2008/09/27 - 2008/09/28
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かめさん
ちょっとディープでぜいたくな 笑える大阪 島本旅行記です。
滅私奉公・乃木大将
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- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 新幹線
-
「駅(駅家)」とは、大化の改新以降、幹線道路に30里(約16キロメートル)ごとに設けられた施設で、馬など旅に必要なものを備えていました。この桜井の地にも「駅」があったといわれますが、実態はよくわかっていません。
延元元年(1336年)、足利尊氏の大軍を迎え撃つため、京都を出発して兵庫に向かった楠木正成が、途中、桜井の宿(駅)で子の正行に遺訓を残して河内に帰らせたと、『太平記』に記されています。この伝承は「桜井の別れ」として後世の人びとに広く知られ、絵・詩・歌などの題材として取り上げられました。
桜井駅跡は、明治から昭和10年代にかけて逐次整備され、石碑の建設や敷地拡張などが行われました。大正10年3月には国史跡に指定されています。敷地内には楠公父子の石像や多くの石碑が建ち、クスノキの木が生い茂っています
七生報国とかいてあります -
駐日イギリス大使パークスが楠木正成の精忠に感じて建てた碑です。
共に見送り 見かえりて
別れを惜しむ 折からに
またも降り来る 五月雨の
空にきこゆる ほととぎす
誰か哀れと聞かざらん
あわれ血に泣く その声を -
駐日イギリス大使パークスが楠木正成の精忠に感じて建てた碑があり、表に「楠公訣児之処」と刻し、裏に英文で因由をしるす。
汝(いまし)をここより 帰さんは
われ私の ためならず
おのれ討死 なさんには
世は尊氏の ままならん
早く生い立ち 大君に
仕えまつれよ 国のため -
楠公父子の石像です。
正成涙を うち払い
我が子正行(まさつら) よび寄せて
父は兵庫に おもむかん
かなたの浦にて 討死せん
汝はここまで 来つれども
とくとく帰れ ふるさとへ -
青葉しげれる 桜井の
里のわたりの 夕まぐれ
木の下かげに 駒とめて
世の行く末を つくづくと
しのぶ鎧の 袖の上(え)に
散るは涙か はた露か -
父上いかに のたまうも
見捨てまつりて 我ひとり
いかで帰らん 帰られん
この正行は 年こそは
いまだ若けれ もろともに
御(おん)供仕えん 死出の旅 -
『この時、正成は、しばらく賊の勢を避け、その勢が衰へるのを待つて、一度にうちほろぼさうという謀を建てたが、用ひられなかつた。それ故、正成は、おほせに従つて、ただちに京都を立つた。途中、桜井の駅に着いたとき、かねて天皇からいただいてゐた菊水の刀を、かたみとして子の正行に与へ、「この度の合戦には、味方が勝つことはむづかしい。自分が戦死した時は、天下は足利氏のものとならう。けれども、そなたは、どんなつらい目にあつても、自分に代つて忠義の志を全うしてもらひたい。これが何よりの孝行であるぞ。」と、ねんごろにさとして河内へ帰らせた。
-
石碑「子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと」、明治天皇作、揮毫は海軍大将東郷平八郎
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この一刀(ひとふり)は 去(い)にし年
君の賜いし ものなるぞ
この世の別れの かたみにと
汝(なんじ)にこれを 贈りてん
行けよ正行 ふるさとへ
老いたる母の 待ちまさん
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