2008/02/26 - 2008/02/28
453位(同エリア530件中)
koiさん
イタリア周遊8日間 7泊8日〜 197000円
♪♪ポンペイは、1世紀までナポリ近郊にあった都市国家で、ヴェスヴィオ火山の大噴火により79年に壊滅した。18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されている。その遺跡は世界遺産になっている。末期はローマの属国となり、ローマ人の余暇地として栄えた。最盛期の人口は約2万人。噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに使者を出すが、市は壊滅したあとだった。市民の大多数はローマなどに逃げたが、助からなかった市民も多くいた。ポンペイは、港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、商業都市として栄えていた。紀元62年2月5日、激しい地震がポンペイを襲った。これにより、ポンペイや他の都市は大きな被害を受けた。町はすぐに再建されたが、その再建作業も完全に終わらない前の紀元79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が再び大噴火し一昼夜に渡って火山灰が降り続け、翌25日に完全に地中に埋まった。当時の、唯一の信頼できる記録は、ヴェスヴィオ火山の山頂や火口付近から、松の木のような形の暗い雲を見た。雲は山の斜面を急速に下り海にまで雪崩れ込んだ。そして雲は火口から海までを覆った。この現象は、現在では火砕流として知られる。プリニウスは、爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れたと述べた。さらに、灰がどんどん積もり、彼がいた村から逃げなければならなかった。そして、海の水がみるみる引いていき「津波」がおきた。
その後、ヘルクラネウムは1738年に、ポンペイは1748年に再発見された。これらの町は建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにされるために、この後断続的に発掘された。フォンタナという建築家が、サルノ川沿いを掘っていた1599年に遺跡を見つけてから150年が経過していた。この時点までヘルクラネウムとポンペイは完璧に消滅したと考えられていた。いくつかの男女の交わりを描く美術品(フレスコ画)は、最初フォンタナによって発掘されたが、将来、考古学者によって再発見されたほうが重要性がわかるであろうと判断したフォンタナ自身が埋め戻したとされる。
■人気の8都市を巡る充実コース♪♪
■南イタリアの絶景の世界遺産ぽんぺいに案内!
♪ホテルはワンランク上の快適な滞在!♪
■パスタやピザはもちろん各地の郷土料理を含んだ名物料理。
■朝食はボリュームたっぷりアメリカン又はビュッフェスタイル!
1日目 大阪発 ルフトハンザドイツ航空でミラノ着
途中フランクフルト乗り継いでミラノへ。
夜:着後、コモのホテル。
2日目 コモ発 ミラノ着
ミラノ観光 ◆ドゥオーモ(約15分)、◆ビットリオ・エマヌエーレ2世アーケード、◆スカラ座、フォルツェスコ城。
ショッピング店へ。 昼食:ミラノ風カツレツ。
ミラノ発 ベローナへ
世界遺産ベローナ観光(約1時間) ◆ジュリエットの家、◆シニョーリ広場、アレナ。
夕刻:水の都ベネチアへ。 ホテルへ 夕食:魚料理 ベネチア泊
3日目 ベネチア
世界遺産ベネチア観光 ベネチアの中心に位置する◆サンマルコ広場、◆サンマルコ寺院(約15分)、歴代のドージェ(ベネチア総督)の居城であった◆ドゥカーレ宮殿、ためいき橋。
ロマンチックなゴンドラ遊覧(約30分)、ベネチアンガラス作りの実演(約1時間)。
昼:イカスミスパゲティ 夕食はトスカーナの前菜 その後フィレンツェへ フィレンツェ泊。
4日目 フィレンツェ発 ピサ
世界遺産フィレンツェ歴史地区観光◇ウフィッツィ美術館(約1時間)、◆ドゥオーモ、シニョーリア広場。
その後ショッピング「革製品」(約1時間)へ
午前:ピサ観光(世界遺産の◆ピサの斜塔を見学。) フィレンツェ泊。
5日目 フィレンツェ発 ローマへ
途中、トスカーナ地方の美しい古都 世界遺産シエナ歴史地区観光(約1時間)。カンポ広場、ドゥオーモ、プブリコ宮。
昼食はサルティン・ポッカ。
午後ローマ観光(◆コロッセオ、◆トレビの泉、◆スペイン階段とスペイン広場)
ゆうしょくは、ピザ食べ放題。 ローマ泊
