2008/12/27 - 2008/12/27
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ライオンベラーさん
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(2日目 ② http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10313511/ の続きです。)
沖縄旅行もいよいよ最終日になりました。
最初の予約では11月22~24日の3日間で、午後3時頃の便で伊丹空港に帰る予定になっていました。
でも、延期した今回は、夕刻の6時25分発で、直接、出発した神戸空港に戻ることができます。
予約を延期するとき、2割のキャンセル料を払いましたが、時期的にも安くなっているので、わずかの追加料金を払うだけで、延期することができました。
ということで、最終日の今日は、5時半のレンタカー返却時間まで、たっぷりと観光することができます。
前回来た時も、レンタカーで南部を巡りました。
そのときは、旧海軍司令部や、ひめゆりの塔などを回りました。
玉泉洞(ぎょくせんどう)という鍾乳洞(しょうにゅうどう)にも行きました。
それらはどこもよかったという記憶があるので、今回もそこを巡ってみたいと思います。
戦中育ちの母親にとっても、きっと思い出深い、いい旅になると思います。
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- レンタカー ANAグループ
-
朝です。
昨日ほど天気はよくないので、海の色も今ひとつです。
でも、今日でここは最後なので、この風景もこれで見納めです。
時刻は7時を過ぎたところです。 -
このサンゴ礁もこれで見納めです。
-
荷物をまとめて、さあ、出発です。
こちらは、反対側です。
ドアはこちらにあって、出たところのベランダから撮りました。
このあたりは、沖縄本島の中でも最も細いところで、西海岸からこちらの東海岸までは3km程しかありません。
この向こうは東海岸です。 -
車でホテルを出て行くところです。
この地階が駐車場で、そこから出て、写真の左側を回って、写真の右に向かって、坂道を下っているところです。
この右が、部屋から見えたさんご礁のある西海岸です。 -
国道(58号線)に突き当たって、左に曲がったところです。
右から左に向かって走っています。
左が那覇の方向です。
そして、この建物が、昨晩、食事をした食堂です。
この旅行のプランを立てるときに、地図を見ていて、どうしても気になるところがありました。
それは、昨日、伊芸サービスエリアから見た、伊計島、宮城島、平安座島です。 -
これらの島は海中道路と呼ばれる道で繋がっているので、是非そこを走ってみたいと思いました。
でも、距離もかなりあるので、どうしてもプランに組み込むことはできません。
もし、今日早起きできれば行ってみることにしていました。
そして、早起きできました。
行ってみることにしましょう。
カーナビをセットして、与勝半島と平安座(へあざ)島を繋ぐ、海中ロードパークに向かいました。 -
与勝半島までやって来ました。
時刻は8時過ぎです。
途中、海がきれいだったので、車を停めて写真を撮ることにしました。
北東向きです。 -
こちらは東向きです。
左が平安座島で、右が今いる与勝半島です。
正面に見えるのが海中道路のようです。
その向こうに橋(浜比嘉大橋)も見えます。 -
東向きです。
海中道路の途中に塔が見えます。
その向こうに見えるのが浜比嘉(はまひが)島です。 -
東向きです。
この湾は金武湾といいます。
この後、この湾沿いに走って、あの海中道路を、左の平安座島に向かって渡っていきます。 -
朝陽が昇っています。
-
朝陽がきれいです。
早起きして来た甲斐(かい)がありました。 -
こちらは北西で、沖縄本島の方角です。
こちらからここへやってきました。
左の白い建物は火力発電所です。
その左あたりの、向こう側に、今日までに2泊したホテルがあります。
今朝、そこからやって来ました。
中央の一番高い山が恩納(おんな)岳(363m)です。
そのこちら側の麓(ふもと)が昨日立ち寄った伊芸サービスエリアです。 -
ここに車を停めていました。
向きは南向きです。
私が写真を撮っている間、母親は車の中で休んでいました。 -
海中道路です。
来てみるとこんな感じでした。
道路幅が広いために、期待していたほどのスリルは感じられませんでした。 -
この道路の真ん中の塔のあたりが、橋になります。
それ以外の部分は海を埋め立ててあります。
橋の部分に塔があるのは、その下を潜(くぐ)る船が、ここを目標に進んで来れるようにしてあるのでしょうか? -
海中道路の中ほどにある道の駅です。
まだ中の店は開いていませんでした。
時刻はまだ8時過ぎです。 -
道の駅です。
-
沖縄本島から平安座島までは3〜4kmほどです。
どんどん進んで行きました。
もうすぐ平安座島です。 -
平安座島に着きました。
そのまま北進して伊計島まで行きたかったのですが、ここからまだ7〜8kmもあります。
