2007/06/10 - 2007/06/10
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lonparisさん
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6月9日宮古島から那覇へ戻ってきた私は、ホテルJALシティ那覇へチェックイン。
那覇空港から車で15分、モノレール牧志駅から徒歩6分と近い。
http://naha.jalcity.co.jp/
国際通りは、なんと10年振りだった。
記憶にある店も何店舗か存在したが、ほとんど変わっていたように思う。
ビルケンシュトックの店舗なんてなかったし、ドトールやコンビニも、
あんなに沢山なかったし、凄く変貌していると感じた。
夜21時チェックイン。
最近出来たホテルだけあって、キレイ!
今流行の北欧風やね。
お風呂とか入って落ち着いてから、
フロントで「近くにスーパーないですか?」と訪ねると、
徒歩10分の所にサンエーがあるというので行ってみたが、
おもろまちにあるサンエーではなくて、ガックシ。
大好きなジーマミ豆腐(ピーナッツのお豆腐)とか、じゃがりこを買って
食べて寝た。ネットがなぜか出来ず。てか、もう一人旅飽きてきたかもと思い始める。
今回那覇にきた最大の目的である”農連市場”。
ただでさえ、沖縄は台湾と距離的にも近いだけあって、日本の中でもアジアを感じる土地。おじい、おばあが元気よく地元の野菜や食べ物を、地べたに広げて売っていると聞いただけでワクワク!
その午前1時からはじまるという市場。
目覚ましを5時にあわせて寝たが起きたのは6時だった。。
参考URL:http://www.ana.co.jp/travel/topics/new_okinawa/060601/index.html
7時に朝食バイキングを食べに1階へ降りる。
今思えば、市場で物色していれば…と後悔されるが
朝食はシェフが目玉焼きを焼いてくれていて、沖縄のちゃんぶるもあり、
パンも数種類あってなかなか美味しい。まぁ、ホテルの一般的な朝食。
北欧YH癖が抜けない私は、朝食を4、50分もかけてゆっくり食べ、
農連市場へ向かった。
-
農連市場は、有名ではないが観光として認識されつつあるという。
朝7時頃、観光客も歩いてない時間帯に市場中央通りを歩く。
ほとんど閉まっているが、一部空いている店もあった。
まっすぐ進むと、交差点にでる。
そこに猫がいた。 -
ホテルから徒歩10分くらいで到着。
農連市場がみえた!
目の前にある家が、全焼していたがそのままだった。
ここの地域は、おじい、おばあ、老人達が
椅子に座って話をしていたり、空気の流れがゆる〜いかんじ。
向かって左側に川が流れていて、
もちろん入り口にはシーサーが置いてある。 -
市場を散策。店はおろか、ほとんど人がいない…
やっぱり時間が遅かったんだ…。
が!! -
なぜか、おばあ二人が一生懸命、野菜を仕込んでいた。
新鮮な穫れたてゴーヤが3本で100円!という破格。
話を聞くと、今日は日曜でうちらしかやってないけど
朝3時ぐらい、とくに明日月曜は一番賑やかになるよと教えてもらった。
残念ながら明日石垣なんス…
石垣から東京帰るから買えないス…
また次来たときに寄ります!と返答し、そのおばあのたくましさ
そして、働いて何年だろう?人間としていい表情は、内面があってこそなんだと改めて気づかされる。
それにしても、ここは野菜が破格だ。 -
昔はとても賑わっていた。
高齢化が進み、この市場もあと10年たてば
消えてしまうのではないかと思う。
つまり、いま沖縄のおじい、おばあ達が
戦争を乗り越えながらも明るく、健康的な食生活を送り
いまの沖縄をつくってきた。
10年という月日は、今後沖縄という土地を
さらに変えてしまう気がしてならない。
私は、沖縄は早いうちに旅を重ねておくべきだと
悟った。 -
市場の裏手?
服や雑貨のお店、食堂、お菓子を売っているお店が開いていた。
ひとりで散策していると、知らないおじいに笑顔で「おはよう」と言われた。
すぐに「おはよう」と笑顔で返せず、愛想笑いしていた私。
都会生活で病んでいた己を強烈に気づかされた。
普段の生活では、知らない人から挨拶されることは
滅多にない。なんだろう、東京。
自分の精神的に健全でない部分を知ってしまった。
やっぱり子供は都会では育てたくない。 -
欲望のカニーは、おそらく人間。
-
市場を抜けたところに小学校や中学校があった。
沖縄は本当に植物が多くて、緑であふれている。
個人宅に島とうがらしがあってビックリ。 -
市場と市場?を結ぶ橋。
左側にある扇風機は、手製だが用途は不明。
いっぱいあった。 -
-
-
農連市場を後にし、市場中央通りを歩くと、店が出揃っていた。
玉突とは、ビリヤードのこと。
台湾ぽ。 -
繁華街から一歩、脇道へと足を進めてみる。
子供が遊んでいる。
ガラクタ、ゴミだらけ。スラムみたい。
観光物産店でいらなくなった土産物のかすみたいなのもある。
かとおもえば、ひとつの扉に「食堂」とかかれ、
食堂の存在があることに驚き。
決して悪い意味ではなく、沖縄は完全な都市ではないことを感じる。 -
再び、脇道に入ってみる。
すごいトイレ臭。
下水がそのまま流れている気配。 -
進むと、そこは大草原…とまではいかないにしても、
原っぱがあった。
奥に進むと、危険な予感がしたので
近づかなかった。 -
平和通りと呼ばれる、公設市場がある通りへも行ってみた。
うわぁー!!10年前に買った美味しい、さーだーあんだぎぃーの
お店がまだあったヨ!
