2007/12/15 - 2007/12/15
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ライオンベラーさん
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私は京都や神戸にはそこそこの期間、住んでいたことがありますが、大阪はごく短期間しか住んだことがありません。
そのため、大阪についてはもっともっといろいろなことを知りたいと思っていました。
そこで今回、もう一度大阪を巡って、大阪の全て・・・とはいかないまでも、この街の魅力を探ってみたいと思いました。
偶然に府内の博物館の割引券と案内をとじた「ミュージアムぐるっとパス」を購入していたので、これを使って片っ端から回って行くことにしました。
さてさてどんな旅になるのでしょうか。
さっそく旅の幕を開けることにしましょう。
するするする〜〜〜〜〜〜
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
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-
前日に、このパスに載っているミュージアムを8ヶ所選び、訪れる順に番号を書き込んでいきました。
太古の昔から、現在に至るまで、その変化がよくわかるように、時代順に巡ることにしました。
順番は次の通りです。
?大阪府立弥生文化博物館
?大阪府立近つ飛鳥博物館
?堺市博物館
?大阪歴史博物館
?大阪くらしの今昔館
?大阪企業家ミュージアム
?サントリーミュージアム
?大阪市立科学館
一日でどのくらい回れるでしょうか。
明日が楽しみです。
朝、起き出すのが少し遅れてしまいました。
それでも途中で操作するよりは早いだろうと思って、出発前にカーナビに全ての順路を登録することにしました。 -
最後に行くところを目的地に設定して、順に立ち寄り地を登録していきます。
あれ? よいしょ! ん? あれあれ?
あと2つのところで、登録できる立ち寄り地の数が限度を超えてしまいました。
最初に訪れる2つのミュージアムが設定できません。
仕方がありません。立ち寄り地としてセットできないので、とりあえずは目的地としてセットしました。
よいしょ。エイッ!
あ・・・・・・・。
連動して登録していた全ての立ち寄り地が消えてしまいました。
しまった・・・・・。
立ち寄り地はそのまま残ると思っていたのですが・・・。
でも仕方がありません。大分、時間も経過していた -
のでとりあえず、最初の目的地に向かうことにしました。
時代順に訪れて行きます。
最初は弥生時代のミュージアム・・・・
のはずでした。しかし・・・・・。
途中で、何と2番目のミュージアムに向かっていることがわかりました。
そこを目的地としてセットしたまま、出発していました。
ガーーーン!
時代が入れ替わってしまう!!!
最初は飛鳥時代で、その次が弥生時代になってしまいました。
頭の中で訪れる順序と時代の順序をひっくり返しながら、イメージしていかなければなりません。
うーーーん、出だしから大きな困難を抱え込んでしまいました。 -
まずは「近つ飛鳥博物館」です。
だいぶ山の中に入っていきます。
ああ、大阪にもこんなところがあるんだと、変に感動してしまいました。
奈良県に近づいてきているようです。 -
何と駐車場は無料でした。
これほど嬉しいことはありません。
もし有料で500円ぐらいだとすれば、8施設で4000円もかかってしまいます。
無料というのは実に嬉しいことです。 -
この「近つ飛鳥博物館」の”近つ”は、”ちかつ”と読みます。
大阪(難波)から見て近い方の飛鳥(あすか)という意味だそうです。
それに対して奈良県の明日香村の飛鳥は”遠つ(とおつ)飛鳥”というそうです。
難波から見て、遠い方の飛鳥という意味です。 -
この建物の上部はすべてこのような階段になっています。
上手く撮れませんでしたが、ものすごく広い階段です。
もし1段に100人ずつ座るとすれば、100段あるとすれば1万人が一度に座れます。 -
入り口は右側に回ったところにありました。
中はこんな感じでした。
300円の入場料はまあ妥当(だとう)でしょう。
でも、考古学に関心のある人にとっては500円以上の価値があるかも知れませんが・・・。 -
写真のような、埴輪(はにわ)が並んでいました。
このような埴輪は、死者のために造られ、古墳(こふん)の周りに埋められていました。
昔、埴輪をモチーフ(テーマ)にした”大魔神(だいまじん)”という映画があったのを思い出しました。 -
写真はガラスの上に描いてあった足型です。
下の地面から1mぐらいの高さがありました。
もし、この上に立ったとたんにガラスが割れて、下に落ちてしまったとしたら怪我(けが)をしてしまいます。
しかしそうなっては、展示として成り立ちません。
ということは、このガラスは少しぐらい体重が重い人が乗っても割れないように計算してあるはずです。
そのように推測して、そっと足型の上に乗ってみました ・・・・・・・・・ !?
