2006/05/18 - 2006/05/25
100位(同エリア99件中)
erindojunさん
- erindojunさんTOP
- 旅行記8冊
- クチコミ1件
- Q&A回答43件
- 24,992アクセス
- フォロワー0人
平成18年5月18日から25日までの八日間にわたり、インドの佛跡を巡拜した。インドの旅行期間としては最悪の極暑期にあたるので、この季節は避けるべきだったかもしれない。しかし、忙しかった私が、ある程度健康が保てて、その上わずかでも暇が取れたのがこの期間だった。また四月の下旬に例年、台湾を訪問し、体調を崩しがちなのに、たまたま今回は体調よく日本に戻ったため、この計画に好都合だった。往復の航空券と初日のデリーでのホテルだけをインターネットで予約をとり、その他は別に日本国内にある現地ツアーを計画する業者に依頼して作成した。自由な一人旅でもよかったのだが、昔から「旅は道連れ」の言葉もあるので、大学時代からの旧友をお誘いしたところ、快諾いただいたので同行することとなった。
成田からデリーへー5月18日(木)
十八日(木)中部国際空港八時一五分発ANN三三八便はほぼ定刻に就航。ボーイング七四七―五○○。かなり大型の飛行機だがほぼ満席。成田九時二○分着。第二ターミナルの3階Gカウンターで林博之さんと待ち合わせ。私は始めての成田空港。友人さんは国内線の利用歴はあるが、国際線は初めて。午前一二時○○分発。エアー・インディアAI三〇七便。機種はボーイング七四七―三○○。国内線より少し小さめだが、こちらは空席が目立つ。日本人観光客はインドの極暑期を避けているのかもしれない。デリーまでの直行便で所用八時間。日本との時差は三時間三○分遅れ。機内食は比較的に日本製が多くて、特に問題なかった。もちろん控えめにして、体調の保持に細心の注意を払った。デリー空港へは一六五五着。到着の一時間少し以前から乾燥したインド大陸の北西部の平原が見えた。おそらくガンダク河なのだろう。今回この河の流域地帯を回ることになる。ほぼ定刻にインディラ・ガンジー国際空港に到着。ここでインド・アジア・ツアーのガイドが出迎えてくれた。名刺交換をすると、「日本語ツアー・ガイド」の肩書きと「ヤシパル・マダン」の英語表記があった。本人は流暢な日本語で「ヤシと言います、よろしく。」 と挨拶をした。空港からの車窓では両側に広がる並木は赤い花と黄色い花をたくさんつけた大きな樹木が続いている。ヤシさんの説明では赤い花は「チルソウ」、黄色い花は「ヤミ」という名前とのこと。帰国後に調べたことだが、赤い花はー「鳳凰木―ホウオウボク」黄色い花は「南蛮サイカチ」という名前だったようだ。今回の旅行中、インドの各地でこの花に出逢うこととなる。鳳凰木はもともと南アフリカのマダガスカル島の原産で一八二四年ころ、マスカレーニュ諸島に運ばれ、そこからイギリスに運ばれた後に熱帯各地に広まったと言われている。インドには一五〇年ほど以前に移入されたのだが、今ではインド各地の街路樹などとして植えられ、五月のインドを彩る代表的な花となっているとのこと。マメ科の植物、学名はDelonix regio。英名ピーコック・フラワー。ヒンディー語名はゴルモハル、またはゴルモル。ベンガル語名はビラーティー・クリシュナチューラーとされており、チルソウは俗称なのかもしれない。ついでながら南蛮サイカチはマメ科の落葉高木―小高木でインドが原産地。宗教的にも重要な花で、様々な神格に供えられるとのこと。そうするとこの花はブッダも親しく見られたのかもしれない。学名はCassia fistula。英名はゴールデン・シャワー。ヒンディー語名はアーマルタース、ベンガル語名はバードルダーティ、梵語名はアーラグバダハ。私は「インドサイカチ」と呼ぶことにした。ガイドのヤシ氏が教えてくれた「ヤミ」もおそらく俗称なのだろう。
