2007/08/19 - 2007/08/19
175位(同エリア408件中)
吉備津彦さん
31年ぶりの現存天守としては標高の一番高い所にある備中高梁城へ登城しました。前回は高校生の時で列車に揺られて高梁駅から徒歩で友達と2人で登城しました。登城途中には大石内蔵助腰掛け石などもありました。
今回は途中の駐車場まで車で行きそこから徒歩とずいぶん横着をしたのですがそれでも心臓が飛び出すのではないかと思うほどきつい登り坂でした。登城途中からあいにくの雨に、小降りになるまで城の歴史を編集したビデオを見たりして時間を潰しましたが雨は土砂降りに・・・迂闊にも傘を車に置いたままだったのですが係りの方が傘を貸してくれたのでずぶ濡れにならずに済みました。
- 旅行の満足度
- 3.0
- 観光
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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備中松山城登城の前に山中鹿介の墓に行きました。
天正5年(1577年)、信長の命により羽柴秀吉の中国遠征が始まると、その先鋒として播磨国に送り込まれ、上月城に拠って尼子氏の再興を目指した。しかし、翌天正6年(1578年)に毛利軍に攻められた際、織田軍が北の上杉謙信や石山本願寺の攻勢に備えるため播磨から軍を引いたため、上月城は孤立し、「打倒尼子」の意気に燃える毛利軍の包囲攻撃を喰らい、尼子主従は城を支えきれず降伏した。
この時、主君の尼子勝久は自害したが、鹿介は自害せず、毛利氏に降った。しかし毛利輝元の下へ護送される途上の備中国合の渡(岡山県高梁市)の阿井の渡しにて謀殺された。通説によれば、鹿介は尚も生き延びて、尼子氏を必ずや再興するという執念を胸中に抱いていたため、これを生かしておくと危険と見た吉川元春が先手を打ち、鹿介は殺害されたと言われている。鹿介の死を以って尼子氏再興活動は完全に絶たれることとなった。
殺害現場である現在の高梁市の高梁川と成羽川との合流点付近の国道313号沿いに墓所はあるが、胴体は観泉寺前住珊牛和尚によって埋葬された胴塚が現在も観泉寺墓地に残っている。首級は備後国鞆の浦に在していた時の室町幕府15代将軍足利義昭や毛利輝元により実検が行われ、その後地元の人たちが手厚く葬った首塚が現在も残る(鞆の浦・静観寺山門前)。 -
崩落のおそれのある石垣です。
画面右側の自然石を利用したところが危なくて監視カメラで見張っています。
大手門跡の後方にそそり立つ巨岩と、その上に載る厩曲輪石垣は圧巻である。しかしながら、巨岩の割れ目に貫入した樹木の成長により、割れ目が次第に大きくなっている。更に巨岩の上に載る石垣の重みで岩のズレを生じている。これらの影響で上部の石垣が変形しつつあり、将来崩落する危険を孕んでいる。
このため、平成11年(1999年)より高梁市教育委員会は京都大学防災研究所と共同で、岩盤斜面にペルー・マチュ・ピチュ遺跡などで地滑りの観測をしているのと同様の不安定岩盤斜面監視システムを設置し、調査・観測している。 -
石垣
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大手門から望む天守閣
31年前は猿の群れが突然やって来て驚かされました。
かつては登山口入り口に観光の為に餌付けした猿山がありましたが現在は廃止されています。
臥牛山には野生の猿が生息しており建造物に登り壁や瓦を破損させるなどの被害が出ていた。このため平成の復元整備の際に、主要建造物の周囲に高圧電線の柵を張り巡らせ侵入を防止する対策を施している。また、登城道路脇にはフェンスが張られ、猿と同時に猪が麓に降りて農作物を荒らす被害を防止している。 -
城の変遷
仁治元年(1240年)秋葉重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築く。
元弘年間(1331年頃)高橋宗康が小松山まで城を拡張する。
城主は時代と共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷する。
戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となる(現在も石垣の一部が現存)。
天正3年(1575年)備中兵乱。三村元親は毛利氏に離反。織田信長に寝返る。小早川隆景により落城し元親は自害。
備中兵乱後、毛利氏の領有となる。
慶長4年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、徳川幕府が城番(小堀正次 - 政一 )を置く。この頃、麓に御根小屋が築かれる。
元和3年(1617年)池田長幸が入城。6万3千石で立藩。
寛永18年(1641年)2代・長常に嗣子なく廃絶。備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となる。
寛永19年(1642年)水谷勝隆が5万石で入封。
天和元年(1681年) - 天和3年(1683年)2代・勝宗により天守閣建造など3年にわたり大修築が行われ現在の姿となる。
元禄6年(1693年)3代・勝美に嗣子なく廃絶。赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり家老・大石良雄が城番となる。
元禄8年(1695年)安藤重博が6万5千石で入封。
正徳元年(1711年)安藤氏転封後、石川総慶が6万石で入封。
延享元年(1744年)石川氏転封後、板倉勝澄が5万石で入封し明治時代まで8代続く。
慶応4年1月18日(1868年2月11日)戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者山田方谷の決断で無血開城した。
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イチオシ
日本一高ところにある現存天守閣
標高430mの臥牛山頂上に建つ天守は、国の重要文化財で、現存天守を持つ山城としては最も高い所にあります。鎌倉時代、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、1683(天和三)年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。
この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は激しい争奪戦が絶えず、目まぐるしく城主交代が繰り返されています。
登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、昔日のつわものたちが舌を巻いた”難攻不落の名城”の面影をうかがい知ることができます。白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える美しい天守。秋には大手門付近の木々が紅葉し、岩壁が燃えるような朱色に覆われる景色は圧巻です。備中松山城 名所・史跡
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西面入口半地下の付櫓(廊下)
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1階 城の内部です。
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天守閣から大手門を望む
31年前は大手門はありませんでした。 -
天守から観た二重櫓(重要文化財)
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イチオシ
天守から観た二重櫓(重要文化財)
内部は非公開 -
二重路から見た天守(重要文化財)
備中松山城 名所・史跡
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