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 イタリア語で、フルーツポンチを何と呼ぶか、御存知だろうか、、  <br /><br />半島の南東、ちょうど長靴の踵にあたる古都 レッチェを訪れたのは、ユーゴスラビアという隣国がまだ存在した1980年頃だったと思う。  海沿いの食堂で、アドリア海の、海の幸を堪能したあと、このドルチェを頼んだ時、これが、  どうして「マチェドニア」と呼ばれるのか?   お店の給仕に訊ねてみた。その時、彼は一瞬考えてから、後ろを振り返り、アドリア海を指さしながら、こう云った。「 海の向こうに、こんなモザイクのようにいろんな事が混じって、仲良く暮らしている国があるんだよ。」それが私が  MACEDONIA に興味を持った始めだった。 <br /> <br /><br />バルカン半島一帯がビザンティン帝国の治世に組み込まれたのは遠く4世紀に始まる。 以来、この土地は,ブルガリア、イスラム、オスマン・トルコに支配され、領土は拡大、縮小を繰り返して来た。 20世紀初頭には、7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ人々の地域となっていた。 第二次大戦後、ソ連の成功とその現実に脅威を喝破したチトーが、連邦制による結束を訴えて1946年 ユーゴスラビア連邦共和国は生まれた。背景には1500年間にも渡り、大国に蹂躙されてきた諸民族が、『それぞれの違いを認め合いながら共存して行くしか他に道はない』と覚悟したからだろう。これは、19世紀まではシリアやエルサレムにおいても、みられた、文明の十字路で生き伸びる智慧だった。<br /><br />   <br />だからNATOがセルビアを空爆する映像を見て、同時代に、同年代の人間に起きている悲劇に 『何故、このような事が起きてしまったたのか? 』と思わずにはいられなかった。日本のマスメディアを通して語られたのは、「民族浄化」を叫ぶ政治家と「戦争広告」を仕掛けるマジソンavの広告屋の対立構図が多く、その何故をとけないもどかしさを感じていた。  <br /><br />1995年に公開された「 Before the rain」は昨日まで、マケドニア人とアルバニア人が共に暮らしていた村に、突然、悲劇が襲いかかる様を、描いた映画だった。当時、バルカンの各地で起こった『憎しみの連鎖』を見事に描き、前年のベネチア映画祭のグランプリに輝いていた。 映画の中で、朽ちた教会が、人間の愚行を昔から見てきた、村の古老のように、湖岸の丘に立っていた。 撮影は、文化と自然景観を併せ持つ、複合世界遺産として選ばれたマケドニアのオフリッド湖とプリレプで行われた。  <br /><br /> <br />その教会は「バルカンのエルサレム」たらんとして建てた聖カネヨ教会だった。オスマン・トルコの長き支配下にあっても、教会は、この地に踏みとどまり信仰の灯火を絶やさずに来た。オスマントルコの融和政策と、そこに共に住む人々が、お互いの宗教を尊重し、共存して行く意志を代々伝えて来たからだと云う。   いつか、あの教会を自分の眼でそれを知りたいと思った。 <br /> <br /> <br />それから、もう13年の月日が経っていた。 民族紛争は黒海の向こう、コーカサス山脈の北へと飛び火し、宗教のみならず、ロシアとNATOの新秩序までを含んで混迷化していた。バルカンではマケドニアの隣国のコソボが独立を宣言して、セルビアが反発をするも、半島には暴発の兆候は見えなかった。 <br /><br />  <br />08年の夏、バルカンの辺境へと、旅立った。<br /><br /><br /><br /> 9 Aug 2008 (sat) 快晴    成田 &#8210; London - Wien <br /> <br /><br /> マケドニアへの空路の窓口はウィーンだ。こからマケドニアに入り、隣国にして後見役ブルガリアに行き、そこからイスタンブール、昔のコンスタティノープルに抜ける旅程を立てた。  それはビザンティン帝国の西端から帝都を目指す、西からのシルクロードを行く行程だ。  <br /><br /><br />欧州までの長旅、フルフラットで寝て行くためにBAを選び、先ずロンドンへ飛んだ。 成田を13:30にBA008で飛び立ち、17:40今春に新設されたばかりのBA専用のターミナル5に到着 トランジットだが厳重なセキュリティを受けて、出発階に戻る。鳴り物入りのBAラウンジに入り、シャワーを浴びて、すぐさまゲートに向かい、BA706便でウィーンに22:15 到着した。 翌朝の乗換のため、空港近くのEuroHotel Airportに投宿。 洗濯をして、シャワーを浴びてTVを付けるとモスクワから、きな臭いニュースが飛び込んできた。 バルカンへの余波を懸念しながら、午前1時眠りについ<br />た。  <br /><br /> Aug (sun) 快晴      Wien &#8210; Skopje - Ohrid <br /> <br /><br />昨夜はいろいろ断片的な夢を見た。旅に出ると、いつも人生を振り返るような夢ばかし見るのは何故だろう。 BAのラウンジで作ったサンドイッチで朝食を済ませて、8:00チェッアウト @59 EUR  シャトルバスにて、8:10空港着  マケドニア912便で 11:30出発 眼下は緑一つない荒涼とした山地を飛ぶ。わずか1時間のフライトでSkopje12:30 着(Web早期割引@89 EUR) <br /><br />発着数の乏しい首都空港だけに、着陸後、10分位で入国した。(日本はEU並にヴィザ免除)到着棟には観光案内も両替所もないので、出発棟 に回ると、小さい窓口で人が紙幣を出していた。 <br />キリル文字の国をこれから旅行するので、人々の動きに注意深くしてサインとしなければならない。120 EURだけ両替 ( 1 DER = 3円) <br />  <br /> 外に出ると、Taxiの呼び込み、市内まで25EUROとと吹っ掛けて値下げにも応じないので、出発棟に行く。家族を乗せて出ようとしていたTaxiに手招きをして、バスターミナル!