2007/07/09 - 2007/07/09
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akkiy363672さん
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日本史の古い時代から、亀山は上方と東国を結ぶ街道が通り、鈴鹿峠を押さえる交通の要所であった。
亀山城は、文永2年(1265、鎌倉時代)に伊勢の平氏残党の乱を平定した関実忠によって、伊勢国鈴鹿郡若山に築城された古城に源を求めることができる。
南北朝の時代、吉野へ向かう北畠氏を助けた縁をもって伊勢国司北畠氏に味方。貞治年間(1360代)には五人の子が分家し、亀山、神戸、国府、鹿伏兎(かぶと)、峯の各城を居城とする関五家と呼ばれたが、その宗家の居城として、この地を治めてきた。
詳細は http://www.ztv.ne.jp/kyoiku/monomiyusan/126-kameyama.htm へも記しています。
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← 亀山城に、往時のまま残る「多門櫓」。三重県に現存する唯一の城郭建築で、県指定文化財になっている。
手前左の土塁はもとからのもので、石垣が崩れたわけではない。4月の地震での崩落現場は、別のところだ。
亀山城が、裏手の若山に築かれていた亀山古城(若山城)から現在の地に遷されたのは何年なのか…、その年は定かでないが、関氏が城主であった時代であることは確かだ。 -
天正18年(1590年)、世は豊臣秀吉の治世となり、関一政が蒲生氏郷の会津への転封に付き従って、陸奥白河(福島県)へ国替えとなった。
鈴鹿郡一帯の三万余石と北勢地方の四万石の合計七万石を豊臣秀次が管轄することとなり、秀次の代官である沢善蔵は関宿で治政を担当し、岡本宗憲は亀山城に入って軍務を担当した。 -
宗憲は亀山新城の構築につとめ、本丸・二ノ丸・三ノ丸を整え、また天守閣を置いて、全体の優美な形を蝶が群れ成して舞う姿にたとえ、のちに亀山の「胡蝶城」と賞賛される城の原型を造り上げた。
丹陵城と呼ばれた若山城(もとの亀山城)は、西北方の防備のため残され、いま、ここは公園と住宅地になっている。
← 天守台南面の高石垣は、直高14.5メートルもあり、野面石(自 然石)を牛蒡積みとした中くぼみの扇形勾配で、堅固・優美さを備 えており、四百余年の風雪に今も耐えている。 -
しかし、宗憲は関が原の戦いで西軍に加担して敗戦…、自刃している。
その後、関が原の戦いで井伊直政の陣中で武勲を立てた関一政が、再度城主となるが、慶長15年(1610)伯耆黒坂(鳥取県)に転封され、亀山城主は三宅・関・松平忠明・水谷・三宅と譜代大名が目まぐるしく交替した。
寛永3年(1363)本多利次が入城して、城の大修理を行い、天守を失った天守台に多聞櫓を築造した。
その後も、石川・板倉重常と続き、延享元年(1744)、次の石川総慶が備中松山(岡山県)から6万石で入封、以後11代続いて明治を迎えている。 -
← 丘陵の上に建ち、白壁の櫓・門・土塀などを連ねる景観が、
蝶の群れとなって舞う姿にたとえられ、「粉蝶城」とも呼ばれ
る優美な城であった。
江戸時代においては、亀山城は伊勢亀山藩の藩主の居城であつた。
また、この時期の亀山城は幕府の旅館としての役割があり、上洛する徳川家康、秀忠、家光などが本丸を休憩処や宿泊所に利用している。このように本丸は徳川氏の休泊に度々利用されていたため、城主居館は二の丸におかれていた。 -
← 駐車場の横に立っている案内板の図をパチリ
現存しているのは「本丸多聞櫓」の部分のみである。
「二の丸、東三の丸」は亀山西小学校、本丸南の堀は埋められて「西の丸」一帯とともに亀山中学校になっている。 -
← 石垣の上に登って、多門櫓の横から亀山の町を見る。
正保年間(1644〜47)、天守台に平時は武器庫として、戦時は防戦用として利用するための多門櫓が建てられた。
明治期には士族授産の木綿緞通 (もめんだんつう)工場として
使用されたため破壊されずに現在まで残った。 -
← 石垣の上からの展望…。すぐ下に 亀山中学校のグラウンド、その向こうに水掘の名残りが見える。
明治維新以降は、明治6年(1873)のいわゆる廃城令によって、ほとんどの構造物が取り壊され、堀も埋め立てられた。このため現在は、天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁など、一部が残るに過ぎない。 -
← 2007年4月、三重県中部地震により崩落した