推測したとおりガラスは割れませんでした。 -
古墳時代とは古墳が造られていた時代のことのようです。
年号でいえば、西暦200年の半ばから700年頃になります。
この頃の日本の人口は数百万人ぐらいだといわれています。 -
これは現在の人口の数十分の1ほどです。
日本最大の古墳は現在の堺市にある”仁徳陵(にんとくりょう)古墳”です。
現在はその古墳は街の中にありますが、当時は写真のように何もないところか森の中だったようです。 -
そこへ、これらの写真のようにして、土台を造ってそこへ、棺(ひつぎ)を納(おさ)めて、その上に土を盛ったようです。
古墳時代を通して、嫌がる人々を刀(かたな)で脅(おど)しながら、無理やり働かせていたというようなことは、とても考えられません。 -
そこで、この作業も、村人が祭りに参加するような感覚で、行っていたように思えます。
そして、このくらいの人数なら、ほとんどの人同士がお互いに顔見知りで、いろいろ世間話でもしながら、世話役の人の指示に従っていたのではないでしょうか。(間違っているかも知れませんが・・・) -
しかしこの博物館は、全体を通して、私たち素人(しろうと)にはどうも、少しわかりにくいという印象でした。
ある程度、歴史に詳しい人にとっては、満足のいくところなのでしょうか?
そもそも大和時代とか飛鳥時代とか古墳時代とかの関係そのものがよくわかりません。
大和時代は昔のいい方で、古墳時代の次が飛鳥時代なのでしょうか?
まあ、いずれにせよ、それらは後の時代の都合による呼び名にすぎないので、まずは、いつごろ(何年ごろ)どんな様子であったかということさえわかればいいだろうと思いました。 -
写真のような塔がありました。
この塔だけではあまりにもったいないようなスペースです。
このスペースはやはり、大魔神のようなインパクトの強いものを置くか、ここを中心とした地域の立体模型などを置くかしてほしいと思いました。 -
博物館を出るともう正午を回っていたので、さっそく次の博物館に向かおうと思いました。
しかし、出口の正面に遊歩道のようなものがあったので、どんなところか、少し歩いてみたくなりました。
次にいくか、ここを歩くか迷いましたが、せっかくここまで来ているので、後で心残りに思ってもいけないの -
で、とり急いで、歩いてみることにしました。
どうやら古墳群のようです。
案内板の説明文を読むと、当時、大陸から渡来してきた人たちのお墓のようです。
歩いてみると、落ち葉がたくさん降り積もって、ふか -
ふかのじゅうたんのような道になっていました。
残念ながら、今年の紅葉は、それほど鮮(あざ)やかではありませんでしたが、それでもまるで絵の中の景色の中を歩いているような気分でした。
古墳がありました。
また、ひとつありました。
おお、すごいすごい、あちこちにあります。
何とこの山全体が古墳だらけです。
古墳、古墳、古墳、古墳、あちらも古墳! こちらも古墳! 古墳! 古墳! 古墳!
古墳に興奮します!・・・・??? -
まるで、サスペンス映画の中にいるようです。
あああ、古墳の1つから本物の死体が・・・・というような感じの世界です。
ひぇぇぇぇ、怖い〜〜〜! ドキドキドキ・・・!