空港から四十分ほどの乗車で市内の「サンスター・グランドホテル」に到着。市の中心部に当るが、非常にゴミゴミした下町という感じだった。チェックインの手伝いと翌日以降の旅程に就いての相談をし、また彼の携帯電話番号を私が成田でレンタルした携帯電話機に登録してもらった。インドのホテルの第一印象はすさまじかった。何しろホテルの接客係と思しき人がやってきて、いきなり「飲み物はビールか、お茶かコーヒーかそれともジュースか。女はいらないか?」とまくし立てる。仕方がないので紅茶だけを注文したが、その後も電話が入ったり、部屋までやってきて「明日の予定はどうなのか?」というので、「明朝は国内線でラクノウへ行くことになっている」と答えると、次には「搭乗券はあるのか?必要ならこちらで用意するがどうか?」と矢継ぎ早に言ってくる。こんなところではもう英語は不得意だからでは通らない。そこで「明朝、契約してある旅行社のガイドが持ってくる。ガイドと共に行動するから必要ない」と最終通告をしてようやく引き下がらせた。実は出発の前日あらかじめインド国内ツアーを予約した「インド・ネパール・ホテルクーポンシステム」の池谷氏から、「明日からの旅行は気をつけて行ってきてください。大方の予約は完了していますが、最後の日、ガヤからニューデリーまでの寝台特急の指定券だけはキャンセル待ちの状態です。いずれ取れると思いますが、どうしてもダメな場合は、駅係員に少し袖の下を渡して、依頼すれば大丈夫です。何しろインドのことですから」という電話連絡があり、ことに最後の「何しろインドのことですから」がいつまでも耳の底に残っていた。また既に十年ほど以前にほぼ同じ行程で佛跡巡拜をした先輩の寺院さんからの「インドの旅行は予定通りに行かないのが当たり前、何回でも変更を繰り返しながらお参りした。」という言葉も心に刻まれていた。これはかなり気を引き締めなければと改めて実感した。
インドの五月に咲き誇るナーランダの鳳凰木(上)とクシナガラのインドサイカチ(下)
デリーのサンスター、グランドホテル屋上で
左から林師、筆者 ラクノウ空港で左からヤシ、林、ライの各氏
デリーからコーサラの王都舎衛城へー五月十九日(金)
この日はデリーの国内線空港から八:五五発IC六〇一便で南東へ七〇〇キロ離れたラクノウに向かう予定。空港までは四十分掛る見込み。ヤシ氏の説明では「インドの国内線は二時間前までに空港に着いていなければなりません」とのことだったので、逆算するとホテル出発は六時十五分のはずなのだが、彼が指定したのは何故か七時四十分だった。当日朝午前二時に目が覚めた。日本時間では五時半に当るので、自分の体内時計がそうさせているのだろう。まだ早いのでもう一度寝なおして次に起きたのが午前五時。洗面や旅支度を整えて六時には屋上にあるレストランに行って朝食を取った。隣のビルの屋上ではリスとカラスが追いかけっこをして遊んでいた。何故かイタズラを仕掛けるのはリスの方で、カラスがそれに反撃するという漫画のような光景だった。食事が運ばれた頃からにわか雨が有り、頭上の日傘の割れ目から雨漏りがしてきたので急いで朝食を済ませて、匆匆に部屋へ戻った。所定時間を少し過ぎた頃ヤシ氏がオートリクシャーでやってきた。私たちは旅行社が手配した乗用車に乗り込んで国内線空港へ向かった。空港そのものは同じ敷地内のようだが、入口が全く別な所につくられていたようだった。この時期はインドでは国内旅行のシーズンで、国際線よりはかなり混雑していた。機内はとても清潔であり、設備も機体も日本と殆ど変わらない。この飛行機に乗るのは、インドではかなり富裕層の人に限られるとのこと。頭にターバンを巻いた男性の客室乗務員は見事なひげを蓄えていた。シーク教徒なのだろうか。特に印象に残った。眼下には再び乾燥したインド北部の平野が広がる。これから私たちが行こうとしている往時のコーサラ国、現在のウッタル・プラデシュ州。一時間十五分ほど遅れてデリー空港を出発したので、当然到着も予定よりは一時間十五分遅れの午前十一時○五分。ヤシ氏の説明ではインドの総人口は十一億人、ラクノウはウッタル・プラデシュ州の州都、人口は四百三十万人。因みにヤシ氏は仏教徒であり、インドでは最近仏教徒が増加しており、総人口の十パーセントほどに達しているとのことだった。空港では「インド・アジア・ツアー社」から派遣されたライさんという名の運転手が白い「アンバサダー・クラシック」という乗用車で出迎えてくれた。ここから東へ二五〇キロほど離れたバーラナシーから回送してきた。理由はこの町には冷房つきで長距離を移動する営業車が配備されていないとのこと。ここから壮大な陸路のツアーが始まる。平川彰氏の『インド仏教史』によれば
