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2006年の9月に私は、アルメニアとグルジアを旅行しました。 <br /><br />アエロフロートがまだモスクワからグルジアの首都のトビリシまで飛んでいた頃の昔話となってしまいましたが、この写真を見ると、今でも想像力の翼が、私をあの土地へと旅立たせてくれます。<br /> <br />寒くて失業者の溢れるトビリシから、私はMarshrutkaと呼ばれるワゴンカーでアルメニアに抜けて、6時間乗り続けて首都のエレバンに到着しました。トビリシを僅か2日で旅立ったのも、ここで週末に開かれる青空骨董市(Вернисаж= ベルニサーシ)に馳せ参じるためでした。<br /><br />月に1日だけ開かれるこの青空市には、アルメニア全土から工芸品が集まり、シルクロードの交差点の歴史が生んだ不思議な美意識の工芸品の全てを見る事が出来ます。  ペルシアの花模様をはじめ、ケルトの唐草模様としか思えないような図柄の彫板があり、歴史上始めてキリスト教を国教としたアルメニアの奥深さが偲ばれます。<br />  <br /> <br />旅はまだ始まったばかりだというなのに、私はここで7枚のイコンを含め、15kgものアルメニア正教の美術品を買い漁りました。<br /><br />その夜、は建国記念日でエレバンの国立歌劇場でハチャトリアンのコンサートがありました。隣に座った、裕福な会計士の紳士から(ベイルートから里帰りしていた)聞いたところでは、アルメニア人はユダヤ人と並ぶ商売上手な民で、隣国オスマントルコが19世紀に行ったホロコーストにより全世界に散らばった難民達が同胞のネットワークを活かして、交易に才を振り、世界の各地で商売を成功させているとの事でした。<br /><br />(※ シャルル・アズナブールもその一人、彼の両親は無一文でマルセイユに辿り着いた。 現在はアルメニアのブランデー最大手のオーナーでもある。)<br /><br /><br />翌日、最低限の荷物をディパックに詰めて、憧れていたアラベルディ地方に向かいました。早朝、Kilikya Avtokayanのバスターミナルに着くと、地方に旅立つ人とその何倍もの家族が別れを惜しんでいます。英語でのコミュニケーションなど、望むべくもないので、周囲に親切そうな人を捜しておき、  アラベルディ? と訊ねながら、キリル文字を解読して、目的のバスを捜します。居並ぶ人は皆、大きなビニール袋に荷物を詰めて、屋根の上に括り付けています。<br /><br /><br /><br />エレヴァンを8:00に出発して11:30頃に、街道沿いの茶店で昼食休憩が30分ほど。 そこでケバブ等を注文する事も可能ですが、半分の人は、サンドイッチを持参していました。街道沿いに売店など無いので、皆、ペットボトルに水を入れています。 そこから2時間程でアラベルディの麓のバスターミナルに到着。 そこで私以外の全員が降りました。 世界遺産のサナヒンへは、そこからまたバスで山を7分程登って行き、丘の上に開けた街の広場に着きました。 <br /><br /><br />バス停に着くと、最後の客を降ろした運転手が心配そうに、「宿は?」と訊いているようなので、エレバンの観光案内所で予約した民宿のアドレスの紙を示しました。 <br />その紙をじっと見つめてから、彼は広場の茶店に行き、電話をかけてくれてくれました。この人は折り返し、出発しなくては行けないのではないか? と、思いながら、彼は、チャイまで、ご馳走してくれて、民宿の少年が現れる30分後まで居てくれました。 この間、運転手とはジェスチャーでしか接していないのに、今でも、彼とは会話をしていたように記憶に残っています。<br />( 実際、彼とは、その後、エレバンに戻ってからも、お世話になるのですが、その話はまたいつか、、)<br /><br /> <br />少年に案内された民宿先はバス乗り場から5分の団地の5階の2LDKでした。と言っても、それは殆ど廃屋と評した方が適切なコンクリートの朽ち果てた箱と云った方が実情です。 歪んだ階段、壊れた裸電球、薄い壁(隣の痴話喧嘩が良く聞こえる)故障した温水システム 硬い寝台の一夜の宿です。 少年に家族を訊くと、母は3年前に亡くなり、この地域の鉱山開発が停滞して、ロシアの技術者が引き揚げた為、父と姉はモスクワまで出稼ぎに行っている。それで自分は、階下の祖父の元で生活していると語りました。ソ連圏僻地それも他民族の生活の厳しさを肌で知る経験でした。<br /><br /><br />Debedの、隣のキオスクでアゼルバイジャン製のベルーガ・キャビアが1缶 (100g) 600円で売られていたので、店にあった5缶を全て買い、 エレバンのホテルから持ってきたパンをブリニの替わりにして、侘びしくも贅沢な夕食を取りました。<br /><br />エネルギー事情から灯火管制で8時には真っ暗となり、その夜は、未明まで怒鳴り合う隣家の喧嘩声に付き合いながらまんじりともしないで、朝を迎えました。 7時に少年がやって来て、冷蔵庫から凍ったボルシチの塊を火にかけ、酢キャベツを出し、鉄のように堅いパンを切って、精一杯の朝食を作ってくれました。 <br /><br />タクシーなどない集落でしたが広場に行くと見慣れぬ東洋人に人だかりが出来てしまいます。1台の車が寄ってきたので、ハグファットまで行かないか?とジェスチャーをすると、30$というので、20$に値切り向かいました。 車は猛スピードで山を越えて行き、途中で追い越した車に何か注意をしているので、変だな、と思ったら、皮ジャンパの下に警察の制服を着ていました。<br /><br /><br />20分程、山道を登ると、典雅なフォルムの尖塔が見えてきました。西欧のみならず東方正教圏のどこにも見られないアルメニア様式で1996年に世界遺産に認定されたハグファット寺院でした。 現在、僧が定住していない寺院は、長い間、朽ちるままだったのですが、WCHに登録されてから米国のゲッティ財団の支援で少しずつ修復が始まっていました。<br /><br /><br />小高い丘に登ると、真っ青な空の向こうにコーカサスの山並みが輝いています。 <br /><br /><br />その光景に時を忘れてぼーっとする内に1時間が過ぎようとしていました。 <br /><br />どこからか青年が現れ、芝生に腰を下ろして本を開いています。<br />「 どんな本を読んでいるの? 」 <br /><br />そんな好奇心を、そっと置いてから、私は警官の待つ車に戻りました。 <br /><br />あんな静かな山上で彼は何を読んでたんだろう? 今でも、知りたい、と思っています。<br />