と言って交渉する。 父親が家族の同乗だが良いか?と聞いているのOKという。料金を訊くと、500 DERという良心的な値段を云うので、スーツケースから、2週間前に山手線のポケモンラリーで貰ったピカチューのお面 2ケを後部座席に座る2人の娘達に上げると、姉は不安そうだったが、妹は母親に見せびらかした。父親は英語を話した。自分達はアルバニア人で、この国の1/3を占めている事、地震で傷ついた市内のデコボコ道路も来年には舗装されるだろ、、と話している間に、車はバスターミナルに着いた。 別れる時に、これを奥さんに、と松本の組紐付き鈴を父親に託すと、スカーフの妻は始めて微笑んだ。空港を出て、わずかの間に、見も知らなかったアルバニア人と普通の話が出来て良かった。アルバニアという国に少しだけ近づいたと思った。 <br /> <br /><br />オフリッド湖: WCNHは文化性と自然景観の双方を持つ世界複合遺産として1979年に選ばれている。(※このWCNHに選ばれたのは世界で20に満たない)スコピエからは1日10本ものバスが、運行していた。窓口で、Ohrid行き14:45のバス券を買う。ついでに2日後のソフィア行きの国際バスもパスポートを提示して発券した。 スーツケースを事務所に預け、冷たい水を買って魔法瓶に移し、軽食を買った。館内の大時計を見ると14:30になっている。 そこで時差がWienよりも1時間早める事に気がついた。 慌ててゲートに向って、満員のバスに滑り込んだ。  <br /><br />途中1回のトイレ休憩をはさみ、3時間でOhrid湖地域に到着、バスターミナルが判らないまま旧市街を超えて、湖東岸の新市街まで来てしまった。慌ててバスを降り、白タクを捕まえて、聖クリメント教会に向かう。この教会は翌月曜には閉まってしまうので、身振りで運転手に急がせた。  つづら折りの坂道を登って、教会のある丘に着いた。200 DERを払い、小さな聖堂に入る。内部は外観からは想像できない程、淡麗な「聖母の生涯」のフレスコ画が描かれていた。オフリッドの寺院群の中では、保存状態は良い方らしいが、描写は第一級とは思えない。  <br /><br />外に出ると、男が露台で名物の淡水真珠を売っていた。  教会の裏手から、石段の坂を下って湖に降りた。道沿いには瀟洒なヴィラが隙間なく建てられていて、イタリアのコモ湖のようだ。湖岸の路地には、伝統工芸である木彫り彫刻の画廊が立ち並び、 聖人を彫ったイコンも店頭に飾られていた。 湖岸に面した Hotel Riviera に19:15 投宿(Web予約で、33 EUR) <br /><br /><br />シャワー&洗濯をしてから夕食に出かけた。旧市街で目星をつけていたANTIKOに行く。広場は夜の散歩を楽しむ人達でいっぱいだが、夕食にはまだ早いらしく、給仕が暇そうにポーカーをしていた。食前酒にRAKIという強い蒸留酒を頼む。(トルコのよりもアニスが強い)食事は鱒のスープ、マケドニア風ハンバーグ、チーズのかかったサラダを取った。どれも、コクがあって美味しい。 食後、お目当てのフルーツポンチを頼んだ。キリル文字のメニューにはマチェドニアの名称はなくフルーツ寄せとなっていた。  <br /><br /><br /> 翌朝、早起きして、昨日、下がってきた道を上り<br />城塞のある丘に行った。 夏の強い日差しに青い湖面が輝き、手前には、映画に出てきた、聖ヨハネ・カネヨ教会が佇んでいた。  <br /><br />夏の真っ青な空の下、海のような湖が広がっていた。 この向こうにはアルバニアがある。この小さな村で、年端もない子供までもが、銃を持って戦ったのは、ほんの20年前の出来事だ。  <br /><br />夏草や兵どもが夢の跡  <br /><br />多くの血を流して、この地に平和は訪れていた。草むらに座って、静けさに包まれた湖を眺めながら、昨日、会った運転手一家の事を思い出した。彼らとマケドニア人の間に、これからも、ずっと平和な時があるようにと願った。  <br /><br /> <br />夏だけ運行される船に乗って、対岸の国境にある聖ナウム寺院に行った。船は30Kmを90分で南下して、透明度の良い入り江に接岸した。 乗客の大半は、このビーチで水遊びをするために来ていて、昼食とゴザを持って、下船した。  私は、小高い丘を登って、寺院に辿り着いた。 <br /> <br />小さな寺院に入ると、クーポラの小窓から差し込む光線が、内陣に描かれたフレスコ画を劇的に照らし出している。保存状態は聖クリメントよりも上で、画家の技量も勝るように思えた。  <br /><br /> <br />売店で赤と紺の美しい組紐の十字架を買った。<br />寺院に隣接するホテルのテラスに立つとすぐ向こうにアルバニアの村々が眺められた。 数年前まで鎖国をしていた国を真近に見て、アチラに行ってみたくなった。 野原を300m位歩いて国境に出た。菊のご紋のパスポートを見せながら、出国〜入国出来るか? と聞くと、柔和な顔の女性係官は、ポンとスタンプを押してくれた。 拍子抜けする位、簡単にマケドニアを出国してしまった。  <br /><br /><br />そこから誰もいない車道を湖沿いに10分歩いたが、カーブする道に目指すアルバニアのチェック・ポイントがいっこうに見えない。夏の容赦ない光に汗が噴き出してきて、帰りのバスの事が心配になってきた。  また来ようと、決めた。 すると、1台のタクシーがアルバニアから来て、私を追い越して行った。 <br /><br /><br /> 乗っていたのは、キプロスで働く英国人の夫婦で、アルバニアを2週間回ってから、マケドニア入りをしたばかりだった。 国境事務所から町に戻るバスの中で、彼らに、あの国の様子を訊いた。『交通インフラの劣悪さはあるものの、それを差し引いて余りある程、純朴な人々と美しい自然がアルバニアには残されていて、まるでマルコポーロにでもなったようだったよ』語った。 私も、マルコポーロの眼を持って、早い内に訪れようと思った。 <br /><br />ホテルから荷物を取り、町外れのバス・ターミナルに行った。1時間後に出発するバスを訊くと、満席との事。