今日は本島の南部を巡らなければならないので、そこまで行くのはあきらめて、その代わりにこの平安座島の南部にある浜比嘉(はまひが)島に行ってみることにしました。
写真は東向きです。
浜比嘉大橋を渡って、浜比嘉島に向かっています。
右に見えるのが浜比嘉島です。 -
浜比嘉島から平安座島を見たところです。
北向きです。
左に見えるのが浜比嘉大橋です。
一つ前の写真は、あの橋をこちら側に向かって渡っているときに撮った写真です。
この浜比嘉大橋は1997年にできました。
それまでは、ここは離れ島でした。 -
橋の向こう(写真の左)に、平安座島と本島を結ぶ海中道路が見えます。
そこを通ってあの平安座島に渡り、そこからこの橋を渡って、ここ(浜比嘉島)にやって来ました。
時刻は8時半です。 -
浜比嘉島は、このように小さな漁港があったりして、情緒(じょうちょ)たっぷりの小島でした。
-
さあ、大急ぎで本島の与勝半島まで戻って来ました。
このまま南部へ向かおうと思いましたが、途中に世界遺産の勝連城跡(かつれんじょうあと)があったので、立ち寄ってみることにしました。
写真が勝連城跡です。
駐車場から撮っています。
向きは南西です。 -
頂上は、石垣が続いていました。
私が一人で登って来ることにしました。
今、時刻は8時50分です。 -
時間をかけずに登ってこなければなりません。
さあ、何分で戻って来られるでしょうか?
とりあえず走って登りました。 -
あの坂道を走って登りました。
-
城壁の上から南東方向を見たところです。
-
地中海の街を思わせるような光景です。
時刻は8時55分、駐車場から5分が経過しました。 -
さあ、今度はここを登ります。
また、走ります。 -
ここが頂上です。
南向きです。 -
南西です。
海は中城湾です。
右が本島です。 -
北西です。
-
北東です。
今朝は、この海岸を左から右へ走りました。
右に見えているのが、平安座島(宮城島?)です。 -
東です。
正面に平安座島(と宮城島?)が見えます。
その右のソテツ(?)の向こうが先ほど渡ってきた海中道路です。
その右に見えるのが浜比嘉島です。
あの島からここまで帰ってきました。 -
再び南東です。
ここへ登る途中の写真は、この下の広場から撮りました。
室町時代の1458年、この城の城主が、沖縄全土を支配しようと挙兵したが、首里王府に敗れて滅んだようです。
さあ、急いで下りることにしましょう。 -
東向きです。
写真の中央の広場が駐車場で、そこからここまで走って登って来ました。
中央の島は平安座島、右側の島は浜比嘉島です。
この与勝半島から平安座島の右端あたりに向かって、海中道路が続いています。
平安座島と浜比嘉島を結ぶ橋が浜比嘉大橋で、先ほどそこを渡ってきました。
時刻は9時になりました。 -
柱の跡です。
北東向きです。
右の島は平安座島(宮城島?)です。 -
下りてきました。
時刻は9時1分です。 -
沖縄市のコザ十字路にやってきました。
米兵相手の店がたくさんあるということでやってきたのですが何もありませんでした。
どうやら・・・ -
”ゴヤ十字路”と間違ったようです。
時刻は9時20分過ぎです。 -
”道の駅かでな”にやってきました。
ここからは米軍基地の中が一望できます。 -
このように4階に上がると、米軍基地の中がよく見えます。
双眼鏡まで備えつけてあります。
軍用機も何機か並んでいました。 -
記念撮影です。
時刻は9時40分になりました。
この後、国道58号線を一気に南下していきました。
広い道路でしたが、よく混んでいました。 -
那覇に入りました。
時刻は10時半です。 -
那覇の南方にある旧海軍司令部跡にやって来ました。
写真はそこから南を見たところです。
ここは前回来たとき、強く印象に残っていたところです。
地下に壕(ごう)が張り巡らされていて、そこには将兵たちが、手りゅう弾で自決したときの跡が生々しく残っていました。
高齢の母親にとっては、少し刺激が強すぎるかなとは思いましたが、やはり、その時代を生きてきた人たちにとっては、自分たちの人生の軌跡(きせき)をたどるという意味でも、意義のあることではないかと思ったので、連れて行くことにしました。 -
本当は、父親を連れてきたかったのですが、それは残念ながら、叶(かな)いませんでした。
ここは、海軍の司令部が置かれていました。
当時の日本の軍隊は海軍と陸軍に分かれていましたが、沖縄本島を防衛する主力は陸軍で、その司令部は首里にありました。
一昨日に訪れた首里城のあたりです。
その地下にもこのような地下壕が、もっと大規模に張り巡らされていて、そこで全島の防衛の指揮をとっていたようです。 -
海軍も当然、陸軍と連携して行動するわけですが、一部は首里の陸軍の指揮下に入り、その残りと上層部はここにこもって独自に作戦を遂行(すいこう)していたようです。
残りといってもかなりの兵力で、この壕の中だけでも4千人もの将兵がいたようです。
当時の兵士の気持ちになってこの風景を眺めてみました。
そのときは、これからここにアメリカ軍が上陸してきて、大きな戦闘が起ころうとしているような状況です。
ここに米軍が上陸してくると、この辺りは惨憺(さんたん) -
たる状況になることは、ここを守る兵士たちにとっても、十分イメージできたに違いありません。
そのときの心境はどうだったのでしょうか?