コーカサスへの古寺巡礼

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2006/09/14 - 2006/09/21

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bloom3476

bloom3476さん

2006年の9月に私は、アルメニアとグルジアを旅行しました。 

アエロフロートがまだモスクワからグルジアの首都のトビリシまで飛んでいた頃の昔話となってしまいましたが、この写真を見ると、今でも想像力の翼が、私をあの土地へと旅立たせてくれます。
 
寒くて失業者の溢れるトビリシから、私はMarshrutkaと呼ばれるワゴンカーでアルメニアに抜けて、6時間乗り続けて首都のエレバンに到着しました。トビリシを僅か2日で旅立ったのも、ここで週末に開かれる青空骨董市(Вернисаж= ベルニサーシ)に馳せ参じるためでした。

月に1日だけ開かれるこの青空市には、アルメニア全土から工芸品が集まり、シルクロードの交差点の歴史が生んだ不思議な美意識の工芸品の全てを見る事が出来ます。  ペルシアの花模様をはじめ、ケルトの唐草模様としか思えないような図柄の彫板があり、歴史上始めてキリスト教を国教としたアルメニアの奥深さが偲ばれます。
  
 
旅はまだ始まったばかりだというなのに、私はここで7枚のイコンを含め、15kgものアルメニア正教の美術品を買い漁りました。

その夜、は建国記念日でエレバンの国立歌劇場でハチャトリアンのコンサートがありました。隣に座った、裕福な会計士の紳士から(ベイルートから里帰りしていた)聞いたところでは、アルメニア人はユダヤ人と並ぶ商売上手な民で、隣国オスマントルコが19世紀に行ったホロコーストにより全世界に散らばった難民達が同胞のネットワークを活かして、交易に才を振り、世界の各地で商売を成功させているとの事でした。

(※ シャルル・アズナブールもその一人、彼の両親は無一文でマルセイユに辿り着いた。 現在はアルメニアのブランデー最大手のオーナーでもある。)


