2007/10/12 - 2007/10/12
28696位(同エリア29674件中)
目黒警部さん
JRさんのH・Pに『ぶらり大阪まち歩き』という、おもしろいサイトがある。
駅からはじまるハイキングという、サブタイトルがついている。
http://pamph.jr-odekake.net/navi/hiking_extra02/
様々なコースがあるが、今回は私が生まれ育った『上町台地の寺町界隈を散策する』コースに沿ってぶら〜りとしました(後編)。
前編・・・http://4travel.jp/traveler/megurokeibu/album/10220383/
- 交通手段
- 徒歩
-
生玉神社前が後編の出発点です。
ぶらり歩きのルートは、JRさんのH・Pの地図を参考にして下さい。
http://pamph.jr-odekake.net/navi/hiking_extra02/
さ〜て、行きまっせ〜 -
織田作之助の「夫婦善哉」の舞台にもなった源聖寺坂を登りつめたところに銀山寺がある。
-
生國魂神社(いくたまじんじゃ)から南に下ったところにある天王寺区下寺町一丁目源聖寺の南側から生玉寺町に至る狭く曲がった石畳の坂、天王寺七坂の一番北の坂です。
この坂は登り口に源聖寺があるので、その名を取っています。
源聖寺坂および口縄坂は上町台地の代表的な坂で、遊歩道としても知られています。
最初は石畳道ですが、やがて階段状になって、いっきに台地に登ります。
その付近一帯は、寺町として長い歴史をもっています。 -
源聖寺坂は、織田作之助の「夫婦善哉」の舞台にもなり、坂を登りつめたところにある銀山寺には、近松門左衛門の「心中宵の庚申」の主人公お千代半兵衛の比翼塚が、齢延寺には藤澤東がいの墓がある。
-
生國魂神社(いくたまじんじゃ)から南に下ったところにある天王寺区下寺町一丁目、その付近一帯は、寺町として長い歴史をもっています。
-
上町台地の寺町にあるこの寺には近松晩年の傑作『心中宵庚申(よいごうしん)』の主人公、八百屋半兵衛と妻の千代をまつる比翼塚がある。
ふたりは享保7年(1722年)4月6日、生玉で心中した。実話である。 -
境内には2006年に87歳で逝った人形遣い、吉田玉男の墓もある。
長く上演が途絶えていた『心中宵庚申』は65年に120年ぶりに復活、半兵衛を玉男、千代を簑助が遣った。
それ以来、玉男、簑助の十八番演目のひとつになり、玉男は半兵衛が眠る銀山寺に墓までつくった。
玉男は先代勘十郎と同世代で、同じ立役の好敵手。
今の勘十郎さんは去年の4月公演で半兵衛を遣った。
千代は簑助。
緊張の初役だった。
半兵衛はただの町人ではなく、昔、武士だった。
玉男師匠が遣う半兵衛は何気ない動きでふっと武士になる。
これがすごい。
卓抜した技術に加えて、半兵衛の性根(心情)をしっかりとつかまないとできない。
境内自由 -
寺町を散策、法仙寺前に来た。
-
整然と整備された広い霊園には人間国宝の文楽人形遣い、二代目桐竹勘十郎の墓がある。
大阪府大阪市天王寺区生玉寺町7−35
地下鉄谷町線 四天王寺夕陽丘駅 徒歩7分 -
聖徳太子が鴫野の地に創建された志宜山法案寺の歴史に遡るとのことである。
法案寺は中古、生玉神社と習合して、その別当職を兼ね、多くの塔頭を擁した畿内屈指の大寺であった。
豊臣秀吉の築城に際し、今の生玉神社の地に移り、爾来明治に至るまで、いわゆる生玉十坊と称されたが、明治初年の神仏別離の令により、法案寺は分散した。
十坊随一「遍照院」の住職快法尊師は十坊の内「遍照院」と「医王院」の二院を合して、もと茶臼山にあった、慶長年間(1596年〜1614年)に創建の「青蓮寺」の寺号を移して、今の地に再興したのが現在の青蓮寺である。 -
