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 北陸道総鎮守敦賀気比神宮参拝。<br /><br />信長の朝倉攻め、昭和20年の敦賀空襲と2度の全焼の歴史を持つ地元では「おけい」さんの愛称で親しれています。<br /><br /> 伊奢沙別命は、笥飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は勅命により御妹玉姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。その時に笥飯大神が玉姫命に神憑りして「天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託があったという。文武天皇の大宝二年(七〇二)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀となし、後に、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に玉姫命を平殿宮に武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治二十八年三月二十六日に神宮号宣下の御沙汰に依って氣比神宮と改められた。延喜式神名帳に「越前國敦賀郡氣比神宮七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められ、明治二十八年に宮幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。当神宮の神領は持統天皇の御代より贈封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨となった。渤海使が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の氣比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護二年(七六六)勅によって松原客館が建設され、これを、氣比神宮宮司が検校した。延元元年(一三三六)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は滅ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。元亀元年(一五七〇)四月大神司憲直等一族は国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、四十八家の祠官三十六坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。慶長十九年(一六一四)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家八家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治三十九年国宝に指定されたが戦災(昭和二十年七月十二日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。その後、昭和二十五年御本殿の再建につづき同三十七年拝殿、社務所の建設九社の宮の復興を見て、祭祀の巌修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和五十七年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念氣比の社造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。<br />

信長とアメリカ軍に二度焼き討ちされた気比神宮参拝

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2008/09/14 - 2008/09/14

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吉備津彦

吉備津彦さん

 北陸道総鎮守敦賀気比神宮参拝。

信長の朝倉攻め、昭和20年の敦賀空襲と2度の全焼の歴史を持つ地元では「おけい」さんの愛称で親しれています。

 伊奢沙別命は、笥飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は勅命により御妹玉姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。その時に笥飯大神が玉姫命に神憑りして「天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託があったという。文武天皇の大宝二年(七〇二)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀となし、後に、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に玉姫命を平殿宮に武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治二十八年三月二十六日に神宮号宣下の御沙汰に依って氣比神宮と改められた。延喜式神名帳に「越前國敦賀郡氣比神宮七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められ、明治二十八年に宮幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。当神宮の神領は持統天皇の御代より贈封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨となった。渤海使が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の氣比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護二年(七六六)勅によって松原客館が建設され、これを、氣比神宮宮司が検校した。延元元年(一三三六)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は滅ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。元亀元年(一五七〇)四月大神司憲直等一族は国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、四十八家の祠官三十六坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。慶長十九年(一六一四)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家八家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治三十九年国宝に指定されたが戦災(昭和二十年七月十二日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。その後、昭和二十五年御本殿の再建につづき同三十七年拝殿、社務所の建設九社の宮の復興を見て、祭祀の巌修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和五十七年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念氣比の社造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
同行者
一人旅
交通手段
新幹線 JRローカル

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