当時の公道は舎衛城から始まり、東進してカピラヴァットゥに至り、さらに東に進み、しだいに南に曲がってクシナガラやヴェーサーリーを経てガンジス河に達し、さらに河をわたってマガダ国に入り、王舎城に至る。この公道を「北路」(Uttarapatha)という。釈尊はこの公道によって、マガダ国に至ったのであろう。
とある。さらに舎衛城からはアジャンタ、エローラ方面に通じる「南路」がひらけていたので、今回私たちが通過する経路と多少は似ているのかもしれない。いずれにしても私たちは既に往時のコーサラ国に入っており、ここからさらに王都舎衛城に向けて出発した。外の気温は三十八度、車内はここちよく冷房が効いて三十度ほど。車は少し古めかしく、この車でこれから二〇〇〇キロの走破に耐えられるのだろうかと思った。しかしラクノウの街を走る自動車の殆どは窓が開け放されている。窓ガラスさえ入っていない路線バスには満員の人が坐ったり、立ったりし、その上、屋根の上にも何人か乗っている。また日本でも五十年ほど前までは駅前で営業していた輪タク=現地ではリクシャーと呼んでいる=も客を乗せ、またオートリクシャーと呼ばれる深緑と黄色のツートンカラーの三輪自動車―これは四十五年ほど以前、日本では「ダイハツ・ミゼット」と言うバーハンドルの軽三輪自動車があったが、これとよく似ている。排気量は一〇〇〇CCとのこと。すべて乗用タイプで中に九人ほどが乗り、さらに屋根の上にも何人か乗っている。日本では当然違反運転、違反乗車であるが、ここでも例の「何しろインドのことですから」という耳奥の言葉がよみがえってくる。道はかなり広く三車線ほどあり、さらに路肩は四メートルほどの歩道のような地帯になっていて、その奥に商店が立ち並び、物を売る者、買う者、運搬する者。その上に日中なのに、子供が多い。学校や幼稚園には行かないのだろうか。ガイドのヤシ氏に尋ねると、かなりの子供は学校に行くが、読み書き計算が出来るようになると、もう通わないで家の仕事を手伝ったり、何らかの仕事を探すのだという。ともかくやたらに人や車、物資が多くて、おもちゃ箱をひっくり返した様な町だ。車の前には大型トラックが走っている。荷台の後部には「HORN PLEASE」と書いてある。「邪魔だったら遠慮なく警笛を鳴らしてくれ、すぐ避けるから」とでも言う意味なのだろうか。その間に輪タクがゆっくりと走り、オートリクシャー、人力車、荷車。ついでに牛やヤギまで歩いている。警笛を鳴らして追い越そうとすると反対方向からも同じようにトラックや乗用車が割り込んでくる。ここはイギリスの影響を受けているので車は左側通行、右ハンドル。日本と同じだが、とても私には運転できそうにない。林博之さんは、ヤシ氏に対して「こんな運転をしていたら事故が多いのではないですか」と尋ねたが、意外にもその答えは「インドではほとんど自動車の事故は有りません」という。私には到底信用できない。そんなことを考えているうちにいつしか車は郊外へと進み、かなり順調に走行できるようになった。走行速度は七十から八十キロ程度だった。しかし高速道路ではない。左右にはのどかな田園地帯というよりは、開墾はされて、区画もされているが、雨期を待っているのか、ほとんど何も植えられていない。地平線まで見渡す限りの田畑が続く。その中で何百頭もの牛が放牧されている。この大地を仏陀は歩かれたのに違いない。ただその当時は人口が少なかったのでもっと森が多かったとはヤシ氏の説明だった。
