老独自のものなのだ。そこで長老には申し訳ないが私が理解しやすいように西側の小さい遺跡を仮に「マンセル大塔遺跡」と呼び、東側の大規模な遺跡を「マンセル王宮遺跡」と呼ぶことにした。長老の呼び名はあくまでも前者が「南天鉄塔」、後者は「南天龍宮城」に変わりはない。
南天鉄塔―マンセル大塔遺跡に登る
長老は私に対して「南天鉄塔」は歩いて登らなければならないので、下から眺めるだけにしておいて、東側の「龍宮城遺跡」は車で上がれるので、後ほどそちらに行きましょう」と話されたが、もしここが実際に「南天鉄塔」で、龍樹菩薩がここで竜王から大乗の経典を授けられた場所なら是非直接に言ってこなければならないと思い、長老にお願いして登らせていただいた。長老は精舎で待つ代わりに、マンセル寺の比丘一人を案内役につけてくれたので、比丘、佐々木、三浦、ヤシと関口の5人で登ることにした。この大塔遺跡はちょうどマンセル寺の裏山という感じであり、標高は六十メートルもあるだろうか、周囲は円形で東西二百メートル、南北百メートルほどで西北部は比較的大きな沼に接している。以前は北側にも沼の水が来ていたが、最近は干上がっているとの事。またこの沼には白蓮がたくさん自生しており、沼には三つのストゥーパ跡も発見されているとのことだった。寺から100メートルも行かないうちになだらかな坂道となり、次第に煉瓦の階段やら遺構が現れてきた。
建設中の龍樹菩薩大寺に立ち寄る
 道路の左手には巨大なアンベードカルの銅像が立ち、右手には建設途上の三階建て鉄筋コンクリートの建物があった。これがこの地こそ佐々井長老が龍樹菩薩の法城の中心としたい龍樹菩薩大寺であった。
 龍樹連峰のドライブウエー
 ここでしばらく長老のお話を伺いながらお茶を戴いて次の訪問地龍樹連峰にある古代龍樹寺に向かった。そこは現在ヒンドゥー教のお寺になっているとの事。12時30分出発。ここから15分ほど東に行くと大きな湖の畔に出た。「これが龍樹海です」と長老が案内した。地図には「Ram Sagal」とあるので一般には「ラム湖」と呼ばれる湖水で周囲七キロほど。箱根の芦ノ湖ほどはあろうか。かなり大きい。そこに立ち寄って直ぐに引き返し今度は龍樹連峰のドライブウエーを登った。ここも地図には「Ramtek」と記されており、「ラム丘陵」とでも翻訳できそうだ。東西に8キロほどで西側を頂点としたu字型の複合丘陵。ただしインドの固有名詞は時代によってしばしば変遷するので、もしかすると「Nagarujyuna-gil」などが正式名称かもしれない。進行方向右手は深い谷になり、谷底は周囲2キロほどのアムバラ湖があり、湖畔には白い建物が点在する。「ラクシュミー・ナラヤン・アシュラム」始めヒンドゥー教の寺院や巡礼宿などだ。さらに車を進めると麓からは300メートルほどの尾根の広場に出た。前方右手のやや高いところがガドマンディル寺で、これが古代龍樹寺らしい。幾つかの寺院建築が点在するが、それらを総称してラム寺と呼んでいるようだ。車を駐車しようとしていたら、管理人か駐車場の係員か、駐車料金の徴収に来た。私たちはそちらには登らず南側やや低い尾根にある公園に進んだ。カリダス記念公園であった。「Classic」という旅行案内書のラムテク(Ramtek)の項には
ラムテクの表現しがたいほどのすばらしさは、偉大な詩人、マハカヴィ・カリダス(Mahakavi Kalidas)の不朽の名作にも登場することから有名である。この丘はナグプールから47km、ナグプール・ジャバルプール(Nagpur―Jabalpur)ハイウェイの途中に横たわる。詩人カリダスの記念碑もある。宗教的にもゆかりのある地で、幽囚されたラーマ神が休息を取った場所とされており、丘の頂上にラーマ神、ラクシュマン、ハヌマーン神を奉る寺院がある。ラクシュマン、ハヌマーン寺院は14世紀に建設された遺跡である。ラムテク行きのバスが頻繁にあることと、MTDCのゲストハウスの予約ができることから、ナグプールからの発着が便利。ラムテクから8kmのところにはキンゼイ・タラヴ(Khindsay Talav)湖がある。深い蒼色をした湖水は神秘的で、とても美しい。湖へ降りる道には階段が整備されている。ウォータースポーツも可能で、観光総合施設による器具の貸し出しなど設備が整っており、観光の目玉の一つとなっている。キンゼイ湖にもMTDCの宿泊施設があり、一日100ルピーで泊まることができる。ラムテクもキンゼイ湖も、ナグプール観光のついでに立ち寄れる範囲にある。
と掲載されている。佐々井長老の話ではマハカヴィ・カリダスはインドでは非常に有名な詩人で、「佛所行讃」の作者馬鳴菩薩より有名だとのことだった。眼下に広がる平原の右手はるかにはナグプールの市街地も見える。またこのあたりは水田や沼地も多く、古代から人が住むのに適した環境のようだ。公園内の東屋にはカリダスの詩の物語を描いた壁画が何枚もあった。これだけしっかりと整備された施設を入手するのは簡単ではないと思いながら車にのり龍樹連峰のドライブを終えて本命中の本命「マンセル王宮遺跡」へ向かった。11時20分発。なお龍樹菩薩の伝記等については九年前に書いた拙文が有るのでここに掲載する。
龍樹菩薩の生没年代に就いては宇井伯壽先生が『印度哲学史』のなかで詳しく考証して、およそ西暦150〜250であったことを明らかにしています。これは中国では後漢末期の『三国志』の時代でやがて魏、呉、蜀の三国が覇権を競うころ、我国では弥生時代の後期にあたり、やがて邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送ったころにあたります。したがって今から1700年ほど以前のことになります。『傳光録』では西インドとなっていますが、現今の研究では龍樹はアンドラ王朝の南インドの人となっています。龍樹の傳を伝えるものとしては『付法蔵因縁傳』、『釋氏稽古略』、『佛祖統記』、『景徳傳燈録』、羅什譯『龍樹菩薩傳』などがあります。宇井伯壽先生の『三論解題』(宇井伯壽著作選集第四)所収)の「中論 龍樹菩薩章」には次のように出ています。
 龍樹菩薩は南天竺の婆羅門にして幼より極めて頴悟、弱冠にして当時の学術一切に通じ、名声遠近に轟きしが、事によりて出家し、年ならずして小乗の三蔵に精通し、更に経典を求め、雪山に於て一老比丘より大乗経典を授けられ、後又龍宮に於て龍王より経典を受け、之を研究して諸の深義に通ずるを得たりといふ。此の如き伝説は固より厳密なる史実にあらざれども、是れ恐らく菩薩が出家後、諸所を遍歴して探索研究せるの事実を示すものなるべし。学成りて後は主として南天竺マカコーサラ国の首府(現今のワイラガルフ)並びに其南方キストナ河の上流に留錫したり。
  チェンナイ(マドラス)は南インド最大の都市で北緯13度、ベンガル湾に面した人口536万人を擁し、タミルナードゥ州の州都に当たります。この西北部にデカン高原があり、そこはもうアンドラ・ブラディシュ州となります。チェンナイから720キロメートルの地にその州都ハイデラバードがあります。ここからさらに180キロほど南側をクリシュナ(キストナ)河が流れています。この河の下流域は紀元前二世紀から五世紀にかけて建立された仏塔、僧院、祠堂などを擁する仏教遺跡が数多く残り、サータヴァーハナ、イクシュバーク両王朝期におれるアンドラ地方での仏教の隆盛を伝えているとされています。クリシュナ河の河口から90キロほど遡ったところにヴィジャヤワードの町があり、さらにそこから280キロほど遡った南岸一帯にアマラヴァティーの仏教遺跡があり、ここからさらに170キロほど遡ったクリシュナ河南岸にナーガールジュナコンダの仏教遺跡があります。コンダとは丘のことで、大乗仏教の大成者でインドでは「八宗の祖」、「第二の釈迦」などと呼ばれるナーガールジュナ(龍樹)がその晩年、ここに住んだという伝承からこの名が生まれたのだといいます。そうするとこのナーガールジュナコンダが龍樹晩年に住んだ吉祥山に当たりそうです。
(平成十年十一月、『両祖の主著に見られる龍樹祖師の教え』関口道潤)

