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次に、善光寺を目指します。ここはかや葺きの楼門(仁王門)が有名です。

石岡巡り2007。「善光寺~大覚寺」。

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2007/08/23 - 2007/08/23

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フロッガー

フロッガーさん

次に、善光寺を目指します。ここはかや葺きの楼門(仁王門)が有名です。

  • 善光寺は真言宗に属します。文亀元年(1501)、小田城主12代・小田左衛門尉成治公の母堂(雪主比丘尼)が善光寺如来を深く信仰していたことにより、新治郡井白郷舘荘太田月光山麗の場所を選び「月光山無量寿院善光寺」を建立されたと伝えられています。<br /><br />その後、元禄14年(1701)に善光寺は現在地の堂山に移されました。この楼門は茨城県最古の木造建築物になります。2階部分は未完成とされており、平成5〜7年にかけて修復が施されましたが、当時の建築に関する記録物は何も発見されなかったそうです。<br /><br />楼門の建立年代は不明ですが、その造りは室町時代中期の特色を反映した物だそう。<br />

    善光寺は真言宗に属します。文亀元年(1501)、小田城主12代・小田左衛門尉成治公の母堂(雪主比丘尼)が善光寺如来を深く信仰していたことにより、新治郡井白郷舘荘太田月光山麗の場所を選び「月光山無量寿院善光寺」を建立されたと伝えられています。

    その後、元禄14年(1701)に善光寺は現在地の堂山に移されました。この楼門は茨城県最古の木造建築物になります。2階部分は未完成とされており、平成5〜7年にかけて修復が施されましたが、当時の建築に関する記録物は何も発見されなかったそうです。

    楼門の建立年代は不明ですが、その造りは室町時代中期の特色を反映した物だそう。

  • そして、本堂。楼門とは裏腹にこちらは修復が施されておらず、今にも崩壊寸前です。右半分が特に崩れていますが、近くによると全体がかなり痛んでおりひどい有様です。(無住職)

    そして、本堂。楼門とは裏腹にこちらは修復が施されておらず、今にも崩壊寸前です。右半分が特に崩れていますが、近くによると全体がかなり痛んでおりひどい有様です。(無住職)

  • そして、大覚寺に向かいます。64号線沿い、ヤマザキショップが目印の交差点沿いに門があります。「板敷山大覚寺」は浄土真宗の開祖・親鸞聖人の弟子、周観大覚(人皇82代後鳥羽院の皇子・正懐親王)が開山しました。<br />

    そして、大覚寺に向かいます。64号線沿い、ヤマザキショップが目印の交差点沿いに門があります。「板敷山大覚寺」は浄土真宗の開祖・親鸞聖人の弟子、周観大覚(人皇82代後鳥羽院の皇子・正懐親王)が開山しました。

  • 親鸞上人が説法をした場所が残されています。<br /><br />親鸞は1207年に興福寺等の訴えにより越後に流罪となり、その後1211年に許されることになります。親鸞は京都には戻らず関東近辺、特にこの常陸の地において1214年頃から布教活動を行っていました。越後では約7年間過ごし、関東では約20年間過ごしたと言われています。当地は親鸞聖人法難の遺跡」でもあります。<br />

    親鸞上人が説法をした場所が残されています。

    親鸞は1207年に興福寺等の訴えにより越後に流罪となり、その後1211年に許されることになります。親鸞は京都には戻らず関東近辺、特にこの常陸の地において1214年頃から布教活動を行っていました。越後では約7年間過ごし、関東では約20年間過ごしたと言われています。当地は親鸞聖人法難の遺跡」でもあります。

  • 鐘楼堂。

    鐘楼堂。

  • 本堂。<br /><br />このお寺は、京都にある「桂離宮」を模して造園した庭園があります。「裏見なしの庭」として有名です。名前の由来は、親鸞聖人と山伏の弁円の「うらみ無し」と、どこから見ても「裏がない」庭の2つの意味と言われています。また裏手の板敷山には、山伏「弁円」が親鸞を呪って祈念したと言われる護摩壇が今も残っています。そして、弁円懺悔の地の碑もあり、今はハイキングコースとして整備されています。<br /><br />【親鸞聖人法難の略系】<br />当時、常陸の国は戒律の厳しい修験道が強大な勢力を持っていました。その中心人物は播摩坊弁円(べんねん)という修験者です。幼くして聖護院宮に仕え、本山派修法の大家として常陸に下り、金砂の佐竹末賢に重んぜられて護摩堂を建て、人々の尊信を集めていました。しかし、親鸞の出現によって聖人の教えに民衆の心が傾くのを快く思わず、『法敵親鸞を祈り殺してくれん』と、聖人殺害を決意することになります。 ある日、弁円は35人の弟子と共に板敷山の南麓に待ち伏せします。弁円は山道に護摩壇を築き、三日三晩待ちましたが、呪法も護摩の祈祷も何の功験もなかったために弁円は、遂に武装姿のまま夜半過ぎに稲田草庵を襲います。ところが、親鸞聖人を初めて見た弁円は親鸞の魅力に、たちまちのうちに害心を失うことになります。これを決定的にしたのは、武装した弁円らを、親鸞が居室まで通したことによります。親鸞聖人の『ご同行』の精神がにじみ出る場面であったそうです。弁円は、それ以後山伏の身を捨てて親鸞聖人の弟子になりました。<br />

    本堂。

    このお寺は、京都にある「桂離宮」を模して造園した庭園があります。「裏見なしの庭」として有名です。名前の由来は、親鸞聖人と山伏の弁円の「うらみ無し」と、どこから見ても「裏がない」庭の2つの意味と言われています。また裏手の板敷山には、山伏「弁円」が親鸞を呪って祈念したと言われる護摩壇が今も残っています。そして、弁円懺悔の地の碑もあり、今はハイキングコースとして整備されています。

    【親鸞聖人法難の略系】
    当時、常陸の国は戒律の厳しい修験道が強大な勢力を持っていました。その中心人物は播摩坊弁円(べんねん)という修験者です。幼くして聖護院宮に仕え、本山派修法の大家として常陸に下り、金砂の佐竹末賢に重んぜられて護摩堂を建て、人々の尊信を集めていました。しかし、親鸞の出現によって聖人の教えに民衆の心が傾くのを快く思わず、『法敵親鸞を祈り殺してくれん』と、聖人殺害を決意することになります。 ある日、弁円は35人の弟子と共に板敷山の南麓に待ち伏せします。弁円は山道に護摩壇を築き、三日三晩待ちましたが、呪法も護摩の祈祷も何の功験もなかったために弁円は、遂に武装姿のまま夜半過ぎに稲田草庵を襲います。ところが、親鸞聖人を初めて見た弁円は親鸞の魅力に、たちまちのうちに害心を失うことになります。これを決定的にしたのは、武装した弁円らを、親鸞が居室まで通したことによります。親鸞聖人の『ご同行』の精神がにじみ出る場面であったそうです。弁円は、それ以後山伏の身を捨てて親鸞聖人の弟子になりました。

  • ヤブツバキ。

    ヤブツバキ。

  • 参道沿い、切り株に生えていた謎なキノコ(笑)。

    参道沿い、切り株に生えていた謎なキノコ(笑)。

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