ラクノウ〜ナワブガンジ〜ラムナガルと、ラクノウから北東方向へと進み、ここで鉄道の踏切で通過列車を待つこととなった。両側には出店があり、子供たちがしきりに物売りに来る。十分ほど停車して、十八輌ほどを連結した青い客車が通過していった。踏み切り近くでは何回も汽笛を鳴らしていた。ここを通過すると間もなくガグラ河の鉄橋だ。乾期のためか水量は多くないがヒマラヤから流れてくる大河である。河の東岸にいたる頃には、風が強く吹き、頻りに砂埃が立ち上り、北の空では雷や稲光が確認された。雨は殆ど降っていなかったが、あまりのすさまじさに運転手のライさんは路肩に車を停めて、風の収まるのを待った。走行を再開すると、道の両側に植えられた街路樹のユーカリの木がところどころで倒木となって道を塞いでいるが、辛うじて通過できる余地があった。近くの住民は手に鋸や斧を携えてやってきては、それらを手際よく薪にこしらえて束ねては運び出してゆく。それは道路の障害物を撤去するというよりは、天与の贈り物を収穫するという観があり、何とも優雅な風景だ。通行車両はその収穫を待って徐に出発することになる。こんな光景が十数回ほど見られたが、最後にはとうとう直径一メートル、高さ十メートル程の大木が道を塞いでいるところに遭遇してここで走行は中断された。倒木の枝を収穫するのは老人、子供、サリーを頭から纏った女性。いろいろな人がいたが、やがて降り出した大粒の雨にもひるむ事無く、みんな真剣に収穫を続けている。誰一人として傘を差すものはいない。それが習慣なのだろうか。四輪駆動の乗用車やジープは道の脇へ進入しては、前進後進を繰り返しながら辛うじて通過してゆく。我々の乗用車はそんな芸当はできない。後続のバスやトラック、乗用車などと共に、その天与の燃料収穫の収束するのを待つより他に手立てはない。何しろわき道は一本もないし、下手に側道を通過しようとすれば、ぬかるみにはまって身動きが取れなくなる。この国には消防自動車だとか、軍隊の災害出動などへの対応は通常の場合は期待できそうにない。ともかく地方の自治、住民の自治にゆだねられている様子。ガイド氏は「この国では何があってもノープロブレム=心配ないという言葉が大切です」と声を掛けてきた。私も「何しろインドのことですから」と気長にかまえるほかなかった。一時間ほど経過してようやく路肩の二メートルほどの幹の上部が切り離されたのを契機に一気に両側の車両がなだれ込んだ。一時間半ほどして、私たちもそこを通過して走行を再開した。その後も多少は倒木があったが、何とか通行できた。ガグラ河東岸の道を北上し、幾つかの集落を過ぎてから、やがて両側には民家や商店が少ずつ見られるようになり、いつしか大きな商店街になっていた。国境の町ヴェーライチ。町外れで再び踏み切りを渡り、道は東へ右折して一路バルランプル方面に向かった。道の真ん中に踏み切りの遮断機みたいな長い棒があったがこれはその近くの橋を通過するための通行税を徴収する検問所で一○ルピーを支払うことになっている。これに時々出逢う。バルランプルの少し手前で左手の田舎道に入り、幾つかの小さな集落を通り過ぎながら、やがて左側から来る少し大きめな道に出て、その道を右に曲がって進むと、サラヴァスティーの集落に到着した。ヴェーライチからバルランプルへは直線の幹線道路があって、この道路沿いにあるのが最近できた集落であるサラヴァスティーだ。ただこの間の道路は現在大改修中だったので、多少通り過ぎて、わき道を進んで戻るような形でサラヴァスティーに到着したようだ。ラクノウから約二〇〇キロ。専用車で五時間の予定、午後三時には祇園精舎に到着して、さらに舎衛城跡に参拝する予定だったが、すでに午後六時、宿泊先の「ロータス・ニッコウ・サラヴァスティー」に直行。閑静なホテルで、祇園精舎を参拝する日本人客が利用するらしい。隣には韓国、インドの仏教寺院が並んでいた。
ガグラ河畔の踏切と列車 ユーカリの倒木で通行止め
(写真撮影は全て林博之師)