深夜に見知らぬ街に着きたくなかったのでギリギリまで待って補助席を貰ってスコピエに戻った。20:30 スコピエ着 スーツケースをゴロゴロ引きづりながら、地球の歩き方の小さな地図をコンパスと見比べ、真っ暗な道をユースホステルまで歩いた。野犬が吠えている真っ暗な道を10分歩き、ホテルの灯りを見つけた時はほっとした。国連関係者の需要しかないスコピエでは、ここは例外的に安い宿で、館内は全部、個室で日本のYHカードで割引となる。空腹だったが、シャワーを浴びて就寝。 Web予約@35 US$  <br /><br /><br />5:00に起きて、絵葉書を息子や友人に7枚書いた。朝食を済ませてから、中央郵便局まで歩いた。 大きな郵便局なのに、開いている窓口は1か所だけ。そこに大勢の人が並んでいた。その時、出した葉書は16日後に東京に届いた。ヴァルダル川を渡り、聖スパス教会に行く。 <br /><br />マザーテレサの銅像が人気のない場所にあった深い皺の奥に、不屈の意志が感じられる銅像だ。 3人もの人に道を尋ねて辿り着いたスパス寺院、あまりパットしない外観だったが、内部に入ると、見事な内陣が現れた。 オスマントルコの治世下に建てられた教会の常だ。 <br /><br />教会を出て、アルバニア人の住民の多いオールド・バザールに向かった。 だんだん活気が出てきて金銀を扱う店に混じって、肉を焼くいい匂いがしてきた。 働く人々で賑わう店を選んで入ると、立派な髭を蓄えた父親とスカーフの少女が座るテーブルに同席した。父親に指さしでパスタの入ったスープと、キョフテを頼んでくれた。 <br /><br />美味しいお昼を食べて、旅の疲れも飛んだのでタクシーで郊外のヴォドノ山中にあるパンテレイモン寺院に向かった。 そこには次の世界遺産候補としてあがっている「聖母の嘆き」のフレスコ画があった。聖母の悲しみの熾烈な表現に驚く。 ルネッサンスになって、個人の魂が解放された、、いう西欧の定説が陳腐に思える程ドラマティクな描写だ。 <br /><br />運転手に急かされて、車に戻る。 そのままバスターミナルに急いだ。<br /><br />ベンツの大型バスだが、乗客は全部で6名だけだった。 高速道路が通じていないので、一般道路を5時間かけて、ソフィアの中央駅に20:00着<br /><br />駅にスーツケースを預けてから、中央駅の端にある外国人用の代理店:RIRAにて翌日のイスタンブール<br />て行き夜行寝台の2等キップを発券する。この時、スムーズに発券できたが、午前中には満席だったらしい。  1泊分の荷物を入れたリュックを背負って、から徒歩10分のHotel Maximに投宿。<br /><br />英語を話す客に久し振りで出会う。Webで予約 @50 EUR  コンシェルジェの勧めで、近くにあった古い豪邸を改築した伝統料理の店に行く。キョーポル(トマト、ナスのミンチを冷やした夏の前菜)カヴァルマ(肉、野菜炒め)を食す。その土地に行くと、 知らない料理をトライする、失敗も多いがそれでいいのだ。 宿に戻り、22時就寝。  <br /><br /><br />13 Aug (wed)  快晴   Sofia &#8210; Boyana &#8211; Istanbul<br /><br /> 車を呼んでもらい、世界遺産のボヤナ教会: WCHに向かう。市内からヴィトシャ山に向かい25分程で着いた。聖堂は驚くほど小さく、1回の入場者を10名以内に限定しているのはミラノ<br />「最後の晩餐」以上の狭き門だ。中に入り、柔らかなライトに照らし出されたフレスコ画を見て、心底驚いた。描かれた聖人達のなんと優美な事か! フラ・アンジェリコのような筆致で、内陣一杯に、「最後の晩餐」が描かれていた。日本に紹介される事の少ない寺だが、この小さなフレスコ画が1979年に世界遺産に認定されたのも頷ける。画家の名前も記されない、この聖堂に、 システィーナ礼拝堂にも勝る感銘を私は受けた。 <br /> <br /><br />日本に紹介される事の少ない寺だが、この小さなフレスコ画が1979年に世界遺産に認定されたのも頷ける。 画家の名前も記されない、この聖堂にシスティーナ礼拝堂にも勝る感銘を私は受けた。<br /><br /><br />堂内で、リヨンから車で来ていた久世夫妻と会い、市内まで同乗させて貰った。 久世夫妻は会社から2週間の休みを貰い、バルカン諸国を廻って、ソフィアに着いたのだという。 B4サイズの行程表を見せて貰うと、行程、宿泊、レストラン、経費等を綿密にシュミレーションされていた。<br /><br />私の行程表を見せると、同じような作りに、世の中には同じような輩がいるものだ、とお互い笑った。<br />ただ私の表には訪問国の日常会話単語が附されていたので、人見知りの奥さんが感心していた。<br />  <br /><br />アレキサンダー・ネフスキー寺院まで一緒に歩き、そこで別れて、私は地下にあるイコン美術館に入った。イコンは大別してギリシア風とロシア風に分かれるが、ここにあるイコンは人物の肌の色がやや浅黒いスラブ風だ。内部は撮影禁止なので、紹介出来ないが、売店で、オリジナルを現代の画家が模写した作品を売っていたので、1点だけ気に入った作品を450レフ:約231EUROで購入した。<br />  <br /><br />外に出ると、道沿いに露店が並び、骨董や現代のイコンを売っている。 その内の1店で、筆致が珍しいイコンを見つけた。「バベットの晩餐会」の本の挿画をされた高橋常政画伯の筆致に似ていて面白い。 値段を訊くと、70レフというので、粘って、35レフにて購入した。<br /><br />共産党本部のあった中心街まで戻り、路地裏の店で昼食を取った。 タトールという冷たいヨーグルト・スープで一息をついた。 ミートローフも美味しかった。 それからシェラトンに行き、ブテックで薔薇の香水と石鹸を買った。始めてソフィアに来た時は、ここに泊まったが、随分と贅沢をしたものだ。<br /><br />店主との話で、ヒルトンホテルにある系列店で、ロシアイコン(ブルガリアイコンではないので、持ち出しに問題はないらしい) が多いので、覗いてみてはと勧められる。