2007/06/09 - 2007/06/09
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のださん
東京23区それぞれに、郷土を紹介する資料館があります。
私はまだ品川区の品川歴史館にしか行ったことがありません。
今後そのような郷土資料館の類に行く機会を増やそうと思います。
メリットとしては、無料または100円など、非常に安く観覧することができるという点です。
今日は荒川区の荒川ふるさと文化館。
現在「浮世絵にみるあらかわの風景」という企画展が開催されており、最近浮世絵にちょっとはまった私としては、この機会を逃すわけにはいきません。
荒川区辺りに来る機会もほとんどないので、せっかくだから散策してみることにします。
午後には雨が降るという予報なので、朝のうちに回っておきます。
先週私は横浜に行きましたが、桜木町駅近くの掃部山公園という公園に、井伊直弼の銅像が建っているそうです。
掃部山公園の名は、井伊直弼の官位である掃部頭に由来します。
日米修好通商条約を強引に締結して開国したので、その功績を称えて、ということでしょうか?
なぜ今頃こんな話をするかというと・・・先週開港を記念して横浜に行き、今週たまたまこの界隈を訪れることに、運命めいたものを感じるからです。
ちょっと大げさか?
井伊が強引に開国を推し進めたのは当然それなりに根拠があって、そのこと自体は責められるものではありません。
非難を浴びることを覚悟で、一人で責任を負うつもりだったそうですし。
しかし、反対派を大弾圧した「安政の大獄」。
これはちょっとやり過ぎた。
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JR南千住駅に着いたのは、もう9:45くらいでした。
遅くなり過ぎた。
そこからちょいと南に進むと、コツ通りに突き当たります。
この通りは旧日光街道です。
現在は国道4号線が日光街道と呼ばれます。
コツの名の由来は、小塚原(こつかっぱら)です。
この辺りは刑場で、掘ると人骨が出てきたからコツと呼ばれるようになった、というのは俗説です。 -
この界隈は小塚原刑場跡ですね。
刑場は見せしめのため日光街道に面していたとのことです。
今は刑場の面影はありません。
こちらのパッと見寺院には見えない建物が回向院。
回向院は両国にありますが、こちらはその別院だそうです。
何でも、小塚原刑場で処刑された罪人は両国に埋葬されていたが、狭くなったからこちらを別に建立した、とのことです。 -
まず迎えてくれるのが、「観臓記念碑」。
杉田玄白らが、こちらで処刑された罪人の体を解剖して、ターヘル・アナトミアの正確さに感動した、という話は有名です。
それが解体新書の出版のきっかけになったということです。
解体新書の扉絵は、教科書などにも載っていますね。 -
墓地の北側には、著名人の墓が並んでいます。
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相馬大作の供養碑。
相馬大作というのは偽名で、本名は下斗米秀之進将真。
盛岡藩の人ですが、盛岡藩は弘前藩に対して恨みを抱いており、津軽寧親を暗殺しようとしたが失敗。
相馬大作と名前を変えて逃亡していたが、捕らえられて、小塚原刑場で獄門の刑に処せられました。
この事件は吉田松陰にも影響を与えています。 -
目に付くのが「腕の喜三郎墓」。
私はよく知らなかったが、喧嘩で腕がずたずたになり、のこぎりで腕を切り落とした任侠だそうです。
罪人というわけではないですね。
これまた知らなかったが、田中義一内閣のときの内務大臣である鈴木喜三郎も「腕の喜三郎」と呼ばれたそうです。 -
高橋お伝の墓。
毒婦などと称されていますが、後世話に尾ひれがついただけかもしれません。
お伝の斬首刑は1879年、斬首刑廃止は1881年。
俗に日本最後の斬首刑に処せられた、と言われますが、お伝の後にも斬首刑の記録は残っており、日本最後ではないという話もあります。 -
鼠小僧の墓。
両国の回向院にも鼠小僧の墓があるそうですが、どちらが本物でしょうか?
どちらも本物でしょうか?