早速、紅芋はまだ揚げているとのことで、
かぼちゃを買って食べた。スゲーうまい(TーT)
プラプラァしながら、ホテルを11時にチェックアウト。
ゆいレールで空港に向かい、
ANA 1769便 那覇 12:40発 石垣島行きへ搭乗。
13:35石垣島へ予定通り着いたが、外は雨雨雨…鬱。 -
石垣島は宮古と違って、空港バスがでまくり。
まぁ栄えてるからなー。
バス200円でホテルまで向かう。
ここでまた、運転手さんと雑談。
沖縄の人間と間違えられ、まあそれはいいけど
この時期はパイナップルがかなり美味しく、
特に数あるなかでも「夏味」というのがジューシーで甘い!とな。
いい情報聞いたので、記憶に留めて
本日お世話になる、チサンホテルリゾートに到着。
http://www.chisunresortishigaki.com/
スゲー!!!広い!!梅雨プランでシングル料金で、ツインだったが
この広さ、清潔さ、インテリアもセンスよくて、大満足。 -
レディースセットというものも貰った。
DHCの基礎化粧品一式サンプルと、ボディスポンジに
こんにゃくスポンジ(顔用)、など充実!
思わず撮影w
さすが大自然石垣島。
窓をあけたら隙間から、白いイモリが〜
感動!!! -
雨がハンパなくだだ降り。
この有様の中、目的地である八重山平和祈念館へいくには
ホテルの人いわく、「徒歩30分」らしい。
タクシーを利用していくことに。
再び、現地の人間として天気の話題を運転手からふられるが、
観光客であることを告げると、平和祈念館の前は、ボクシング選手の
生まれ故郷で博物館をあることを知らされる。
それよりも、ここは昔海で、今は埋め立て地ということがショッキングであった。
無事到着。若いお姉さんに100円払って入館。誰もいない。 -
太平洋戦争末期1945年、沖縄本島以外の離島は、日本軍の命令によりマラリア有病地帯へ強制移動させられた為、多くの人がマラリアで苦しみ、亡くなっていった。
現在離島に住んでいる人々は、昔からその島に住み続けている人はわずかであり、住んでいたとしても戦時中マラリア有病地帯へ送られ、過酷な戦争体験をし、生まれ育った島へ帰還していることを、忘れてはならない。
写真:開戦時、そして終戦時の新聞が、保管されている。 -
3647名がマラリアで亡くなった。
日本兵がなぜ、島民をマラリア有病地帯へ、強制移動させたのか?
それは日本兵がその島へ避難するためであり、食料確保するため。
ことごとく、沖縄戦は自国民でありながら、自国民である日本兵との戦いそして、その犠牲でなりたっていたといえる。
写真:これはマラリアで無くなった家族のかわりとして、大事にもっていたというもの。
人が生きていた証として、生かされている者にとっては
心の支えになったのかもしれないとおもう。 -
狭い島は、マラリアで亡くなった人でいっぱいになった。
埋葬方法もイラストで紹介されいてる。 -
当時使用していた食器などが展示されている。
-
当時住んでいた家は、敵から身を守るためカモフラージュとして、木を柱として茅葺き屋根のように作られていた。
館内にジオラマがある。
非常に精巧にできており、当時の様子が目に浮かぶ。
私はベトナム戦争のようにおもえた。
写真は空いている穴。
なんだったか覚えていない。 -
ジオラマの横に、マラリアの治療風景がマネキンを使って再現されている。
母親の額には、水が注がれ、恐らく冷やしているのだとおもう。
枕も、何かの植物で民間療法に近い治療法だったことがわかる。
マラリアは、蚊を媒介としたウイルスの名前。
高熱が続き苦しみ抜いて、死亡する確率が高い。
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戦争マラリア後世に/悲惨さジオラマで再現
胸はあばら骨が浮き出るほどやせこけ、うつろな目で横たわる母子―。戦争マラリアの悲惨さを後世に伝えようと、石垣市在住の美術家潮平正道さん(72)がマラリアに苦しむ住民の姿をテーマにしたジオラマを作成した。八重山平和祈念館で展示されている。
ジオラマの制作期間は三カ月。
モデルは、家族八人全員が罹患し、母親と五歳の子が亡くなった叔父家族だ。四十度を超す高熱を下げるため、井戸水をおけにくみ、横になる母親の頭に少しずつ水をたらしている。
横には同じく罹患した幼い子どもがうつろな目をして
腕に抱かれている。
「高熱は布で冷やすくらいでは足りなかった。発作が起きると、体中が大きく震えて大人が数人がかりで押さえなければならなかった」と潮平さん。
母子の横に置かれた薬草の入ったすり鉢を指して、「日本軍が持っていたマラリアの特効薬は住民には行き渡らず、せめてもの薬にとヨモギやニガナをせんじて飲んでいた」と説明した。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200506221700_04.html
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