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ハサンケイフの風景<br /> ハサンケイフは古代ローマ時代からの交通の要衝で、今回の旅では絶対に外せない目的地の一つだ。<br />ディヤルバクルからはバスで2時間ほどの距離にあり、前述のジハド君と「一緒に行こーぜ」ということになった。途中BATMANという町でバスを乗り換え、草原を行く。<br />ハサンケイフはチグリス川沿いに発展した町で、ローマ→ビザンツ(東ローマ)→アラブ→オスマンという支配の変遷を辿った。<br />とりあえずチグリス川を見るのは初めてなので、チグリスの水に触れに走った。<br />川辺では、地元の子供達が水浴びをして遊んでいたのだが、<br />少年の一人がなにやらジハド君にトルコ語でまくしたて始めた。<br />ジハド君は目を白黒させてうなずくばかりなのだが、3分後に少年が喋り終えた時、<br />「この子は、その、ハサンケイフの歴史を、ローマ時代から説明したんだけど、僕の英語では、とても。。。」という彼の解説を聞いて事態を飲み込んだ僕も、やはり唖然だった。<br /><br />城塞の上まで登り切ると、周囲を一望できるビューポイントに到達できる。<br />僕はこの景色に完全にやられた。<br />かつて存在した繁栄を語る城塞跡。悠久の時を流れるチグリス。その中にかろうじて残る石造りの橋脚跡。その流れが長い年月をかけて創りだした断崖。そして時に優しく、時に無慈悲に人の痕跡を覆う草原。「遺跡」というには若すぎ、「歴史ある町」というには寂しすぎる。厳しい岩肌と、優しい緑の草原が入り組むアナトリアの景色。ここでは誰もが詩人になれる。<br /><br />いや、詩人になれない人間には出会った。前日にディヤルバクルのロカンタ(トルコの軽食堂)で出会った日本人の中年女性だ。トルコの地方都市で一人旅の日本人に出会うのは珍しいこともあり、折角なので同じテーブルにつく事にしたのだが、これがとんでもない偏見と独断の塊のような人間だった。彼女は日本で全共闘時代を学生として過ごし、今はスイスに住んでいるらしいのだが、口を開けば文句しかでてこない。トルコの鉄道網が貧弱であること。地元の人にジロジロ見られること。そして中でも、トイレが有料であることが特に気にいらないらしい。<br />「政府がしっかりしてればこんなことにはならない。」などと、自分の小さな不満を大きな話にして正当化しようとするのである。そして「あなたもそう思うでしょ?」という見当違いの送りバント。<br />トイレの管理者として収入を得ている人はどうなるのかと尋ねると、「そんなことは政府の考えること」だと宣う。会話を不満のはけ口にするのは結構だが、不快感の共有を強要されるのはたまったものではない。「早く帰ればいいんじゃないですか?」と喉元まで出かかるのを必死で抑えながら、「良い旅を」と昨日は作り笑いで彼女から離れたのだ。<br />そしてここハサンケイフで誠に有り難く無い再会をしたわけである。<br />土産屋の軒先でイスに座り「あら、また会ったわね」と挨拶をされてしまったので無視するわけにもいかず、「あー、どうもこんにちわ」と返すと、隣にいたジハド君に中年女性の目線がいったので「友達のジハド君です」と、言葉少なめに紹介した。<br />すると「あら、あなた変なものにひっかかっちゃったのね」と彼女は鼻で笑った。<br />押し付けガイドか何かと勘違いしたというのか。いや、勘違いしたことに対してではない。<br />それ以上の悪意と侮蔑を感じたその時の不快感は、僕に大人げなく、彼女を睨みつけたまま無言で立ち去らせるには十分なものだったし、この瞬間はこの旅で一位か二位を争う不快な瞬間だった。