マンセル王宮遺跡(龍宮城)の視察
 龍樹連峰ドライブウエーを走り、私たちは再びマンセルにもどり、今回本命となる発掘中の龍宮城遺跡(マンセル王宮遺跡)に案内された。初め訪問した大塔遺跡の一キロほど東に位置する。
サゴン樹園〜老人ホーム〜ホテル〜空港〜デリー〜台北〜
名古屋―7月2日(月)〜3日(火)             その後車は長老が植樹して管理する「サゴン樹」の園に立ち寄った。そこは一千坪ほどの林で一面にサゴンという沙羅樹に似た樹が植えられており、管理棟もあった。この樹はチーク科の植物で大きくなると建築材などに利用されて、将来的な財産になると語られた。ここでもお茶の接待を受けた。さらに10分ほど走ったところに「有方静恵老人ホーム」があり、視察した。男女の入所者十七人とともにお茶を戴き、長老の説法に耳を傾け(マラティー語かヒンディー語のため理解できるのは2人の日本以外だが)また入所者の礼拝を受けたり、所内の視察をし、4人の介護士がすべて比丘僧で、特別な資格は持たないがみな橙色(オレンジ)の作業着で手際よく車椅子を押したり、お茶を運んだりする様子を見た。元気な入所者は自身でお茶を入れて配り、菜園の野菜の手入れや収穫をしているという。最高齢は80歳の女性。最若年は60歳の女性で、それぞれ身内がなかったり、深刻な理由があったりして、ここで生活しているとのこと。入所資格に仏教徒という制限はなく、先月亡くなった女性はキリスト教徒との事。この老人ホームは有方静恵という日本の兵庫県赤穂市の90歳を越えた女性の一寄進で建てられたとされ、そのために敷地内には有方さん夫妻の等身大の銅像があった。龍樹菩薩大寺の開基家となっている人だ。ここに30分ほど立ち寄り、約1時間10分ほどしてナグプール市内のホテルに戻った。長老にはホテルまでお送り戴いてもう十分だったが、さらに小刻をおいて私たちが乗る国内線飛行機のために空港まで送って下さった。
私たちは今回不思議なご縁を戴き、別にいじめられている亀を助けたわけでないのに龍宮城へ行き、乙姫様ならぬ乙長老様にナグプール仏教徒の実情視察という「山海珍味のご馳走」とマンセル遺跡という「鯛やヒラメの舞踊り」を見せていただき、月日の経つのも夢のうちであった。ただ幸か不幸か「玉手箱」だけは戴いてこなかったので、帰国後急激に老化することはなかった。
 アンベードカル国際空港には所定の時間よりやや早めに着いたが、ここで見送りに来られた長老、宮本、三浦両君などと最後のお礼を告げてターミナルビルへと入った。ナグプール17:30発デリー行きS26126便はムンバイ地方の豪雨のために2時間以上遅れたが、何とか就航して深夜デリーに着いた。しかしもう市内で買い物やら食事をする時間がないので、直接国際線に乗り継ぐ具合になった。しかしそうした遅れを計算して早めの国内便を予約しておいたことも功を奏して所定の中華航空便で台北経由で無事中部空港に到着した。その時間だけはちゃんと定刻だったのがなぜか不思議に感じた。多分インドで延着に慣れたためだろう。
                           