竹田出雲は芝居の座元の子として1691年(元禄4年)に生まれた。竹本座の経営に加わったのが僅か15歳であったという。
当時は耳で聴く浄瑠璃から、目でみる人形遣いに向かいつつある時期でもあり、その時流をうまくとらえ、今日の人形遣いの形をつくった。
人形芝居の興行師 の一方、青年時代から近松門左衛門に 師事し、文筆の面にも才能を発揮、合作も含めて40篇近い脚本がある。
「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」(いずれもが合作)は今日も上演される傑作である。
1765年(宝暦6年)65歳で没した。
所在地:大阪市天王寺区生玉寺町
最寄駅:地下鉄谷町線「四天王寺前」下車、北西約150M、 -
人形浄瑠璃の歴史の中て代表的人物として「太夫は竹本義太夫」、「作者の近松門左衛門」と共に、「興行師の竹田出雲」が並び称される。
境内にある竹田一族の墓(一段高い台座の上にある)。
出雲の墓は台座の上の手前から2番目、墓石には「文明院松立顕居士」と彫られている。その奥は彼の父親の墓。 -
太平寺には、古くから日本三体の一つと伝えられる虚空蔵菩薩の霊像がおまつりされており、「大阪の虚空蔵さん」「なにわの十三まいり」と言われて市民に親しまれて来たことが江戸時代の文献にも見えます。
-
十三まいりとは、十三歳になった子供がこうした虚空蔵菩薩の御誓願にあやかるため、その御縁日に智福の授与を祈ってお参りするゆかしい行事で、京都や大阪で数百年にわたる伝統を持っています。
大阪市天王寺区夕陽丘町1-1
(06)6779-9133
-
口縄坂(くちなわざか)は、大阪市天王寺区にある坂。
「天王寺七坂」のひとつ。
「大阪みどりの百選」に選定されている。 -
天王寺区下寺町2丁目から夕陽丘町にかけて東西にのびている坂で、東側(夕陽丘町)の標高が高くなっており、途中は石畳の階段になっている。
前後の道はそのまま西側は松屋町筋、東側は谷町筋(地下鉄四天王寺前夕陽ヶ丘駅付近)につながっている。 -
「十三まいり」の太平寺から松屋町筋に至る縁濃く静かな石畳の坂です。
源聖寺坂とならび、上町台地の坂を代表しています。
口縄とは蛇のことであり、坂の下から眺めると、道の起伏が「蛇(くちなわ)」に似ているところから、この名が付けられたといいます。
また、大阪城築城のとき、縄打ちを始めた地であるためという説もあります。
坂をのぼると織田作之助の文学碑が右手にあり、「口縄坂は寒々と木が枯れて白い風が走っていた…」以下数行『木の都』の一節が刻まれています。
付近の浄春寺には、天文暦学者の麻田剛立、画家の田能村竹田、春陽軒には国学者の尾崎雅嘉、太平寺には、医家の北山寿安ら、江戸時代に活躍した先人の墓があります。
また、梅旧院には芭蕉の供養塔もみられます。 -
和宗総本山 四天王寺 四箇院のひとつ、施薬院の場所に建つ聖徳太子ご創建の愛染堂
西暦年593年(古天皇元年)に聖徳太子が四天王寺を建立された際、多種の薬草を植えて病に応じて普くこれを人々に施与する場所「施薬院(せやくいん)」を、この地に築かれました。後に聖徳太子が勝鬘経をご講讃された地でもある故を以って「勝鬘院(勝鬘院)」とも呼ばれるようになりました。
愛染さんの夏祭り(6月30日〜7月2日)は大阪夏祭りの先駆けとして知られています。 -
現存の主なる堂等は金堂(本堂)と多宝塔で、平安後期には真言密教の修業道場として扱われ、金堂には愛染明王像を安置し、仍って勝鬘院全体を愛染堂とも呼んでいます。また多宝塔は豊臣秀吉再建による桃山時代の代表作とされ、大阪市最古の木造建築物として国の重要文化財(旧国宝)であります。
