2007/09/05 - 2007/09/30
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Hidechanさん
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2007年9月、約一月間かけてチベットのンガリ地方、カイラス山巡礼トレッキングを中心としてその後古代グゲ王国の遺跡訪問、その後ランクルで西へ走り新彊ウイグルのカシュガルまで3、335Km悪路を走り、30日自宅へ帰宅しました。その時の旅行記です。
表紙の写真は、カイラス山(6、656m)の朝焼け。
なを、カイラス巡礼の旅の写真をDigiBookで公表しています。全面画像でごらんになれますので、興味のある方は下記のURLでご覧ください。
http://www.digibook.net/q/2FPlVpQ8mGJ_HuGK/
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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今回の旅行ルートです。9月5日北海道の自宅を出て、成田に前泊、6日成田−北京−成都(四川省の省都)に入り、翌7日ラサへ飛行機で到着、ラサに2日間高度順応のため滞在。9日ランクル5台で西へ、10日シガッツエ着、翌日サンサンで中国製のトラックがテント泊の資材を積んで合流、ツアー参加者12名、日本からのツアコン1名、現地のスタッフ、ガイド1名、ガイドアシスタント1名、コック1名、キッチンボーイ3名運転手6名、TOYOTAのランクル5台、中国製のトラック1台が集合して、南周りルートでカイラス山の麓のタルチェン向け悪路を走行。14日マナサロワール(マパム、ユッツオ)に到着、湖畔でキャンプ、翌15日タルチェン村に着いた。
16日からカイラス山コルラに出発、3泊4日で52kmをトレッキング、18日にはドルマ、ラ(峠)5、668mを越え、19日タルチェン村帰着。その後さらに西へ、ツアンダに20日着ここで3泊して、近くのグゲの遺跡訪問、トンガ、ピヤン遺跡を訪問。以後テント泊、または現地の招待所に泊まりながら、アリ、アクサイチン(インドと国境紛争地、現在は中国実行支配地)を経由して、25日新彊ウイグルに入り、27日カシュガル着、28日ウルムチへ飛行機で、29日ウルムチ−北京−成田に帰国。30日午後新千歳着で自宅に帰り着いた。
地図の赤線の箇所は以前の訪問地、2003年ネパール、ジョムソンからムスタンのローマンタンまでトレッキング。2005年にはパキスタンのラワルピンディからスストまでKKRを走行しています。 -
9月6日成田空港で離陸の準備に忙しい、中国国際航空CA-422便。離陸は午前9時10と朝早いので、私は前日に成田空港近くのホテルに前泊して出発に備えた。
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CA-422便は成田−成都間の飛行ではあるが、いったん北京に着陸して乗客は北京空港で入国手続きをして、また同じ飛行機に乗り込んで成都に向かった。
中国時間(日本時間より1時間遅らせる)12、00に北京空港に到着して、12、50分頃成都に向け離陸した。
写真は北京空港で入国手続きの為飛行機を降りる乗客。 -
現地時間、15,40成都空港に到着。この日成都は雨模様。写真は成都空港ビルデイング。
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四川省の省都、成都市の中心街。ここ成都は1、000万近い人口を有する大都会、チベットのラサ、チャムドへの直行便も飛んでいるまさにチベッタンエリアへの玄関口。
この街は盆地にあるために夏は蒸し暑く年中曇っている、この日は雨だった。 -
成都での宿泊は、成都北駅から南に向かった西蔵飯店だった。ホテル前の大通り、結構車が多い。時々ポンコツの車も混じっている、馬車も見かけた。
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歩道は幅広く自転車も走りやすそう。目にとまったのは結構電気自転車が走っていることだ。日本では老人向けの物と見られているが、此処では若者も結構利用している。聞いた話ではあるが、バイク、オートバイは排気ガスで空気を汚すので、バイクよりも電気自転車が奨励されているとのことであった。
このお母さんはハンドルの所に傘立てがあり、傘を固定して走っている。 -
中学校の校門前。自分の子どもの下校時で迎えに来た父兄のバイクが群がっている。一人っ子政策で親ばかが多いいのであろう。日本でも同じ情景が見られるので他人の国の批判は出来ないか。
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9月7日成都のホテルを6時に出て、ラサに向かうため空港に向かった。早朝6時の成都の空港で。中国は全土同一時間のため西の方は朝6時でも明け切っていない。ラサ行きのCA4441便に乗り込んだ。
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成都−ラサ間の航空路線は雲が無ければ、四姑娘山(6、250m)やミニヤコンガ(7、556m)が飛行機から見ることが出来ると来聞いていたので、窓に釘付けになって探していたが、この日はあいにくの雲海が覆っておりだめだった。時々雲の切れ間から万年雪に覆われた山が見える。このあたり相当南に位置するので、雪を被っている山は6千から7千mは有るのであろう。