同行者
友人
一人あたり費用
20万円 - 25万円
交通手段
鉄道 タクシー
航空会社
チャイナエアライン

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  • マトゥラー博物館の研修生ビナヤ、クマル氏の案内で、博物館から北へ3キロ程行った「伝ナタヴァタ精舎遺跡遺跡」に案内された。同博物館の学芸員シャルマ氏の説明ではウルマンダ山は現在「ムチュリンダ山」といい、その場所はマトゥラー市の北方に位置するヴリンダーヴァンの北にあり、またナタヴァタ精舎遺跡は現在ナット・バット・ヴィハーラ(Nat wat vihar)という。それは博物館からそれほど離れていないとの事であった。博物館から自動車で15分ほど走った高速国道の西側でクリシュナの生誕地(クリシュナ・ジャンム・ヴフーミ)及びモスクの少し北側の住宅地の道を左折して300メートルほど入ったところに高さ15メートル、周囲四百メートルほどの小高い丘があった。南側から見上げるとちょうど双子山のようになり、右手の丘は2メートルほど高くなり、左手の丘は右手の丘に寄り添う形で右手の丘より三倍程度はある。ヴィナヤ氏は「ここがナタヴァタ精舎遺跡といわれる所です。確定的な証拠はないですが、マトゥラー博物館ではここをそれにあてています。またこのあたりはゴーバルドン地区に当たります。」と語った。ここからも数点の仏像などが発見されて、それは現在博物館に収蔵されているとの事であった。周囲は既に宅地化が進んでおり、私が「ここの保存計画はないのですか」と質問すると、彼は「いずれはここも取り壊されて住宅か工場になると思う」という、何とも頼りない返事を寄せてきた。私はここで日本から持参した線香をたき、読経礼拝をした。遺跡の上に登ると周囲が平地のためか、かなり遠くまで見渡すことができた。インド政府や市当局の積極的な保存を願ってやまなかった。