6日目 ローマ発 ナポリへ
車窓にて世界遺産ナポリ歴史地区巡りポナペイへ。
世界遺産◇ポンペイ遺跡見学(約2時間)。 本場のカメオ工房の見学。
夕食はレストランにてカルボナーラ。 ローマ泊
7日目
朝/ローマより空路、フランクフルトで乗り継いで帰国の途へ。
8日目 大阪着 関西国際空港到着。
【警告】
油の高騰により燃油特別深運賃が高騰しているが、20008年7月から更に急高騰し、総旅費の半分以上になる場合が発生している。ゆえに当分海外良好は見送った方がよい。
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◇ポンペイ遺跡 世界遺産
後方にベスビオ火山
ポンペイは、紀元前800年頃(日本の縄文時代)町が作られ、イタリア北部と南の海を結ぶ中継地点となっていて貿易で栄えていました。紀元前525年にはギリシアに支配され、紀元前310年に今度はローマに支配された。しかし地中海と結ぶ貿易港として農業(ワイン・オリーブ油)、漁業、商業が盛んでした。紀元前62年大地震が起き多くの家々はつぶれたが、復興も早く以前にまして栄えるようになりました。紀元79年8月24日(日本の弥生時代)正午過ぎ近くのベスビオ火山が突如火を噴き、天高く燃え上がり火柱や巨大な火山灰の雲が太陽を覆い隠し暗闇となったそうです。当時ポンペイの町は東西1km、南北800mで城壁に囲まれた小さな町でした。人口は1〜2万人程であったようです。熱い火山礫が最初降ってきて続いて火山灰が降りかかり、火砕流が町を襲い火山灰の下に埋まってしまいました。
この写真は、友人から頂いた物です。 -
◇ポンペイ遺跡入口のマリーナ門 世界遺産
写真は、マリーナ門で大きい方が馬用。ポンペイ遺跡は、紀元79年に火山灰に埋まった後も長い間そのままになっていました。16世紀建築家ドメニコ・フォンターナが水路を作るために掘っていると壁画のある建物が現れ、これがポンペイの遺跡だとはわからずにいた。しかし、宝物が見つかったりしたので、所々盗掘されるようになったそうです。1748年スペイン王となるカルロ王は、宝物を見つけるために最初スペイン軍人に発掘をさせましたが、その後1760年から建築家フランチェスコが体系的に発掘を開始しポンペイ遺跡の発掘が本格的になりました。1700年もの間土に埋まっていたわけです。 -
◇ポンペイ遺跡 世界遺産
石で舗装された道路
この土地は火山噴火まではぶどうの産地であった。港湾都市でもあり、商業も盛んであったことは、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることからも裏付けられる(現在はポンペイ周辺で水位が極度に下がっているが、当時は港もあり海洋都市でもあった)。碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。 -
◇ポンペイ遺跡 世界遺産
ポンペイは、1世紀までナポリ近郊にあった都市国家でヴェスヴィオ火山の大噴火により79年に壊滅した。18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されている。その遺跡は世界遺産になっている。残念ながら曇っていたので後方に見えるはずのヴェスヴィオ火山が見られず撮る事が出来ませんでした。 -
◇ポンペイ遺跡 世界遺産
光り取り入れた家
ポンペイは、最も純粋に古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ、計画的に設計された町であった。通りの両側には家と店がある。建造物は石ででき手今したが部屋の壁には見事な絵がかかれていました。また奥には中庭がありこれも光を取り入れる工夫がされていたと言うことです。
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◇ポンペイ遺跡 世界遺産
金持ちの家
当時のままの裕福な家では、水道や下水道の設備をはじめ、壁に描かれていた保存状態のよいフレスコ画が当時の文化をそのまま伝えている。金持ちの家の入り口を入るとアトリウムという光の取り入れと同時に雨水がためる池があった。台所には青銅のなべなどがあり水道と下水道が完備されていたという。道路には荷車のわだちが残り、道路脇には公共水道が設置され一般の人はその水道の水をかめに汲んで家まで運んでいって使っていた。 -
◇ポンペイ遺跡 世界遺産