翌日、最低限の荷物をディパックに詰めて、憧れていたアラベルディ地方に向かいました。早朝、Kilikya Avtokayanのバスターミナルに着くと、地方に旅立つ人とその何倍もの家族が別れを惜しんでいます。英語でのコミュニケーションなど、望むべくもないので、周囲に親切そうな人を捜しておき、  アラベルディ? と訊ねながら、キリル文字を解読して、目的のバスを捜します。居並ぶ人は皆、大きなビニール袋に荷物を詰めて、屋根の上に括り付けています。



エレヴァンを8:00に出発して11:30頃に、街道沿いの茶店で昼食休憩が30分ほど。 そこでケバブ等を注文する事も可能ですが、半分の人は、サンドイッチを持参していました。街道沿いに売店など無いので、皆、ペットボトルに水を入れています。 そこから2時間程でアラベルディの麓のバスターミナルに到着。 そこで私以外の全員が降りました。 世界遺産のサナヒンへは、そこからまたバスで山を7分程登って行き、丘の上に開けた街の広場に着きました。 


バス停に着くと、最後の客を降ろした運転手が心配そうに、「宿は?」と訊いているようなので、エレバンの観光案内所で予約した民宿のアドレスの紙を示しました。 
その紙をじっと見つめてから、彼は広場の茶店に行き、電話をかけてくれてくれました。この人は折り返し、出発しなくては行けないのではないか? と、思いながら、彼は、チャイまで、ご馳走してくれて、民宿の少年が現れる30分後まで居てくれました。 この間、運転手とはジェスチャーでしか接していないのに、今でも、彼とは会話をしていたように記憶に残っています。
( 実際、彼とは、その後、エレバンに戻ってからも、お世話になるのですが、その話はまたいつか、、)

 
少年に案内された民宿先はバス乗り場から5分の団地の5階の2LDKでした。と言っても、それは殆ど廃屋と評した方が適切なコンクリートの朽ち果てた箱と云った方が実情です。 歪んだ階段、壊れた裸電球、薄い壁(隣の痴話喧嘩が良く聞こえる)故障した温水システム 硬い寝台の一夜の宿です。 少年に家族を訊くと、母は3年前に亡くなり、この地域の鉱山開発が停滞して、ロシアの技術者が引き揚げた為、父と姉はモスクワまで出稼ぎに行っている。それで自分は、階下の祖父の元で生活していると語りました。ソ連圏僻地それも他民族の生活の厳しさを肌で知る経験でした。


Debedの、隣のキオスクでアゼルバイジャン製のベルーガ・キャビアが1缶 (100g) 600円で売られていたので、店にあった5缶を全て買い、 エレバンのホテルから持ってきたパンをブリニの替わりにして、侘びしくも贅沢な夕食を取りました。

エネルギー事情から灯火管制で8時には真っ暗となり、その夜は、未明まで怒鳴り合う隣家の喧嘩声に付き合いながらまんじりともしないで、朝を迎えました。 7時に少年がやって来て、冷蔵庫から凍ったボルシチの塊を火にかけ、酢キャベツを出し、鉄のように堅いパンを切って、精一杯の朝食を作ってくれました。 

タクシーなどない集落でしたが広場に行くと見慣れぬ東洋人に人だかりが出来てしまいます。1台の車が寄ってきたので、ハグファットまで行かないか?とジェスチャーをすると、30$というので、20$に値切り向かいました。 車は猛スピードで山を越えて行き、途中で追い越した車に何か注意をしているので、変だな、と思ったら、皮ジャンパの下に警察の制服を着ていました。


20分程、山道を登ると、典雅なフォルムの尖塔が見えてきました。西欧のみならず東方正教圏のどこにも見られないアルメニア様式で1996年に世界遺産に認定されたハグファット寺院でした。 現在、僧が定住していない寺院は、長い間、朽ちるままだったのですが、WCHに登録されてから米国のゲッティ財団の支援で少しずつ修復が始まっていました。


小高い丘に登ると、真っ青な空の向こうにコーカサスの山並みが輝いています。


その光景に時を忘れてぼーっとする内に1時間が過ぎようとしていました。 

どこからか青年が現れ、芝生に腰を下ろして本を開いています。
「 どんな本を読んでいるの? 」 

そんな好奇心を、そっと置いてから、私は警官の待つ車に戻りました。 

あんな静かな山上で彼は何を読んでたんだろう? 今でも、知りたい、と思っています。

同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス
航空会社
アエロフロート・ロシア航空

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