アトス山周辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
アトスへの道は遠い<br /><br />そこはギリシア北部 エーゲ海に突き出た3本指のようなハルキディキ半島、、その一番、北側にある峻険な大地である。切り立った海岸線が長さ40kmも続く半島は、東方正教会の領地としてギリシアから隔てられ、そこに足を踏み入れるには、アトス政庁の許可を得なければならない。 <br /> <br />人の踏みいる事の少ない山地に、夏はエーゲ海の陽光が容赦なく降り注ぎ、冬は雪が降って、緑豊かな、この地も、純白の半島に一変する。<br /><br />しかし、私が「遠い」と感じて来たのは、別の理由だ。<br /><br />アトスに語り継がれて来た伝承は、遥か、西暦49年の昔に遡る。<br />イエス・キリストの死後、エルサレムで静かな余生を送っていた聖母マリアに、キプロス島で伝道をしていた使徒ラザロから、死ぬ前に一度、お会いしたいと便りが届いた。 聖母はラザロの<br />最後の願いを聞き入れるため、福音書家ヨハネに伴われて、船出をした。 ところが海上に出ると思わぬ突風が吹き荒れ、船はキプロス島を通り過ぎて、エーゲ海の東に突き出た半島に漂着した。 只ならぬ霊気を感じた聖母が、上陸すると、天地に雷鳴が轟き主イエスの声がした<br /><br />『この地を御身の園 そして楽園に。 救いを求める者たちの港とされよ』<br /><br />この時からアトスは「聖母の園」と呼ばれ、祈りを極める修道士が目指す聖地となった。<br /><br /><br />アトスの名が一般に知られるようになったのは、村上春樹が1988年に訪れた時の【雨天炎天】だ。<br />   <br />しかし、それより20年も前からアトスに通い続け、僧侶との精神的交流を記した川又一英氏の著作で、私は20代にアトスを知った。<br /><br />世俗の快楽や、富を一切捨て、その生涯をかけて祈りを捧げる修道士達は、私の理解からは遥かに「遠い」高みにあり、そこは軽々と足を踏み入れてはいけない聖地であった。と同時に、ビザンティン盛期(11 -14世紀)に建立されてきた修道院は1000年の長きに渡って、貴重なイコンとフレスコ画が秘蔵されてきた美の帝国でもあった。<br /><br />私は、訪れる資格の無いアトスを、川又氏の著作を通じて夢想した。 氏の紀行文は私にとって【東方見聞録】であり【聖書】であった。<br /><br />その川又一英氏が2004年に急逝され、アトスを語り継ぐ伝道者を失った。 アトスを知ってから既に30年の月日が経っていた。「もう、いいんじゃないか、、とにかく、現地に入り、そこで人に出会って、それをありのままに見て、考える 、、資格が無くても、それでいいんじゃないか、」と私は開き直った。<br /><br />「 静かな中で祈りを守り、自分を見つめ直すには冬のアトスは良いですよ、、」 <br />アトスに何度も旅している人が薦めてくれた。<br /><br />2008年暮れ、私は遂にアトスへの道を歩んだ。<br /><br /><br /><br /><br /><br />アトスへの準備<br /><br />世界遺産のアトスに入境するには、先ず、ギリシア第二の都市、テッサロニキにあるアトス山巡礼事務所のLoris Christos氏に電話をして、入境許可を得なければならない。 この時、入境日、国籍、宗教を問われる。 数日後、申請確認書のFaxが送られて来て、入境日から3泊4日だけの滞在が認められる。( ※ クリスチャンでも、正教徒以外はカソリックもプロテスタントも全て異教徒と見なされ、1日10名以内しか半島には入境出来ない )<br /><br />その次に、宿泊したい修道院に電話を入れて上記と同じ質問を僧侶に答えて、希望日のベッドに空きがあれば宿泊許可が得られる。 政庁と各修道院、この2つをクリアしてようやくアトスへの道は開けるのである。旅人はそれからギリシアまでの飛行機の予約に取りかかるという段取りとなる。<br /><br />(※ 半島内には宿泊施設は修道院以外になく、  そこも基本的に1泊までしか許されないので翌日また山を幾度も超えて、次の修道院に向うしかない) <br /><br />厳冬期 半島には雪が舞い、平均気温は5度以下になり、未明に行われる唱礼では足のつま先が感覚を失う程の極寒になるという。 そんな人を寄せ付けない悪条件故か、私は、僅か4ヶ月前に電話を入れたにも拘わらず、希望の入境と宿泊地が認められたのは幸運であった。 <br />(※この幸運という認識は後日、まったく否定される) <br /><br /> <br />南回りの巡礼路<br />26 &#8211; 28 Dec 2008  日本- 香港 &#8211; トルコ<br /><br />仕事収めの日、会社を18:30に退社してから羽田に向かい、深夜の香港便に乗った。 27日未明香港に着き、湾仔の定宿に行って、14時まで熟睡した。実は2〜3日前から風邪を拗らしていた。<br /> 乾燥した機内、連続の徹夜行、そして厳冬の僧坊を考えた時、旅を決行するか否か? 羽田に向うまで悩んだが、トルコ航空(TK)に確認すると、HKD500(約6000円)で払い戻しが可能だったので、東京より暖かい香港まで行き、そこで最終判断する旅立ちであった。 <br /><br />夕方に宿をチェックアウトした後、少しでも温かい場所を求めて、旺角のサウナに行き、そこで休養をとった。お陰で、大分良くなったので、旅を続けるべく、空港に行き、次の目的地イスタンブールを目指すことにした。<br /><br />トルコ航空71便は23:15に香港を発ち、翌朝06:15にイスタンブールに到着した。地下鉄、トラムを乗り継いでシルケジ駅に行き、その夜のアテネ行き・夜行寝台の切符を購入した。<br />それから、シルケジ駅から歩いて5分の馴染みの宿に行き、スーツケースを預かってもらい、5日後に戻ってくる事を伝えた。 <br /><br />イスタンブールは気温7℃  灰色の空から冷たい雨が1日中振っていた。 半年前にも訪れたコーラ修道院に向かった。堂内は訪れる人も少なく、私の他には暇そうな管理人だけだった。<br /> <br />夏は外光が入口から差し込み、間接的に天井をも照らしているが、冬はそこまで光が及ばないので、内部の直接光でモザイク面を照らしている。画面に組まれた色ガラス達は、画工が精緻に仕組んだ方向に反射し、それが光の血流となって、聖人達を死の淵から、生き生きと浮かび上がらせていた。<br /><br />モザイクの真価を味わうには灰色の季節に、こそ、ここを訪れるべきかも知れない。ビザンティン盛期のモザイクが良く残っているのは、他にラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂やガラ・プラチーディア等があるが、ここまで至近距離では見られない。私は、あごが痛くなるまで、天井画に見惚れ、ビザンティンという人類史上、最も美しかった世界に思いを馳せた。 <br /><br /><br />午後のチャイハネ<br /><br /> 気が付くと、体が随分と冷えてしまったので、名残惜しい聖堂を出て、Taxiで金角湾を一望するエユップの丘に登った。 ここにはかつて、ピール・ロティが足繁く通ったチャイハネが今でも残っている。その居心地の良いチャイハネで暖を取りながら、私はゆったりと午後の時間を愉しんだ。<br /><br /> 夕刻、エミノニュに降り、旧知の給仕に会いにウシュクダルのロカンタまで行った。ケバブのグリルと、ミノを煮込んだスープで温かい夕食を済ませてからシルケジに戻り、アテネ行きの寝台車に乗った。2人用個室には相客が居なかったので、心おきなく過ごせた。 未明にトルコ、ギリシアで停車して出国〜入国を済ませてからは、列車は降雪したギリシア北部の大地を駆け抜けた。<br /><br /><br />テッサロニキ到着<br />29  Dec 2008 テッサロニキ <br /><br />列車はテッサロニキに翌朝10:30に到着<br />駅の構内には、正教の礼拝堂があり、乗降客が一寸の間、祈りを捧げていく。パウロが2000年前にダマスカスで改宗して、使途となり、キリスト教を伝道したのが、この町だ。 駅舎の礼拝堂に佇むと「テッサロニキの信徒への手紙」に記されたパウロの言葉が、聖書のページから、熱い息吹となって、浮かび上がってくる。<br /><br /><br />バスやTaxiに乗ると、運転席には必ず、イコンの写真が貼ってあり、この国の正教の割合が99%という事実が良く分かる。<br /><br /><br />Frommer’sに載っていた宿: Orestias Castoriasaに行き、荷を下ろした。宿の前には、世界遺産のアギオス・ディミトリオス聖堂があり、6世紀のモザイクを拝観した後、ビザンティン博物館に向かった。 ここではマケドニア地方で出土したギリシア期とビザンティン期の建築が、博物館内に見事に復元されており往事の人々の生活をジオラマ的に追体験出来た。ルネッサンスが花開く伏線に、ビザンティンの豪奢な美意識と、そこで培われた職人達の匠があったと云われるが、この美術館に来ると、その事が良く分かる。<br /><br />黄昏の海岸を中央市場まで歩いて、老舗のミネボロス・スミルニに入り、白ワインを空け、タコのグリル、ムール貝のリゾット、グリークサラダを取って、娑婆での2008年、最後の夜を愉しんだ。