    マトゥラー博物館の研修生ビナヤ、クマル氏の案内で、博物館から北へ3キロ程行った「伝ナタヴァタ精舎遺跡遺跡」に案内された。同博物館の学芸員シャルマ氏の説明ではウルマンダ山は現在「ムチュリンダ山」といい、その場所はマトゥラー市の北方に位置するヴリンダーヴァンの北にあり、またナタヴァタ精舎遺跡は現在ナット・バット・ヴィハーラ(Nat wat vihar)という。それは博物館からそれほど離れていないとの事であった。博物館から自動車で15分ほど走った高速国道の西側でクリシュナの生誕地(クリシュナ・ジャンム・ヴフーミ)及びモスクの少し北側の住宅地の道を左折して300メートルほど入ったところに高さ15メートル、周囲四百メートルほどの小高い丘があった。南側から見上げるとちょうど双子山のようになり、右手の丘は2メートルほど高くなり、左手の丘は右手の丘に寄り添う形で右手の丘より三倍程度はある。ヴィナヤ氏は「ここがナタヴァタ精舎遺跡といわれる所です。確定的な証拠はないですが、マトゥラー博物館ではここをそれにあてています。またこのあたりはゴーバルドン地区に当たります。」と語った。ここからも数点の仏像などが発見されて、それは現在博物館に収蔵されているとの事であった。周囲は既に宅地化が進んでおり、私が「ここの保存計画はないのですか」と質問すると、彼は「いずれはここも取り壊されて住宅か工場になると思う」という、何とも頼りない返事を寄せてきた。私はここで日本から持参した線香をたき、読経礼拝をした。遺跡の上に登ると周囲が平地のためか、かなり遠くまで見渡すことができた。インド政府や市当局の積極的な保存を願ってやまなかった。

  •  ナグプール駅で佐々井秀嶺長老のお迎え<br />駅には顔なじみのガイド・ヤシ氏と一緒に赤褐色の袈裟を纏った頑丈そうで、いかにも豪快な日本人僧侶が目に入った。ナグプールの仏教徒、インド全土の仏教徒の厚い信仰を受けている佐々井秀嶺長老であった。「やあー、ようこそお出でくださった。お待ちしていました。私が佐々井です。」と何のわだかまりもなく、ストレートに挨拶。こちらは全く予期していなかった駅ホームへの出迎えだった。もう一人日本人の男性がいたが、別に現地人が3人おられ、いきなり私の首に花輪(ハール)をかけて合掌し、「ジャイブヒーム」と挨拶された。同行の佐々木さんにも同じように掛けられた。

     ナグプール駅で佐々井秀嶺長老のお迎え
    駅には顔なじみのガイド・ヤシ氏と一緒に赤褐色の袈裟を纏った頑丈そうで、いかにも豪快な日本人僧侶が目に入った。ナグプールの仏教徒、インド全土の仏教徒の厚い信仰を受けている佐々井秀嶺長老であった。「やあー、ようこそお出でくださった。お待ちしていました。私が佐々井です。」と何のわだかまりもなく、ストレートに挨拶。こちらは全く予期していなかった駅ホームへの出迎えだった。もう一人日本人の男性がいたが、別に現地人が3人おられ、いきなり私の首に花輪(ハール)をかけて合掌し、「ジャイブヒーム」と挨拶された。同行の佐々木さんにも同じように掛けられた。

  • ディークシャ・ブーミ(Deeksha BhoomiまたはDiksha bhoomiと表記する)。ディークシャとは改宗、ブーミは場所を意味する言葉だが、日本語へは「アンベード菩薩大改宗広場」などと翻訳される。ここは1956年10月14日に、インド国家遺産(ナショナルヘリテージサイト)と宣言された。50年前ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル博士によってヒンドゥー教社会において何百万ものダリット(当時不可触民と言われていた。Dalits)の大規模な仏教への改宗を祝うために利用された場所を記念公園としたところ。その改宗を記念し、仏教世界では最も高い仏塔、改宗を生き甲斐としているインド仏教徒共通の精舎として1972年に建てられた。「Deeksha Bhoomiは、仏教徒が『アショカ王の改宗記念Vijaya Dashmi Day』の日を黄金祭として毎年改宗を受ける仏教徒のための神聖な記念碑となっている。直径とドームの高さは120フィート(一フィートは0.3048メートル=36.58メートル)の大理石によって作られている。またこの大塔建設のために、この4000平方フィートのホールの建設のためにDholpur 砂岩が使われた。ナグプール駅から南方およ6六キロの地点にある。このようなすばらしい仏教建築をインドにやってくる海外の仏教徒や一般観光客は何故素通りしてしまうのか不思議なくらいだ。<br />