-
境内にある「愛染めの霊水」は飲むと愛が叶うといわれ、女性参詣者が毎年たくさん訪れます。
また、小説家の川口松太郎さんが、この近くに住んでいたこともあり、彼の代表作であり映画化もされた『愛染かつら』のモデルとなった縁結びの霊木「愛染かつら」があることでも有名です。
この霊木の前で愛を語り合った男女には、何があっても幸せな結末が訪れるという伝説が残っています。
人々は親しみを込めて「愛染さん」と呼びます。
年中行事の主なるものは、大阪の三大夏祭りのひとつとして有名な愛染祭で、六月三十日、七月一日、七月二日の三ヶ日に行い、本尊ご開帳もあって毎年多くの参詣者で賑わいを見せる。
参拝時間
夏季 8:30 〜 17:00 冬季 8:30 〜 16:30
年中無休 参拝料金、拝観料は無料。
大阪府大阪市天王寺区夕陽ヶ丘町5-36 TEL. 06-6779-5800 -
口縄坂を下って南に行くと大江神社の石段の横にあるのが愛染坂です。
かなり急勾配の坂で、登った上には愛染さんで有名なお勝鬘院(しょうまんいん)がある。 -
大阪市天王寺区夕陽丘の丘の上にある神社。
四天王寺の鎮守である四天王寺七宮のひとつ。
祭神は豊受大神、素盞嗚尊、欽明天皇、大己貴命、少彦名命。
四天王寺の鎮守として、聖徳太子が祀られたのを起源とする。
四天王寺の乾(西北)に位置しているところから、江戸時代には「乾社」と呼ばれていた。また、毘沙門天を祀っていたので、「毘沙門堂」とも呼ばれていた。
大江神社境内の多宝塔は、豊臣秀吉が文禄三年(1594)に寄進した市内最古の建造物で、重要文化財指定されています。 -
「大江」の社号は1867年(慶応三年)に、この地は西側が傾斜地になっており、その昔大江の岸と称していたので、時の祀官が改称した。
毘沙門天も、明治維新後の神仏分離で大津坂本に移ったという。
当社は天王寺北村の産土神であり、祭社主神に豊受大神を祀り、稲荷神と同一神で五穀豊穣、食料保持の神である。
また、この地は蛤御門の変で戦死した長州藩士48士を合祀した「招魂社」があったところで、「山口藩殉難諸士招魂碑」がある。
本殿と境内にある「夕陽丘」の碑。
昔は神社がある丘の下は海だった、海に沈む夕陽が美しかったらしい。
大江神社には「夕陽岡」の碑があり、この辺りからの夕焼けは今も美しいものです。 -
天王寺区下寺町二丁目4番街区からあがりはじめ、大江神社石段下る勝鬘院でいったん曲がって急坂をのぼります。
-
神社には狛虎というものがある。狛虎の由来は不詳であるが、300年以上前の作と考えられている。その昔、狛虎の奥に毘沙門天を祀る堂があり、虎は毘沙門天を護るとされている。狛虎は元々は阿吽で1対をなしていたが、吽形の方が明治初期に某寺に持ち出されてしまったと言われている。現在の吽形は2003年に再建されたものである。
狛虎には阪神タイガースのファンより、メガホン、虎の小さい置物やぬいぐるみなどが供えられていることがある。
また、狛虎付近には阪神タイガースの優勝を祈願する張り紙や木札がある。
普通の狛犬もある。
大阪市天王寺区夕陽丘町5-40 -
大阪市の中心部を南北に走る上町台地。
天王寺区内には、その上町台地の西縁に沿って「天王寺七坂」と呼ばれる坂があります。
清水坂は、天王寺区伶人町の有栖山清水寺の北側に位置しています。
大阪星光学院と清水寺(清光院)との間の坂道で、愛染坂と交わるまでの広いゆったりとした石畳の坂道です -
清水寺の北側にあるためこの名で呼ばれています。
高台にある新清水寺境内からの眺望は格別で、 さらに境内南側の崖から流れ出る滝は、京都清水寺の「音羽の滝」を模した「玉出の滝」で大阪唯一の滝として知られています。 -