すごくスリリングな感覚を味わえます。
今は、落ち葉がびっしりと積もっているので、よけいに幻想的な気持ちになるのかも知れません。
是非また違う季節にも訪れてみたいと思いました。
この古墳群が造られたのは、500年代から600年代のころのようです。 -
聖徳太子は574年に誕生して、622年に没したので、この時代は、ちょうど聖徳太子が活躍していた時代になります。
古墳といえば上から見ると円(○)と四角(□)をくっつけた形をした、巨大な”前方後円墳”を思い浮かべます。
しかし、それはもっと前の時代のもので、この聖徳太子の時代では、小さな円(○)か、四角(□)のどちらかの形の古墳に変わっていたようです。
聖徳太子が住んでいたのは、奈良の法隆寺の辺りですが、大阪(難波)の方にもよく行っていたようです。
この辺りは、その頃の奈良地方(飛鳥や斑鳩(いかるが))と大阪(難波)を結ぶ交通路であったようです。 -
といってもこの写真の道がそうではありません。
実際の道はここよりもう少し北の方を通っていたようです。(ここからも見えます。)
ここは墓地であって、この山(丘)に写真のような墓がたくさんあります。
もし発掘しなかったら、ここは概観は普通の山(丘)と変わりないでしょう。
ここで足を滑(すべ)らせれば、この枯葉(かれは)の上をそりのようにどこまでも滑り落ちて行ってしまいそうです。
しかし実際にはそれほど危険なことはなくて、滑ってもすぐに止まると思われます。
(そんなことはどうでもいいことかも知れませんが) -
さて、これらは渡来人の一族の墓だということですが、当時は本当に多くの渡来人たちが、この辺りに住んでいたようです。
そして、様々な大陸の文化や技術を伝えていました。
そのようなことを通して、昔の日本が発展して、現在につながってきたといえるようです。
当時、日本に渡ってきた人たちは、どのような気持ちでやって来たのでしょうか?
中国南部の方から見れば、太平洋には台湾やら沖縄やらの島があって、その北方に九州があります。 -
日本はそこから奥に広がる国だという感覚になるでしょう。
中国の北部から見れば、朝鮮半島の向こうに広がる大きな島国だという感覚になるでしょう。
朝鮮半島から見れば、太平洋一帯に広がる、まるで大陸のように大きな島だという風に見えるでしょう。
そして実際に、日本列島全体は、中国の海岸線をほとんど覆(おお)い尽(つ)くすほどの大きさです。
そのため、統一王朝ができてからは、それ相応の大国として見られていた可能性もあるでしょう。
日本に渡ってきた人の大半は、先に親戚か知人が -
渡っていて、その住み心地を伝え聞いたために渡来してきたものと考えられます。
そのような人たちの多くはそれなりの夢をもって渡って来たに違いありません。
しかしまた、戦争などによる難民として、逃げるようにして渡って来た人たちもいるかも知れません。
いずれにせよ、大陸や半島で住み続けるのと比べてメリット(利点)があるからやって来た人たちがほとんどでしょう。
当時の日本の有力者たちも、土地を提供するなどして、友好的に迎え入れ、技術などの提供を受けていたようです。 -
言葉や習慣こそ違いますが、それらを積極的に受け入れながら、理想的な国際関係が築かれていたものと思われます。
日本列島が地形的に大陸から分離した後に、日本で生まれた人と、それ以降に、渡来して来た人たちとの比率はどのくらいになるのでしょうか? -
人口も今は当時の数十倍になっています。
今となっては、私たち自身もこの当時に渡来して来た人たちの子孫かどうかを知る由もないでしょう。
私たちの祖先かもしれない人たちが、この当時に渡来してきて、現代に通じる様々な文化や技術を伝えていたということになるのでしょう。 -
この展望台から見えているのは北西の方角です。