<br /><br />他でも無い日本人から、他でも無い日本語でもたらされたのは、景色を讃える美しい詩歌では無く、挫折と屈折から紡がれる品の無い呪詛であったことは僕を落胆させたが、ハサンケイフの景色は<br />そんな落胆さえも、流転の彼方に葬り去ってくれるようだった。<br /><br />さて、旅の良い所は状況が目まぐるしく変わり行き、10分前のことがすぐに過去になってしまうところだ。いや、もちろんそれが「良い」「悪い」は状況しだいなのだが、この後の出来事は間違いなく素敵だ。<br />チグリス川岸のオープンカフェで一息入れた後、ジハド君と一緒にバトマンまでのドルムシュ(乗り合いバス)を探したのだが、1時間半以上の待ち時間があることが解った。<br />とりあえず時間を持て余し、休憩のため停車していた巨大なトレーラーがかっこよかったので(男の子は働く自動車に弱い。これは世界共通と考えて間違い無い。)横でチャイをすすっていた運転手らしき兄ちゃん達に許可申請を申し込むことにした。「おー、マジかよメーン」みたいな感じで「もちろんOKメーン」という感じで「バトマンまでなら乗ってけよメーン」みたいな感じになり、「センクスメーン」という感じで巨大なトレーラーに便乗させてもらうことになったのだが、走り出してすぐに緊張を感じた。<br />この二人の運ちゃん達はクルドの人ということが解ったからだ。そして同行のジハド君はトルコ人。「み、民族の狭間に俺はいる。。。。」<br />誤解を避けるために書いておくが、クルドの人に対して緊張したのではない。<br />ジハド君と運ちゃんの関係性の真ん中に自分がいることに緊張したのだ。<br />この種の状況は初めてだった。これは、どうなるんだ。どうなってしまうんだ。「クルドとトルコとどっちが好きだ?」と訊かれ困る自分や<br />トルコ人として肩身が狭くなるジハド君。車中のミニ民族衝突か!と、やな想像をしてしまった。<br />しかしそんな僕の思いをよそに、車内は笑いが絶えない楽しい空間だったし、僕とジハド君用のクルド語講座も始まり、車中はトルコ語、クルド語、英語、日本語が入り乱れた。<br />ハンドルを握る兄ちゃんもノリノリ過ぎて、前方を見ていないことが多少気になったが、先程の緊張感が杞憂に終わった今、それは小さすぎる事実だった。<br />1時間半ほどでバトマンの町へ到着し、さっそく習得したクルド語で感謝と別れを告げた後、ワイルドな笑顔とワイルドな轟音を浴びせる彼らを見送った。「最初は少し心配だったけど、クルドの人とあんなに楽しく喋ったのは初めてだ。とてもナイスな経験だったよ。ワンダフルだ。<br />きっと君がいたからだね。」とジハド君は目を輝かせて言った。ひどく大げさに言えば、「全く偶然だが民族間問題の現場に居合わせ、少し前向きな結果が生まれる瞬間を目撃した」ことになる。「外国人としてそこに居合わせる自分」が「状況」と無関係でなく、どのように作用したかを味わった。<br />「君はクルド人がどんな差別を受けてるか知らないじゃないか。」<br />「君はPKKのテロで死んだ罪の無いトルコ人の顔を知らないじゃないか。」<br />「その君がこの問題について知たり顔で語るのは滑稽だ。」と言われるかもしれない。<br />たしかに滑稽ではあるかも知れないが「クルド問題に距離の近い町に住むトルコ人の青年が、クルドの人と話し、好感を持った。」ということは紛れなき事実だ。<br />民意というのはこういう出来事と経験の集合なんじゃないかなぁ。とディヤルバクルへ戻るバスから手を振るジハド君を見送りながら、感慨深い別れを惜しんだ後、次の目的地「ヴァン」へのバスを探した。