<br /><br /><br />世俗からの離脱<br />30  Dec 2008 テッサロニキ- ウラノポリス <br /><br />翌朝5:00にTaxiを呼んで、市の東側にあるバスターミナルまで向かい、6:15発のバスでウラノポリスまで向かった。 ウラノポリ8:45着 バス停近くで、フェリーの切符を購入、そのまま歩いてアトス政庁のウラノポリス事務所に入り、そこで申請確認書のFaxをパスポートと一緒に提示して、30 EUROの申請費を添えると、ようやく,ビザンティン帝国の紋章である「双胴の鷲」が刻印された入境許可証が発給された。<br /><br />村上春樹が書いていた港のキヨスクに寄った。 彼を真似て、私もコンビーフ、スパム、チーズ、オレンジ、ソルトクラッカー、固形スープなどを非常食として買った。 季節外れの大商いだったのか、店を預かる少女は、オマケと云って、ウラノポリを空撮した絵葉書を1枚くれた。<br /><br /><br />聖域へのクルーズ<br />ウラノポリ - ダフニ <br /><br />ハルキディキ半島は切り立った海岸線が続き、陸路でギリシア領からアトスへ入る事は出来ない。 アクセスはこのウラノポリから船で半島の南側のダフニ港に入るか、夏場だけ運行される船でイエリッソスから北側の海岸線を辿る海路しかない。15世紀にコンスタンティノープルがオスマン・トルコに陥落後も400年間、イスラム勢力等の外敵の侵入を防いで、ビザンティン領として正教の砦を守れたのも、この特殊な地形があったからだ。<br /><br />灰色の朝靄を切るように、カーフェリーがやって来た。 乗船時にはアトス政庁の役人によって、パスポート、入境証、チケットが改めてチェックされ、当然の事ながら女性はもちろん、動物でさえも雌はここから先に入る事は許されない。<br /><br />船に乗り合わせたのは僧侶が三人、それ以外は、私を含めて20名程の巡礼者だが、正教徒以外の信者がどれだけいるのか判らない。<br /><br />屋上デッキで寒風も意に介さず、じっと海を見ている青年がいた。Barbourのジャケットを洒脱に着こなし、船内で唯一、英語を話せそうに見えた彼は(Peter)はミュンヘンからルフトハンザの直行便でテッサロニキまで、僅か2時間で飛んで来たドイツ人だった。<br /><br /> 船は海岸線を2時間かけて南下し、小さい港に数カ所、接岸して、荷物を降ろして行ってから終点のダフニ港に到着した。<br /><br /> 羽田を発ってから、3日と22時間、こうして、私は宿願の地 アトスに着いた。<br /><br /><br />ルーマニアからの巡礼者<br />ダフニ &#8211; カリエス- グランド・ラブラ<br /><br /> 港に着くと、ミニバスが数台待っていて、殆どの乗船客は、その車で政庁のあるカリエスに向かう。 満員の客を乗せたバスは、唸り声を上げながら雪の残る山道を登って行き、峠を越えて、北側にある集落まで50分で辿り着いた。同乗した客達はルーマニアからの巡礼者5人組と、スペイン人だった。バルセロナから来たMiguelはアフリカで旅行会社を経営する青年で、5人組の一人にサファリの魅力を伝えていた。私が彼らの出身地であるスチャバの「五つの修道院」を巡礼した旨を告げると、一段と、親密になった。<br /><br /><br />彼らは、半島の南端にあり、アトス開祖の修道院であるメギスディ・ラブラ寺院に向かうと云った。 半島の交通は海岸線を周遊する水上taxiもあったが天候が荒れれば休止となり、あまりあてにならず、各修道院を廻るには歩く他なく、巡礼者には健脚が必要とされた。例外的にダフニ〜カリエス、カリエス〜ラブラ間にはオフロードが整備され、ミニバスの定期運行があった。<br />ただ運賃は、客の頭数で割るという仕組みなので、人数がまとまらないと割高になる。それなので、千載一遇と彼等に同乗させて貰う事にした。 <br /><br />初日に宿泊許可を取っていたのはイブロン修道院で、ラブラは取っていなかったが、ルーマニア人に聞くと、門前払いされた場合には、そこから2時間歩けば、許可の要らない修道院があるので、問題ないとアドバイスされた。<br /><br /><br />別のミニバスから降りたPeterも合流してから 出発まで、45分あったので、5人組が、近くのプロタトン聖堂に行こうと誘ってくれた。 <br /><br />残念ながら、11世紀のフレスコ画が残るプロタトンは改修中だった為、そこから、すぐのクトゥルムシウ修道院に行った。 修道院に着くと、リーダーが寺男にギリシア語で訪問の希望を告げた。そうすると、鍵を持った僧が現れ、礼拝堂に我々8名を招き入れた。 <br /><br />ルーマニア人達はイコンの前に進み出て十字架を切った後、口づけをして祈った。その内で、声の美しい青年が進み出て祈りの歌を朗唱すると、残りの人達が交差するように合唱を続けた。それは、私達が慣れ親しんできたポリフォニーの音色と比べると温かさの代りに、個人の祈りの息吹が朗々と表現された唱礼だった。 凛とした祈りの歌に、時差の残る脳髄は思わず身ぶるいした。<br /><br /><br />内陣のフレスコ画には薄い冬の光が射していた。 私は、その美しさに目眩く感動を受けた。 クトゥルムシウはポスト・ビザンティン期(14-16世紀)の建立で、 盛期を支えた職人達は既に、ベネチアなどへ大方、避難していた為、凡庸なフレスコ画や建築では?と、想像していたのだが、現れた内陣の細やかなフレスコ画は目を見張る出来栄えだった。 建立から500年近く、1日たりとも、祈りと燈明と乳香が絶えなかった寺院はかくも美しいものか? と、思わずバルカン地域の修道院の荒廃と比較した。<br /><br />巡礼者の言葉<br />カリエス- メギスディ・ラブラ<br /><br /> 8名の乗客を乗せたミニバスは、半島の東岸を北から南へと、海岸の稜線に僅かに切り開かれた道を走った。 途中、リーダーの希望で「奇跡の泉」という場所で停車した。 食べ物が尽きて<br />悲嘆した僧の前に、聖母が現れ、杖を地に突き刺すと、泉が湧き出て、それを飲んだ僧が復活した、、というルルドの泉のような伝説が残る地だとリーダーが説明してくれた。 半島の各地には、清冽な湧水が多い。エーゲ海に孤高に聳えるアトス山に雲がぶつかり、雨を降らせる様は、屋久島のようだ。その天からの雨水が、地下水となって半島の緑を潤し、地に精気を与えている。<br /><br />彼らに出会わなければ、この泉にもラブラにも来られなかったと思い、出会えた幸運の感謝を口にした。 すると副リーダーが私の目を静かに見据えながらこう答えた。<br /><br />『この世に幸運というものは無いのです、全ては神様が用意された事なのだから』 <br /><br />その言葉に冷水を浴びせられた。<br />私は目に見えるモノを捜しに、この地に来たのでは無かったのに、いつのまにか冒険心で、この地を歩み始めている自分に気が付いた。 <br /><br />自らの信仰の浅さに恥じ入る思いだった。 <br />見えないものを心の窓で、見据える人達と出会い、私はアトスにいる事を実感した。<br /><br /><br /><br />メギスディ・ラブラ修道院<br /> <br />15分程して、14:20 メギスディ・ラブラ修道院に到着した。 88年に訪れた村上春樹たちは、<br />1日目、イブロン修道院で泊まってから、2日目に猛暑と、射るような日差しを浴びながら、12時間以上も、山道を何度も登り降りし、疲労困憊の果てにラブラに,辿り着いていた。<br /><br /> 5人組はそこから半島の先端を目指して歩いて行ったが、私達は、修道院に入った。各寺院には巡礼者を接待するアルホンダリという寺男が居て、私達が「APXONTAPUKI」の看板を捜していると、階上から手まねきしている僧侶を発見した。 <br /><br />室内に入ると、すぐに、ウエルカム・3点セットが提供される。 ルクミ(ゆべし、のような甘味)ウーゾ(ギリシアの蒸留酒)with バニラ水グリーク・コーヒー である。 私は甘党なので、ルクミを肴にウーゾをひっかけ、喉のほてりをバニラ水で鎮めた後、グリーク・コーヒー(つまりトルコ・コーヒー)で閉めた。<br /><br /><br />この茶法は、冬には有り難いが、夏には甘たるいかも知れない。(事実、村上春樹達も始めはそう感じた、、) それから、チェックイン、夏には予約が取れない、謂わば5ッ星のラブラ修道院だったが、閑散期からか、すんなりと宿泊が認められた。 寺男から、この修道院での日課と注意を説明された。(僧侶や礼拝堂内での撮影は厳禁)    <br /><br /><br />僧房は、海側に面した11人部屋で、昔、ドイツで泊まったユースホステルのドミトリーに近い。壁にはヒーターが日没から12時まで稼働するので、それまでに寝てしまい、未明の唱礼までぐっすりと寝るという段取りらしい、、とMiguelが解説してくれた。 驚くべき事に、僧坊でも携帯電話の受信は良好で、彼はウラノポリに残してきたガールフレンドが、「あなたがいない2日間を、私は、ずーっと、この壁を見つめたまま過ごしています」と言って、ただ、白い壁だけを撮った<br />写メールを私達に見せた。<br /><br /><br />夕食までの間、Peterは修道院と周囲の森を散歩し、私は、Miguelの冒険譚に聞き入った。