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ラサには9時10分に到着した。ゴンカル空港の前で。ここはすでに高度3、600mを越えている。多くのガイドブックに高山病の注意が書かれていたので身構えて空港に降り立ったが、私にははあまり違和感を感じさせなかった。もちろん少し空気が薄いかなとは感じたが息苦しい感じはない。ラサの空港はラサ市から55Km離れたゴンカルに有る、我々を出迎えてくれたバスは途中で寄り道をしたので約1時間半で市内に到着した。
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ゴンカル空港からラサに向かって車で走って、市内15Kmほど手前の左手の崖に、釈迦牟尼、ターラ、観音などの磨崖仏が見える。此処で車を止めて小休止した。11世紀アティーシャの時代まで遡る由緒ある物であるが、期待するほど大きくないので「チベット三大ガッカリ」の一つに数えられ、『紛い仏』とまで陰口をたたかれているそうだ。
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11時半今夜泊まるホテル、拉薩飯店に到着してチェックインした。ラサでは高度順応のため、2泊3日滞在することになっていた。此処はラサ市の西に位置した北京西路に面した位置にある。このあたりは漢民族が多く住む地域である。向かい側に人民大会堂が有る。
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ラサ到着後午後はゆっくり休息をして、4時過ぎに市内見物に出かけた。最初にジョカン寺(大昭時)を訪れた。屋上まで上がりゆっくり見物、またラサの市内を俯瞰した。
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ジョカン寺まえ広場を散策する観光客、チベット各地からお上りさんが集まってくる。また、ラサまで新しい鉄道路線が開通したので、漢族の観光客が猛烈に増えているそうだ。
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ジョカン寺前の石畳で五体投地でお参りする敬虔なチベット仏教の信者。このとき雨が降り出してきたが、お参りする人は減らない。この脇に香(サン)が焚かれていて、もうもうと煙が立ちこめている。
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バルコル、八廓街、(パークオジエ)で。
ジョカン寺の周りの環状バザールをコルラ(バルコル)する巡礼者と観光客。
『コルラとは、仏塔や仏像、聖山など神聖なものの周りを巡ること。仏教徒は時計回りに、ボン教徒は反時計回りに回る、日本の仏教用語では、右遶(うにょう)と言う。』
ラサには重要な四つの巡礼路が有る。
1.ジョカン寺の境内の回路を巡る「ナンコル」
2.ジョカン寺全体の周囲を巡る「バルコル」
3.ポタラ宮の麓を巡る「セーコル」
4.ジョカン寺とポタラ宮を含むラサの街全体を大きく回る「リンコル」である。
末尾の「コル」とは回ると言う意味。どんな場合でも時計回りに回るのがチベット仏教の周り方である。 -
9月8日、今日は一日ラサに滞在だ。7時半に街に出る。まずポタラ宮に向かう、1時間内部見学。チベット特有の青黒い空をバックに照り輝いているこの宮殿にはここの主は今住んでいない。怒りと寂寥感が心を覆うが無言で飲み込んだ。内部は撮影禁止とのことであり、写真はない。
最上階まで登るが空気の薄さをこの地に来て初めて実感した。眼下からはラサの市街がよく見ることが出来た。 -
ポタラ宮からラサ河(キチュ)を隔てた南側の山裾に巨大な新しい鉄道駅(拉薩火車站)が見えている。
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デブン、ゴンパ(哲蚌寺)を訪問した。ラサ市内から北西12Kmにあるチベット最大規模の僧院。ツォンカパの弟子ジャムヤン、チュジェが創建した僧院。現在は500人ほどの僧侶が学んでいる。
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デプン、ゴンパの巨大なマニ車の列。
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市内レストランで昼食後、セラ寺に向かう。セラ、ゴンパ(色拉寺)。
ラサの北にあるゲルク派の大僧院。1419年にツォンカパの弟子ジャムチェン、チュジエ、サキャ、イェシェが創建した。
107年前、河口慧海がここでチベット仏教を学んでいた。 -
セラ寺の僧院内で僧侶が読経していた。
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セラ寺の中庭(チョラ)で若い僧侶達が問答修行をしていた。にぎやかなこと。
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夕食はホテルを出て、北京東路際のCrazy Yakレストランで民族舞踊を見ながら食事をした。