2007 Adventure in Middle-east18/Turkey-Hasankeyf&Bitlis

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2007/03/31 - 2007/07/01

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captain

captainさん

ハサンケイフの風景
 ハサンケイフは古代ローマ時代からの交通の要衝で、今回の旅では絶対に外せない目的地の一つだ。
ディヤルバクルからはバスで2時間ほどの距離にあり、前述のジハド君と「一緒に行こーぜ」ということになった。途中BATMANという町でバスを乗り換え、草原を行く。
ハサンケイフはチグリス川沿いに発展した町で、ローマ→ビザンツ(東ローマ)→アラブ→オスマンという支配の変遷を辿った。
とりあえずチグリス川を見るのは初めてなので、チグリスの水に触れに走った。
川辺では、地元の子供達が水浴びをして遊んでいたのだが、
少年の一人がなにやらジハド君にトルコ語でまくしたて始めた。
ジハド君は目を白黒させてうなずくばかりなのだが、3分後に少年が喋り終えた時、
「この子は、その、ハサンケイフの歴史を、ローマ時代から説明したんだけど、僕の英語では、とても。。。」という彼の解説を聞いて事態を飲み込んだ僕も、やはり唖然だった。

城塞の上まで登り切ると、周囲を一望できるビューポイントに到達できる。
僕はこの景色に完全にやられた。
かつて存在した繁栄を語る城塞跡。悠久の時を流れるチグリス。その中にかろうじて残る石造りの橋脚跡。その流れが長い年月をかけて創りだした断崖。そして時に優しく、時に無慈悲に人の痕跡を覆う草原。「遺跡」というには若すぎ、「歴史ある町」というには寂しすぎる。厳しい岩肌と、優しい緑の草原が入り組むアナトリアの景色。ここでは誰もが詩人になれる。

いや、詩人になれない人間には出会った。前日にディヤルバクルのロカンタ(トルコの軽食堂)で出会った日本人の中年女性だ。トルコの地方都市で一人旅の日本人に出会うのは珍しいこともあり、折角なので同じテーブルにつく事にしたのだが、これがとんでもない偏見と独断の塊のような人間だった。彼女は日本で全共闘時代を学生として過ごし、今はスイスに住んでいるらしいのだが、口を開けば文句しかでてこない。トルコの鉄道網が貧弱であること。地元の人にジロジロ見られること。そして中でも、トイレが有料であることが特に気にいらないらしい。
「政府がしっかりしてればこんなことにはならない。」などと、自分の小さな不満を大きな話にして正当化しようとするのである。そして「あなたもそう思うでしょ?」という見当違いの送りバント。
トイレの管理者として収入を得ている人はどうなるのかと尋ねると、「そんなことは政府の考えること」だと宣う。会話を不満のはけ口にするのは結構だが、不快感の共有を強要されるのはたまったものではない。「早く帰ればいいんじゃないですか?」と喉元まで出かかるのを必死で抑えながら、「良い旅を」と昨日は作り笑いで彼女から離れたのだ。
そしてここハサンケイフで誠に有り難く無い再会をしたわけである。
土産屋の軒先でイスに座り「あら、また会ったわね」と挨拶をされてしまったので無視するわけにもいかず、「あー、どうもこんにちわ」と返すと、隣にいたジハド君に中年女性の目線がいったので「友達のジハド君です」と、言葉少なめに紹介した。
すると「あら、あなた変なものにひっかかっちゃったのね」と彼女は鼻で笑った。
押し付けガイドか何かと勘違いしたというのか。いや、勘違いしたことに対してではない。
それ以上の悪意と侮蔑を感じたその時の不快感は、僕に大人げなく、彼女を睨みつけたまま無言で立ち去らせるには十分なものだったし、この瞬間はこの旅で一位か二位を争う不快な瞬間だった。

他でも無い日本人から、他でも無い日本語でもたらされたのは、景色を讃える美しい詩歌では無く、挫折と屈折から紡がれる品の無い呪詛であったことは僕を落胆させたが、ハサンケイフの景色は
そんな落胆さえも、流転の彼方に葬り去ってくれるようだった。