<br />彼はツアー・ガイドとしてアフリカや中東等の奥地を闊歩している旅のプロだったが、オフの時にも世界中を旅している、根っからの旅好きであった。 その彼が1年の半分も留守にする住まいは、グエル公園のまん前にあり、窓を開けるとガウディのモニュメントが一望出来る「眺めのよい部屋」だったので、私と仕事も住まいも交換しようと冗談を言った。 彼から、エチオピアのティグレにあって絶壁の高みにある岩窟教会を訪れた時の話を聞いた。そこの僧侶達は自分達こそが原初キリスト教の【正統】な継承者であると自負していて、ユダヤ教の唱礼をも受け継ぐ秘儀を見せてくれた等の奇譚の数々を私に語った。<br /><br /><br />私は、カタルーニャからやって来た色男が実は、インディジョーンズだった事を知って、「人はみかけによらない」と改めて思い、いつか、彼の案内でセンレンゲティをサファリしてみたいと思った。※彼の会社のURL www.kananga.com<br />      ※同郷の偉人達 カザルスやピカソも色男だ。 <br /><br /><br />ビザンティン・タイム<br /><br /> 15:00から礼拝堂に集まり、夕食を頂く前の唱礼が20分だけあり、それから餐堂に移動して、夕食を25分、その後、場所を最奥の礼拝堂に移して唱礼を30分程してから、寺院の秘宝を開陳されて、唱礼は終わる。 これらはビザンティン時間という日課で定められている。 旧約聖書では、『 初めに夜が来た 』と記されているため、午前0時は日没から始まる。 このため、朝の唱礼が始まるのが、未明の3時頃から始まり、8時頃まで、ぶっ通し、で続くのである。 <br /><br /><br />夕食の献立:烏賊のトマト煮・マカロニ 、キャベツのサラダ アボカド 赤ワイン オレンジパン <br /><br />想像以上に、種類も量も多く、ラブラが5ッ星と人気がある訳である。 が、ワインは村上春樹が語った20年前と同じ味わいだった。<br /><br />餐堂は、見事なフレスコ画で埋め尽くされていた。 祈りを共にする者と、食を共にして、恵みの感謝を共に分かち合う事は、初期キリスト教の昔から重要な日課であったから、その場を祝福するために、堂内はフレスコ画で埋め尽くされた。<br />これはカソリックにも受け継がれてダビンチの【最後の晩餐】を生むにまで、至る。<br />中世にタイムスリップしたような豪奢な空間での晩餐は忘れられない思い出となったが、開け放たれた空間なので、大理石の食台は氷のテーブルと化して、私は体を震わせながら夕食を頂いた。<br /><br /><br />Wake Up !<br />31 Dec 2008  グランド・ラブラ &#8211; イブロン<br /><br />『 5分前だ! 皆おきろ 』 Miguelの声が轟いた。 時計を見ると、6:55 AM 寝坊をした!<br />未明の唱礼に参加してから、7:00AM発のミニバスで海岸線を戻り、イブロン修道院に向かう予定だった、、腕時計の目覚ましに悪態を付きながら、荷物を抱えて飛び出した。 しかし、外は真っ暗、どこが出口かわからなく、私は敷地内を彷徨う失敗を繰り返した。 <br /><br />遅れた詫びに、私は、揺れる車内の中で、簡単なサンドイッチとオレンジを全員に振舞って、面目を取り戻した。<br /> 途中のAmalFinonでPeterは降りて、カラコウ修道院、Philothou修道院を歩き、修道院の門が閉まる前までに、イブロンに辿り着くと私を安心させた。<br /> <br />独語の他に、英仏語とロシア語も少し話す彼はギリシア語・ギリシア文字しかない修道院では、頼りになる存在だった。<br /><br />  7:50AM イブロンで停車する。15 EUROを払って、Miguelと再会を誓ってから別れた。車が去ると、1匹の犬がどこからか近づいて来た。片眼が潰れているが、餌を甘えるように、私を見上げる眼が哀愁を漂わせている。 修道院までの長い道を付いて来たが、中には入らなかったところを見ると、僧侶達が飼っているのではないだろう。<br /><br />堂内でALHONDALIをようやく見つけて入るが、誰もいない。掲示板に【ROOM GIVEN AFTER 12:00 】と書いてあるので、待ち時間を生かすため、日当たりの良い窓辺で汗に濡れた下着を乾かした。 その内に、巡礼者が階上の僧坊から降りてきて、<br />Tea Roomに案内してくれた。 ビスケット、それにグリーク・コーヒー、カモミールティーがセルフで飲めるコーナーで、だんだん彼・ジャコモの友人達も加わった。英語の話せる人がいたので、<br />この寺の日課を確かめると、8:10am頃から唱礼が始まり、10分の祈りの後、8:30位から朝食が提供されるという。 望外の食事に、山道を歩くPeterに申し訳なく思った。この修道院では、僧侶と共に、食台に列席するので、聖餐式の一体感が増している。 <br /><br /><br />朝食の献立: 野菜の煮込み タラモソース キャベツ・サラダ オリーブ パン チョコレートケーキ オレンジ ワイン <br /><br /><br />イブロン修道院<br />カリエス- グランド・ラブラ<br /><br /> アルホンダリに戻ると、僧侶がいたので、宿泊申請をする。僧侶はギリシア語しか話さなかったが、シドニーから来た巡礼者が通訳してくれた。12:00まで、まだ3時間もあるのに、鍵も貰えた。 部屋は3人部屋で、ラブラがユースホステルとすれば、ここは3つ星ホテルのツインルーム並みだ。下着を水洗いしてから、固く絞ってヒーターに乗せて乾かした。 まだ、熱が下がらないので、ベッドに横になって少し休む。<br /><br /><br /> 2時間ほど、昼寝をしてから、Tea Roomに行くと、Peterが到着した所だった。ここまでの山道の景色の美しさというGood News と、空腹で辿り着いた修道院では、おもてなし3点セットの後、ドイツから来た僧侶と4時間も宗教論争をお腹いっぱいしたと語った。 私が、到着早々、たっぷり朝食を取れた話をすると、大きな溜息をついて、それが今日一番の Bad Newsだ、と言った。<br /><br /> 17:00から典礼が始まる。正教では、僧侶は立って祈る。 堂内の壁面に僅かだが座席があるが、典礼は若い僧から、年老いた僧まで立って行うのが、正教のスタイルだ。 典礼は一人の僧が歌いあげる祈りを、次の僧が交差するモノフォニーの構成で、イスラム教で耳にするアザーンに驚く程、似ている。天を突きさすような調べで共通するのも、この二大宗教が、砂漠で生まれたエートスを共有するからかも知れない。<br /><br />若い僧が朗々と歌い上げる祈りが、垂直に昇って礼拝堂のクーポラに抜けて行った。<br /><br /> 典礼後、大僧侶から、奥の内陣に入るのを許され、貴重なイコンや、名僧の頭蓋骨などを拝観出来る。 その後、聖餐堂に向かう。<br />Peterにとっては、これが今日の第一食で、ほっとしている。今回、僧侶は同席していない。<br />献立は、朝食とほぼ同じだがワインは出なかった。<br />食後、Tea Roomでお茶を飲みたかったが、閉まっていたので、部屋に戻った。 魔法瓶に入れたハーブティーをPeterと分けて飲んだ。 彼は ザックから分厚い哲学書を出し、私はジャン・イブ・ルルーの「アトスからの言葉」を読み耽った。<br /><br />真夜中の典礼<br />1 Jan 2009  イブロン &#8211; ダフニ<br /><br />2:00AM  僧侶が木片を叩き、朝の典礼の始まりを告げる。汗でびっしょりと濡れた下着を取り換えた。カイロを背中と爪先に貼り、雪だるまのように着込んで、礼拝堂に向かった。 外気は0度位に冷えていて、真っ暗で、右も左も判らない。 かつて見たウンベルト・エーコの映画【薔薇の名前】の中世の僧院のシーンに紛れ込んだみたいだ。あの時、ショーン・コネリー扮する僧はカンテラで迷路を抜けて行ったが、我々はLEDのライトを四方に振りまきながら礼拝堂の入口を捜した。<br /><br /> 礼拝堂に入ると、内陣の奥に誘導された。 既に20名程の僧侶が立礼していて、典礼は始まっていた。ここでも若い僧が祈りを主導して、時折、ギリシア悲劇のコロスのように、複数の僧達が単音階で祈り声を交錯させるという構成だ。 これが2時間続き、次は、古い聖堂に移り、狭いながらも、もっと親密な空間で、典礼を続けた。<br /><br />私は睡魔と寒さに耐えながら、ルルーが書いていた言葉を思い出して、日本語で祈り続けた。<br /> <br /> 6:00に典礼が終わった。 シドニーの人に促されて、内陣の奧に進んだ。 彼の所作を真似て、十字架を切ってから、イコンに口づけをした。外に出ると、清澄な冷気に洗礼された。<br /><br /><br />新年の朝食<br /><br />巡礼者達は、冷え切った体を温めるために<br />Tea Roomに集った。 私は、部屋から、非常食に取っておいたコンビーフ、チーズや果物を全て出して、彼等と分かち合った。 ルーマニア、オーストラリア、ドイツ、日本 食卓を囲む仲間達に多くの言葉は要らなかった。アトスでは、グレゴリオ暦のため新年の元旦は1月14日〜15日となっていたが、誰彼となく、「Happy New Year !」と云って、2009年 最初の朝食を祝った。