また、この付近一帯は昔から名泉所として知られ、増井・逢坂・玉手・安井(安居)・有栖(土佐)・金龍・亀井の清水は七名水と呼ばれています。
元禄元年(1694年)9月26日、松尾芭蕉は、「松風の軒をめぐりて秋くれぬ」の句を残しています。その句碑が、星光学院内「芭蕉園」にあります。 -
天王寺区伶人町と逢阪一丁目との境界をなす坂。
菅原道真をまつっています安居神社へ通じる坂道なのでこのように呼ばれています。 -
町台地には名水の井戸が多く、ところどころに清水が湧いています。
ここより南に隣接する「増井の清水」は、天王子七名水のひとつ。 -
境内西側を少しさがると、天王寺七名水の一つ安居の清水があり、江戸時代には水汲み場があり、武家や町人が利用したという「かんしづめの井」(癇静め)と呼ばれ、よく知られています。
-
創建の年代は詳らかでないが、聖徳太子が四天王寺を建てた頃(約1400年前)であろうと伝わる。
祭神は少彦名神と菅原道真を祀る。
境内は天神森あるいは安井森とも称され、景勝地であった。
901年(昌泰4年)菅原道真が筑紫に左遷され、その途中、河内道明寺の叔母を訪ねる道すがら、篤信家の道真は四天王寺に参拝した後、この安居神社で休息したと伝わる。 -
当時の村民が道真をなぐさめるため、もち米を蒸して乾かした「おこし米」を差し上げたのが、後の大阪名物『おこし』の始まりという伝承も残されている。
大阪の「粟おこし」の共同商標に菅公の梅鉢紋が使われているのはこの故事によるものだそうである。
江戸・寛政8年(1796年)発刊の『摂津名所図会』に載っている道真が「ここに、暫時やすらひ給ふ故」から安居の名が起こった説や、かって四天王寺の僧侶が結夏90日の間、安居した「安居院(あんごいん)」からきているといった説がある。
また、境内は真田幸村が大坂夏の陣で戦死した地と伝えられ、石碑が建てられている。
神社にある「真田幸村戦死の碑」。
この碑は1919年(大正8年)井上福松という人が建てた。
1615年(元和元年)大坂夏の陣で、幸村はこの神社の近くにある天王寺茶臼山に陣をしき、徳川家康と対峙し、敵の本陣を追い崩したが、家康の首を取るに至らず、ついにこの地で戦死したと伝わる。 -
境内の一角には、古くより「かんしずめの井」と呼ばれる清水が湧き出る井戸があったが、周辺の開発の余波で、現在は枯渇状態になっている。
『安居神社由緒書略記』 安居神社パンフレット
『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社 等参考
所在地:大阪市天王寺区逢坂1丁目
最寄駅:地下鉄堺筋線「恵美須町」下車、国道25号線東へ約500M、一心寺向かい
-
安居神社前は国道です、通天閣が見えます。
-
いつでも申し込める「せがき法要の寺」 納骨で造立される「お骨佛の寺」骨佛開眼大法要、定例納骨供養大法要 宗派を問わぬ「庶民の寺」 の 坂松山高岳院一心寺 (ばんしょうざん・こうがくいん・いっしんじ)。
毎日朝9時から午後4時まで納骨やお施餓鬼の受付が行われています。
宗派 浄土宗(南無阿弥陀仏と唱えます)
開基 文治元年(1185年)法然上人
法然上人二十五霊場第七番札所
この山門は平成9年4月、第12期お骨佛開眼大法要にあわせて、建立。仁王尊は、彫刻家・神戸峰男氏による5メートル余の青銅像であります。左側・口を開いている阿形像(あぎょうぞう)は心の邪念を戒め、右側・口を閉じた吽形像(うんぎょうぞう)は世の紊を睨んでおります。
一心寺は、文治元年(1185年)、法然上人と後白河法皇がこの地でご一緒に「日想観」を修せられた故事をもって開基と伝えられています。