もう、完全にあきらめの境地に立っていたのでしょうか。
それとも激戦の末、撃退できるというような気持ちもあったのでしょうか。
この写真は西向きです。
海の手前は那覇空港ですが、当時はそこは日本軍の飛行場があったようです。 -
そしてその北(写真の右)側が那覇市街です。
当時、海軍の4つの部隊がこの司令部を囲むようにして、防衛体制をとっていました。
この写真のあたり一帯も海軍が守備していました。
1945年の3月、フィリピンのルソン島と硫黄島を攻略したアメリカ軍の艦船は、次々にこの沖縄周辺に集結し、島を取り囲みました。
この空港の向こうの海上、40kmのところに慶良間(けらま)諸島があります。 -
3月23日、アメリカ軍は、その慶良間諸に上陸し、占領しました。
当時、この沖縄本島全体を取り巻いていていた艦船の数は1500隻(せき)に達し、水平線も見えないほどであったといわれています。
船からは激しい艦砲射撃が繰り返され、また、何千機という戦闘機が飛来して、爆撃を繰り返したといいます。
日本軍は水際(みずぎわ)での防衛をあきらめて、兵力を島の南部に集めて、持久作戦をとることにしていました。
そのため、島民の運命も大きく2つに分かれ、北部に -
疎開(そかい)した人たちの多くは助かり、軍と共に、南部に残った人たちに、多くの犠牲者が出ることになります。
4月1日、遂(つい)にアメリカ軍の上陸が始まりました。
最初の上陸地は、比較的守備が薄くて飛行場がある北谷(ちゃたん)や嘉手納(かでな)の近郊(きんこう)でした。
数日のうちに島は南北に分断されて、上陸部隊は火炎放射や機銃掃射(そうしゃ)を繰り返しながら、南下してきました。
そして遂に、首里の陣地は放棄(ほうき)されて、陸軍の総司令部は南へ南へと後退していくことになります。 -
そして、この辺り一帯も、激しい砲火を受けて、焦土(しょうど)と化していきました。
この丘にある海軍司令部の壕の中では、撤退の時期を逸(いっ)した多くの将兵たちが拳銃(けんじゅう)や手りゅう弾で、次々と自決していきました。
この沖縄戦では、総数20万人以上もの人が帰らぬ人となりました。
そのうち、米軍の犠牲者は1万2〜3千人、日本軍及び、沖縄住民の犠牲者は18万8千人ほどでした。 -
ここに車を停めて、調べてみましたが、どうやら壕の入り口はもっと上のようです。
車で登っていきました。
時刻は11時10分です。 -
これは、ここで亡くなった将校の墓のようです。
ここから右に回りこんだ、この墓の上の辺りが、この丘の頂上で、そこに記念館と壕の入り口がありました。
記念館に入ると、戦時中の資料がたくさん展示してありました。
母親はこういうところに来たかったと言いながら、当時を偲(しの)びながら、丹念に資料を見ていました。
本当は、もっとゆっくりと見せてあげたかったのですが、この後、平和公園や玉泉洞にも行かなければなりません。 -
残念ですが、ここを出て壕に入ることにしました。
ここの壕は長い階段があるので、車椅子は予約して準備してもらっておかなければ借りられません。
そのため、母親は、壕の中は少し見ただけで、出口に向かいました。
私がひとりで、作戦室や手りゅう弾の後等を見て周りました。
昔、ここへ来たときのことが、ありありと思い出されました。 -
正にこの光景です。
そのときは、この光景を見て強い衝撃(しょうげき)を受けました。
そしてその光景は、それからもずっと私の頭の中に残り続けていて、度々思い起こされていました。
そして、今日またここで、その光景を見ていると思うと、不思議な気持ちになりました。
時間がないので、ここも駆け足で周りました。
ここを出た後、ひめゆり平和記念資料館に向かいました。 -
ひめゆりの塔に到着しました。