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9月9日、ラサでの2日間の高度順応を終え、今日からはランクル5台をつらねてカイラスを目指し西に出発した。ラサからシガッツエへの幹線道路で五体投地で西に向かう男女の若者に出会った。我々の車は路肩に停車し、一斉にカメラを手に手に彼らに駆け寄っていった。中国語を話すものが写真撮影の許可を求めている。この若い夫婦は数ヶ月前に東のカム地方を出て、五体投地でシガッツエに向かっているとのこと。若妻は家財道具一切を荷車に乗せて、夫を助けてぴたりと寄り添っている。仏に帰依しようとする2人からは霊気が漂ってくるようだ。我々からはこの2人にお布施と果物などのお供えが手渡された。心からこの若い二人の前途に幸せがあるように手を合わせて祈った。
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車は中尼公路を西へ、チュシュル(曲水)を越えてヤルン、ツァンポ川の橋ををわたり、ヤムドク湖に向かって右折した。チンコー麦がたたわに実った村をすぎ狭まった谷を左右に見ながら山を駆け上っていく。前方にタルチョがはためいている峠に到着した。
カンバ、ラ峠(4、750w)であった。車を降りると息苦しさを感ずる。空気の薄さを強く感じた。息を深く吸い込みながらゆっくりと歩き回った。眼下にはヤムドク湖が真っ青に輝いている。 -
カンバ、ラ(峠)から見たヤムドク湖(ヤムドク、ユムツォ、羊湖)。湖が複雑な形をしていて、山の陰や雲の様子などにより湖面の色が複雑に変わる素晴らしい景色だ。湖水面の高度は4,441m、面積638平方キロメートル、最深59mである。
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昼食をヤムドク湖の湖畔でとることになり、峠を下って湖畔に出た。我々が昼食をとっているとチベット人が犬を二匹連れて近づいてくる。チベッタンマスチフだ。チベット文化圏ではこの犬はどこにでもいるが、非常に凶暴でまたかみつく。狂犬病にかかっているものも多いいとのこと。多くの旅行記では近づくなと書かれている。でもこの犬たちは人によくなついていて写真を撮らせてお金を稼ぐための犬であった。
犬狂いの筆者はこの犬にさわれてもうメロメロだ。食べかけていた昼食をこの犬たちに食べさせようと与えたところ飼い主が取り上げて食べようとした。私は「この食事は犬に与えたもので、貴方にやったものではないから取り上げてはだめだ」と強く注意した、飼い主は苦笑いをしながら食べ物を犬に渡していた。ワハハー -
今走ってきた道をそのまま進めば今日宿泊するギャッエ(江孜)につくことが出来るのだが、途中道路工事のため通行止めと成っておりいったん曲水まで戻り西へシガッツエまで行かず途中から南下してまた東へ戻る迂回路をとることになった。迂回路に入ると道は極端に悪くなる猛烈に揺られ土埃を浴び、車は走り続けた。写真はヤルン、ツァンポ川。この高度4,000m以上の高地にこの様な大河が流れていることに驚かされた。水量も多く、流れも速い。
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このあたりは緑が多く、道の両側に畑が広がっている。チンコー麦の取り入れが始まっており家族ぐるみで働いている様子が見られた。子たちが我々の車に手を振っている。
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畑のなかや、あれた草地の中の猛烈な悪路を走り続け午後7時過ぎに町が見えてきた。ギャツェ(江孜)だ。市街に入って突然猛烈な悪路から舗装道路に変わった。ここは巨大な岩山の上にギャッツエ、ゾンがそびえこの岩山の尾根を巡る城壁に囲まれた麓には壮麗なチョルテンがあるパンコル、チューデの門前町として栄えたところである。
古くからインドとの交易で栄えてきた。また、20世紀に入ってチベットに進行したイギリス軍との戦いの場と成ったことでも知られている。 -
9月10日、午前中ギャンツエで寺院等見学、昼からシガッツエに向かうこととなった。朝食後白居寺(パンコル、チューデ)に向かう。写真は大集会堂(ツク、ラカン)である。ここの城壁に囲まれた境内には様々な宗派の学堂(タツァン)が建てられいた。この寺の境内は特定の宗派には属していない。
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白居寺境内にあるギャンツェ、クンブム(パンコル、チョルテン)。パンコル、チョルテンは8階13層、高さ34mの仏塔で内部は77間あり、仏像や壁画を見ながら螺旋状に登って行くことが出来る。
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白居寺境内の公衆トイレの入り口。これがかの有名な中国のニーハオトイレだ。中はものすごい阿鼻叫喚の状態。打ちっ放しのコンクリ状の床に穴が4つ並んでいるだけ、しきりはない。周りは足の踏み場もないほど汚れている。この日から行く先々でこの様なトイレに悩まされた。高地チベットの空気の薄いのにはなれたが、このトイレには最後まで慣れなかった。内部の写真もあるがとうてい公表できない。
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ギャンツェ、ゾン(宗山城堡)。ギャンツェ、ゾンは市内のひときわ高い丘に築かれた城西で最初は14世紀に建てられた。1903年イギリス軍の進入に対してチベット軍との間に激しい戦闘が行われ、ここがイギリス軍との攻防の舞台となったところである。登りは車で上まで登り、帰りは歩いて降りてきた。城の上からはギャンツェの市街と郊外がよく俯瞰出来た。