このずっと先に淡路島や六甲山地があります。
もし晴天ならもっといい眺めで、この先の大阪湾も見えるかも知れません。
渡来人たちは、あの瀬戸内海の彼方から、この大阪 -
湾に次から次にやって来ました。
ここを墓地に選んだのは、祖先たちに故郷からの船が行き来するのを見守っていてもらいたいという気持ちがあったのでしょう。
今、こうしてここに立って見ると、そのような望郷の気持ちを強く感じ取ることができます。 -
また、日本からも遣隋使(けんずいし)などの使節が、この大阪湾から瀬戸内海を通って、大陸へ渡って行きました。
このように、当時はこの大阪湾は古代日本と海外をつなぐ玄関口であったようです。 -
この写真と前の1枚が第1展望台からの写真でその前の4枚が第2展望台からのもので、この次の写真が帰路に同じ方角(北)を見たときのものです。
展望台の案内板によると、この写真の右の木の下に写っている小高い丘が、推古(すいこ)天皇の墓のようです。
次の写真では真ん中辺りです。 -
推古天皇といえば、聖徳太子が摂政(せっしょう)になったときの天皇だということを、確か小学校で習ったような記憶があります。
摂政とは天皇が幼いときに、代わって政治をする役職のことだったように思いますが、ということはその頃は、推古天皇は幼かったのでしょうか? -
よくわかりませんが、とにかく帰りに寄って見ることにしましょう。
奈良県の”遠つ飛鳥”が政治や生活の場であったのに対して、この”近つ飛鳥”はどうも死者を葬(ほうむ)る場所であったようです。
実際にここは”王陵(おうりょう)の谷”と呼ばれている -
ようです。
これはエジプトの”王家の谷”ととても似ています。
ずっと昔にエジプトのルクソールという街に行きましたが、そこはナイル川の東岸にあって、その対岸(西岸)に王族の墓地である”王家の谷”がありました。 -
その理由を考えてみると、特に昔は今のような人造物は少なかったので、人々は太陽の動きを今よりもずっと身近に感じていたはずです。
そして、陽が昇る方角を生命が誕生する方角に、そして陽が沈む方角(西)を死者が旅立つ方角と考えるのはごく自然なことでしょう。 -
ということで、当時の生活の中心であった飛鳥(遠つ飛鳥)の西側にある地ということで、ここに王族たちを葬ってきたと考えられます。
このような例は世界中どこにでもありそうです。
しかし、ここを巡れば巡るほど、聖徳太子の姿が大 -
きくなってきます。
どうも太子は相当な徳を備えた人だったようです。
一族といっしょに戦ったりもしましたが、本来は争いを好まない、世の中のため人々のためを思う聖人的な人であったようです。 -
それは後の人が、”聖”とか”徳”の文字を当てはめて称した(名付けた)ことからもわかります。
また仏教を保護したことから、その中の”慈愛(じあい)”の心や殺生(せっしょう)を嫌う心を尊重していたようなこともうかがい知れます。
そして、実際に大阪の四天王寺や斑鳩の法隆寺を建立(こんりゅう)したことからは、バイタリティー(活力)にあふれた人でもあったのでしょう。
さらに、聖徳太子はその死後も世の中に大きな影響を与えてきました。
中でも大きなことは、私たちの世代の人なら皆、それを実感できると思いますが、それは当時の1万円札や -
五千円札に、その肖像(しょうぞう)が用いられていたということです。
ということは、例えば拝金(はいきん)主義の人がお金を拝(おが)むとき、そこには常に太子の姿があります。
そうすれば、お金を使って残虐非道(ざんぎゃくひどう)な行ないをしようとするときにも、それを思いとどまらせるということもあったかも知れません。
このように見ていくと、実際の人物はもちろんですが、特に、後の世になって聖人化された聖徳太子の功績というものは多大なものであったといえるのではないでしょうか?