<br /><br />市電に乗って、町外れのヒルトンに行った。 店主が待ち構えていて、カモにネギと、倉庫にあったイコンが全て勢揃いしていた。  なかなかいい物もあったが、是非にという程でもなく、帰ろうとしたが、ここまで来たので、その内の1点の値を訊いた。銀の覆いに囲われた25x15cmの聖母子のイコンだ。店主が2890 EURと書き、わざわざ、お越し頂いたので特別に10%のディスカウントをすると述べた。1982年に訪れた頃は、この1/20位の値段で購入できた品だった。  市電でイスラム人街まで行き、下車<br />タンブールのシュレイマニエ・ジャーミィを設計したミマール・シナンのモスクがそこにあった。エディルネにある最高傑作の1/10にも満たな規模だが、シナンのセンスが一目で分かる建築だ。その裏には生鮮食品を集めた女達のバザールがあり、薔薇の石鹸がシェラトンの半額で売っていた。  <br /> <br /><br /><br />今夜の夜食用にと、ミルフィーユのようなチーズパンを買った。 その店で食べたプリンの美味しいことにビックリした。ホテルに戻り、リュックを取って、駅に行った。すでに、駅のベンチにはイスタンブール行きに乗るバックパッカー達が溢れていた。売店で水を買い、余ったレフ紙幣でリンゴを買った。<br /><br />前日RILAのおばさんが「この電車はウィーンから走ってくるから、いつも遅れるからね」と予言した通り、イスタンブール行きのバルカン・エクスプレス号は90分遅れて、8:55PM 真っ暗なホームに滑り込んできた。 自分の乗る席がどこなのか? 知らぬまま、列車に乗り込んだ。 車掌にコンパートメントを示され、スーツケースを押し込んだ。 RIRAのおばさんに懇願した、甲斐あって用意されたのは三段ベッドの下段であった。<br /> <br /> イギリス人のカップルと同室になった。寝られない夜にならないか?と、不安を感じる間もなく、<br />ゴトンゴトンという振動で寝入ってしまった、、、  その熟睡を、まず2:00頃、ブルガリア側で車掌にパスポート・チェックで起こされた。 しかし、パスポートを渡すだけで、すぐに済み、また寝ると、3:00にトルコ側のKapikule駅に到着  昼の猛暑がどこに行ったのか、フリースがいる程、寒気の駅舎に降ろされて、入国審査に並ぶ。 まるで、抑留された兵隊のようだ。 <br /><br /> そこに並ぶ旅客の平均年齢は20代前半で、フランスの学生が圧倒的に多い。 その中に、ポツポツと旅の猛者の風貌の中年パッカーが並んでいる。 寝ぼけ眼でしょんぼり立っている私も、そのように見えているたらなあ、と妄想をした。旅慣れていると思われたイギリス人カップルも 車掌に云われて、慌てて入国審査に飛んで行った。<br /><br />列車が動いたのは、4:50 ゴトン、ゴトンというリズムは私に子守唄らしく、また直ぐに寝付き車窓からの光で目覚めた時はイスタンブールに着く1時間前だった。 右側にマルマラ海が見えてきて、列車は90分の遅れを取り戻し、定刻の10:00にイスタンブールのシルケジ駅に到着した。<br /><br /><br /> 14 Aug (thu)  快晴              Istanbul <br /> <br />昨年の夏に下調べしてあったスルタン・アフメット地区に5分程行ったイルカイ・ホテルに泊まった。値段の割にエアコンもバスタブもちゃんとしていた。 久しぶりに浴槽で体をおもいきり、伸ばした。毎日、移動ばかりで、疲れをひきづるながらの5日間だったが、もう終わりかと思うと、3週間の夏休みで旅をしていた英国人夫婦を羨ましく思った。 <br /><br /><br />大好きなイスタンブール、やる事はいっぱいある、さあ出かけよう!  先ず、Vakkoのアウトレットに行ってから、隣のミグロスに入り、日本、未発売の緑のEFE  RAKIを6本買い、ホテルに持ち帰った。それから、 グランバザールに出かけ、妻にパシュミナのストールを買い、イコンの店を冷やかして外に出ると、もう陽が傾いていたので、慌てて。トラムに乗って、エミノニュに向かった。 夕陽の見頃まで、もう少しなので、エジプシャン・バザールに行き、キャビアとロクルムとオリーブの石鹸を買った。19:20のフェリーでウシュクダルに向かう。後部デッキに座り、黄昏の空に浮かび上がるイェニ・ジャーミィ: WCHのシルエットに感嘆した。  <br /><br />   ガラタ塔に電飾が灯り、出航を祝っている。 僅か1.3リラで乗れる最高のクルーズだ。 オレンジ色のスカイラインがいつしか紫に染まり、アジア側の賑やかさが近付いてきた。 埠頭に 降りて、家路に急ぐ人々に紛れながら、馴染みの ロカンタに向かう途中、ショーウィンドゥで華奢な磁気の花を見つけた。意匠が面白かったので、出産地を訊くと、インドだという。 タージマハールを作り上げた美意識が今に伝える工芸品の素晴らしさは、日本にあまり伝わらないが、西側のトルコには、こんな品が輸出されているのを知る。 90リラを75リラで購入した。<br /><br /><br /><br /> <br /> Kanaat Lokantasi  昨年、グランバザールの骨董屋から教えて貰ったのだが、この街にいる間は毎日、1食はここで食べる位、気に行っている。 馴染みの給仕と挨拶を交わして、ミナレットが見える、お気に入りのテーブルに付いた。 いつものマカロニ・グラタンそれからキョフテとサラダ、最後はライス・プディングを取った。アジア側の下町の食堂には市井の人々の笑顔が溢れていた。 <br /><br />21:20のフェリーでエミノニュ側に戻る。 突然、花火が上がり、モスクの上に光の大輪を咲かせた。戦火でなく,平和な花火が見られる時代 それは先人の平和への努力によって招来した 贈り物である事を忘れてはいけないと思った。  <br /><br /><br />The World heritage Traveler  193/ 851<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> <br /><br />