流石(さすが)にここは有名なところなので、たくさんのドライブインやみやげ物店がありました。
そのうちの一軒で昼食をとることにしました。
団体客向けの広い食堂で、数百人が座れるほどの席がありました。
ここでは海ぶどう丼定食を注文しました。
海ぶどうは昨日のおばあさんの食堂で、前菜として -
出してもらいましたが、珍(めずら)しかったし、出発前にもチェックしていたので、ここでもう一度食べることにしました。
やはり、コリコリとした食感で、納得できるメニューでした。
その後、近くのみやげ物店で、ツアーブックにについていたクーポン券で、アイスクリームを注文して食べました。
そして、いよいよひめゆりの塔へ向かいました。
参道の入り口で献花(けんか)用の花を売っていたので買いました。 -
その花はひめゆり部隊の生き残りと思われるような年恰好(としかっこうの)の婦人が売っていました。
塔に献花した後、後方の資料館に入りました。(写真)
日本軍や民間人、そしてひめゆり部隊のような医務隊が、米軍の進行に押されて、南へ南へと逃げ延びていく様子などが、展示してありました。
よく映画や記録フィルムなどで見る洞窟(どうくつ)なんかも再現してありました。
この壕(ごう)の中で、大勢の人が息を潜(ひそ)めている中で、突然、赤ん坊が泣き出して、なかなか泣き止まないような場面が思い起こされました。 -
平和記念公園にやってきました。
ここでも車椅子を借りることができました。
5時過ぎにはレンタカーを返さなければならないので、急ぎました。
まずは、平和祈念堂に行ってみました。
大きな仏像(?)がありました。
ここは新しい施設かと思っていましたが、何と、この象は前回来たときも見た記憶があります。
後で、パンフレットを調べてみると、やはり前回来たときにも既にここにあったようです。
この後巡る、平和の礎(いしじ)などの設備は、その後で新しくできたようです。
時刻は1時15分です。 -
その後、大急ぎで平和記念資料館に入りました。
太平洋戦争に関する資料や展示物がありました。
本当は、もっとゆっくり見たかったのですが、この後、龍泉洞にも行かなければならないので、大急ぎで周りました。
写真は資料館の展望所です。
絶景です! -
天候に恵まれて、とてもラッキーでした。
海の青さが目に染(し)みます。 -
実は、ここでこうしてこの風景を見ることこそが、今回の旅の最大の目的でした。
こここそが、沖縄に来たことを実感できる最高の場所だと思っていました。
天候がとても心配でしたが、今日、こうして晴天に恵まれたことで、一度に肩の荷が下りたような気持ちになりました。
もうこれで、何も言うことはありません。 -
下の屋根がこの資料館です。
この展望階へは、エレベーターで昇ってきました。
時刻は1時35分です。
向きは北東です。
透明ガラスを通して見ています。 -
こちらは南西です。
右の大きな建物は資料館です。
あの中で、展示物を見てきました。
その後ろの辺りにあの仏像(?)の平和祈念堂があります。
その向こうが駐車場なので、そこからここまで、かなりの距離を来たことになります。 -
やはり南西です。
左に平和の礎(いしじ)が見えます。 -
平和の礎です。
向きは南です。
円形の広場には”平和の火”が灯(とも)されています。(そのときは知りませんでした。)
これから、その少し向こうに見える展望所まで行ってみることにしましょう。
今、時刻は1時36分です。
時間がないので、少し急ぐことにしましょう。 -
駆け足で車椅子を押して、展望所までやってきました。
時刻は1時41分です。
向きは南です。 -
こちらは北東です。
素晴らしい眺(なが)めです。 -
本当に、天気がよくてよかったと思いました。
最高です。 -