町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝えている。焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きは、当時のラテン語をそのまま伝える。ポンペイは確かに当時とても活気のある都市だった。 -
◇ポンペイ遺跡 世界遺産
保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝えている。ポンペイは確かに当時とても活気のある都市だったことがうかがえる。 -
ポンペイ犠牲者を石膏により型取りしたもの
紀元79年の爆発のとき、逃げ遅れた人々は火山灰の中に埋もれて死んだ。後に発掘されたとき、遺体部分だけが腐ってなくなり、火山灰の中に空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどうポンペイ市民が死んだときの形を再現した。顔までははっきり再現できなかったが、これらのうちのいくつかは、恐怖の表情がはっきり分かる。母親が子供を覆い隠し、火山灰から子供だけでも守ろうとした様子も、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子も、生々しく再現された。食品市場 そこには逃げ遅れて亡くなった住民の石膏で型どりをしたものも展示してありました。 -
ポンペイ犠牲者を石膏により型取りしたもの
ポンペイで有名なのは、男女の交わりを描いた絵で、これらは市民広場や浴場や多くの家や別荘で良い状態で保存され続けていた。ポンペイは、その後の修正がいっさい無しで、建造物や街区が当時のままの唯一の町として知られている。しかし、石膏で復元した遺体は、紀元79年の爆発のときに逃げ遅れた人々が火山灰の中に埋もれて死んだ悲惨な姿だった。 -
カマドを備えた居酒屋か
町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活をそのまま伝えている。街の角地には、カマドを備えた食堂のような建物があった。普通の家のカマドと明らかに大理石が残っていてカウンターにはいくつか酒壷を置くための穴があいている。街には120軒近くの居酒屋があったそうです。この写真は、たぶん当時の居酒屋だそうでワインの壺が出てきているようです。このほか焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きなどもあったようです。 -
パン屋さんの石臼
大きな小麦を挽く石臼がありました。上の部分がぐるぐると回せるように棒が出ているのでパン屋さんの石臼ではないかと見られている。奴隷にでも挽かせたのでしょうか重たそうでした。 -
サウナ風呂場??
市の中心には、広場もあり計画的に設計された都市であることも判明している。この器は、浅いのでハノムのように湯をすくって体を温めてから洗う方法のサウナ風呂のような気がしました。 -
◇ポンペイ遺跡 世界遺産
公共浴場か
ポンペイの人たちは午前中働き、午後は公共浴場に集まってきては情報交換し、風呂に入るのを楽しんだようです。密閉された部屋のようなので公共浴場ではないかと想われますが。 -
◇ポンペイ遺跡 世界遺産
円形劇場
爆発時、町の人口は1万人弱で、ローマ人(ローマ市の住民)の別荘も多くあり、また、彼ら向けのサービスも多くあった。大きな食物市場、製粉所、冷たいものや熱いものなどさまざまな飲料を提供したバー、小さなレストラン、円形劇場などもあった。写真は、紀元前2世紀に造られた。5000人収容の円形劇場と近くに1000人収容の小劇場があった。 -
◇ポンペイ遺跡 世界遺産
ポンペイの土地は、火山噴火で埋まるまではぶどうの産地であった。主な産業はワイン醸造だったらしい。ワインを運ぶための壺が多数出土されていることからも裏付けられている。また港湾都市でもあり、商業も盛んであった。大きな通りは、石により舗装され碁盤の目状に道路があり、近くの港へ通じていて海洋都市でもあった。 -
◇ポンペイ遺跡 世界遺産
娼婦の館
町の守護者は美と恋愛の神ウェヌスであった。娼婦の館などが発掘され、ここで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したことから、現代ではポンペイは快楽の都市とも呼ばれている。当時は性的におおらかな時代であり、ポンペイのような商業都市には商人向けの娼婦館のような風呂場などの施設もあったようである。
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