さて、旅の良い所は状況が目まぐるしく変わり行き、10分前のことがすぐに過去になってしまうところだ。いや、もちろんそれが「良い」「悪い」は状況しだいなのだが、この後の出来事は間違いなく素敵だ。
チグリス川岸のオープンカフェで一息入れた後、ジハド君と一緒にバトマンまでのドルムシュ(乗り合いバス)を探したのだが、1時間半以上の待ち時間があることが解った。
とりあえず時間を持て余し、休憩のため停車していた巨大なトレーラーがかっこよかったので(男の子は働く自動車に弱い。これは世界共通と考えて間違い無い。)横でチャイをすすっていた運転手らしき兄ちゃん達に許可申請を申し込むことにした。「おー、マジかよメーン」みたいな感じで「もちろんOKメーン」という感じで「バトマンまでなら乗ってけよメーン」みたいな感じになり、「センクスメーン」という感じで巨大なトレーラーに便乗させてもらうことになったのだが、走り出してすぐに緊張を感じた。
この二人の運ちゃん達はクルドの人ということが解ったからだ。そして同行のジハド君はトルコ人。「み、民族の狭間に俺はいる。。。。」
誤解を避けるために書いておくが、クルドの人に対して緊張したのではない。
ジハド君と運ちゃんの関係性の真ん中に自分がいることに緊張したのだ。
この種の状況は初めてだった。これは、どうなるんだ。どうなってしまうんだ。「クルドとトルコとどっちが好きだ?」と訊かれ困る自分や
トルコ人として肩身が狭くなるジハド君。車中のミニ民族衝突か!と、やな想像をしてしまった。
しかしそんな僕の思いをよそに、車内は笑いが絶えない楽しい空間だったし、僕とジハド君用のクルド語講座も始まり、車中はトルコ語、クルド語、英語、日本語が入り乱れた。
ハンドルを握る兄ちゃんもノリノリ過ぎて、前方を見ていないことが多少気になったが、先程の緊張感が杞憂に終わった今、それは小さすぎる事実だった。
1時間半ほどでバトマンの町へ到着し、さっそく習得したクルド語で感謝と別れを告げた後、ワイルドな笑顔とワイルドな轟音を浴びせる彼らを見送った。「最初は少し心配だったけど、クルドの人とあんなに楽しく喋ったのは初めてだ。とてもナイスな経験だったよ。ワンダフルだ。
きっと君がいたからだね。」とジハド君は目を輝かせて言った。ひどく大げさに言えば、「全く偶然だが民族間問題の現場に居合わせ、少し前向きな結果が生まれる瞬間を目撃した」ことになる。「外国人としてそこに居合わせる自分」が「状況」と無関係でなく、どのように作用したかを味わった。
「君はクルド人がどんな差別を受けてるか知らないじゃないか。」
「君はPKKのテロで死んだ罪の無いトルコ人の顔を知らないじゃないか。」
「その君がこの問題について知たり顔で語るのは滑稽だ。」と言われるかもしれない。
たしかに滑稽ではあるかも知れないが「クルド問題に距離の近い町に住むトルコ人の青年が、クルドの人と話し、好感を持った。」ということは紛れなき事実だ。
民意というのはこういう出来事と経験の集合なんじゃないかなぁ。とディヤルバクルへ戻るバスから手を振るジハド君を見送りながら、感慨深い別れを惜しんだ後、次の目的地「ヴァン」へのバスを探した。