現在では、実は義賊ではなかったという説が有力のようです。 -
橋本左内の墓。
10歳で三国志を通読。
マジですか?
「橋本景岳先生墓所」とありますが、12歳で岳飛に憧れて「景岳」と号したからですね。
岳飛と同じ運命、かどうかは何とも言えないが、志半ばで倒れます。
しかも20代半ばという若さで。
井伊直弼にとってはあまりにも強大な存在だったのでしょう。 -
橋本左内の隣には、吉田松陰の墓。
実はこちらは墓石だけ、という話も聞きました。
松下村塾にて維新のそうそうたるメンバーを指導するも、30になる前に斬首刑。
老中・間部詮勝の暗殺計画を自白したのが原因で、残念ながらこれでは井伊も処刑せざるを得なかったでしょう。 -
回向院を出て、南側の頭上には線路が走っています。
この先に進んでみます。 -
線路をくぐると、延命寺があります。
元々は回向院だったそうですが、線路を敷いたため分断され、延命寺として独立した、とのことです。 -
こちらは小塚原刑場跡です。
刑死者を弔うために建立された延命地蔵、通称「首切地蔵」。
延命寺の名前もこの地蔵に由来するそうです。 -
延命寺を後にし、歩道橋で南側に渡ることにします。
「延命寺入口」とありますが、延命寺へは歩道橋に上がっていくわけではなく、この右側です。 -
随分歩いたような気がする。
浄土宗の寺院である浄閑寺に到着しました。
駅としては、東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅が最寄りです。 -
境内奥のほう。
新吉原総霊塔。
1855年の安政の大地震の際、新吉原の多くの遊女が横死し、投げ込まれるように葬られたことから、浄閑寺を別名「投込寺」とも呼びます。
ちなみに、吉原というのは元々現在の日本橋界隈にありましたが、明暦の大火後に現在の台東区千束辺りに移転しました。
このため、元あった場所を元吉原、新しくできた場所を「新吉原」と呼んで区別し、次第に「新」が取れていった、とのことです。
吉原という地名自体は、現在は存在しません。 -
浄閑寺を愛し、自らもここに葬られることを願った永井荷風の文学碑。
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本庄兄弟の首洗井戸。
本庄助太夫の遺子である助七と助八が、仇である平井権八を追って箕輪に潜伏していた。
しかし助七は権八に返り討ちに遭い、助八も兄の首を洗っているところを権八に斬られ、首が井戸に落ちた、とのことです。
平井権八は白井権八とも呼ばれ、この悲話は歌舞伎などで脚色されています。 -
浄閑寺は現在の日光街道そばです。
この日光街道を北上します。 -
途中にある円通寺。
坂上田村麻呂が開創し、源八幡太郎義家が再建したとされる寺院です。 -
上野戦争の激戦地であった寛永寺。
戦死した彰義隊士を、円通寺住職・仏麿和尚らが火葬した縁で、寛永寺から黒門がこちらに移された、とのことです。 -
子育地蔵尊とありますが、「よしのぶ地蔵」の名で知られているようです。
昭和を揺るがした「村越吉展ちゃん誘拐殺人事件」。
円通寺は吉展ちゃん遺体発見現場だったそうです。
その供養のため地蔵が建立されました。
そう言えば、回向院の入り口に、地蔵尊がありますが、説明がなかったため何の地蔵なのかわかりませんでした。
後で調べて、それが「吉展地蔵尊」だとわかりました。
知らなかったのは罰当たりです。 -
彰義隊士の墓が並んでいるようです。
右側には「大鳥圭介」の追弔碑。 -
源義家が奥州征伐の際に獲った敵の首四十八を埋めて首塚にして弔ったことから名付けられた「四十八首塚」。
小塚原という地名はここから来ているそうです。
その首塚の上には七重塔が。
そして右側に見える松の木は、家光の鷹狩りの際に鷹が止まったことから、「鷹見の松」と名付けられました。 -
円通寺を後にし、日光街道をさらに北上。
素盞雄神社に近づきました。
ブロック塀に、ふるさと文化館で観ることができる作品の一部が掲示されています。
まずは千住宿を描いたもの。
この界隈は千住宿と呼ばれていて、北千住側を上宿、南千住側を下宿と呼んだそうです。
だからこの辺は千住下宿、ということでしょうか。
「橋本貞秀」とありますが、これは五雲亭貞秀のことですね。
橋本は本名だから、やはりこの「橋本貞秀」の呼び名はちょっとおかしいのではないでしょうか? -
左側は歌川広重の名所江戸百景の一つ「千住の大橋」。
右側は東京名所三十六戯撰という代表作を残した昇斎一景の「小塚原」。 -
それでは、素盞雄神社へ参拝します。
こちらは東門とでも呼ぶべきでしょうか? -
拝殿。
この奥に本殿があるそうです。 -
瑞光石。
祭神が光臨した小塚の中の奇岩のことだそうで、ここから「小塚原」の地名が生まれたそうです。
あれ?