よく整備された祇園精舎の遺跡公園 仏陀説法の座 香堂跡でミトラセーナ師と
祇園精舎への参拝―五月二十日(土)
午前六時半出発。ホテルから専用車で祇園精舎へ。約五分程度で正門前に到着。仏陀の信者となったスダッタ長者は孤独な人に食を給与する人―給孤独長者と呼ばれたが、王舎城の竹林精舎のような立派な精舎を建てて、仏陀をコーサラの国、舎衛城の近くにお迎えしたく、選んだのがこの地であり、所有者の祇陀太子の求めに応じて沢山の黄金を敷き詰めて太子の心を動かし、祇陀太子の森に給孤独長者と協力して建てた精舎のために祇樹給孤独園、略して祇園精舎と呼ばれたとは、仏教徒ならば誰でも知っている物語だ。仏陀はこの精舎をこよなく愛され晩年の二十五年は主にここで夏の安居を過ごされた。そこへ私たちも到達したのだった。「ここが仏陀のこよなく愛された祇園精舎なのだ」―そう思うと感涙がこみ上げてきた。思えば十一年前の二月、SVAの現地学習旅行の途中、カンボジアのアンコール・ワットを訪れたときのこと、そこを「天竺国の祇園精舎」と信じ込んで、感激の書入れの墨蹟を残した江戸時代初頭の肥州の住人森本右近太夫は加藤清正の家臣で亡父の森本義太夫等の菩提を弔って四体の仏像を奉納し、参詣の感激を残したことを思い浮かべた。右近太夫は間違えてアンコール・ワットを参詣したが、今私は正真の祇園精舎へも重ねて参詣することが出来たのだった。ここは往時のコーサラ国の首都舎衛城(シュラヴァースティー)郊外にあたる。北緯二七度三○分三三秒、東経八二度二分二一秒。早朝の静けさ、季節外れで他の日本人は誰も訪ねてこない。仏陀も聞かれたことであろう鳥の鳴き声、朝の涼風。何にも増して「仏誕生の花―アショーカ=無憂華」が乱れ咲く木陰を、心行くまでに参詣する。正門の事務所で大正大学の網干善教教授の発掘調査に携わったという方が、種々説明をしてくれた。それにしてもよく整備された、正に淨域という名にふさわしい、素晴らしい遺跡公園だ。菩提樹の大木が何本も植えられているが、それは丁度わが国の神社に植えられる「御神木」のようだった。敷石道を進むこと五分ほどでひときわ小高く、格調高い煉瓦積みの遺跡の中を草箒で掃き清めている橙色(オレンジ)の袈裟を纏った僧侶がいた。ここが仏陀の在世中、常に説法を繰り返された「祇園精舎の主伽藍である香堂―ガンダ・クッティー」なのだという。ヤシ氏は「ここを参詣
するには靴を脱がなければならない」と言った。そこに登ってよいのか尋ねると、靴を脱ぎさえすれば入るのは自由だとのこと。早速日本から持ってきた線香を焚き、香堂の中心に向かって礼拝し、読経をした。その後さらに数分間の坐禅をさせて頂いた。仏の座に坐らせていただくのは大変な罰当たりのような気もしたが、ともかくひたすらに坐禅した。その後、僧に問うと「自分は近くのインド仏教寺院に住むミトラ・セーナというものでいつもここに来て仏陀にお仕えしているのだ」との返事が返ってきた。わずかな布施をして別れた。彼らは「不捉金銀銭宝戎」を受けており、建前としては直接金銭を受取らないことになっているが、現実的にはそれを受け取って生活しているとのことだった。ささやかな布施を受けて合掌する僧の眸は澄んでおり、日々の奉仕行を喜んでいるようにも見えた。幾つもの僧院跡を見、菩提樹や無憂樹の下に行って禅定に入ったが、それには関係なくヤシ氏は自ら知る限りの祇園精舎の物語を話し続けた。一時間ほど立ったであろうか、ここを立ち去りたくない未練を残しつつ、次の参観地マヘート遺跡=伝舎衛城跡に向かった。
祇園精舎の北東二キロメートルほどのところにあるのがマヘート遺跡であり、これが舎衛城跡とされている。ここにはパッキー・クッティーとカッテイー・クッティーの二つの遺跡が残されており、前者がアングリマーラーの塔、後者がスダッタ長者の塔と言われているが、詳しくは分からない。現在発掘の途上である。遺跡の北東にはラプティ河が流れているが、昔は城のすぐ傍を流れていたといわれる。