同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス ヒッチハイク

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  • クルド語とトルコ語の違い<br />さて、クルド語とトルコ語は、方言の差ではない。言語系統で言えばクルド語はインド=ヨーロッパ(印欧)語族に属するし、トルコ語はアルタイ語族だ。もちろん両言語には近接した歴史があるし借入した語彙は多いはずだが、「語族」の違いは言語の根本的な違いを意味する。<br />さらに言語が人間の思考を編むとすれば、発想や観念に相当な差があるんじゃないだろうか。<br />この二言語間の違いは、「フランス語と英語」より離れている。フランス語は「ロマンス語派」の「印欧語族」、英語は「ゲルマン語族」の「印欧語族」で、同じ「印欧語族」ということで括れる。<br />同じ「印欧語族」内には、サンスクリット語やペルシャ語も含まれるから、ましてや違う「語族」であるクルド語、トルコ語の違いの大きさは想像するに難くない。<br />また、言語は民族という概念と密接だし、言語の差こそが民族区分だと考える人も多い。<br />トルコ人主導の民族主義はクルド語を抑圧してきた歴史がある。<br />「トルコ国内には共和国樹立に一丸となって頑張ったトルコ人しかいません!」<br />という建前を通すのだから、「クルド語」を話す「クルド人」は「クルドなまりのトルコ語」を話す「山岳トルコ人」でなければ困ることになる。が、属する語族の違う二言語を「方言」の違いで済まそうとするのは、比較言語学が発達してきた現代ではもはや相当な無理があるし、世論もそれを知っている。<br /><br />それではちょっと穿った見方をして「言語は民族自立の象徴として考えられるが、言語の規制に反対することが第一義ではない。<br />社会的な抑圧や差別からの脱却を目指し、民族自立運動が始まる時、その民族固有の言語は自立の象徴となる。」<br />という説明はどうだろうか。もっともらしい。<br />だが、言語はもっと深い問題なのかもしれない。現代のイスラエル建国に際して死後であったヘブライ語を再生した根性。世界共通言語を目指し理論的に構築されたエスペラント語がまったく普及しない事実。為政者が掲げる「民族自立のスローガン」以上の何かが言語にはあると思えなくはないだろうか?つまりは人間存在の根本的な要素として。<br />逆に「言語はただのコミュニケーションのツールだ」という発想には希望がある。つまり「言葉は違うけど、中身はみんな同じさ!」という人類皆兄弟の希望だ。明るい希望ではあるが、本当にそうだろうか。僕はバベルの塔を破壊した神が「互いの言葉が通じない」という罰以上のものを人間に課した気がするのである。そして、もしそうであるなら、共通言語構築のための言語の強制とは後ろ向きか前向きか。<br />クルド語の挨拶を紹介してくれた時の運ちゃんの自信に満ちた笑顔は、言語の強制が後ろ向きであることを教えてくれた。<br />言語の違いは狭量な民族主義ごとぎが覆せる程度の問題では無いのだ。<br />だが同時に、違いを認め、それを愛することは想像以上に困難でもある。<br />英語を母語とする人が「raw fish」という時、「生魚」という状態以上の何かが含まれていることを感じる。<br />辞書にある用法1と用法2は、観念の上で必ず関係性がある。<br />「刺身」は時に芸術だが、「raw fish」は粗野で野蛮であることから逃れられない。<br />端的に言えばそういうことだ。神は何と恐ろしい罰を我々に与えたのか。<br />だが「言語によって観念や思想に違いがある」と含んでおくことは大きな意味があると思う。<br />安価な理想は手に入りやすく、そして脆いからだ。安価な理想が挫折した時に、人は絶望し、屈折するからだ。博愛主義者が差別主義者に。<br />かつて世界同時革命に燃えたであろう闘士は、そこら中で不満をまき散らす大市民主義者に。<br />トルコ語とクルド語は違う。ということは観念や思想においてもトルコ人とクルド人は違う。<br />だが、「違う」ということと「対立する」ということはまた『違う』のである。<br /><br /><br />はじめに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった。<br />                    (ヨハネによる福音書)