帰宅後に調べると、聖徳太子の両親は欽明天皇の -
異母兄妹で、そのお母さん(太子のお祖母さん)同士は実の姉妹で、豪族(ごうぞく)の蘇我(そが)氏の娘でした。
このように、太子は当時の日本の最高権力者たちの家系の中で生まれました。
お父さんの用明天皇が亡くなった後、母方の叔父 -
(おじ)が天皇(崇峻天皇)になったけど、蘇我氏に殺されてしまったので、今度は父(用明天皇)方の叔母(おば)が天皇になりました。
この方が推古天皇です。
そのとき、太子がその推古天皇の摂政になりました。 -
太子が20歳、推古天皇が39歳のときのことです。
太子が14歳のとき、当時の豪族の物部(もののべ)氏と蘇我氏が戦って、仏教の保護を主張する蘇我氏が勝利しました。
太子も蘇我氏の一員として戦いました。 -
そのとき、蘇我氏の本拠地は奈良県の飛鳥(明日香)で、物部氏の本拠地は大阪府の河内(かわち)地方だったので、ちょうどこの辺りの県境をはさんで対立していたことになります。
博物館に戻って来ました。
この写真の山(丘)が、巡ってきた古墳群です。 -
この写真のように博物館の上部は一面の階段です。
上に何があるのか、昇ってみたくなるように設計してあるのではないだろうかと、気がつきました。
それではと思って昇っていくと、エレベーターがあって、そこから入館できるようになっていました。 -
帰りは、スロープを通ってみました。
振り返ると、古墳群の山(丘)が見えます。
階段の広さも確認できます。
本当に、紅葉がきれいな年のよく晴れ渡った日であれば、さらに素晴らしい景色になるでしょう。 -
前の写真とこの写真はどちらも南東向きです。
この写真も晴れていればもっと、きれいになるでしょう。
このアングルではどうしても左下にコンクリート枠(わく)が入ってしまうので、残念でした。 -
帰りに、さっそく推古天皇陵(りょう)に寄ってみました。
おお、無料の駐車場もありました。(2〜3台用)
駐車場から写真のスロープを上がって行きます。
この左側が展望所から見た森(推古天皇陵)です。 -
2〜3mほどの階段を昇るとこのようなお墓が見えました。
といってもこの森全体がお墓なので、ここから中へは入れません。
推古天皇は聖徳太子が摂政になった天皇ということで、その名はよく知られていますが、その人自身は -
いったいどのような人だったのでしょうか?
調べてみると頭脳明晰(ずのうめいせき)な人であったようですが、その人物関係は複雑で頭が混乱してしまいます。
まず、彼女のお父さんは天皇(欽明天皇)で、3人の妻がいました。 -
そのうちの2人が大臣であった蘇我氏の娘で、その姉の方が彼女(推古天皇)の実母でした。
お父さん(欽明天皇)が亡くなった後、義兄が天皇(敏達天皇)となり、彼女(推古天皇)はその妻(后(きさき))になりました。13歳のときのことです。
(敏達天皇には彼女の他に正妻(皇后)もいました。) -
18歳のときには夫(敏達天皇)の正妻(せいさい)が亡くなったので、彼女が(皇后(こうごう))になりました。
31歳のとき夫(敏達天皇)が亡くなり、実の兄が天皇(用明天皇)になりましたが、2年ほどで亡くなりました。(この用明天皇の息子が聖徳太子です。)
その後は今度は義弟(母の妹の子)が天皇(崇峻天皇)になりましたが、5年ほどで有力者の蘇我の馬子(うまこ)に暗殺されてしまいました。
そして、その次に新しく天皇になったのがこの推古天皇でした。
初の女帝で、39歳から74歳で亡くなるまで、36年間在位していました。 -
このように大変複雑で、頭が大混乱してしまいます。
出発しようとしたとき、カーナビの地図に「竹内街道歴史資料館」というところが出ていました。
せっかくなので行ってみることにしました。
少し入り組んだところにありましたが、何とかたどり -
着くことができました。
小さな資料館で入館料も200円でした。
この竹内街道というのは、推古天皇が開いたという街道で、難波の港と飛鳥の都を結ぶ街道として -
開かれました。
中国大陸から届いた物資や使節は、この道を通って飛鳥へ向かっていたようです。
当時の日本の中心は飛鳥で、その港が難波だったので、当時としては中心的な街道であったはずです。 -
出たところに顔のぞきの人形があったので、写真に撮りました。
おお、何とカーナビの地図に、聖徳太子の墓(陵?)も出ていました。
こんな有名な人の墓があるのに、どうしてもっと案内がないんだろうと、不思議に思いましたが、もしか -
して、これはあまりにも有名すぎて案内する必要もないということではないかとも思いました。
時間も大分経っていましたので、急いで行ってみようと思いました。
無料で駐車できる公園のようなところがあったけど、もう少し近づいてみようと思いました。 -
”叡福寺”という寺の駐車場がありましたが、『参拝者以外は駐車禁止』とあったので、あきらめてそこを出ました。