<br />(※ エチオピアのラリベラでクリスマス・ミサが1月8日頃行われるのも、同様の理由 )<br /><br />シドニーの人は、もう20回もアトスに巡礼していた。 アトスで一番、好きな季節を訊くと、「秋が1番気候が安定している。 その次が春、冬は歩きやすいし、人が少ないので静かな祈りの時が持てる。 夏は日差しが厳しすぎている」と答えた。 ただ、冬でも、アトスの海は天候の変化が激しく、船の欠航が続く時が多いと注意した。そのリスクは、多くの巡礼者の失敗談から知っていたので、天候が安定している今日のフェリーでアトスを出航しようと私も考えていた。Peterは少し仮眠するというので、カリエスでの再会を期して、先に出発した。 僧門は暗い回廊の奧にあり、壁と同じ色で閉まっていたので、私は見つけるのに、また手間取った。 外に出ると、エーゲ海の向こうから、2009年のご来光が上がった。<br /><br /><br /><br /><br />元旦のエーゲ海<br />  イブロン &#8211; ダフニ<br /> <br />昨日、乗ってきたラブラ発のミニバスに乗って<br />カリエスに8:40に着いた。 ダフニ行きのバスを待つ間に、プロタトンに行くが、相変わらず閉まっていた。バス停の前の店でアトスの僧の筆になる聖母子のイコンを350 EUROで求めた。<br /><br />バスが来て、50分かけ雪深い峠を越えて、南岸のダフニに行った。来るときには気が付かなかったが、港には税関があって、貴重なイコンの持ち出しを調べていた。桟橋から海を見下ろすと、<br />透明度が良いので、魚が泳いでいるのが見えた。<br /> フェリーの展望デッキに上がり、海岸線を北上しながら崖に建てられた修道院の数々を見送った。 <br /><br />次ぎに訪れる機会が与えられれば、イエスの弟子・聖ルカの筆になる聖母子のイコンを秘蔵するヒランダリ修道院を訪れたいと思った。<br /> <br />アトスでは、物事は全てシンプルだった。そして、それは心豊かだった。モノに惑わされず、自分を見つめた3日間の日々を神様に感謝した。<br /><br /><br /><br />ポリスへ<br />1 -2 Jan 2009  テッサロニキ &#8211; イスタンブール<br /><br /> ウラノポリには 14:00に着いた。テッサロニキ行きのバスが待っていたが、絵葉書と飲み物を買い直ぐに乗り込んだ。2日前の道を戻って、テッサロニキに向かう。16:40 KTEAバス・ターミナル着 36,31番のバスを乗り継いで、中央市場前<br />まで行き、ホテルに戻って、キャリーを引取り、すぐにテッサロニキ駅に行った。 イスタンブール行きの夜行寝台は 19:30 定刻通りに出発。<br /><br />アトスからの船に遅れがあれば、乗り遅れていたので、今日、アトスを出てきて良かった。<br /><br /><br />夜行寝台の出会い<br /><br /> コンパートメントはトルコ国鉄の客車で、往路のギリシア国鉄よりも設備が悪かった。 相客はボストンから着た58歳のフレデリック 離婚した妻が引き取った、娘と息子を連れて1年に1回の旅行に来ていた。持病が多いのか、パイロットケース一杯の薬を持ちながらの負担だったが、常に笑顔で子供達の面倒を見ていた。<br /> <br /><br />私の息子が10歳と告げると、今度は、一緒に来られるといいね、、と優しい言葉をかけてくれた。<br /> トルコ国境で彼等はヴィザを要求されて、一人15EUROも払っていた。 日本人は何故、無料なのか?と訊くので、「我々の税金で第2ボスポラス橋を造ってあげたからだ、米国も基地の替わりに橋を造って上げれば、次はヴィザ代を払わなくてすむのにね」って辛辣に云ったら、「全てはあのカーボーイのせいだ」とブッシュを吐き捨てた。 そんな彼もオバマのために投票依頼の電話を1ヶ月間ボランタリーしたというのだから、アメリカの草の根運動は、大したもんだ、と感心した。<br /><br /><br />雨のイスタンブール<br />2 Jan 2009  イスタンブール<br /><br />9:00 シルケジ駅着 別れ際に、フレデリックが息子と娘を紹介してくれた。私も「You have a good daddy 」とエールを贈った。 駅から歩いて3分HOTEL AKCINARに戻った。直ぐに風呂に熱い湯をためて、ザブンと入った。ヒゲを剃り5日分の垢を落としながら、アトスを思い返した。<br /><br />溜まった下着を洗濯し、家族に無事の電話を入れ、ほっとしたら、まだ何にも食べてなかった事に気が付いた。ホテルから歩いて、エノミニュの桟橋に行き、フェリーに乗った。今日も、イスタンブールには冷たい雨が降り続き、ガラタ塔も寒そうにしていた。ウシュクダルに着き、モスクの通路を通って、ロカンタに辿り着き、窓際のテーブルに座ると、あの懐かしい笑顔が待っていた。<br /><br /><br />赤ワインを温めてもらい、それにケバブの煮込み、チーズ・ピラフ、ゼザートにバニラ・プディングを注文した。 ここに戻ってくると、ほっとする。空港へのアクセスがあれば、この近くの宿に泊まるのだが、、といつも思う。<br /><br /> それからカバタッシュに船で行き、地下鉄でタクシムに行った。 イスラティクールをぶらついて、CDと写真集を買った。 だんだん雨足が強くなってきて、宿に戻ろうとしたが、渋滞でバスがなかなか来なかった。なんとかホテルに戻ったら、悪寒がして風邪をぶり返してしまったらしい<br />夜、咳き込んで眠れないまま、不安が集った。<br /><br /><br />イスタンブール大学病院<br />3 Jan 2009  イスタンブール<br /><br /> 地球の歩き方 流石だと、思った。ちゃんと英語が通じる国際病院の連絡先が載っている。必要部分だけコピーしてくる流儀があるが、どこが「必要」になるか、旅先でないと判らないものだと痛感した。 ドイツ病院への行き方を宿のおじさんに訊くと、「そんな所は高い! トルコでは医師はみんな英語を話すから チャパに行きなさい」と薦められて、トラムに乗って、CAPAで降りると、そこはイスタンブール大学病院だった。<br /> <br />外来受付は何処か?と、インターンらしき学生に訊くと、英語があまり出来なそうだった(※私と同じ位という意味で)ので、ジェスチャーで咳き込む姿をしたら、判ったみたいで、腕を掴んで、どんどん、別棟の3階に連れて行く。 途中、何回も警備員がいるので、通常は入れないのだろう。<br /> どうやら内科?気管支科? の診断室で待っていると、すぐに30代の明るい医師がやって来た。<br /><br /> 医師は完璧な英語を話し、私の拙い症状報告を聞いた後、眼と喉を調べて、必要な処方箋と服用の注意をしてくれた。 大学の門を不安な思いで入ってから、まだ30分位しか経っていなかった。<br /> <br /><br />医師に礼を言ってからインターンに支払いは何処でと訊くと、彼はそれには無用と答えた。<br />「私達、トルコ人は日本が好きなのです。だから、これはフレンド・シップです」と付け加えた。<br /> トルコの親日感情には、明治時代に和歌山沖で難破したトルコ海軍の船員達を手厚く持てなした史実に起因する、、とは教科書で習っていても、まさか100年後に自分が、その恩恵に預かるとは夢にも思わなかった。 私は一旦、町に出て薬局で薬を受け取った。 3種類の薬は全部で1500円位だった。 近くの店でチョコレートの贈答セットを2コ買って、病院に戻り、インターンに渡した。 それを受け取った時の笑顔を見て、私自身が温かくなってきた。 <br /><br /><br /><br /><br />グランバザールで最後の聖戦<br /><br /> 病は気から、随分、楽になったので、まだ、見ていなかった考古学博物館に行った。 実は、ここには、アナトリアの生活用具に囲まれた居心地の良いチャイハネがあるからだ。 アレキサンダー大王の石棺などを見てから。トプカピ宮殿で使われた膨大な絨毯のコレクションに魅入った。 <br /> リヨンの織物美術館のコレクションには及ばないが、ここでの収穫が、オスマンの宮廷様式のデザインの絨毯だった。 それを写真に納めてから円高の好機に、これを活かす他ないと思い、グランバザールで、このデザインの絨毯を求めようと思い付いた。 明日は日曜日でバザールは閉まるので、今夕は買い手市場でもあった。<br /><br /><br />結局、私は、捜していたデザインの絨毯を手に入れた。店主は、お金を払った後も、苦みつぶした顔で別れの挨拶も云わなかったが、戦果はまさにインシャラーだ。 <br /><br />調子にのって、馴染みの骨董屋を覗くと、19Cの聖グレゴリウスのイコンが待っていた。好為替の誘いに乗って、EU750でそれも手に入れて閉まった。 これだから、【大山詣で】の後は怖い。<br /><br /><br />香港から羽田へ<br />3 -5 Jan 2009  トルコ &#8211; 香港 &#8211; 東京<br />その夜、イスタンブールを23:50に発ち、翌日の15:40 香港着 旺角のタイ料理屋で鱶鰭を食してから空港に戻り、CXのスパでリフレッシュして、未明の2:05に香港を発ち羽田に6:45到着浜松町に8:30に着いてから会社に早朝出社した。  <br /><br />こうして、私はリアルワールドに帰還した。<br />

