2007/04/20 - 2007/04/20
4106位(同エリア13529件中)
めるくんさん
景徳院は2度目となりますが、今回は電車+徒歩で行ってきました。
1582年3月、織田徳川連合軍との戦いの末、武田氏は甲斐大和(田野)の地で最期を迎えます。後に徳川家康は、武田勝頼公とその一行の死をとむらうため景徳院を建立しました。
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JR中央線甲斐大和駅です。東京都高尾から約1時間位で到着。日中でしたが列車を降りたのは自分一人でした。
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改札は1箇所しかありませんが、Suicaは使えます。(当たり前か・・・)
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改札口を出て線路陸橋を渡ると、武田勝頼公の立派な像があります。
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駅を出てからは甲州街道を大月方面に歩きます。10分程で天目・田野の標識が見えてきます。
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甲州街道から田野を目指しひたすら歩きます。車で来た時は何とも思わなかったのですが、実際歩いてみると勝頼公と一行はどんな気持ちで先を目指したのだろうと色々考えさせられました。
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四郎作古戦場。武田家家臣小宮山内膳と家来数名が織田徳川連合軍数千を迎え撃った場所。
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鳥居畑古戦場。武田軍約五十と織田徳川連合軍数千の戦いの場。既に勝敗はついていたのが・・・
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拡大して読んでみてください。
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甲斐大和駅から30分程歩くと広い駐車場に着きます。画像の正面が勝頼公と一行が目指した天目山の方向。左が姫が淵、右は景徳院入り口。天目山には武田信満公(勝頼公より7代前)のお墓があります。同じく戦いに敗れ天目山で自刃しております。先祖が眠る天目山を最期の地にしたかったのでしょう。
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姫が淵です。追いつめられた一行のうち女性従者数十名が、日川の激流に身を投げたそうです。現在は上流にダムが出来て流れに勢いはありません。
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姫が淵。日川の流れがあまりにも穏やかなので、従者達が身を投げた光景が想像できません。
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景徳院入り口。
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景徳院山門です。山門だけが幾度かの火災から免れたそうです。
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桜は半分ほど散ってました。
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山門と天目山方向。
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景徳院境内の説明です。
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景徳院本堂です。
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おぼろなる月もほのかに雲かすみ はれてゆくえの西の山の端
(武田勝頼公の辞世の句)
あだに見よ誰も嵐の桜花 咲き散るほどの春の夜の夢
(武田信勝公の辞世の句) -
黒髪のみだれたる世ぞはてしなき
思ひに消ゆる露の玉の緒
(武田勝頼公夫人辞世の句) -
生害石。(ここで果てたと伝わる)結局一行は天目山には辿りつけませんでした。
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甲将殿。(位牌が安置されているそうです)
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勝頼公、信勝公、勝頼公婦人のお墓。(撮影してスミマセン)
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本堂から見た山門裏手です。
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景徳院を出てさらに天目山方向に進むと、土屋惣蔵片手切りの碑があります。武田家家臣土屋惣蔵が日川上流から攻めてくる敵軍の進入を食い止めたとされる場所です。昔は道路もなく渓流沿いの崖だったようで、木の枝につかまりながら太刀を振ったとされてます。※因みに画像は初めて訪れた時のものです。
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日川のせせらぎだけが聞こえてくる静かなところです。こんなに穏やかなところで悲しい歴史があったとは・・・考えさせられます。
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JR大月駅から見える岩殿山城址です。元々勝頼公と一行はこのお城を目指してましたが、城主の裏切りにあい、行く先を天目山としました。しかしそれも叶わず景徳院がある田野で最後を迎えることとなったのです。
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