後で調べると、どうも太子陵はこの叡福寺の中にあるようでした。
途中でようやく昼食として、うどんを食べました。 -
次の”弥生文化博物館”に向かいました。
本当はここを最初にしたかったのですが、仕方がありません。
時間があれば、さらにその前に、長居公園の自然史博物館をスタートに選びたかったのですが、以前一度行っているし、時間もないので省きました。 -
ずっと以前に大阪で配送の仕事をしていたとき、ここをよく通っていました。
京阪神全域が配送ルートでしたが、この道は週に2回ほど通っていました。
当時、我武者羅(がむしゃら)に頑張っていたお陰で、今こうして旅を楽しむだけの心のゆとりができて -
いるんだろうと思うと、感慨(かんがい)深いものを感じます。
到着しました。
入ってみると、さっそく腰を抜かしそうになりました。 -
写真のような人形の家族がいたからです。
気持ちを落ち着けて、動くのか、動かないのか、恐々(こわごわ)確かめてみました。
やはり、思ったとおり、動かない人形のようです。
でも最近は、コンピューターで制御(せいぎょ)して、 -
本物のように動く人形も普及(ふきゅう)しています。
そして、人形かと思ったら、学芸員の人がテーマパークをまねて、衣装を着て、パフォーマンス(実演)をしているようなこともあるかも知れません。
というようなことで、最近はこのような人形をみるときもスリル満点です。 -
写真は卑弥呼(ひみこ)の村を再現したものです。
卑弥呼とは昔、日本にいたという女王です。
弥生時代の博物館に展示してあるので、弥生時代の人であったということがわかります。
男の人が政治の中心にいるときは、どうしても力に -
頼る政治になってしまいますが、女の人が中心にいるときは、力のバランスをとりながら行っていく政治になるでしょう。
推古天皇のときもそうだったのではないでしょうか。
しかし、そのような場合も、まわり(側近)は男であることが多いように思います。 -
もし、女性ばかりが中心となって政治を行うとすれば、たちまち力で勝る男たちの反感をかって、すぐに取って代えられてしまうと思えます。
そのようなことを考えていくと、人々が平和を望むときは女性を中心にして、男性がそれを取り囲むような政治形態が1つの理想型ではないでしょうか。
卑弥呼の時代は、弥生時代の末期で、このあと飛鳥地方を中心とした古墳時代へと移っていきます。
この写真のような村が、その頃の日本の最高権力を握っていたということになるのでしょう。
弥生時代自体は、もっともっと昔から始まっていて、調べてみると、中国の秦(しん)の国ができた頃に始まったようです。
その前は縄文時代でした。
卑弥呼の時代は中国では三国志の時代です。
卑弥呼の国は三国の中の魏(ぎ)の国から金印をもらいました。
そのような古(いにしえ)の情緒(じょうちょ)を味わいながら、この博物館を出ました。
土曜日だというのに、駐車場(無料)には、私のを含めて、車は3台しか停まっていませんでした。 -
最後に堺市博物館に行きました。
時間は4時をまわっていました。
ここは世界最大規模の古墳があるし、豊臣秀吉の時代に大阪より栄えていたというような印象があったので、大阪歴史博物館へ行く前に訪れました。 -
残念ながら、館内は撮影禁止ということで、写真はありません。
テーマパーク的なものを期待するよりも、地道に資料を見に行くといった感じの博物館でした。
もし、リニューアルするとすれば、秀吉と利休の人形を置いたり、中央に大きな古墳の模型を置いたり、すれば楽しいように思います。
すぐ前に日本最大の仁徳陵古墳があります。
ランニングシューズを履(は)いて、1周してみることにしました。
冬至が近づいているので、辺りはもう真っ暗です。
競歩の感覚で、すたすたと歩き始めました。
広い広い、本当に広い。
行けども行けども、同じ向きに進んでいます。
ほいしょ、ほいしょ、ようやく反対側です。
ほいしょ、ほいしょ・・・
ところどころに距離を描いた表示があります。
ほいしょ、ほいしょ、えいほっ、えいほっ・・・
ようやくのことで1周しました。
1周2750mと表示してありました。
ようやく、博物館を巡る旅の1日目が終わりました。
結局、3つしか回れませんでしたが、また機会を見つけて、残りの5つを回っていくことにしましょう。
では、皆さんもそれまでお元気で!
ぶるるるる・・・(仁徳陵から車を発進させる音)
(完)
大阪めぐり 07秋冬 [写真版] セレクション http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10318552/
※ 次回の旅も大阪です。(http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10220744/)
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