円通寺の四十八首塚はどうなのでしょうか?
いくつか説があるということでしょうか? -
飛鳥の杜。
母乳の出ない母親がこの大銀杏の皮を煎じて飲むと出が良くなるという言い伝えがあるので、絵馬が奉納祈願されています。 -
芭蕉碑。
奥の細道に旅立つ前にこの神社に立ち寄ったと言われ、旅立ちの句として「行く春や鳥啼き魚の目は泪」と詠んでいます。
「鳥は悲しく鳴き、魚の目にも泪が浮かんでいる」ということですが、「足にできた魚の目が激しく痛み、これからの長旅を思うと泪が出そうだ」という意味にも(多分)かけています。
すげえよ、芭蕉さん。
ちなみに、松尾芭蕉は伊賀出身で、奥の細道の旅程にも不自然なところがあることから、芭蕉は実は忍者だった、という説があります。
興味がある方は調べてみてください。 -
それでは、千住大橋を見に行こうと思いますが、見に行く前に、もう一度広重の絵を見てイメージを膨らませます。
江戸時代はどのような風景だったのか?
千住大橋は、徳川家康が架けさせた、隅田川で最初に架かった橋とされています。
江戸の玄関口ですね。
元々は「大橋」とだけ呼ばれていて、他にも大橋が架かったことにより、区別するために千住大橋と呼ばれるようになったそうです。
当時は大橋から下流側を隅田川、上流側を荒川と呼んだそうですが、今は隅田川と荒川はどういう関係なのでしょうか?
広重の絵では、左側が千住下宿で現在の荒川区側、つまり私が今いるところ、そして右側が現在の足立区側です。
下流側から見ているということですね。 -
現在の千住大橋。
鉄筋製で、情緒も何もありませんが、仕方ない。
この橋を渡った対岸は足立区です。 -
隅田川を見てみます。
どうということもない。 -
対岸を見ると、奥の細道の旅立ちの地、とあります。
ここから旅立ったわけですか。
私は今、足立区と荒川区の境界線上に立っています。
実は未だに足立区には足を踏み入れたことはありませんが、初上陸は別の機会にとっておきます。 -
引き返します。
素盞雄神社の西側に、荒川ふるさと文化館があります。
現在11:35くらい。
予定より大幅に遅れてしまっています。
入場料は100円。
撮影は禁止です。 -
出たのが13:20くらい。
まだ雨は降っていないので、もうちょっとだけ周遊。
と言っても駅まで行く途中をちょっとずれるだけです。
日枝神社。
随分小さくて、中に入ることもできません。
いずれかの藩士清兵衛が、歯のあまりの激痛に耐えられなくてこの地で切腹した。
俗に山王清兵衛と呼ばれ、ここに祀られています。
歯痛に悩むものが祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する習慣があったそうで、千住の歯神だということです。 -
日枝神社からちょっと南下して、十字路の角。
歯神の祠があります。
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