聖地アトス            - ビザンティンの箱舟に旅して --

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2008/12/26 - 2009/01/05

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bloom3476

bloom3476さん

アトスへの道は遠い

そこはギリシア北部 エーゲ海に突き出た3本指のようなハルキディキ半島、、その一番、北側にある峻険な大地である。切り立った海岸線が長さ40kmも続く半島は、東方正教会の領地としてギリシアから隔てられ、そこに足を踏み入れるには、アトス政庁の許可を得なければならない。 
 
人の踏みいる事の少ない山地に、夏はエーゲ海の陽光が容赦なく降り注ぎ、冬は雪が降って、緑豊かな、この地も、純白の半島に一変する。

しかし、私が「遠い」と感じて来たのは、別の理由だ。

アトスに語り継がれて来た伝承は、遥か、西暦49年の昔に遡る。
イエス・キリストの死後、エルサレムで静かな余生を送っていた聖母マリアに、キプロス島で伝道をしていた使徒ラザロから、死ぬ前に一度、お会いしたいと便りが届いた。 聖母はラザロの
最後の願いを聞き入れるため、福音書家ヨハネに伴われて、船出をした。 ところが海上に出ると思わぬ突風が吹き荒れ、船はキプロス島を通り過ぎて、エーゲ海の東に突き出た半島に漂着した。 只ならぬ霊気を感じた聖母が、上陸すると、天地に雷鳴が轟き主イエスの声がした

『この地を御身の園 そして楽園に。 救いを求める者たちの港とされよ』

この時からアトスは「聖母の園」と呼ばれ、祈りを極める修道士が目指す聖地となった。


アトスの名が一般に知られるようになったのは、村上春樹が1988年に訪れた時の【雨天炎天】だ。
   
しかし、それより20年も前からアトスに通い続け、僧侶との精神的交流を記した川又一英氏の著作で、私は20代にアトスを知った。

世俗の快楽や、富を一切捨て、その生涯をかけて祈りを捧げる修道士達は、私の理解からは遥かに「遠い」高みにあり、そこは軽々と足を踏み入れてはいけない聖地であった。と同時に、ビザンティン盛期(11 -14世紀)に建立されてきた修道院は1000年の長きに渡って、貴重なイコンとフレスコ画が秘蔵されてきた美の帝国でもあった。

私は、訪れる資格の無いアトスを、川又氏の著作を通じて夢想した。 氏の紀行文は私にとって【東方見聞録】であり【聖書】であった。

その川又一英氏が2004年に急逝され、アトスを語り継ぐ伝道者を失った。 アトスを知ってから既に30年の月日が経っていた。「もう、いいんじゃないか、、とにかく、現地に入り、そこで人に出会って、それをありのままに見て、考える 、、資格が無くても、それでいいんじゃないか、」と私は開き直った。

「 静かな中で祈りを守り、自分を見つめ直すには冬のアトスは良いですよ、、」 
アトスに何度も旅している人が薦めてくれた。

2008年暮れ、私は遂にアトスへの道を歩んだ。





アトスへの準備

世界遺産のアトスに入境するには、先ず、ギリシア第二の都市、テッサロニキにあるアトス山巡礼事務所のLoris Christos氏に電話をして、入境許可を得なければならない。 この時、入境日、国籍、宗教を問われる。 数日後、申請確認書のFaxが送られて来て、入境日から3泊4日だけの滞在が認められる。( ※ クリスチャンでも、正教徒以外はカソリックもプロテスタントも全て異教徒と見なされ、1日10名以内しか半島には入境出来ない )

その次に、宿泊したい修道院に電話を入れて上記と同じ質問を僧侶に答えて、希望日のベッドに空きがあれば宿泊許可が得られる。 政庁と各修道院、この2つをクリアしてようやくアトスへの道は開けるのである。旅人はそれからギリシアまでの飛行機の予約に取りかかるという段取りとなる。

(※ 半島内には宿泊施設は修道院以外になく、  そこも基本的に1泊までしか許されないので翌日また山を幾度も超えて、次の修道院に向うしかない) 

厳冬期 半島には雪が舞い、平均気温は5度以下になり、未明に行われる唱礼では足のつま先が感覚を失う程の極寒になるという。 そんな人を寄せ付けない悪条件故か、私は、僅か4ヶ月前に電話を入れたにも拘わらず、希望の入境と宿泊地が認められたのは幸運であった。 
(※この幸運という認識は後日、まったく否定される) 

 
南回りの巡礼路
26 – 28 Dec 2008 日本- 香港 – トルコ

仕事収めの日、会社を18:30に退社してから羽田に向かい、深夜の香港便に乗った。 27日未明香港に着き、湾仔の定宿に行って、14時まで熟睡した。実は2〜3日前から風邪を拗らしていた。
 乾燥した機内、連続の徹夜行、そして厳冬の僧坊を考えた時、旅を決行するか否か? 羽田に向うまで悩んだが、トルコ航空(TK)に確認すると、HKD500(約6000円)で払い戻しが可能だったので、東京より暖かい香港まで行き、そこで最終判断する旅立ちであった。 

夕方に宿をチェックアウトした後、少しでも温かい場所を求めて、旺角のサウナに行き、そこで休養をとった。お陰で、大分良くなったので、旅を続けるべく、空港に行き、次の目的地イスタンブールを目指すことにした。

トルコ航空71便は23:15に香港を発ち、翌朝06:15にイスタンブールに到着した。地下鉄、トラムを乗り継いでシルケジ駅に行き、その夜のアテネ行き・夜行寝台の切符を購入した。
それから、シルケジ駅から歩いて5分の馴染みの宿に行き、スーツケースを預かってもらい、5日後に戻ってくる事を伝えた。 

イスタンブールは気温7℃  灰色の空から冷たい雨が1日中振っていた。 半年前にも訪れたコーラ修道院に向かった。堂内は訪れる人も少なく、私の他には暇そうな管理人だけだった。
 
夏は外光が入口から差し込み、間接的に天井をも照らしているが、冬はそこまで光が及ばないので、内部の直接光でモザイク面を照らしている。画面に組まれた色ガラス達は、画工が精緻に仕組んだ方向に反射し、それが光の血流となって、聖人達を死の淵から、生き生きと浮かび上がらせていた。

モザイクの真価を味わうには灰色の季節に、こそ、ここを訪れるべきかも知れない。ビザンティン盛期のモザイクが良く残っているのは、他にラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂やガラ・プラチーディア等があるが、ここまで至近距離では見られない。私は、あごが痛くなるまで、天井画に見惚れ、ビザンティンという人類史上、最も美しかった世界に思いを馳せた。 


午後のチャイハネ

 気が付くと、体が随分と冷えてしまったので、名残惜しい聖堂を出て、Taxiで金角湾を一望するエユップの丘に登った。 ここにはかつて、ピール・ロティが足繁く通ったチャイハネが今でも残っている。その居心地の良いチャイハネで暖を取りながら、私はゆったりと午後の時間を愉しんだ。

 夕刻、エミノニュに降り、旧知の給仕に会いにウシュクダルのロカンタまで行った。ケバブのグリルと、ミノを煮込んだスープで温かい夕食を済ませてからシルケジに戻り、アテネ行きの寝台車に乗った。2人用個室には相客が居なかったので、心おきなく過ごせた。 未明にトルコ、ギリシアで停車して出国〜入国を済ませてからは、列車は降雪したギリシア北部の大地を駆け抜けた。


テッサロニキ到着
29 Dec 2008 テッサロニキ

列車はテッサロニキに翌朝10:30に到着
駅の構内には、正教の礼拝堂があり、乗降客が一寸の間、祈りを捧げていく。パウロが2000年前にダマスカスで改宗して、使途となり、キリスト教を伝道したのが、この町だ。 駅舎の礼拝堂に佇むと「テッサロニキの信徒への手紙」に記されたパウロの言葉が、聖書のページから、熱い息吹となって、浮かび上がってくる。