元和元年(1615年)大坂冬・夏の陣では徳川家康公が茶臼山一帯、なかでも一心寺を本陣とされました。
つまり、法然上人ゆかりの寺・家康公ゆかりの寺として名刹とされてきましたが、江戸末期になって、年中無休・申し込み次第「おせがき」のできる寺として、宗派を問わず庶民に親しまれるようになりました。 -
大本堂
一心寺は昭和20年3月の戦災で全焼しました。
本堂は、その後、昭和41年に再建。入母屋鎌倉時代様・十間四面、総檜造り。
堂内では年中朝から納骨・おせがきのための読経の声が絶えません。 -
平成4年に建てられた受付・念佛堂。
堂上には180体の佛が奉安された角形相輪が輝き、内部は天上から降り注ぐ阿弥陀佛の救済の「光明遍照」がイメージされた意匠となっています。 -
年じゅう納骨されることが多くなり、明治20年(1887年)に約5万体の納骨でもって「お骨佛」が造立されて以来、10年目ごとにその間に納められたお骨でもって「お骨佛」が造立され、現在までに13体が造立され、納骨堂には戦後の7体が安置されております。
「せがき」法要に来られる方、納骨に来られる方、納骨堂に参詣される方など多勢の方によって一心寺は年じゅう参詣者のたえない賑わいのある寺となっております。
宝珠塔形総欅造りの納骨堂は、昭和32年に再建されたもの。以来、香煙の絶えることがなく、とくにお盆やお彼岸には大勢のご参拝者が訪れ、境内が埋め尽くされます。お骨佛の最初の造立は明治20年です。戦前に6体造られましたが、戦災で惜しくも焼失したため、現存するのは戦後に造られた5体に平成9年の新練造佛を加え、6体となっています。右の写真の第十二期お骨佛は、昭和62年から平成8年末までの納骨約20万体で練造されたもので、戦後6体目、そして20世紀最後のお骨佛ということになります。
所在地 :大阪市天王寺区逢阪2丁目8-69
電話 : 06-6771-0444 (午前9時〜午後4時)
JR 天王寺駅より 徒歩 13分
地下鉄谷町線・地下鉄御堂筋線 天王寺駅より 徒歩 13分
地下鉄谷町線 四天王寺前夕陽ケ丘駅より 徒歩 12分
地下鉄堺筋線・阪堺線 恵美須町駅より 徒歩 8分 -
一心寺さんの白壁沿いに天王寺美術館へ歩いていきます。
-
動物園の裏手が見えてきました、左折して横の道を入って天王寺美術館へ。
-
大阪市天王寺区にある美術館。
天王寺美術館の愛称で呼ばれる。
館の所在地は住友家本邸のあった場所で、住友家から美術館の建設を目的に日本庭園「慶沢園」とともに敷地を寄贈され、1936年に開館。
建物は伊藤正文と海上静一によって設計された。
北館の展示室では、東洋古美術を中心とした常設展示や特別展の会場とし、国宝・重要文化財の陳列。
永年にわたって収集された独自のコレクションを紹介している。
南館は、常時、各種美術団体の展覧会が開催される。
二科展・日展など、また、特別展は、見逃せないものが多い。
開館時間:9:30〜17:00(入館は、16:30)
休館日:月曜日(祝祭日は翌日振替休)及び年末年始
入場料:常設展一般300円、高大生200円、中学生以下は無料
大阪市天王寺区茶臼山町1-82
JR 大阪環状線 天王寺駅 徒歩5分
大阪市営地下鉄御堂筋線 天王寺駅 徒歩5分
大阪市営地下鉄谷町線 天王寺駅 徒歩5分
近鉄南大阪線 大阪阿部野橋駅 徒歩5分 -
通天閣目指して、美術館前を真っ直ぐ動物園の上を歩きます。
-
階段を降りた所に天王寺動物園正面入口が見えてきました。
-
動物園正面ゲート前は、新世界です。
これにて、散策は終えます。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
45