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ギャンツェ、ゾンからみたパンコル、チューデの全景。
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ギャンツェで昼食を終え1時過ぎにシガッエに向けランクル5台で移動を始めた。シガッツエまで約100Km。シガッツエの約20km手前で左折しシャル寺に向かった。写真はシャル、ゴンパ(夏魯寺)。ここは1087年シャンシェン王の血筋とされる当地の領主チェツン、シェーラブジュンネが創建したとされている。14世紀に活躍した大学者プトゥンがここの座主だったことで知られている寺である。
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4時過ぎにシガツェに入った。もうここは中国でも相当西に位置するので、9時10時になって初めて夜が訪れる。まだ太陽も高いので、タシルンポ寺を訪れることとなった。
この寺は1447年ダライラマ1世によって創建された。パンチェン、ラマの居所として知られている。信者、観光客がたくさん訪れていて、たいへんの混みようだ。
シガツェはチベット第2の大きな街だ人口約9万である。 -
9月11日、今日はシガッエからサンサンへ移動の予定だ。朝食後シガッエのバザールを見に行った。以前は青空の下にバザールがあったそうだが、今は大きな体育館の様な建物に入っている。ここ以外にも行く先々でバザールに寄ってみたがこの写真のように全く衛生観念の皆無状態のバザールばかりだった。品物はどこでも豊富だが、とにかく汚い。現在の日本しか知らない柔な若い人がこの状態を見たら、とても中国では何も喉を通らないであろう。
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午前中にシガツェを出て、中尼公路を西へ、ラツェを経て、中尼公路から離れさらに西へ走ることになった。シガツェを出て右手に上海から公道5、000Kmの記念碑があった。
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ツォ、ラ(峠)のタルチョ。
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チベッチ族の遊牧民テント。チベットでは一般的にテントはこの様に黒い。ヤクの毛で作られており、太陽光線を良く透すので内部は暖かい。時々白いテントも見られた。
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ラツェで昼食をとりさらに西へ。ラン、ツォ(湖)のほとりでチベット族の農民と出会った。この地でも耕耘機やトラクターはもっぱら運送手段に使われている。今まで訪れたネパールやパキスタンでも同様だった。
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ガ、ラ(峠)。この後今夜の目的地サンサンまであと2つの峠を越えた。
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6時過ぎに今日の目的地サンサン(桑桑)に到達した。もうここは標高4、600mだ。ここでキッチンスタッフが中国製のトラックにテント、炊事用品を積んで合流した。これでチベット側スタッフ12人がそろったわけだ。
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9月12日、今日はサガ(薩嗄)まで走る予定。途中のルートに道路工事が予定されていて、日中通行止めに成るとのこと。通行止めになる前にその箇所を通過するために朝7時10分にサンサンを出た。真っ暗な中出発して1時間ご東の空が少し明るくなってきた。車を止めて一時休憩と成った。
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スエ、ラ(峠)で停車する我々のランクル車列。
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昼過ぎに今夜の宿泊地、サガ(薩嗄)に到達した。サガ県の県都。町自身の名前はキャキャ(加加鎮)という。
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今回の旅では大きな町ではホテルに宿泊したが、サンサン以後の食事は同行しているコックが準備をしてくれた。サガでの夕食の様子。
写真の鍋は圧力鍋です。チベットの様に高地では低温でも水か沸騰するので圧力鍋で料理をしなければ生煮えののおいしくない食事になる。
以前ネパールの奥地、チベット族が住んでいる地域を訪れたときも、現地の人々は圧力鍋を持っていた。
聞くところに寄ると故植村直己さんが昔ヒマラヤ登山でこの地を訪れたときに圧力鍋を持ち込んで、現地の人々がその便利さを知り、そのときからこの地に圧力鍋が広まったと話をしていた。
招待所、テント泊では専用のコックが食事を作ってくれたが時々比較的大きな町に着いたときには食堂も利用した。
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