バスやTaxiに乗ると、運転席には必ず、イコンの写真が貼ってあり、この国の正教の割合が99%という事実が良く分かる。


Frommer’sに載っていた宿: Orestias Castoriasaに行き、荷を下ろした。宿の前には、世界遺産のアギオス・ディミトリオス聖堂があり、6世紀のモザイクを拝観した後、ビザンティン博物館に向かった。 ここではマケドニア地方で出土したギリシア期とビザンティン期の建築が、博物館内に見事に復元されており往事の人々の生活をジオラマ的に追体験出来た。ルネッサンスが花開く伏線に、ビザンティンの豪奢な美意識と、そこで培われた職人達の匠があったと云われるが、この美術館に来ると、その事が良く分かる。

黄昏の海岸を中央市場まで歩いて、老舗のミネボロス・スミルニに入り、白ワインを空け、タコのグリル、ムール貝のリゾット、グリークサラダを取って、娑婆での2008年、最後の夜を愉しんだ。


世俗からの離脱
30 Dec 2008 テッサロニキ- ウラノポリス

翌朝5:00にTaxiを呼んで、市の東側にあるバスターミナルまで向かい、6:15発のバスでウラノポリスまで向かった。 ウラノポリ8:45着 バス停近くで、フェリーの切符を購入、そのまま歩いてアトス政庁のウラノポリス事務所に入り、そこで申請確認書のFaxをパスポートと一緒に提示して、30 EUROの申請費を添えると、ようやく,ビザンティン帝国の紋章である「双胴の鷲」が刻印された入境許可証が発給された。

村上春樹が書いていた港のキヨスクに寄った。 彼を真似て、私もコンビーフ、スパム、チーズ、オレンジ、ソルトクラッカー、固形スープなどを非常食として買った。 季節外れの大商いだったのか、店を預かる少女は、オマケと云って、ウラノポリを空撮した絵葉書を1枚くれた。


聖域へのクルーズ
ウラノポリ - ダフニ

ハルキディキ半島は切り立った海岸線が続き、陸路でギリシア領からアトスへ入る事は出来ない。 アクセスはこのウラノポリから船で半島の南側のダフニ港に入るか、夏場だけ運行される船でイエリッソスから北側の海岸線を辿る海路しかない。15世紀にコンスタンティノープルがオスマン・トルコに陥落後も400年間、イスラム勢力等の外敵の侵入を防いで、ビザンティン領として正教の砦を守れたのも、この特殊な地形があったからだ。

灰色の朝靄を切るように、カーフェリーがやって来た。 乗船時にはアトス政庁の役人によって、パスポート、入境証、チケットが改めてチェックされ、当然の事ながら女性はもちろん、動物でさえも雌はここから先に入る事は許されない。

船に乗り合わせたのは僧侶が三人、それ以外は、私を含めて20名程の巡礼者だが、正教徒以外の信者がどれだけいるのか判らない。

屋上デッキで寒風も意に介さず、じっと海を見ている青年がいた。Barbourのジャケットを洒脱に着こなし、船内で唯一、英語を話せそうに見えた彼は(Peter)はミュンヘンからルフトハンザの直行便でテッサロニキまで、僅か2時間で飛んで来たドイツ人だった。

 船は海岸線を2時間かけて南下し、小さい港に数カ所、接岸して、荷物を降ろして行ってから終点のダフニ港に到着した。

 羽田を発ってから、3日と22時間、こうして、私は宿願の地 アトスに着いた。


ルーマニアからの巡礼者
ダフニ – カリエス- グランド・ラブラ

 港に着くと、ミニバスが数台待っていて、殆どの乗船客は、その車で政庁のあるカリエスに向かう。 満員の客を乗せたバスは、唸り声を上げながら雪の残る山道を登って行き、峠を越えて、北側にある集落まで50分で辿り着いた。同乗した客達はルーマニアからの巡礼者5人組と、スペイン人だった。バルセロナから来たMiguelはアフリカで旅行会社を経営する青年で、5人組の一人にサファリの魅力を伝えていた。私が彼らの出身地であるスチャバの「五つの修道院」を巡礼した旨を告げると、一段と、親密になった。


彼らは、半島の南端にあり、アトス開祖の修道院であるメギスディ・ラブラ寺院に向かうと云った。 半島の交通は海岸線を周遊する水上taxiもあったが天候が荒れれば休止となり、あまりあてにならず、各修道院を廻るには歩く他なく、巡礼者には健脚が必要とされた。例外的にダフニ〜カリエス、カリエス〜ラブラ間にはオフロードが整備され、ミニバスの定期運行があった。
ただ運賃は、客の頭数で割るという仕組みなので、人数がまとまらないと割高になる。それなので、千載一遇と彼等に同乗させて貰う事にした。 

初日に宿泊許可を取っていたのはイブロン修道院で、ラブラは取っていなかったが、ルーマニア人に聞くと、門前払いされた場合には、そこから2時間歩けば、許可の要らない修道院があるので、問題ないとアドバイスされた。


別のミニバスから降りたPeterも合流してから 出発まで、45分あったので、5人組が、近くのプロタトン聖堂に行こうと誘ってくれた。 

残念ながら、11世紀のフレスコ画が残るプロタトンは改修中だった為、そこから、すぐのクトゥルムシウ修道院に行った。 修道院に着くと、リーダーが寺男にギリシア語で訪問の希望を告げた。そうすると、鍵を持った僧が現れ、礼拝堂に我々8名を招き入れた。 

ルーマニア人達はイコンの前に進み出て十字架を切った後、口づけをして祈った。その内で、声の美しい青年が進み出て祈りの歌を朗唱すると、残りの人達が交差するように合唱を続けた。それは、私達が慣れ親しんできたポリフォニーの音色と比べると温かさの代りに、個人の祈りの息吹が朗々と表現された唱礼だった。 凛とした祈りの歌に、時差の残る脳髄は思わず身ぶるいした。


内陣のフレスコ画には薄い冬の光が射していた。 私は、その美しさに目眩く感動を受けた。 クトゥルムシウはポスト・ビザンティン期(14-16世紀)の建立で、 盛期を支えた職人達は既に、ベネチアなどへ大方、避難していた為、凡庸なフレスコ画や建築では?と、想像していたのだが、現れた内陣の細やかなフレスコ画は目を見張る出来栄えだった。 建立から500年近く、1日たりとも、祈りと燈明と乳香が絶えなかった寺院はかくも美しいものか? と、思わずバルカン地域の修道院の荒廃と比較した。

巡礼者の言葉
カリエス- メギスディ・ラブラ

 8名の乗客を乗せたミニバスは、半島の東岸を北から南へと、海岸の稜線に僅かに切り開かれた道を走った。 途中、リーダーの希望で「奇跡の泉」という場所で停車した。 食べ物が尽きて
悲嘆した僧の前に、聖母が現れ、杖を地に突き刺すと、泉が湧き出て、それを飲んだ僧が復活した、、というルルドの泉のような伝説が残る地だとリーダーが説明してくれた。 半島の各地には、清冽な湧水が多い。エーゲ海に孤高に聳えるアトス山に雲がぶつかり、雨を降らせる様は、屋久島のようだ。その天からの雨水が、地下水となって半島の緑を潤し、地に精気を与えている。

彼らに出会わなければ、この泉にもラブラにも来られなかったと思い、出会えた幸運の感謝を口にした。 すると副リーダーが私の目を静かに見据えながらこう答えた。

『この世に幸運というものは無いのです、全ては神様が用意された事なのだから』 

その言葉に冷水を浴びせられた。
私は目に見えるモノを捜しに、この地に来たのでは無かったのに、いつのまにか冒険心で、この地を歩み始めている自分に気が付いた。 

自らの信仰の浅さに恥じ入る思いだった。 
見えないものを心の窓で、見据える人達と出会い、私はアトスにいる事を実感した。



メギスディ・ラブラ修道院
 
15分程して、14:20 メギスディ・ラブラ修道院に到着した。 88年に訪れた村上春樹たちは、
1日目、イブロン修道院で泊まってから、2日目に猛暑と、射るような日差しを浴びながら、12時間以上も、山道を何度も登り降りし、疲労困憊の果てにラブラに,辿り着いていた。

 5人組はそこから半島の先端を目指して歩いて行ったが、私達は、修道院に入った。各寺院には巡礼者を接待するアルホンダリという寺男が居て、私達が「APXONTAPUKI」の看板を捜していると、階上から手まねきしている僧侶を発見した。 

室内に入ると、すぐに、ウエルカム・3点セットが提供される。 ルクミ(ゆべし、のような甘味)ウーゾ(ギリシアの蒸留酒)with バニラ水グリーク・コーヒー である。 私は甘党なので、ルクミを肴にウーゾをひっかけ、喉のほてりをバニラ水で鎮めた後、グリーク・コーヒー(つまりトルコ・コーヒー)で閉めた。


この茶法は、冬には有り難いが、夏には甘たるいかも知れない。(事実、村上春樹達も始めはそう感じた、、) それから、チェックイン、夏には予約が取れない、謂わば5ッ星のラブラ修道院だったが、閑散期からか、すんなりと宿泊が認められた。 寺男から、この修道院での日課と注意を説明された。(僧侶や礼拝堂内での撮影は厳禁)    