ビザンティン辺境を行く

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2008/08/09 - 2008/08/15

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bloom3476

bloom3476さん

イタリア語で、フルーツポンチを何と呼ぶか、御存知だろうか、、

半島の南東、ちょうど長靴の踵にあたる古都 レッチェを訪れたのは、ユーゴスラビアという隣国がまだ存在した1980年頃だったと思う。 海沿いの食堂で、アドリア海の、海の幸を堪能したあと、このドルチェを頼んだ時、これが、 どうして「マチェドニア」と呼ばれるのか? お店の給仕に訊ねてみた。その時、彼は一瞬考えてから、後ろを振り返り、アドリア海を指さしながら、こう云った。「 海の向こうに、こんなモザイクのようにいろんな事が混じって、仲良く暮らしている国があるんだよ。」それが私が MACEDONIA に興味を持った始めだった。


バルカン半島一帯がビザンティン帝国の治世に組み込まれたのは遠く4世紀に始まる。 以来、この土地は,ブルガリア、イスラム、オスマン・トルコに支配され、領土は拡大、縮小を繰り返して来た。 20世紀初頭には、7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ人々の地域となっていた。 第二次大戦後、ソ連の成功とその現実に脅威を喝破したチトーが、連邦制による結束を訴えて1946年 ユーゴスラビア連邦共和国は生まれた。背景には1500年間にも渡り、大国に蹂躙されてきた諸民族が、『それぞれの違いを認め合いながら共存して行くしか他に道はない』と覚悟したからだろう。これは、19世紀まではシリアやエルサレムにおいても、みられた、文明の十字路で生き伸びる智慧だった。


だからNATOがセルビアを空爆する映像を見て、同時代に、同年代の人間に起きている悲劇に 『何故、このような事が起きてしまったたのか? 』と思わずにはいられなかった。日本のマスメディアを通して語られたのは、「民族浄化」を叫ぶ政治家と「戦争広告」を仕掛けるマジソンavの広告屋の対立構図が多く、その何故をとけないもどかしさを感じていた。

1995年に公開された「 Before the rain」は昨日まで、マケドニア人とアルバニア人が共に暮らしていた村に、突然、悲劇が襲いかかる様を、描いた映画だった。当時、バルカンの各地で起こった『憎しみの連鎖』を見事に描き、前年のベネチア映画祭のグランプリに輝いていた。 映画の中で、朽ちた教会が、人間の愚行を昔から見てきた、村の古老のように、湖岸の丘に立っていた。 撮影は、文化と自然景観を併せ持つ、複合世界遺産として選ばれたマケドニアのオフリッド湖とプリレプで行われた。


その教会は「バルカンのエルサレム」たらんとして建てた聖カネヨ教会だった。オスマン・トルコの長き支配下にあっても、教会は、この地に踏みとどまり信仰の灯火を絶やさずに来た。オスマントルコの融和政策と、そこに共に住む人々が、お互いの宗教を尊重し、共存して行く意志を代々伝えて来たからだと云う。 いつか、あの教会を自分の眼でそれを知りたいと思った。


それから、もう13年の月日が経っていた。 民族紛争は黒海の向こう、コーカサス山脈の北へと飛び火し、宗教のみならず、ロシアとNATOの新秩序までを含んで混迷化していた。バルカンではマケドニアの隣国のコソボが独立を宣言して、セルビアが反発をするも、半島には暴発の兆候は見えなかった。


08年の夏、バルカンの辺境へと、旅立った。



9 Aug 2008 (sat) 快晴 成田 ‒ London - Wien


マケドニアへの空路の窓口はウィーンだ。こからマケドニアに入り、隣国にして後見役ブルガリアに行き、そこからイスタンブール、昔のコンスタティノープルに抜ける旅程を立てた。 それはビザンティン帝国の西端から帝都を目指す、西からのシルクロードを行く行程だ。


欧州までの長旅、フルフラットで寝て行くためにBAを選び、先ずロンドンへ飛んだ。 成田を13:30にBA008で飛び立ち、17:40今春に新設されたばかりのBA専用のターミナル5に到着 トランジットだが厳重なセキュリティを受けて、出発階に戻る。鳴り物入りのBAラウンジに入り、シャワーを浴びて、すぐさまゲートに向かい、BA706便でウィーンに22:15 到着した。 翌朝の乗換のため、空港近くのEuroHotel Airportに投宿。 洗濯をして、シャワーを浴びてTVを付けるとモスクワから、きな臭いニュースが飛び込んできた。 バルカンへの余波を懸念しながら、午前1時眠りについ
た。

Aug (sun) 快晴 Wien ‒ Skopje - Ohrid


昨夜はいろいろ断片的な夢を見た。旅に出ると、いつも人生を振り返るような夢ばかし見るのは何故だろう。 BAのラウンジで作ったサンドイッチで朝食を済ませて、8:00チェッアウト @59 EUR シャトルバスにて、8:10空港着 マケドニア912便で 11:30出発 眼下は緑一つない荒涼とした山地を飛ぶ。わずか1時間のフライトでSkopje12:30 着(Web早期割引@89 EUR)

発着数の乏しい首都空港だけに、着陸後、10分位で入国した。(日本はEU並にヴィザ免除)到着棟には観光案内も両替所もないので、出発棟 に回ると、小さい窓口で人が紙幣を出していた。
キリル文字の国をこれから旅行するので、人々の動きに注意深くしてサインとしなければならない。120 EURだけ両替 ( 1 DER = 3円)

外に出ると、Taxiの呼び込み、市内まで25EUROとと吹っ掛けて値下げにも応じないので、出発棟に行く。家族を乗せて出ようとしていたTaxiに手招きをして、バスターミナル!と言って交渉する。 父親が家族の同乗だが良いか?と聞いているのOKという。料金を訊くと、500 DERという良心的な値段を云うので、スーツケースから、2週間前に山手線のポケモンラリーで貰ったピカチューのお面 2ケを後部座席に座る2人の娘達に上げると、姉は不安そうだったが、妹は母親に見せびらかした。父親は英語を話した。自分達はアルバニア人で、この国の1/3を占めている事、地震で傷ついた市内のデコボコ道路も来年には舗装されるだろ、、と話している間に、車はバスターミナルに着いた。 別れる時に、これを奥さんに、と松本の組紐付き鈴を父親に託すと、スカーフの妻は始めて微笑んだ。空港を出て、わずかの間に、見も知らなかったアルバニア人と普通の話が出来て良かった。アルバニアという国に少しだけ近づいたと思った。


