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さて、唐沢山神社です。唐沢山は標高が250mほどの山で、古くは山城として関東屈指の堅牢さを誇った唐沢山城があった場所です。<br /><br />本丸の跡地には今は唐沢山神社が鎮座していますが、今も当時の山城の遺構を残す場所です。今では県立自然公園としてハイキングコースにもなっていますが紅葉スポットそして夜景スポットとしても人気の場所です。ちょっと足利へ行く前に時間があったので寄ってみたのですが、神社周辺のモミジの木はてっぺんがちょっと色づいてきた状態でした。例年12月に入ると紅葉真っ盛りになるそうなのでまたその時期に行けたらいいなと思っています(#^.^#)。

唐沢山神社。

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2008/11/04 - 2008/11/04

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フロッガー

フロッガーさん

さて、唐沢山神社です。唐沢山は標高が250mほどの山で、古くは山城として関東屈指の堅牢さを誇った唐沢山城があった場所です。

本丸の跡地には今は唐沢山神社が鎮座していますが、今も当時の山城の遺構を残す場所です。今では県立自然公園としてハイキングコースにもなっていますが紅葉スポットそして夜景スポットとしても人気の場所です。ちょっと足利へ行く前に時間があったので寄ってみたのですが、神社周辺のモミジの木はてっぺんがちょっと色づいてきた状態でした。例年12月に入ると紅葉真っ盛りになるそうなのでまたその時期に行けたらいいなと思っています(#^.^#)。

  • 城址碑。大手虎口にあたります。このレストハウスがある場所まで車で来れます。

    城址碑。大手虎口にあたります。このレストハウスがある場所まで車で来れます。

  • 参道を入ってすぐ右にある天狗岩。物見櫓の跡地で、石段を登ると展望台になっています。

    参道を入ってすぐ右にある天狗岩。物見櫓の跡地で、石段を登ると展望台になっています。

  • 石畳のような枚数が凄い岩肌です。

    石畳のような枚数が凄い岩肌です。

  • ほんのちょっと登っただけで絶景(笑)。

    ほんのちょっと登っただけで絶景(笑)。

  • 戻って参道を登ります。

    戻って参道を登ります。

  • 大炊の井戸。池のような大きさの井戸です。

    大炊の井戸。池のような大きさの井戸です。

  • 覗きます。この井戸は唐沢山城の築城の際に厳島大明神に祈請した際、その霊夢によってこの場所を掘ったところ、水が湧き出てきたそうです。<br /><br />直径は8m・深さは9mで水が枯れたことがないそうです。

    覗きます。この井戸は唐沢山城の築城の際に厳島大明神に祈請した際、その霊夢によってこの場所を掘ったところ、水が湧き出てきたそうです。

    直径は8m・深さは9mで水が枯れたことがないそうです。

  • 神橋にさしかかります。<br /><br />この神橋は、今は石造りで固定されたものですが、堀は水を引いていない空堀です。<br /><br />当時はもっと深かったそうで、神橋も当時は外敵にそなえるために使わない時は引き上げてしまう曳橋の形態だったそうです。