    クルド語とトルコ語の違い
    さて、クルド語とトルコ語は、方言の差ではない。言語系統で言えばクルド語はインド=ヨーロッパ(印欧)語族に属するし、トルコ語はアルタイ語族だ。もちろん両言語には近接した歴史があるし借入した語彙は多いはずだが、「語族」の違いは言語の根本的な違いを意味する。
    さらに言語が人間の思考を編むとすれば、発想や観念に相当な差があるんじゃないだろうか。
    この二言語間の違いは、「フランス語と英語」より離れている。フランス語は「ロマンス語派」の「印欧語族」、英語は「ゲルマン語族」の「印欧語族」で、同じ「印欧語族」ということで括れる。
    同じ「印欧語族」内には、サンスクリット語やペルシャ語も含まれるから、ましてや違う「語族」であるクルド語、トルコ語の違いの大きさは想像するに難くない。
    また、言語は民族という概念と密接だし、言語の差こそが民族区分だと考える人も多い。
    トルコ人主導の民族主義はクルド語を抑圧してきた歴史がある。
    「トルコ国内には共和国樹立に一丸となって頑張ったトルコ人しかいません!」
    という建前を通すのだから、「クルド語」を話す「クルド人」は「クルドなまりのトルコ語」を話す「山岳トルコ人」でなければ困ることになる。が、属する語族の違う二言語を「方言」の違いで済まそうとするのは、比較言語学が発達してきた現代ではもはや相当な無理があるし、世論もそれを知っている。

    それではちょっと穿った見方をして「言語は民族自立の象徴として考えられるが、言語の規制に反対することが第一義ではない。
    社会的な抑圧や差別からの脱却を目指し、民族自立運動が始まる時、その民族固有の言語は自立の象徴となる。」
    という説明はどうだろうか。もっともらしい。
    だが、言語はもっと深い問題なのかもしれない。現代のイスラエル建国に際して死後であったヘブライ語を再生した根性。世界共通言語を目指し理論的に構築されたエスペラント語がまったく普及しない事実。為政者が掲げる「民族自立のスローガン」以上の何かが言語にはあると思えなくはないだろうか?つまりは人間存在の根本的な要素として。
    逆に「言語はただのコミュニケーションのツールだ」という発想には希望がある。つまり「言葉は違うけど、中身はみんな同じさ!」という人類皆兄弟の希望だ。明るい希望ではあるが、本当にそうだろうか。僕はバベルの塔を破壊した神が「互いの言葉が通じない」という罰以上のものを人間に課した気がするのである。そして、もしそうであるなら、共通言語構築のための言語の強制とは後ろ向きか前向きか。
    クルド語の挨拶を紹介してくれた時の運ちゃんの自信に満ちた笑顔は、言語の強制が後ろ向きであることを教えてくれた。
    言語の違いは狭量な民族主義ごとぎが覆せる程度の問題では無いのだ。
    だが同時に、違いを認め、それを愛することは想像以上に困難でもある。
    英語を母語とする人が「raw fish」という時、「生魚」という状態以上の何かが含まれていることを感じる。
    辞書にある用法1と用法2は、観念の上で必ず関係性がある。
    「刺身」は時に芸術だが、「raw fish」は粗野で野蛮であることから逃れられない。
    端的に言えばそういうことだ。神は何と恐ろしい罰を我々に与えたのか。
    だが「言語によって観念や思想に違いがある」と含んでおくことは大きな意味があると思う。
    安価な理想は手に入りやすく、そして脆いからだ。安価な理想が挫折した時に、人は絶望し、屈折するからだ。博愛主義者が差別主義者に。
    かつて世界同時革命に燃えたであろう闘士は、そこら中で不満をまき散らす大市民主義者に。
    トルコ語とクルド語は違う。ということは観念や思想においてもトルコ人とクルド人は違う。
    だが、「違う」ということと「対立する」ということはまた『違う』のである。


    はじめに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった。
                        (ヨハネによる福音書)

