
2006/09/23 - 2006/09/23
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enyasuさん
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延吉監獄、延吉神社、日本人埋葬地帯
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写真は延辺芸術劇場
天主教会を見学した後は局子街にある中央小学校をバスの中から見学。この小学校は戦時中“大和小学校”と呼ばれていました。
中央小学校について
http://4travel.jp/traveler/enyasu/album/10033229/
中央小学校 → 白山ホテル(=戦時中は省立病院)その後、河南にある写真の建物・延吉芸術劇場へ。この劇場は戦前“延吉監獄”と呼ばれていました。
以下この旅行記にある年表も延辺日中文化交流センター広報課の森正課長の研究によります。
◆溥儀夫人・婉容と溥傑夫人・浩を延吉監獄へ収容
1946年5月23日夜、国民党軍が迫ったため、吉林市で拘束されていた溥儀夫人・婉容と溥傑夫人・浩は徒歩で吉林駅に移動、列車に乗せられて延吉へ。延吉監獄(現・延吉芸術劇場)に収監される。
『流転の王妃の昭和史』愛新覚羅 浩より
「八路軍は吉林を占領された場合に備えて、国民党軍を協力する可能性のある元軍人たちを移動させることにしたようです。はたして翌日の夜、銃剣付きの鉄砲を手にした兵士たちが荒々しく刑務所に入ってくるなり、ただちに出発命令が下されました。八百名もの捕虜は銃剣をきらめかせた監視兵に守られ、歩き出しました。すでに歩行不能となられた皇后は、椅子にくくりつけられ、長い棒を渡して六人の日本兵捕虜にかつがれました。国民党軍の攻撃はよほど差し迫っているとみえ、私たちは歩くというより走らされました。」
「汽車で延吉駅に運ばれた捕虜のうち、私たちだけは荷馬車に乗せられました。荷馬車には大きな白い旗に、「漢奸偽満州国皇族一同」の文字が大書してありました。荷馬車の後ろには、後手に縛られた捕虜が蜿蜒長蛇の列をなしてつづきました。町じゅうの人々はなにごとかと押しかけてきます。馬車の上にうずくまって半死半生の皇后は、閉じた目をときどきぼんやり見開くだけで、もはやなんにも反応はありません。私は嫮生を抱き、唇をかみしめながら、それでも顔を上げ、民衆の罵言に耐えました。街頭を引きずり回された末、私たちは延吉法務院裏の刑務所に再び収容されました。今度はいままでとちがい、皇后も学生も私と嫮生さえ、皆べつべつの監房へ入れられてしまいました。
(中略)ある日、私はかねてから気になっていた皇后のご様子を見ようと、嫮生を連れ出してくれる親切な八路兵に頼み込みました。小窓から覗くと、驚いたことに皇后は寝台からコンクリートの床に転がり落ちたままで、お食事も遠くの入口に何日間も置きっぱなしになっていました。このご様子では皇后はもはや動けなくなり、お食事もおとりになっていないようです。「これでは皇后さまは死んでしまいます。お食事だけでも食べさせてあげてください」私はこう頼み込みましたが、担当の兵士たちは、「あんな臭い部屋に入れるか」「もし入ったら病気がうつってしまう」と言って、取り合ってくれません。「それなら、私が洗濯します。お掃除もやります。お食事のときだけでも入れてください!」私はなおも頼みましたが返事はありませんでした。翌日また訪ねると、例の親切な八路兵がマスクをかけて部屋を掃除していました。皇后は下着だけになっておられ、洗濯場にはお湯を入れたバケツに衣類が漬けてありました。大小便が垂れ流しとなっていたため、ひどい臭気でした。ようやく足を踏み入れることが許され、私が兵士のあとから食事を運んでいくと、皇后は私をご覧になって侍女の名を呼ばれました。「手箱を持ってきなさい。お風呂の用意はまだできないのか」私は侍女になり代わって答えました。「醇親王府へ早く帰りましょう。皇帝もお待ちになっていらっしゃいます」皇后は急にニコニコされ、「早く着物を持っておいで。皆も早く支度するよう」とおっしゃり、私が食事を勧めても、「早く衣装を持ってこぬか!」ときき入れようとなさいません。私は慄然として、狂われてしまった皇后を見つめました。
(中略)。せめて阿片でもあればと思い、私は所長に嘆願してみましたが、きき入れられませんでした。」
6月10日、延吉監獄に収容されていた溥傑夫人・浩らは列車に乗って佳木斯に移動。(7月、佳木斯で釈放される)
「六月中旬、八路軍は突然、北満に移動することになりました。「皇后さまはどうなるのでしょう」と、八路兵に訊くと、門の入口に停まっている馬車を示し、あれに乗せてゆくと教えてくれました。ところが、私たちが貨物列車に乗っても、皇后はお姿をお見せませんでした。はじめは八路軍もその馬車に乗せて運ぶつもりだったようですが、途中で亡くなられては逆効果になると考えたのでしょう、かつての鮮満国境の図們の町に運ばれたといいます。婉容皇后はその町でただひとり、寂しく生涯を閉じられたのでした」(『流転の王妃の昭和史』 愛新覚羅 浩)
6月20日午前5時、延吉監獄(現・延吉芸術劇場、当時は江北大獄とも呼ばれた?)に収監されていた溥儀夫人・婉容(満州国皇后 ・40歳)が死亡する。遺骸は「延吉市南山」(現・延吉市烟集郷興農村南山?)、あるいは「北山」に葬られたといわれるが確かな場所は不明。 -
建物の隣には石碑がありました。
“延吉監獄抗日闘争紀念碑”
石碑の後ろの文章概略
延吉監獄は1924年に建設され、当時は吉林省第四監獄と呼ばれていました。1931年“九・一八”事変後は日本がこの監獄を管理するようになり“延吉模範監獄”略称“延吉監獄”と呼ばれるようになりました。
1931年初、獄中にて金勛を書記とする中共延吉監獄委員会が成立。党の指導の下、絶食や脱獄などによる闘争をするも叛徒により金勛、李進、吴世国等の主要指導者同士は害され闘争の継続を失敗。
延吉監獄の歌は李進同士が楽譜を書いた後、刑場に向かう際高らかに歌った歌で、後に獄中にいる同志らに歌い継がれました。
1935年6月7日(陰暦5月7日)、金明柱と李泰根、李永春は脱獄決死隊に参加する17名の同志を組織し、日本の指導官、監獄長を殺害し、数百名の同士を救出、脱獄を成功させた。これは抗日戦争時、東北における数多くの監獄の中で繰り広げられた闘争の内の唯一の勝利であった。