僧房は、海側に面した11人部屋で、昔、ドイツで泊まったユースホステルのドミトリーに近い。壁にはヒーターが日没から12時まで稼働するので、それまでに寝てしまい、未明の唱礼までぐっすりと寝るという段取りらしい、、とMiguelが解説してくれた。 驚くべき事に、僧坊でも携帯電話の受信は良好で、彼はウラノポリに残してきたガールフレンドが、「あなたがいない2日間を、私は、ずーっと、この壁を見つめたまま過ごしています」と言って、ただ、白い壁だけを撮った
写メールを私達に見せた。


夕食までの間、Peterは修道院と周囲の森を散歩し、私は、Miguelの冒険譚に聞き入った。
彼はツアー・ガイドとしてアフリカや中東等の奥地を闊歩している旅のプロだったが、オフの時にも世界中を旅している、根っからの旅好きであった。 その彼が1年の半分も留守にする住まいは、グエル公園のまん前にあり、窓を開けるとガウディのモニュメントが一望出来る「眺めのよい部屋」だったので、私と仕事も住まいも交換しようと冗談を言った。 彼から、エチオピアのティグレにあって絶壁の高みにある岩窟教会を訪れた時の話を聞いた。そこの僧侶達は自分達こそが原初キリスト教の【正統】な継承者であると自負していて、ユダヤ教の唱礼をも受け継ぐ秘儀を見せてくれた等の奇譚の数々を私に語った。


私は、カタルーニャからやって来た色男が実は、インディジョーンズだった事を知って、「人はみかけによらない」と改めて思い、いつか、彼の案内でセンレンゲティをサファリしてみたいと思った。※彼の会社のURL www.kananga.com
      ※同郷の偉人達 カザルスやピカソも色男だ。 


ビザンティン・タイム

15:00から礼拝堂に集まり、夕食を頂く前の唱礼が20分だけあり、それから餐堂に移動して、夕食を25分、その後、場所を最奥の礼拝堂に移して唱礼を30分程してから、寺院の秘宝を開陳されて、唱礼は終わる。 これらはビザンティン時間という日課で定められている。 旧約聖書では、『 初めに夜が来た 』と記されているため、午前0時は日没から始まる。 このため、朝の唱礼が始まるのが、未明の3時頃から始まり、8時頃まで、ぶっ通し、で続くのである。 


夕食の献立:烏賊のトマト煮・マカロニ 、キャベツのサラダ アボカド 赤ワイン オレンジパン 

想像以上に、種類も量も多く、ラブラが5ッ星と人気がある訳である。 が、ワインは村上春樹が語った20年前と同じ味わいだった。

餐堂は、見事なフレスコ画で埋め尽くされていた。 祈りを共にする者と、食を共にして、恵みの感謝を共に分かち合う事は、初期キリスト教の昔から重要な日課であったから、その場を祝福するために、堂内はフレスコ画で埋め尽くされた。
これはカソリックにも受け継がれてダビンチの【最後の晩餐】を生むにまで、至る。
中世にタイムスリップしたような豪奢な空間での晩餐は忘れられない思い出となったが、開け放たれた空間なので、大理石の食台は氷のテーブルと化して、私は体を震わせながら夕食を頂いた。


Wake Up !
31 Dec 2008 グランド・ラブラ – イブロン

『 5分前だ! 皆おきろ 』 Miguelの声が轟いた。 時計を見ると、6:55 AM 寝坊をした!
未明の唱礼に参加してから、7:00AM発のミニバスで海岸線を戻り、イブロン修道院に向かう予定だった、、腕時計の目覚ましに悪態を付きながら、荷物を抱えて飛び出した。 しかし、外は真っ暗、どこが出口かわからなく、私は敷地内を彷徨う失敗を繰り返した。 

遅れた詫びに、私は、揺れる車内の中で、簡単なサンドイッチとオレンジを全員に振舞って、面目を取り戻した。
 途中のAmalFinonでPeterは降りて、カラコウ修道院、Philothou修道院を歩き、修道院の門が閉まる前までに、イブロンに辿り着くと私を安心させた。
 
独語の他に、英仏語とロシア語も少し話す彼はギリシア語・ギリシア文字しかない修道院では、頼りになる存在だった。

7:50AM イブロンで停車する。15 EUROを払って、Miguelと再会を誓ってから別れた。車が去ると、1匹の犬がどこからか近づいて来た。片眼が潰れているが、餌を甘えるように、私を見上げる眼が哀愁を漂わせている。 修道院までの長い道を付いて来たが、中には入らなかったところを見ると、僧侶達が飼っているのではないだろう。

堂内でALHONDALIをようやく見つけて入るが、誰もいない。掲示板に【ROOM GIVEN AFTER 12:00 】と書いてあるので、待ち時間を生かすため、日当たりの良い窓辺で汗に濡れた下着を乾かした。 その内に、巡礼者が階上の僧坊から降りてきて、
Tea Roomに案内してくれた。 ビスケット、それにグリーク・コーヒー、カモミールティーがセルフで飲めるコーナーで、だんだん彼・ジャコモの友人達も加わった。英語の話せる人がいたので、
この寺の日課を確かめると、8:10am頃から唱礼が始まり、10分の祈りの後、8:30位から朝食が提供されるという。 望外の食事に、山道を歩くPeterに申し訳なく思った。この修道院では、僧侶と共に、食台に列席するので、聖餐式の一体感が増している。 


朝食の献立: 野菜の煮込み タラモソース キャベツ・サラダ オリーブ パン チョコレートケーキ オレンジ ワイン 


イブロン修道院
カリエス- グランド・ラブラ

 アルホンダリに戻ると、僧侶がいたので、宿泊申請をする。僧侶はギリシア語しか話さなかったが、シドニーから来た巡礼者が通訳してくれた。12:00まで、まだ3時間もあるのに、鍵も貰えた。 部屋は3人部屋で、ラブラがユースホステルとすれば、ここは3つ星ホテルのツインルーム並みだ。下着を水洗いしてから、固く絞ってヒーターに乗せて乾かした。 まだ、熱が下がらないので、ベッドに横になって少し休む。


 2時間ほど、昼寝をしてから、Tea Roomに行くと、Peterが到着した所だった。ここまでの山道の景色の美しさというGood News と、空腹で辿り着いた修道院では、おもてなし3点セットの後、ドイツから来た僧侶と4時間も宗教論争をお腹いっぱいしたと語った。 私が、到着早々、たっぷり朝食を取れた話をすると、大きな溜息をついて、それが今日一番の Bad Newsだ、と言った。

 17:00から典礼が始まる。正教では、僧侶は立って祈る。 堂内の壁面に僅かだが座席があるが、典礼は若い僧から、年老いた僧まで立って行うのが、正教のスタイルだ。 典礼は一人の僧が歌いあげる祈りを、次の僧が交差するモノフォニーの構成で、イスラム教で耳にするアザーンに驚く程、似ている。天を突きさすような調べで共通するのも、この二大宗教が、砂漠で生まれたエートスを共有するからかも知れない。

若い僧が朗々と歌い上げる祈りが、垂直に昇って礼拝堂のクーポラに抜けて行った。

 典礼後、大僧侶から、奥の内陣に入るのを許され、貴重なイコンや、名僧の頭蓋骨などを拝観出来る。 その後、聖餐堂に向かう。
Peterにとっては、これが今日の第一食で、ほっとしている。今回、僧侶は同席していない。
献立は、朝食とほぼ同じだがワインは出なかった。
食後、Tea Roomでお茶を飲みたかったが、閉まっていたので、部屋に戻った。 魔法瓶に入れたハーブティーをPeterと分けて飲んだ。 彼は ザックから分厚い哲学書を出し、私はジャン・イブ・ルルーの「アトスからの言葉」を読み耽った。

真夜中の典礼
1 Jan 2009 イブロン – ダフニ

2:00AM  僧侶が木片を叩き、朝の典礼の始まりを告げる。汗でびっしょりと濡れた下着を取り換えた。カイロを背中と爪先に貼り、雪だるまのように着込んで、礼拝堂に向かった。 外気は0度位に冷えていて、真っ暗で、右も左も判らない。 かつて見たウンベルト・エーコの映画【薔薇の名前】の中世の僧院のシーンに紛れ込んだみたいだ。あの時、ショーン・コネリー扮する僧はカンテラで迷路を抜けて行ったが、我々はLEDのライトを四方に振りまきながら礼拝堂の入口を捜した。

 礼拝堂に入ると、内陣の奥に誘導された。 既に20名程の僧侶が立礼していて、典礼は始まっていた。ここでも若い僧が祈りを主導して、時折、ギリシア悲劇のコロスのように、複数の僧達が単音階で祈り声を交錯させるという構成だ。 これが2時間続き、次は、古い聖堂に移り、狭いながらも、もっと親密な空間で、典礼を続けた。

私は睡魔と寒さに耐えながら、ルルーが書いていた言葉を思い出して、日本語で祈り続けた。
 
 6:00に典礼が終わった。 シドニーの人に促されて、内陣の奧に進んだ。 彼の所作を真似て、十字架を切ってから、イコンに口づけをした。外に出ると、清澄な冷気に洗礼された。