    神橋にさしかかります。

    この神橋は、今は石造りで固定されたものですが、堀は水を引いていない空堀です。

    当時はもっと深かったそうで、神橋も当時は外敵にそなえるために使わない時は引き上げてしまう曳橋の形態だったそうです。

  • 神橋から四つ目掘です。右手を登ると二の丸に出ます。<br />

    神橋から四つ目掘です。右手を登ると二の丸に出ます。

  • 二の丸。

    二の丸。

  • 二の丸から本丸へも登れます。上に見えてるのが唐沢山神社。

    二の丸から本丸へも登れます。上に見えてるのが唐沢山神社。

  • 正面側から本丸へ登ります。

    正面側から本丸へ登ります。

  • 山門。

    山門。

  • 唐沢山神社、拝殿です。明治十六年(1883)に創建されました。<br /><br />唐沢山神社は藤原秀郷を祀る神社です。藤原秀郷は平貞盛と共に平将門の乱を鎮圧した人物として有名で、この時の手柄として下野守に任ぜられました。また下野の鎮守府将軍にも任命され兼任することになり、秀郷の後、5代にわたって歴任することになります。その後6代目・藤原兼行の時代に足利の地(両崖山)に城を築き移城(藤原姓足利氏)。唐沢山城は一時廃城になります。そしてこの藤原氏は源氏姓の足利氏に滅ぼされてしまいます。<br /><br /><br />治承四年(1180)に藤原姓足利氏の9代目・藤原俊綱の弟にあたる有綱が唐沢山城を再興させました。そして有綱は佐野氏を名乗るようになりました。唐沢山城はその堅牢さもあって関東の軍事拠点として上杉、北条が奪い合う場所となっていきます。<br /><br />唐沢山城が一番有名になったのは、北条氏と上杉氏の攻防が激しかったころの逸話です。永禄二年(1559)、唐沢山27代城主が佐野昌綱の時代です。小田原の北条氏政の率いる3万5千の大軍が唐沢山城を攻めてきます。昌綱は縁戚関係の上杉謙信に助けを求め、援軍に駆け付けた謙信は自らを先頭に家臣をひきつれて北条氏の軍勢を蹴散らし、唐沢山城まで馬で駆け上ったそうです。この時代は北条氏が領土を拡大するために盛んに動いていた時期でもあって佐野氏はどちらに着けばいいのか悩んでいた時期でもあったようですが、昌綱は上杉謙信に幾度となくそむくような行為を行い、何度も謙信に責められそのたびに降伏する。。。といったことを繰り返していたそうです。

    唐沢山神社、拝殿です。明治十六年(1883)に創建されました。

    唐沢山神社は藤原秀郷を祀る神社です。藤原秀郷は平貞盛と共に平将門の乱を鎮圧した人物として有名で、この時の手柄として下野守に任ぜられました。また下野の鎮守府将軍にも任命され兼任することになり、秀郷の後、5代にわたって歴任することになります。その後6代目・藤原兼行の時代に足利の地(両崖山)に城を築き移城(藤原姓足利氏)。唐沢山城は一時廃城になります。そしてこの藤原氏は源氏姓の足利氏に滅ぼされてしまいます。


    治承四年(1180)に藤原姓足利氏の9代目・藤原俊綱の弟にあたる有綱が唐沢山城を再興させました。そして有綱は佐野氏を名乗るようになりました。唐沢山城はその堅牢さもあって関東の軍事拠点として上杉、北条が奪い合う場所となっていきます。

    唐沢山城が一番有名になったのは、北条氏と上杉氏の攻防が激しかったころの逸話です。永禄二年(1559)、唐沢山27代城主が佐野昌綱の時代です。小田原の北条氏政の率いる3万5千の大軍が唐沢山城を攻めてきます。昌綱は縁戚関係の上杉謙信に助けを求め、援軍に駆け付けた謙信は自らを先頭に家臣をひきつれて北条氏の軍勢を蹴散らし、唐沢山城まで馬で駆け上ったそうです。この時代は北条氏が領土を拡大するために盛んに動いていた時期でもあって佐野氏はどちらに着けばいいのか悩んでいた時期でもあったようですが、昌綱は上杉謙信に幾度となくそむくような行為を行い、何度も謙信に責められそのたびに降伏する。。。といったことを繰り返していたそうです。