マヘート遺跡の参拝後、もう一度祇園精舎正門前を通り、高さ二十メートル、直径三十メートルほどの塚に案内された。ヤシ氏の説明では仏陀が兜卒天の生母摩耶夫人のために説法をするために、ここから昇天し、その後サンカーシャに降りたとされる、その昇天の場所とのこと。通常の伝説では祇園精舎の香堂から昇天したことになっているが、インドではそうした伝承があるのだろうか。
次の予定は元々ルンビニへ直行することになっていたが、前夜、ホテルでガイドのヤシ氏との協議で幼少のシッダルタ太子―後の仏陀の出生地である古の釈迦国の王都カピラヴァスト=迦毘羅衛城とケーサリヤの大塔跡、霊鷲山の七葉窟へも足を伸ばすこととなった。祇園精舎から迦毘羅衛城へは直線で一二○キロメートルと、以外に近いのであるが、残念ながらここに現在、ネパールとインドの国境線が走っていて、現地の住民以外は、大きく東に迂回し、スノウリの検問所を通過して行かなければならない。カピラヴァストは現在インド側のピプラハワとネパール側のティラウラコットが共に譲らない有力な候補地なので、私たちは先ずピプラハワに参拝することにした。正式な道程は一四七キロメートルということになっていた。
祇園精舎から南東にあたるバルランプルを経由し、北東に向かって、やがてラプティ河の鉄橋を過ぎ、国境の町ツルシプルに到り、東方向に向かうと鉄道の線路が左手に見える。ガインセリ〜ハクペルワ〜ムンデラと過ぎると、やがて道は南東方向へと向かう。時々田舎町に入るが、そこにはヒンズー教徒に混じってイスラム教徒らしい帽子をかぶった男性や、黒いブルカをまとった女性も目に付く。道の両側には商店が並んで生活物資を売っているが、どれも出店のような物で、急に終戦直後のわが国の風景がよみがえる。ほぼ真っ直ぐ進めば国境を越えてタウリハワに到るのだが、外国人である私たちには通れない。一旦ニビの町まで南下し、再び東北方面に向かうと、このあたりはもうインド、ウッタル・プラデシュ州のシッダルタナガル地区に入る。広々とした田園風景の北側は一面タライ平原の原野であり、農耕地であるが、国境線の辺りだとガイド氏が説明する。しかしどこにも国境らしい境目は見られない。世界で最ものんびりした国境地帯なのだそうだ。三十年ほど以前までは巡礼者には解放されていたという。何しろこのあたりはヒンディー語、インドルピーがネパール、インドを隔てなく通用しているとのこと。川の傍の小さな街を通り過ぎて北の方向に道を変えるとしばらくして平原の中、左手に鉄条網で保護された遺跡に到着。ピプラハワであった。仏陀の生まれ故郷カピラヴァストにはネパール側のティラウラコットとインド側のピプラハワの両方があって、学問上の問題というよりは、政治上の問題となってしまっている。
そもそも今から二千五百年も以前の仏陀の足跡を訪ねることが出来るのは非常に幸せなことなのだが、現在この国は仏教が圧倒的に盛んというわけではないし、また一貫して継承されてきたわけでもない。その上むかしからインド人は物語を口伝えにすることは得意であっても、それを歴史的事実として記録に残しておくことは得意でなかった。そういう地域で厳然として、こうした歴史遺産に接することが出来るのには、過去に何人もの懸命な努力があった。仏教の教団が後世に引き継がれたのは、仏陀滅後の教団を纏めていった迦葉尊者であるし、仏陀の教えが口承されたのは第一結集で誦出した阿難尊者の功績が大きい。しかしそれらの努力を仏滅百年後になって決定的に顕彰し、世界に広め、客観的に後世に残した功績者がいた。それは伝法の四世として知られるウパグプタ比丘とマウリア王朝のアショーカ王である。これらの人がいなかったら仏教は今日に伝わっていなかっただろうし、疑い深い異教徒である欧米人が客観的事実として承認しなかったものと思われる。もちろん有名無名な多くの修行者や信徒、外護者があったのも事実なのだが、それにしてもこれらの存在は抜群であった。しかもこうした歴史的事実を目の当たりに遍歴し、克明な文書にして後世に伝えた執念の二人の中国人求法者があった。彼らはそれぞれ仏跡を巡拝して経典を中国に持ち帰った。