オフリッド湖: WCNHは文化性と自然景観の双方を持つ世界複合遺産として1979年に選ばれている。(※このWCNHに選ばれたのは世界で20に満たない)スコピエからは1日10本ものバスが、運行していた。窓口で、Ohrid行き14:45のバス券を買う。ついでに2日後のソフィア行きの国際バスもパスポートを提示して発券した。 スーツケースを事務所に預け、冷たい水を買って魔法瓶に移し、軽食を買った。館内の大時計を見ると14:30になっている。 そこで時差がWienよりも1時間早める事に気がついた。 慌ててゲートに向って、満員のバスに滑り込んだ。

途中1回のトイレ休憩をはさみ、3時間でOhrid湖地域に到着、バスターミナルが判らないまま旧市街を超えて、湖東岸の新市街まで来てしまった。慌ててバスを降り、白タクを捕まえて、聖クリメント教会に向かう。この教会は翌月曜には閉まってしまうので、身振りで運転手に急がせた。 つづら折りの坂道を登って、教会のある丘に着いた。200 DERを払い、小さな聖堂に入る。内部は外観からは想像できない程、淡麗な「聖母の生涯」のフレスコ画が描かれていた。オフリッドの寺院群の中では、保存状態は良い方らしいが、描写は第一級とは思えない。

外に出ると、男が露台で名物の淡水真珠を売っていた。 教会の裏手から、石段の坂を下って湖に降りた。道沿いには瀟洒なヴィラが隙間なく建てられていて、イタリアのコモ湖のようだ。湖岸の路地には、伝統工芸である木彫り彫刻の画廊が立ち並び、 聖人を彫ったイコンも店頭に飾られていた。 湖岸に面した Hotel Riviera に19:15 投宿(Web予約で、33 EUR)


シャワー&洗濯をしてから夕食に出かけた。旧市街で目星をつけていたANTIKOに行く。広場は夜の散歩を楽しむ人達でいっぱいだが、夕食にはまだ早いらしく、給仕が暇そうにポーカーをしていた。食前酒にRAKIという強い蒸留酒を頼む。(トルコのよりもアニスが強い)食事は鱒のスープ、マケドニア風ハンバーグ、チーズのかかったサラダを取った。どれも、コクがあって美味しい。 食後、お目当てのフルーツポンチを頼んだ。キリル文字のメニューにはマチェドニアの名称はなくフルーツ寄せとなっていた。


翌朝、早起きして、昨日、下がってきた道を上り
城塞のある丘に行った。 夏の強い日差しに青い湖面が輝き、手前には、映画に出てきた、聖ヨハネ・カネヨ教会が佇んでいた。

夏の真っ青な空の下、海のような湖が広がっていた。 この向こうにはアルバニアがある。この小さな村で、年端もない子供までもが、銃を持って戦ったのは、ほんの20年前の出来事だ。

夏草や兵どもが夢の跡

多くの血を流して、この地に平和は訪れていた。草むらに座って、静けさに包まれた湖を眺めながら、昨日、会った運転手一家の事を思い出した。彼らとマケドニア人の間に、これからも、ずっと平和な時があるようにと願った。


夏だけ運行される船に乗って、対岸の国境にある聖ナウム寺院に行った。船は30Kmを90分で南下して、透明度の良い入り江に接岸した。 乗客の大半は、このビーチで水遊びをするために来ていて、昼食とゴザを持って、下船した。 私は、小高い丘を登って、寺院に辿り着いた。

小さな寺院に入ると、クーポラの小窓から差し込む光線が、内陣に描かれたフレスコ画を劇的に照らし出している。保存状態は聖クリメントよりも上で、画家の技量も勝るように思えた。


売店で赤と紺の美しい組紐の十字架を買った。
寺院に隣接するホテルのテラスに立つとすぐ向こうにアルバニアの村々が眺められた。 数年前まで鎖国をしていた国を真近に見て、アチラに行ってみたくなった。 野原を300m位歩いて国境に出た。菊のご紋のパスポートを見せながら、出国〜入国出来るか? と聞くと、柔和な顔の女性係官は、ポンとスタンプを押してくれた。 拍子抜けする位、簡単にマケドニアを出国してしまった。


そこから誰もいない車道を湖沿いに10分歩いたが、カーブする道に目指すアルバニアのチェック・ポイントがいっこうに見えない。夏の容赦ない光に汗が噴き出してきて、帰りのバスの事が心配になってきた。 また来ようと、決めた。 すると、1台のタクシーがアルバニアから来て、私を追い越して行った。


乗っていたのは、キプロスで働く英国人の夫婦で、アルバニアを2週間回ってから、マケドニア入りをしたばかりだった。 国境事務所から町に戻るバスの中で、彼らに、あの国の様子を訊いた。『交通インフラの劣悪さはあるものの、それを差し引いて余りある程、純朴な人々と美しい自然がアルバニアには残されていて、まるでマルコポーロにでもなったようだったよ』語った。 私も、マルコポーロの眼を持って、早い内に訪れようと思った。

ホテルから荷物を取り、町外れのバス・ターミナルに行った。1時間後に出発するバスを訊くと、満席との事。深夜に見知らぬ街に着きたくなかったのでギリギリまで待って補助席を貰ってスコピエに戻った。20:30 スコピエ着 スーツケースをゴロゴロ引きづりながら、地球の歩き方の小さな地図をコンパスと見比べ、真っ暗な道をユースホステルまで歩いた。野犬が吠えている真っ暗な道を10分歩き、ホテルの灯りを見つけた時はほっとした。国連関係者の需要しかないスコピエでは、ここは例外的に安い宿で、館内は全部、個室で日本のYHカードで割引となる。空腹だったが、シャワーを浴びて就寝。 Web予約@35 US$


5:00に起きて、絵葉書を息子や友人に7枚書いた。朝食を済ませてから、中央郵便局まで歩いた。 大きな郵便局なのに、開いている窓口は1か所だけ。そこに大勢の人が並んでいた。その時、出した葉書は16日後に東京に届いた。ヴァルダル川を渡り、聖スパス教会に行く。

マザーテレサの銅像が人気のない場所にあった深い皺の奥に、不屈の意志が感じられる銅像だ。 3人もの人に道を尋ねて辿り着いたスパス寺院、あまりパットしない外観だったが、内部に入ると、見事な内陣が現れた。 オスマントルコの治世下に建てられた教会の常だ。