  • 昌綱の嫡男である宗綱が唐沢山城主(28代)になった頃、養子の虎松丸と不仲となり佐野一族は分裂します。これが「唐沢山天正の乱」を起こすことになり、上杉謙信は虎松丸を加勢し、宗綱は一族である小山氏・結城氏とともに唐沢山城に立て籠もりました。<br /><br />天正五年(1577)、上杉軍は1万5千の軍勢にて攻撃を仕掛けますが唐沢山城を落とすことができずに上杉軍は撤退することになりました。その後9度にわたって上杉軍に攻められますが落城することはありませんでした。これにて上杉氏とは決別することとなります。<br /><br />天正十一年(1583)、宗綱は勢力争いをしていた長尾顕長を討つため家臣の反対を押し切り出陣しました。須花坂の戦いで宗綱軍は敗れ、宗綱自身も弾を顔面に受けて討ち死にします。宗綱には嫡子がいなかったため養子を取ることになりましたが、常陸の佐竹氏からか小田原の北条氏からかの二派に分裂してしまいます。同年2月に北条氏直は、軍勢をを藤岡城まで進めることで佐野氏に圧力をかけます。北条方は和議の条件として北条氏康の六男・氏忠を養子に出すことを提示、和議を結ぶ形になります。<br /><br />天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は滅びますが、佐野氏は秀吉の重臣であった富田知信の次男・信種を養子に迎えることでこの城と所領3万9千石を保持することになりました。<br />

    昌綱の嫡男である宗綱が唐沢山城主(28代)になった頃、養子の虎松丸と不仲となり佐野一族は分裂します。これが「唐沢山天正の乱」を起こすことになり、上杉謙信は虎松丸を加勢し、宗綱は一族である小山氏・結城氏とともに唐沢山城に立て籠もりました。

    天正五年(1577)、上杉軍は1万5千の軍勢にて攻撃を仕掛けますが唐沢山城を落とすことができずに上杉軍は撤退することになりました。その後9度にわたって上杉軍に攻められますが落城することはありませんでした。これにて上杉氏とは決別することとなります。

    天正十一年(1583)、宗綱は勢力争いをしていた長尾顕長を討つため家臣の反対を押し切り出陣しました。須花坂の戦いで宗綱軍は敗れ、宗綱自身も弾を顔面に受けて討ち死にします。宗綱には嫡子がいなかったため養子を取ることになりましたが、常陸の佐竹氏からか小田原の北条氏からかの二派に分裂してしまいます。同年2月に北条氏直は、軍勢をを藤岡城まで進めることで佐野氏に圧力をかけます。北条方は和議の条件として北条氏康の六男・氏忠を養子に出すことを提示、和議を結ぶ形になります。

    天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は滅びますが、佐野氏は秀吉の重臣であった富田知信の次男・信種を養子に迎えることでこの城と所領3万9千石を保持することになりました。

  • さくらの馬場。かつては武士が馬を訓練したところだそうです。桜の木がが多いのでこの名が付いたと言われます。

    さくらの馬場。かつては武士が馬を訓練したところだそうです。桜の木がが多いのでこの名が付いたと言われます。

  • <br />徳川家康の時代になっていた慶長七年(1602)、この地は佐野藩となっていました。<br /><br />唐沢山城は、現在の佐野駅前に築かれた佐野城(春日岡城)に役割を移すことになります。これで唐沢山城は廃城となり歴史を終えることになりました。<br /><br />一説には、江戸に大火が起こった際に唐沢山城からこれを見た当時の城主・佐野信吉(秀吉から一字をもらう)が他の地方家臣より一番の速さで江戸城に見舞いに駆けつけたそうです。家康は「江戸城を山上から見下ろせるところに居城するとはけしからん」と激怒し、佐野信吉は信濃国に流されることになり、唐沢山城も廃城と決まったと伝えられています。<br />


    徳川家康の時代になっていた慶長七年(1602)、この地は佐野藩となっていました。

    唐沢山城は、現在の佐野駅前に築かれた佐野城(春日岡城)に役割を移すことになります。これで唐沢山城は廃城となり歴史を終えることになりました。

    一説には、江戸に大火が起こった際に唐沢山城からこれを見た当時の城主・佐野信吉(秀吉から一字をもらう)が他の地方家臣より一番の速さで江戸城に見舞いに駆けつけたそうです。家康は「江戸城を山上から見下ろせるところに居城するとはけしからん」と激怒し、佐野信吉は信濃国に流されることになり、唐沢山城も廃城と決まったと伝えられています。

  • 西城(天徳丸)です。

    西城(天徳丸)です。

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