今いる辺りが、首里から後退してきた旧日本軍の司令部の終焉(しゅうえん)の地であったようです。
当時は、この海は水平線が見えないほどの数の、アメリカの艦船が、取り囲んでいたに違いありません。
4月1日に、嘉手納(かでな)の辺りに上陸したアメリカ軍は、周囲を焼き尽くしながら南下を続けました。
日本軍の司令部が首里を撤退したのは、その上陸の約2ヶ月後の5月27日のことでした。
今日訪れた海軍司令部の壕で、大田司令官らが自決したのは、その17日後の6月13日でした。 -
そのさらに5日後の6月18日に、ひめゆり部隊に解散命令が出て、隊員たちは砲弾の中に散って行きました。
そしてその5日後の6月23日に、ここで、牛島司令官が自決して、日本軍の組織的な戦闘は終わりました。
米軍上陸から2ヶ月と20日余り、日本軍の首里撤退からおよそ1月後のことでした。
その後は、兵と住民は、猛火の中をある人は戦い、ある人は逃げ惑いながら、その最後を迎えていきました。 -
この平和の礎には、そんな人たちのひとりひとりの名前が刻まれています。
正面の建物が平和記念資料館で、先ほどは、あの塔の展望階からこちらを見ていました。
左側の白い塔は平和祈念堂です。
駐車場はその左あたりです。
こちらは北向きで、海はこの右手にあります。 -
平和の礎です。
-
時刻は13時44分です。
これから駐車場に戻ります。
そしてこの後、玉泉洞がある”おきなわワールド”へ向かいます。 -
おきなわワールドへやってきました。
ここでも車椅子を借りることができました。
写真は入り口です。
この左に大きな駐車場があります。
このゲートを入って左が玉泉洞の入り口です。 -
前回に来たときの記憶は、玉泉洞の内部の様子と、”ハブとマングースの決闘ショー”の様子ぐらいしか残っていません。
そのハブ博物公園の建物は、この写真の右側にありました。 -
時刻は2時12分です。
さあ、いよいよ入場です。
まずは玉泉洞からです。
ガイドブックによるとここは、車椅子は原則使用不可とありました。
でも、この鍾乳洞(しょうにゅうどう)の遊歩道の
長さは890mです。
このことが、今回の旅の最大の心配事でした。 -
母親が1km近くも歩くには、相当の時間がかかるに違いありません。
そのため、折りたたみ式の携帯椅子を持ってきたほどです。
この椅子は、1度だけ残波岬で海を見たときに使いました。
ここでも、この椅子を使いながら、地下の遊歩道を延々と歩いていかなければなないだろうと思っていました。
ところが、チケットを買って車椅子のまま進んで行くと、入り口で
「階段があるけど大丈夫ですか?」
と尋ねられたので、
「大丈夫です。」
と答えると、
「気をつけて進んでください。」
と言われたでけでした。
ありがたいことです。 -
入った時刻は2時20分でした。
入るといきなり階段がありました。
ここは、車椅子はたたんで持って降りました。
遊歩道は、何とか車椅子が通れる幅がありました。
そのため、どんどん駆け足で進みました。 -
こんなところもありました。
鍾乳洞は延々と続いていました。
行けども行けども洞窟(どうくつ)の中です。
ところどころに階段がありますが、そこは車椅子をたたんで上り下りします。
速い人には道を譲り、遅い人は追い越しながら進んでいきます。 -
こんなところもありました。
中は思ったより湿気(しっけ)があって、まるでサウナの中に服を着て入っているようでした。
決して快適とは言えないような環境でした。 -
ようやくのことで出口に着きました。
時刻は2時50分になろうとしていました。
ちょうど30分の間、この鍾乳洞の中を進んでいたことになります。
距離は890mでした。
もし、車椅子がなければどうなっていたでしょうか?