一人は四世紀の法顕三蔵、もう一人は七世紀の玄奘三蔵であった。私は今回の仏跡巡拝の旅程を組むのに、当初はコルコト(旧名カルカッタ)から入国し、仏陀最後の旅路を辿るため、ラージギル〜パトナ〜ヴェーシャリー〜クシナガラ〜ゴーラクプル〜ルンビニという経路を取りたかったのだが、日本からの直行便や私の持ち時間などの制約から、デリー〜ラクノウー祇園精舎の行程を取らざるを得ず、少し不満だったが、しかしこの旅程は実は法顕や玄奘等の先駆者達が当たり前のように経過した行程だったと気づいたとき、何か格別な充実感を覚えた。 法顕の旅行記は通常『法顕伝』と呼ばれるが『仏国記』または『歴遊天竺記伝』が正式名であり、以下のように紹介されている。
法顕自記のインド旅行記。東晋の隆安三年(399)、求法の旅に 出発、西域の南道を経由し、葱嶺の嶮、懸度の難をわたって 西北インドに入り、仏教盛行時代における各地の塔寺を歴訪 しながら東南下して中インドに達し、仏蹟を巡拝し、また経 律を学び写し、さらに海路セイロン島に渡り、ついで商船に 便乗して帰路につき、暴風にあってジャワ島に帰着、ここか ら広州に向う途中、再び暴風のために流され、義煕八年(41 2)ようやく青州の海岸に帰着した次第が記される。行文は簡 略であるが経過各地の重要な見聞は正確に伝え、五世紀初頭 に於ける西域、インドの仏教並びに仏教文化に関し、貴重な 資料を提供している。仏教僧のインド旅行記では現存最古の ものである。
(『仏教解題事典』水野弘元等編集、春秋社刊行)
次の『大唐西域記』は、
本書は玄奘が貞観元年(637、諸書には同三年とされる)に出 発、西域諸国を経由、アフガニスタンから西北インドにり、 進んで中インドに至り、さらにインド半島部を巡り、一旦中 インドに戻ったのち、再び西北に道をとり、葱嶺を越えて于& #38352;に出で、貞観一九年(645)長安に帰着した。その旅 行の行程に大半従い、今の東西トルキスタンの諸国、アフガ ニスタンおよびインドの諸国について、境域、気候、風土、 言語、伝承、乃至宗教ことに仏教の情勢や仏寺仏蹟の現状な どを記した地誌で、挙げられる国は「親践するもの一一○ 国、伝聞するもの二八国」、当時の西域、インドのほとんど 全域を含み、旅行記風の記述をとるが、単なる旅行記ではな い。しかも距離や方位、または物の大きさなどを示し、言語 は正しく表音し、一々記すところ努めて正確を期してあり、 古代の地誌としてはこれに及ぶものを見ない、そのため所載 地域における古代地理や、仏教文化などの研究、また考古学 的発掘ないし探検には欠くことのできない指南書として顕著 な成果を導き出し、近世におけるインド学や西域学の進歩に 貢献するところ極めて大きかった。(前掲同書)
と記されている。これらの旅行記にアショーカ王が各地に仏塔や石柱を建立したと記され、それらの記述をもとに十九世紀後半ごろから、西欧の学者やら当該各地の施政官およびアジア各国の仏教徒ならびに我が国の先覚者などが発掘顕彰に勤めたことが今日の保存状況に反映されている。直接の仏跡としてはネパール・ルンビニーのマヤ寺ほか仏陀誕生の聖跡、インド・ブッダガヤの大菩提寺ほか仏陀成道の聖跡がユネスコの「世界文化遺産」に指定されている。これを決定的な価値としたのはいずれも「アショーカ王」の刻文であった。またその陰にはアショーカ王を熱心な仏教信者へと導いて、直接的にそれらの仏跡参拝に案内したウパグプタ比丘の功績も忘れてはならない。今回私たちは、これらの先人がはっきりと記録に留めてくれた仏跡を何の問題もなく、しかも八日間という極めて短期間で巡拝した。実に虫のいい話となる。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 鉄道 タクシー
- 航空会社
- エアインディア
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
0