天守台の石垣の一部。シートが掛けられている。
崩落箇所は1972年の台風被害の補修で新たに積んだ部分のみで、江戸時代初めごろ穴太衆(あのうしゅう) によって築かれた古い部分には一切被害はなかった。 -
← 天守台からの階段を下りたところに館があって、石碑に「史蹟 明治天皇亀山行在所遺構」と彫られている。
明治天皇の行幸の際、ここにお立ち寄りになられたのだろうか。それにしては、保存状態がお粗末な館である。 -
← 本丸跡に鎮座する亀山神社
江戸川乱歩は2歳のとき、名張市から亀山へ移り住んでいる。その頃のことを、『…高台に町があった。そこの石の鳥居のお宮さんに、祖母と遊んでいると、下の方からピイッと笛の音がして、おもちゃみたいな汽車がゴーッと走って行った、それがこの世で最初の記憶。二歳、伊勢の国亀山町在住の頃である…』(乱歩打ち明け話)と書いている。
文中の『石の鳥居のお宮さん』とは、この亀山神社のことではないか。それにしても、2歳の記憶を本に書くとは、さすがは江戸川乱歩である。 -
← 亀山城裏手は深く落ち込んだ谷になっていて、
急峻な斜面の下は水堀の名残の池が広がり、一帯
は公園になっている。 -
この池の北側一帯の若山が、鎌倉時代、関一族が築いた旧亀山城(現在の亀山城と区別するため、亀山古城と呼ぶ)の遺構であろう。現在の若山は、住宅地と亀山公園となっいる。
亀山古城の跡を示す石碑,案内板は亀山神社から北東、直線距離にして500〜600mの住宅地の中に建っているが、石碑の背後の丘には遺構は残っていない。案内板にも、亀山古城の城域は特定されていないと記されている。 -
【秀吉軍の亀山城攻め】 平成18年放映の大河ドラマ「功名が辻」で、武田鉄矢が演じる山内家家臣「五藤吉兵衛為浄(ためきよ)」が、ここ亀山城の攻防戦で戦死(享年31歳)したシーンが記憶に残っている。
天正10年(1582)年の本能寺の変で織田信長が討たれたあと、羽柴秀吉は、後継争いで対立した滝川一益の配下にあった亀山城を攻めた。秀吉方は翌年2月16日から総攻撃をかけ、戦いは3月3日まで続いた。秀吉方の一翼を担った一豊の奮戦は目覚ましく、場内一番乗り…、後に大名へと出世する足がかりを得た。
この戦いで、山内一豊の股肱の臣であった五藤吉兵衛は命を落としたのである。 -
← 公園に展示されている 蒸気機関車
亀山はJR関西線(名古屋−港町)が通り、亀山駅から南へ紀勢本線が分岐していく、鉄道の要衝でもある。亀山機関区が置かれ、旧国鉄関係者も多かった、鉄道の町でもあった。 -
古城散策のうちに、いつの間にか時間が過ぎて、約束の午後6時30分になった。
亀山市東町で、昭和10年ごろから松阪ブランドの精肉を独自の調理法で食べさせる「むかい」へと向かう。亀山城に続く東町商店街の中にあり、徒歩でも7〜8分だ。
← 「むかい」の座敷 -
← 「むかい」の水炊き
厚手の肉を野菜などと一緒に水炊きし、たっぶりの大根・人参おろしを加えた、秘伝のダシでいただく。鍋も特製の銅鍋だ。 -
← 肉は松阪牛ブランドで折り紙つき
但馬で生まれた子牛を、三重で丹精こめて育て、極上の三重特産和牛として食卓に供している。 -
メニューは、すき焼き、網焼きなどさまざまな料理が用意されているが、中でも「むかい」名物の『肉の水炊き』はサシ(霜降り)も見事な牛肉を昆布だしで味付けした煮汁にサッとくぐらせ、醤油をベースに工夫された秘伝のタレでいただく。
肉の厚さは、すき焼きと同じ。食感もたっぷりで、ジューシーな肉のうま味を堪能することができる。
水炊きを堪能したあとの雑炊がまた絶品…。肉の煮汁で炊き上げられていても、そのうま味をしっかり捕らえながら、どこまでもあっさりとしている。 -
亀山市は、近年、元気である。平成14年(2002)、三重県のハイテク企業誘致策によりシャープ亀山工場を誘致・建設し、世界初の液晶パネルからテレビまでの一貫生産が行われている。大手家電量販店などでは「AQUOSは世界の亀山モデル」などとというキャッチコピーで売り出され、人気を博している。その税収をもとに、地方交付税の交付を受けない不交付団体として意気盛んだ。
しかし、市の中心部である旧東海道沿いの東町商店街は閉店する商店が見られ、大規模な郊外型のショッピングセンターも存在せずに、隣接する鈴鹿市や津市へ買い物に出かける市民が多い。
幸運と言うべきシャープの進出を文字通りラッキーチャンスとして、町づくり・地域の整備を進め、自治体としての足腰を整えることが、何よりも求められる課題であろう。
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