教会を出て、アルバニア人の住民の多いオールド・バザールに向かった。 だんだん活気が出てきて金銀を扱う店に混じって、肉を焼くいい匂いがしてきた。 働く人々で賑わう店を選んで入ると、立派な髭を蓄えた父親とスカーフの少女が座るテーブルに同席した。父親に指さしでパスタの入ったスープと、キョフテを頼んでくれた。

美味しいお昼を食べて、旅の疲れも飛んだのでタクシーで郊外のヴォドノ山中にあるパンテレイモン寺院に向かった。 そこには次の世界遺産候補としてあがっている「聖母の嘆き」のフレスコ画があった。聖母の悲しみの熾烈な表現に驚く。 ルネッサンスになって、個人の魂が解放された、、いう西欧の定説が陳腐に思える程ドラマティクな描写だ。

運転手に急かされて、車に戻る。 そのままバスターミナルに急いだ。

ベンツの大型バスだが、乗客は全部で6名だけだった。 高速道路が通じていないので、一般道路を5時間かけて、ソフィアの中央駅に20:00着

駅にスーツケースを預けてから、中央駅の端にある外国人用の代理店:RIRAにて翌日のイスタンブール
て行き夜行寝台の2等キップを発券する。この時、スムーズに発券できたが、午前中には満席だったらしい。 1泊分の荷物を入れたリュックを背負って、から徒歩10分のHotel Maximに投宿。

英語を話す客に久し振りで出会う。Webで予約 @50 EUR コンシェルジェの勧めで、近くにあった古い豪邸を改築した伝統料理の店に行く。キョーポル(トマト、ナスのミンチを冷やした夏の前菜)カヴァルマ(肉、野菜炒め)を食す。その土地に行くと、 知らない料理をトライする、失敗も多いがそれでいいのだ。 宿に戻り、22時就寝。


13 Aug (wed) 快晴 Sofia ‒ Boyana – Istanbul

車を呼んでもらい、世界遺産のボヤナ教会: WCHに向かう。市内からヴィトシャ山に向かい25分程で着いた。聖堂は驚くほど小さく、1回の入場者を10名以内に限定しているのはミラノ
「最後の晩餐」以上の狭き門だ。中に入り、柔らかなライトに照らし出されたフレスコ画を見て、心底驚いた。描かれた聖人達のなんと優美な事か! フラ・アンジェリコのような筆致で、内陣一杯に、「最後の晩餐」が描かれていた。日本に紹介される事の少ない寺だが、この小さなフレスコ画が1979年に世界遺産に認定されたのも頷ける。画家の名前も記されない、この聖堂に、 システィーナ礼拝堂にも勝る感銘を私は受けた。


日本に紹介される事の少ない寺だが、この小さなフレスコ画が1979年に世界遺産に認定されたのも頷ける。 画家の名前も記されない、この聖堂にシスティーナ礼拝堂にも勝る感銘を私は受けた。


堂内で、リヨンから車で来ていた久世夫妻と会い、市内まで同乗させて貰った。 久世夫妻は会社から2週間の休みを貰い、バルカン諸国を廻って、ソフィアに着いたのだという。 B4サイズの行程表を見せて貰うと、行程、宿泊、レストラン、経費等を綿密にシュミレーションされていた。

私の行程表を見せると、同じような作りに、世の中には同じような輩がいるものだ、とお互い笑った。
ただ私の表には訪問国の日常会話単語が附されていたので、人見知りの奥さんが感心していた。


アレキサンダー・ネフスキー寺院まで一緒に歩き、そこで別れて、私は地下にあるイコン美術館に入った。イコンは大別してギリシア風とロシア風に分かれるが、ここにあるイコンは人物の肌の色がやや浅黒いスラブ風だ。内部は撮影禁止なので、紹介出来ないが、売店で、オリジナルを現代の画家が模写した作品を売っていたので、1点だけ気に入った作品を450レフ:約231EUROで購入した。


外に出ると、道沿いに露店が並び、骨董や現代のイコンを売っている。 その内の1店で、筆致が珍しいイコンを見つけた。「バベットの晩餐会」の本の挿画をされた高橋常政画伯の筆致に似ていて面白い。 値段を訊くと、70レフというので、粘って、35レフにて購入した。

共産党本部のあった中心街まで戻り、路地裏の店で昼食を取った。 タトールという冷たいヨーグルト・スープで一息をついた。 ミートローフも美味しかった。 それからシェラトンに行き、ブテックで薔薇の香水と石鹸を買った。始めてソフィアに来た時は、ここに泊まったが、随分と贅沢をしたものだ。

店主との話で、ヒルトンホテルにある系列店で、ロシアイコン(ブルガリアイコンではないので、持ち出しに問題はないらしい) が多いので、覗いてみてはと勧められる。

市電に乗って、町外れのヒルトンに行った。 店主が待ち構えていて、カモにネギと、倉庫にあったイコンが全て勢揃いしていた。 なかなかいい物もあったが、是非にという程でもなく、帰ろうとしたが、ここまで来たので、その内の1点の値を訊いた。銀の覆いに囲われた25x15cmの聖母子のイコンだ。店主が2890 EURと書き、わざわざ、お越し頂いたので特別に10%のディスカウントをすると述べた。1982年に訪れた頃は、この1/20位の値段で購入できた品だった。 市電でイスラム人街まで行き、下車
タンブールのシュレイマニエ・ジャーミィを設計したミマール・シナンのモスクがそこにあった。エディルネにある最高傑作の1/10にも満たな規模だが、シナンのセンスが一目で分かる建築だ。その裏には生鮮食品を集めた女達のバザールがあり、薔薇の石鹸がシェラトンの半額で売っていた。



今夜の夜食用にと、ミルフィーユのようなチーズパンを買った。 その店で食べたプリンの美味しいことにビックリした。ホテルに戻り、リュックを取って、駅に行った。すでに、駅のベンチにはイスタンブール行きに乗るバックパッカー達が溢れていた。売店で水を買い、余ったレフ紙幣でリンゴを買った。