1時間はかかっていたはずです。
やれやれ、助かったという気持ちです。
でも、レンタカーの返却時間まであと2時間少ししかありません。 -
出たところにはこのようなガラス工房がありました。
-
外はこのような”琉球王国城下町”です。
-
琉球王国が統一されたのは1429年のことでした。
日本では室町時代、中国では明の時代でした。
当時は明に従っていましたが、江戸幕府ができた後の1609年に、薩摩藩の侍が3千人ほどで攻め込んできて、それ以降は、薩摩藩の支配をも受けるようになりました。
明治時代の初めの、1871年に鹿児島県となり、翌年には琉球藩となり、1879年には沖縄県となりました。
ここは、それまでの琉球王国時代の街並みが再現されていました。 -
出発前に、玉泉洞と”ぶくぶく茶”のセットの割引を予約していました。
ぶくぶく茶はここで注文しました。
泡(あわ)立っていましたが、ごく普通のお茶なので、少しがっかりしました。
でも、タイミングよく椅子に座れたので、まあ、よかったかなというところです。
あ、ここでカメラの電池が切れてしまいました。
ううん、残念! -
時刻は3時を回っています。
この後、ここから入り口近くまで、いろいろな工房と土産物店が延々と続いていました。
地下の玉泉洞を進んできた分だけ、地上を戻っていくという感覚でした。
ついに最後の土産物店を通過して、エイサー広場にやってきました。
大勢の人が客席で円形の広場を取り囲んでいて、そこに現れたダンサーたちが伝統的な衣装(いしょう)でエイサーを踊り始めました。 -
エイサーとは沖縄で発展した盆踊りで、テンポのよいリズムのものが多いようです。
広場では10〜20人ほどの若者たちが、威勢(いせい)のいい太鼓(たいこ)の囃子(はやし)のリズムに合わせて、飛び跳ねながら踊っています。
特に、大勢が一斉(いっせい)にジャンプして、脚を高く振り上げながら、空中で身体を回転させて、一斉に着地するような場面では、目が釘付けになってしまいました。
この後、是非ハブとマングースの決闘ショーを見たいと思っていたので、入り口の案内所まで行って尋(たず)ねました。 -
すると、次のハブのショーは3時30分に始まるということでした。
もう、ほとんど時間がありません。
もっとエイサーを見たかったのですが、仕方がありません。
ハブ博物公園へ向かいました。
写真は沖縄ワールドの入り口を外から撮ったもので、ハブ博物公園はこの右側にあります。
入ってみるとヘビに関することが、いろいろと展示されて -
いました。
でも、時間がないので、車椅子を駆け足で押しながらスロープを進んで行きました。
ショー会場は、最初は誰もいませんでしたが、やがて次々に人が集まってきて、席の前半分がいっぱいになりました。
ショーが始まりました。
前回の”ハブとマングースの決闘”が印象に残っていて、今回もそれが目当てでしたが、何と、今は動物愛護の観点から、それはやっていないということでした。 -
そのショーは今は、ハブとマングースが水中の速さを競うというものに代わっていました。
まあ、それもそれなりに楽しめました。
ショーが終わるとさっそく那覇(なは)に向かいました。
時刻は4時を過ぎています。
レンタカーの返却は5時25分で、飛行機の出発時間は6時25分です。 -
サトウキビ畑を見ながら走り、やがて那覇市街に入りました。
最後に牧志公設市場に立ち寄ろうと、その辺りにカーナビをセットして行って見ましたが、すごい混雑振りで、目当ての駐車場も、一方通行の狭い路地を入り込んで行って、なかなか到達しません。
時間もなくなってきたので、とうとうあきらめました。
そのまま国際通りに入りました。
ここは、見ておかなければ心残りがするだろうと思っていただけに、通ることができて、ほっとしました。 -
思った以上に活気があって、面白そうな通りでした。
さあ、混雑の中を、レンタカーを返しに行きます。
空港からも離れているので、遅れると飛行機に乗り損ねてしまいます。
返却時間を過ぎていましたが、ガソリンスタンドに立ち寄ってガソリンを入れました。
営業所に着いて、すぐに返却して、また、マイクロバスで送ってもらいました。 -
ここでも交通渋滞で心配しましたが、何とか6時頃に空港に到着しました。
搭乗手続きをして、開門を待ちました。
その間に、夕食用のサンドウィッチとおにぎりを買い込んで来ました。
いよいよ搭乗しました。
来たときと同じ大きな機種でした。
予約していたのは最後尾の席です。 -
トイレに近いということと、主翼から離れているので、地上の景色がよく見えるのでというのが、そこを選んだ理由です。
そして、神戸の夜景を見るために、左側を選んでいました。
さらに席まで行くときに、この飛行機の大きさを実感できたので、そのことでもとてもよかったと思いました。
でも、トイレのすぐ前なので異臭がひどくて、その点では失敗でした。
もう、2〜3席前にしていた方がよかったと思いました。 -
お腹が空いていたので、機内で食べたサンドイッチは最高でした。
アナウンスがあって、再びシートベルトをつけると、やがて窓の下に、神戸の夜景が見え始めました。
(完)
沖縄旅行 08冬 [写真版] セレクション http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10317443/
※ 次回の旅は岡山です。(http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10310742/)
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