    ディークシャ・ブーミ(Deeksha BhoomiまたはDiksha bhoomiと表記する)。ディークシャとは改宗、ブーミは場所を意味する言葉だが、日本語へは「アンベード菩薩大改宗広場」などと翻訳される。ここは1956年10月14日に、インド国家遺産(ナショナルヘリテージサイト)と宣言された。50年前ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル博士によってヒンドゥー教社会において何百万ものダリット(当時不可触民と言われていた。Dalits)の大規模な仏教への改宗を祝うために利用された場所を記念公園としたところ。その改宗を記念し、仏教世界では最も高い仏塔、改宗を生き甲斐としているインド仏教徒共通の精舎として1972年に建てられた。「Deeksha Bhoomiは、仏教徒が『アショカ王の改宗記念Vijaya Dashmi Day』の日を黄金祭として毎年改宗を受ける仏教徒のための神聖な記念碑となっている。直径とドームの高さは120フィート(一フィートは0.3048メートル=36.58メートル)の大理石によって作られている。またこの大塔建設のために、この4000平方フィートのホールの建設のためにDholpur 砂岩が使われた。ナグプール駅から南方およ6六キロの地点にある。このようなすばらしい仏教建築をインドにやってくる海外の仏教徒や一般観光客は何故素通りしてしまうのか不思議なくらいだ。

  •  ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル<br />(Bhimrao Ramji Ambedkar、1891年4月14日〜1956年12月6日 )はインドの政治家・インドの思想家、インド憲法の草案を作成したほか、不可触民(ダリット)改革運動の指導者、近代インドにおける仏教革新運動の指導者。インド中部のマディヤ・プラーデーシュ州のマウー出身。ヒンドゥー社会の最下層、アンタッチャブルあるいはダリットとして知られるカーストに属する両親のもと十四人兄弟の末っ子として生まれた。彼はインドにおいて仏教の刷新運動を燃え上がらせた。世界で最も崇敬されている指導者の一人であり、「バーバー・サーハブ」即ち「師父」(baba は父、saheb は敬称)と支持者たちに呼ばれる。

     ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル
    (Bhimrao Ramji Ambedkar、1891年4月14日〜1956年12月6日 )はインドの政治家・インドの思想家、インド憲法の草案を作成したほか、不可触民(ダリット)改革運動の指導者、近代インドにおける仏教革新運動の指導者。インド中部のマディヤ・プラーデーシュ州のマウー出身。ヒンドゥー社会の最下層、アンタッチャブルあるいはダリットとして知られるカーストに属する両親のもと十四人兄弟の末っ子として生まれた。彼はインドにおいて仏教の刷新運動を燃え上がらせた。世界で最も崇敬されている指導者の一人であり、「バーバー・サーハブ」即ち「師父」(baba は父、saheb は敬称)と支持者たちに呼ばれる。

  • ナグプール行政区は13の市町村からなり、マンセルはこの行政区で最も東北部に位置するラムテック区に属する里山地区で、その北側を少し隔ててマディア・プラデシュ州に接する。ラムテック区には153の集落があり、総人口は14万1千人。小学校127校、中学校10校、高校24校、大学3校。総合病院10。図書館3。鉄道駅はラムテック。主な産業は農業。以上の情報から読み取れるのは、佐々井長老の話されるようにこの周辺は教育、文化、社会福祉は行き届き、北インドのように貧富の差が天地ほどに離れている事はない。なお2001年現在マンセルの人口は6458人、識字率は69パーセント、インドの国内平均より10パーセント高い。

    ナグプール行政区は13の市町村からなり、マンセルはこの行政区で最も東北部に位置するラムテック区に属する里山地区で、その北側を少し隔ててマディア・プラデシュ州に接する。ラムテック区には153の集落があり、総人口は14万1千人。小学校127校、中学校10校、高校24校、大学3校。総合病院10。図書館3。鉄道駅はラムテック。主な産業は農業。以上の情報から読み取れるのは、佐々井長老の話されるようにこの周辺は教育、文化、社会福祉は行き届き、北インドのように貧富の差が天地ほどに離れている事はない。なお2001年現在マンセルの人口は6458人、識字率は69パーセント、インドの国内平均より10パーセント高い。

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