前日RILAのおばさんが「この電車はウィーンから走ってくるから、いつも遅れるからね」と予言した通り、イスタンブール行きのバルカン・エクスプレス号は90分遅れて、8:55PM 真っ暗なホームに滑り込んできた。 自分の乗る席がどこなのか? 知らぬまま、列車に乗り込んだ。 車掌にコンパートメントを示され、スーツケースを押し込んだ。 RIRAのおばさんに懇願した、甲斐あって用意されたのは三段ベッドの下段であった。

イギリス人のカップルと同室になった。寝られない夜にならないか?と、不安を感じる間もなく、
ゴトンゴトンという振動で寝入ってしまった、、、 その熟睡を、まず2:00頃、ブルガリア側で車掌にパスポート・チェックで起こされた。 しかし、パスポートを渡すだけで、すぐに済み、また寝ると、3:00にトルコ側のKapikule駅に到着 昼の猛暑がどこに行ったのか、フリースがいる程、寒気の駅舎に降ろされて、入国審査に並ぶ。 まるで、抑留された兵隊のようだ。 

 そこに並ぶ旅客の平均年齢は20代前半で、フランスの学生が圧倒的に多い。 その中に、ポツポツと旅の猛者の風貌の中年パッカーが並んでいる。 寝ぼけ眼でしょんぼり立っている私も、そのように見えているたらなあ、と妄想をした。旅慣れていると思われたイギリス人カップルも 車掌に云われて、慌てて入国審査に飛んで行った。

列車が動いたのは、4:50 ゴトン、ゴトンというリズムは私に子守唄らしく、また直ぐに寝付き車窓からの光で目覚めた時はイスタンブールに着く1時間前だった。 右側にマルマラ海が見えてきて、列車は90分の遅れを取り戻し、定刻の10:00にイスタンブールのシルケジ駅に到着した。


14 Aug (thu) 快晴 Istanbul

昨年の夏に下調べしてあったスルタン・アフメット地区に5分程行ったイルカイ・ホテルに泊まった。値段の割にエアコンもバスタブもちゃんとしていた。 久しぶりに浴槽で体をおもいきり、伸ばした。毎日、移動ばかりで、疲れをひきづるながらの5日間だったが、もう終わりかと思うと、3週間の夏休みで旅をしていた英国人夫婦を羨ましく思った。


大好きなイスタンブール、やる事はいっぱいある、さあ出かけよう! 先ず、Vakkoのアウトレットに行ってから、隣のミグロスに入り、日本、未発売の緑のEFE RAKIを6本買い、ホテルに持ち帰った。それから、 グランバザールに出かけ、妻にパシュミナのストールを買い、イコンの店を冷やかして外に出ると、もう陽が傾いていたので、慌てて。トラムに乗って、エミノニュに向かった。 夕陽の見頃まで、もう少しなので、エジプシャン・バザールに行き、キャビアとロクルムとオリーブの石鹸を買った。19:20のフェリーでウシュクダルに向かう。後部デッキに座り、黄昏の空に浮かび上がるイェニ・ジャーミィ: WCHのシルエットに感嘆した。

ガラタ塔に電飾が灯り、出航を祝っている。 僅か1.3リラで乗れる最高のクルーズだ。 オレンジ色のスカイラインがいつしか紫に染まり、アジア側の賑やかさが近付いてきた。 埠頭に 降りて、家路に急ぐ人々に紛れながら、馴染みの ロカンタに向かう途中、ショーウィンドゥで華奢な磁気の花を見つけた。意匠が面白かったので、出産地を訊くと、インドだという。 タージマハールを作り上げた美意識が今に伝える工芸品の素晴らしさは、日本にあまり伝わらないが、西側のトルコには、こんな品が輸出されているのを知る。 90リラを75リラで購入した。




Kanaat Lokantasi 昨年、グランバザールの骨董屋から教えて貰ったのだが、この街にいる間は毎日、1食はここで食べる位、気に行っている。 馴染みの給仕と挨拶を交わして、ミナレットが見える、お気に入りのテーブルに付いた。 いつものマカロニ・グラタンそれからキョフテとサラダ、最後はライス・プディングを取った。アジア側の下町の食堂には市井の人々の笑顔が溢れていた。

21:20のフェリーでエミノニュ側に戻る。 突然、花火が上がり、モスクの上に光の大輪を咲かせた。戦火でなく,平和な花火が見られる時代 それは先人の平和への努力によって招来した 贈り物である事を忘れてはいけないと思った。


The World heritage Traveler 193/ 851











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この旅行記へのコメント (4)

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  • yoshikunさん 2009/02/15 00:38:53
    来月スコピエに行きます
    旅行記興味深く読ませていただきました。スコピエの空港から市内までは、タクシーしかありませんか?本当に20ユーロ以上するんでしょうか?
    また、両替は空港で済ませておいたほうがよろしいでしょうか?
    もしよろしければ、教えてください。ちなみにスコピエではインペリアルホテルというところに3泊します。情報が少なくて困っています。

    bloom3476

    bloom3476さん からの返信 2009/02/15 08:36:21
    RE: 来月スコピエに行きます
    マケドニアはインフラがだんだん向上している国ですので、昨夏の状態から
    進展していると思われますので、マケドニア在住者のSNS(Mixi)等で、ご質問された方がup to date な正確な情報を得れると思います。 その前提で

    私の体験談で申し上げると、

    空港〜市内のバスはありましたが、ウィーンからの到着便に合う便はありませんでした。 1日5〜6本位の少なさでした。 現地の人はみんな自分や知り合いの車で迎えに来ていました。

    あまり観光客の少ない土地ですので、タクシーも白タクしかいなかったので、運転手との折衝で値段が決まります。

      以上、お役にたてば、、

    bloom3476

    bloom3476さん からの返信 2009/02/15 08:51:24
    RE: 来月スコピエに行きます
    両替は出来るとこで、しておいた方がいいです。
    郵便もしかり、、

    お泊りのホテルで出来る事もあるかも知れませんが、出来ないかも知れませんので。

    yoshikunさん からの返信 2009/02/15 23:38:03
    早速のお返事ありがとうございます
    2回もお返事下さりありがとうございました。助かります。
    天気がよいことを祈りつつ、いい写真を撮って来たいと思います。ありがとうございました。

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