  • ビトリスの趣き<br />バトマンのオトガルでヴァン行きのバスを調べると、夜に出発する夜行便があることが解ったが、ビトリスという町で乗り換えるルートを採れば、今夜中にヴァンに着ける可能性が出て来たのでこれにノルことにした。このへんがトルコのバス交通網の良い所だ。なお、「調べる」と書くとスマートだが、実際は親切かつ外国人旅行者に興味津々のおっちゃん達4、5人に囲まれ、身振り手振りと筆談とチャイが飛び交う中で出したルートだということは蛇足だろう。きっと。<br />この路線はやはりマイナーな路線らしく、それほど大きなバスではなく、舗装の行き届いてない道路も心地よい揺れを提供してくれる。<br />荒野を夕日が照らす中、バスは岩に覆われる山肌を抜け始める。つい4時間前までは、賑やかな会話を楽しんでいたからかもしれないが、<br />徐々に夜に向かって走るバスからみる風景は、僕に「独りで旅をしている」ことを再確認させた。<br />そんな中で到着したビトリスは、懐かしい空気が漂う山間の小さな町だ。緩やかな坂道の車道を挟むようにして、<br />小さな商店が並んでいる様子は街道沿いの宿場町といった趣きで、道沿いの水路のせせらぎと水場沿い特有の湿気が心和ませる。<br />僕にとってこの町はバスを待つため約三時間を過ごした通過点に過ぎないのだが、この町の風景は強く記憶に残っている。<br />薄暗くなりはじめる中で聞いた雑音混じりの素朴なアザーンと、小さな電気が灯るチャイハネに集うおっさん達の笑顔が、<br />バスの中で小さな孤独感を感じていた僕をホっと和ませてくれた瞬間をとても有り難く思ったからだ。<br />同じバスに乗っていた里帰りの地元おっさんにチャイをごちそうになったり、ご自慢のビトリス城に案内されたりするうちに<br />夜は更けていき、僕は乗車率10%の「ヴァン」行き大型バスに乗り北へ向かった。<br /><br />ビトリス城<br />ヘレニズム時代にアレクサンダー大王の部下が築いた城塞を礎とする山城。

    ビトリスの趣き
    バトマンのオトガルでヴァン行きのバスを調べると、夜に出発する夜行便があることが解ったが、ビトリスという町で乗り換えるルートを採れば、今夜中にヴァンに着ける可能性が出て来たのでこれにノルことにした。このへんがトルコのバス交通網の良い所だ。なお、「調べる」と書くとスマートだが、実際は親切かつ外国人旅行者に興味津々のおっちゃん達4、5人に囲まれ、身振り手振りと筆談とチャイが飛び交う中で出したルートだということは蛇足だろう。きっと。
    この路線はやはりマイナーな路線らしく、それほど大きなバスではなく、舗装の行き届いてない道路も心地よい揺れを提供してくれる。
    荒野を夕日が照らす中、バスは岩に覆われる山肌を抜け始める。つい4時間前までは、賑やかな会話を楽しんでいたからかもしれないが、
    徐々に夜に向かって走るバスからみる風景は、僕に「独りで旅をしている」ことを再確認させた。
    そんな中で到着したビトリスは、懐かしい空気が漂う山間の小さな町だ。緩やかな坂道の車道を挟むようにして、
    小さな商店が並んでいる様子は街道沿いの宿場町といった趣きで、道沿いの水路のせせらぎと水場沿い特有の湿気が心和ませる。
    僕にとってこの町はバスを待つため約三時間を過ごした通過点に過ぎないのだが、この町の風景は強く記憶に残っている。
    薄暗くなりはじめる中で聞いた雑音混じりの素朴なアザーンと、小さな電気が灯るチャイハネに集うおっさん達の笑顔が、
    バスの中で小さな孤独感を感じていた僕をホっと和ませてくれた瞬間をとても有り難く思ったからだ。
    同じバスに乗っていた里帰りの地元おっさんにチャイをごちそうになったり、ご自慢のビトリス城に案内されたりするうちに
    夜は更けていき、僕は乗車率10%の「ヴァン」行き大型バスに乗り北へ向かった。

    ビトリス城
    ヘレニズム時代にアレクサンダー大王の部下が築いた城塞を礎とする山城。

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