新年の朝食

巡礼者達は、冷え切った体を温めるために
Tea Roomに集った。 私は、部屋から、非常食に取っておいたコンビーフ、チーズや果物を全て出して、彼等と分かち合った。 ルーマニア、オーストラリア、ドイツ、日本 食卓を囲む仲間達に多くの言葉は要らなかった。アトスでは、グレゴリオ暦のため新年の元旦は1月14日〜15日となっていたが、誰彼となく、「Happy New Year !」と云って、2009年 最初の朝食を祝った。
(※ エチオピアのラリベラでクリスマス・ミサが1月8日頃行われるのも、同様の理由 )

シドニーの人は、もう20回もアトスに巡礼していた。 アトスで一番、好きな季節を訊くと、「秋が1番気候が安定している。 その次が春、冬は歩きやすいし、人が少ないので静かな祈りの時が持てる。 夏は日差しが厳しすぎている」と答えた。 ただ、冬でも、アトスの海は天候の変化が激しく、船の欠航が続く時が多いと注意した。そのリスクは、多くの巡礼者の失敗談から知っていたので、天候が安定している今日のフェリーでアトスを出航しようと私も考えていた。Peterは少し仮眠するというので、カリエスでの再会を期して、先に出発した。 僧門は暗い回廊の奧にあり、壁と同じ色で閉まっていたので、私は見つけるのに、また手間取った。 外に出ると、エーゲ海の向こうから、2009年のご来光が上がった。




元旦のエーゲ海
イブロン – ダフニ
 
昨日、乗ってきたラブラ発のミニバスに乗って
カリエスに8:40に着いた。 ダフニ行きのバスを待つ間に、プロタトンに行くが、相変わらず閉まっていた。バス停の前の店でアトスの僧の筆になる聖母子のイコンを350 EUROで求めた。

バスが来て、50分かけ雪深い峠を越えて、南岸のダフニに行った。来るときには気が付かなかったが、港には税関があって、貴重なイコンの持ち出しを調べていた。桟橋から海を見下ろすと、
透明度が良いので、魚が泳いでいるのが見えた。
 フェリーの展望デッキに上がり、海岸線を北上しながら崖に建てられた修道院の数々を見送った。 

次ぎに訪れる機会が与えられれば、イエスの弟子・聖ルカの筆になる聖母子のイコンを秘蔵するヒランダリ修道院を訪れたいと思った。
 
アトスでは、物事は全てシンプルだった。そして、それは心豊かだった。モノに惑わされず、自分を見つめた3日間の日々を神様に感謝した。



ポリスへ
1 -2 Jan 2009 テッサロニキ – イスタンブール

 ウラノポリには 14:00に着いた。テッサロニキ行きのバスが待っていたが、絵葉書と飲み物を買い直ぐに乗り込んだ。2日前の道を戻って、テッサロニキに向かう。16:40 KTEAバス・ターミナル着 36,31番のバスを乗り継いで、中央市場前
まで行き、ホテルに戻って、キャリーを引取り、すぐにテッサロニキ駅に行った。 イスタンブール行きの夜行寝台は 19:30 定刻通りに出発。

アトスからの船に遅れがあれば、乗り遅れていたので、今日、アトスを出てきて良かった。


夜行寝台の出会い

 コンパートメントはトルコ国鉄の客車で、往路のギリシア国鉄よりも設備が悪かった。 相客はボストンから着た58歳のフレデリック 離婚した妻が引き取った、娘と息子を連れて1年に1回の旅行に来ていた。持病が多いのか、パイロットケース一杯の薬を持ちながらの負担だったが、常に笑顔で子供達の面倒を見ていた。
 

私の息子が10歳と告げると、今度は、一緒に来られるといいね、、と優しい言葉をかけてくれた。
 トルコ国境で彼等はヴィザを要求されて、一人15EUROも払っていた。 日本人は何故、無料なのか?と訊くので、「我々の税金で第2ボスポラス橋を造ってあげたからだ、米国も基地の替わりに橋を造って上げれば、次はヴィザ代を払わなくてすむのにね」って辛辣に云ったら、「全てはあのカーボーイのせいだ」とブッシュを吐き捨てた。 そんな彼もオバマのために投票依頼の電話を1ヶ月間ボランタリーしたというのだから、アメリカの草の根運動は、大したもんだ、と感心した。


雨のイスタンブール
2 Jan 2009 イスタンブール

9:00 シルケジ駅着 別れ際に、フレデリックが息子と娘を紹介してくれた。私も「You have a good daddy 」とエールを贈った。 駅から歩いて3分HOTEL AKCINARに戻った。直ぐに風呂に熱い湯をためて、ザブンと入った。ヒゲを剃り5日分の垢を落としながら、アトスを思い返した。

溜まった下着を洗濯し、家族に無事の電話を入れ、ほっとしたら、まだ何にも食べてなかった事に気が付いた。ホテルから歩いて、エノミニュの桟橋に行き、フェリーに乗った。今日も、イスタンブールには冷たい雨が降り続き、ガラタ塔も寒そうにしていた。ウシュクダルに着き、モスクの通路を通って、ロカンタに辿り着き、窓際のテーブルに座ると、あの懐かしい笑顔が待っていた。


赤ワインを温めてもらい、それにケバブの煮込み、チーズ・ピラフ、ゼザートにバニラ・プディングを注文した。 ここに戻ってくると、ほっとする。空港へのアクセスがあれば、この近くの宿に泊まるのだが、、といつも思う。

 それからカバタッシュに船で行き、地下鉄でタクシムに行った。 イスラティクールをぶらついて、CDと写真集を買った。 だんだん雨足が強くなってきて、宿に戻ろうとしたが、渋滞でバスがなかなか来なかった。なんとかホテルに戻ったら、悪寒がして風邪をぶり返してしまったらしい
夜、咳き込んで眠れないまま、不安が集った。


イスタンブール大学病院
3 Jan 2009 イスタンブール

 地球の歩き方 流石だと、思った。ちゃんと英語が通じる国際病院の連絡先が載っている。必要部分だけコピーしてくる流儀があるが、どこが「必要」になるか、旅先でないと判らないものだと痛感した。 ドイツ病院への行き方を宿のおじさんに訊くと、「そんな所は高い! トルコでは医師はみんな英語を話すから チャパに行きなさい」と薦められて、トラムに乗って、CAPAで降りると、そこはイスタンブール大学病院だった。
 
外来受付は何処か?と、インターンらしき学生に訊くと、英語があまり出来なそうだった(※私と同じ位という意味で)ので、ジェスチャーで咳き込む姿をしたら、判ったみたいで、腕を掴んで、どんどん、別棟の3階に連れて行く。 途中、何回も警備員がいるので、通常は入れないのだろう。
 どうやら内科?気管支科? の診断室で待っていると、すぐに30代の明るい医師がやって来た。

 医師は完璧な英語を話し、私の拙い症状報告を聞いた後、眼と喉を調べて、必要な処方箋と服用の注意をしてくれた。 大学の門を不安な思いで入ってから、まだ30分位しか経っていなかった。
 

医師に礼を言ってからインターンに支払いは何処でと訊くと、彼はそれには無用と答えた。
「私達、トルコ人は日本が好きなのです。だから、これはフレンド・シップです」と付け加えた。
 トルコの親日感情には、明治時代に和歌山沖で難破したトルコ海軍の船員達を手厚く持てなした史実に起因する、、とは教科書で習っていても、まさか100年後に自分が、その恩恵に預かるとは夢にも思わなかった。 私は一旦、町に出て薬局で薬を受け取った。 3種類の薬は全部で1500円位だった。 近くの店でチョコレートの贈答セットを2コ買って、病院に戻り、インターンに渡した。 それを受け取った時の笑顔を見て、私自身が温かくなってきた。 




グランバザールで最後の聖戦

 病は気から、随分、楽になったので、まだ、見ていなかった考古学博物館に行った。 実は、ここには、アナトリアの生活用具に囲まれた居心地の良いチャイハネがあるからだ。 アレキサンダー大王の石棺などを見てから。トプカピ宮殿で使われた膨大な絨毯のコレクションに魅入った。 
 リヨンの織物美術館のコレクションには及ばないが、ここでの収穫が、オスマンの宮廷様式のデザインの絨毯だった。 それを写真に納めてから円高の好機に、これを活かす他ないと思い、グランバザールで、このデザインの絨毯を求めようと思い付いた。 明日は日曜日でバザールは閉まるので、今夕は買い手市場でもあった。


結局、私は、捜していたデザインの絨毯を手に入れた。店主は、お金を払った後も、苦みつぶした顔で別れの挨拶も云わなかったが、戦果はまさにインシャラーだ。 

調子にのって、馴染みの骨董屋を覗くと、19Cの聖グレゴリウスのイコンが待っていた。好為替の誘いに乗って、EU750でそれも手に入れて閉まった。 これだから、【大山詣で】の後は怖い。


香港から羽田へ
3 -5 Jan 2009 トルコ – 香港 – 東京
その夜、イスタンブールを23:50に発ち、翌日の15:40 香港着 旺角のタイ料理屋で鱶鰭を食してから空港に戻り、CXのスパでリフレッシュして、未明の2:05に香港を発ち羽田に6:45到着浜松町に8:30に着いてから会社に早朝出社した。  

こうして、私はリアルワールドに帰還した。

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