1965年、延吉監獄は延辺人民の芸術の殿堂となったが、革命英雄の業績が忘れ去られることのないようここに石碑を立てることになった。
2000年6月7日 延辺朝鮮族自治州人民政府敬建 -
延吉監獄歌(朝鮮語)
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延吉監獄歌(中国語)
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私はこの芸術劇場に何度も来た事があるのですがこの石碑とは初めての対面でした。ガイドのT君に感謝したいと思います。
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延吉芸術劇場 → 延辺朝鮮族自治州政府
遠くには旧建築物が壊されているのが見えます。延吉は今マンション建築ブームなのですが、それに伴い数少ない史跡や歴史的建築物もどんどん壊されておりとても残念です。保護できないものなのでしょうか。 -
河南ではこのあと清代の建築物を見に行く予定でしたが、大型バスが簡単に入れる場所でないこともあり断念。
そして当日の最終観光場所となった・・・ -
延吉公園へ
21名での入場となりました。 -
正門からまっすぐ進むと階段があります。
その脇で -
T君の説明がありました。何を見ているかというと
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この石
手水舎(てみずや)の水盤跡です。
ということは先ほどの階段は -
参道でした。この一帯は延吉神社跡なのです。
よく探せば鳥居、灯篭、狛犬、本殿の跡等が見つかるかもしれません。戦時中は静粛かつ神聖な場所であったはずです。
戦後の延吉日本人の引き揚げ
1946年8月15日、延吉から日本人帰国第一団が出発。
9月1日、延吉病院に勤務していた日本人90人に対して引揚げ許可が出る。医師、看護婦など技術者は含まれず。日本人の医療関係者は国共内戦において活躍し中国人より信頼されていた。延吉人民公園裏の丘には烈士陵園があり4人の日本人が奉られている。その人たちは皆な病院で働いていた看護婦である。
9月5日、延辺地区で最後の日本人帰国団が延吉を出発。
◆遼寧省葫蘆島からの引き揚げ
1946年5月7日、2489人の東北地区在留日本人を乗せた2隻の船が遼寧省葫蘆島港を出港、引き揚げ開始。
1946年12月25日に、46年最後の在留日本人3659人が葫蘆島から引き揚げ。
1948年6月4日〜9月20日、3871人が空路で瀋陽から錦州に向かい葫蘆島から引き揚げ。3年間続いた引き揚げ作業は終了。葫蘆島からの引き揚げ者の総数は105万1047人にのぼった。 -
延吉公園北西に向かって進みます。
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途中石碑がありました。
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この場所は約2000年前・漢代前後にこの地に住んでいた住人の村落跡地の一つで“小墩台遺跡”と呼ばれています。この付近からは文物をはじめとする多くの出土品があったようです。それゆえこの石碑の東西各400メートル、北300メートル、南100メートルは重点保護地域になっています。
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高台にある建物目指してあがります。
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このお二人はとてもパワーのある方です。きっと体力の要る仕事をされているのでしょう。
聞くところによると学生時代、左の男性はマリンスポーツのサークルに所属し“湘南の若大将”と呼ばれていたとか。←ちょっと古い表現でしょうか?
右の男性は高校、大学ともにラグビー部で“四国の隼”と言われていたとか
※上記私が勝手に付けた名称ですが、まったくのでたらめでもありません。Fさん、Iさん気分を害したら連絡下さい。(笑) -
頂上にはリフト。
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景色のいい場所でした。なぜこの場所に来たかというと
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貯水場跡地と
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日本人埋葬地帯
この山のどこかに多くの日本人が眠っているということです。合掌。 -
会員の皆さんと下山後、柏原会長の挨拶で延吉市内巡りは終了。T君ガイドお疲れ様でした。
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会員の皆さんもお疲れ様でした。
このあと我が家族は -
動物園に虎を見に行ったりしました。
そして最後に正門近くの輪投げ屋さんでゲーム。20本(1元)だけ投げてみることにしました。以前した時は100本投げて一つも入りませんでした。この輪投げパンダの置物に入ればいいのですが、輪と対象の大きさがほぼぴったりでとても難しいのです。しかし、次男がどうしてもやりたいと言うのでチャレンジです。
次男8本→だめ〜
長女6本→だめ〜
そしてチャンスに強く、集中力のある長男は6本をもらい投げてみると・・・ -
なんと入りました。
長女が小さな指輪をもらい大喜び。 -
延辺日本人会はまだ発足したばかりでまた人数がそれほど多くありません。しかしこの人数だからこそできることってたくさんあると思います
今回の企画を通し、会員の皆さんが昔住んでいた日本人の方を意識するようになったと思います。当地で永眠されている方から見て心がほっとするような延辺日本人会になればいいなと思っております。
当日御参加の皆さん、次回の臨時総会は2007年4月を予定しております。ぜひまた参加して下さいね!
終了
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