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延吉捕虜収容所跡地、現在の軍隊、病院、教会へ。<br /><br />この旅行記で登場する歴史年表及びそれに関する文章は延辺日中文化交流センターMさんの研究によるものです。御本人から許可をもらっており、Mさんご自身も以前延吉に在住し、こうした研究を通し、延吉に生きた日本人のその生き様を世に知らせたいという思いがあります。わたしも同感です。<br /><br />新田次郎 『望郷』 あとがきより<br />「この小説は、中共軍技術者として、延辺地区軍司令部にいたころから、胡盧島までの私の歩いた道を小説として書いたものである。ほんとうは、終戦の年の延吉捕虜収容所のことから書けばよかったが、一冬の間に、二万とも、三万ともいわれる病死者を出したこの収容所の生活はあまりにも悲惨に過ぎていて、なんとしても書くことができなかった。引揚げる途中私は、もし、生き帰ったら、この経験をなんらかのかたちで発表したいと、となりにいた男に話したら、その男は即座に、ぜひそうしてくれ、そのときには望郷という題にしたらいいといった。私はそうしようと約束した。その男は、それから一週間後に死んだ。その男の名前も、前歴も、出身地も忘れてしまったけれども、彼がいった望郷という二字は私の頭に焼きついて消えなかった」<br /><br />◆延吉と新田次郎<br />(1912~1980。本名は藤原寛人) 山岳小説・歴史小説などで有名な小説家の新田次郎も敗戦後の一時期を延吉で過ごした。新京(長春)で敗戦を迎えたのち家族とともに北朝鮮に移動したものの、新田次郎一人はソ連の捕虜となり延吉に送られる。1945年10月末から1945年12月31日までの2ヶ月を延吉捕虜収容所に入れられたのちに突然釈放。八路軍の技術者として雇われ冬を過ごし、夏になって日本人捕虜大隊の一員として胡盧島(遼寧省)より引揚げを果たした。日本引揚げまでの経験は『望郷』『豆満江』『七人の逃亡兵』(『新田次郎全集9巻』にすべて収録)に書かれているが、延吉捕虜収容所の経験は簡単にしか書かれていない。ちなみに『流れる星は生きている』の著者、藤原ていは夫人で、『国家の品格』『この国のけじめ』の藤原正彦は息子です。<br /><br /><br />

延辺日本人会 定期総会開催 市内史跡巡り大好評!② 延吉捕虜収容所

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2006/09/23 - 2006/09/23

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enyasu

enyasuさん

延吉捕虜収容所跡地、現在の軍隊、病院、教会へ。

この旅行記で登場する歴史年表及びそれに関する文章は延辺日中文化交流センターMさんの研究によるものです。御本人から許可をもらっており、Mさんご自身も以前延吉に在住し、こうした研究を通し、延吉に生きた日本人のその生き様を世に知らせたいという思いがあります。わたしも同感です。

新田次郎 『望郷』 あとがきより
「この小説は、中共軍技術者として、延辺地区軍司令部にいたころから、胡盧島までの私の歩いた道を小説として書いたものである。ほんとうは、終戦の年の延吉捕虜収容所のことから書けばよかったが、一冬の間に、二万とも、三万ともいわれる病死者を出したこの収容所の生活はあまりにも悲惨に過ぎていて、なんとしても書くことができなかった。引揚げる途中私は、もし、生き帰ったら、この経験をなんらかのかたちで発表したいと、となりにいた男に話したら、その男は即座に、ぜひそうしてくれ、そのときには望郷という題にしたらいいといった。私はそうしようと約束した。その男は、それから一週間後に死んだ。その男の名前も、前歴も、出身地も忘れてしまったけれども、彼がいった望郷という二字は私の頭に焼きついて消えなかった」

◆延吉と新田次郎
(1912~1980。本名は藤原寛人) 山岳小説・歴史小説などで有名な小説家の新田次郎も敗戦後の一時期を延吉で過ごした。新京(長春)で敗戦を迎えたのち家族とともに北朝鮮に移動したものの、新田次郎一人はソ連の捕虜となり延吉に送られる。1945年10月末から1945年12月31日までの2ヶ月を延吉捕虜収容所に入れられたのちに突然釈放。八路軍の技術者として雇われ冬を過ごし、夏になって日本人捕虜大隊の一員として胡盧島(遼寧省)より引揚げを果たした。日本引揚げまでの経験は『望郷』『豆満江』『七人の逃亡兵』(『新田次郎全集9巻』にすべて収録)に書かれているが、延吉捕虜収容所の経験は簡単にしか書かれていない。ちなみに『流れる星は生きている』の著者、藤原ていは夫人で、『国家の品格』『この国のけじめ』の藤原正彦は息子です。


旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
4.0
同行者
社員・団体旅行
交通手段
レンタカー
旅行の手配内容
個別手配

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  • 市内を案内するのは延辺大学で歴史を研究する大学院生T君。この日は日頃の研究成果発表の場となりました。当日の会計も担当、日本人会文化委員会の副委員長です。<br /><br />

    市内を案内するのは延辺大学で歴史を研究する大学院生T君。この日は日頃の研究成果発表の場となりました。当日の会計も担当、日本人会文化委員会の副委員長です。

  • 会員の皆さんも今日は何が聞けるか楽しみといった感じでした。

    会員の皆さんも今日は何が聞けるか楽しみといった感じでした。

  • まずは局子街を北へ

    まずは局子街を北へ

  • 現在の軍の施設、戦時中は646部隊、戦後は延吉捕虜第二収容所のあった場所です。<br /><br />◆延吉捕虜収容所  <br />延吉には日本の敗戦後、ソ連の手によって第1収容所(俗称28収容所・元関東軍28部隊の駐屯地)や第2収容所(俗称646収容所・元第646部隊駐屯地)、第三病院(元間島陸軍病院・987部隊・現在は延吉市陸軍路3号の223医院)が造られ、日本人捕虜の集結地となった。多くの日本人はここから「トウキョ・ダモイ」と言われ、シベリアに送られる。1946年4月にソ連が撤退してからは東北民主連合軍の吉東軍が管理した。延吉捕虜収容所について言及した中国(延辺)の 書籍はまだない。延吉市民の中でも延吉捕虜収容所について知っている人は少ないと思われる。<br /><br />「延吉にある旧日本軍第二八部隊と第六四六部隊の兵舎は、終戦後ソ連軍管下の日本軍捕虜収容所になり、それぞれ第二八収容所、第六四六収容所と呼ばれた。この収容所は、捕虜をソ連軍に移送する前の中継的性格をもち日本軍の第七九・一一二・一二七の各師団・独立混成第一三二旅団・機動第一旅団・関東軍・第一方面軍・第三軍・第五軍各直轄部隊など四二大隊約四万名が延吉に終結し、二十年九月以後入ソをつづけていた。朝鮮の平壌・興南・古茂山・富寧等から延吉に送られた総数は、約一万八千名であり、その中に北朝鮮にいた警察官・官公吏ら約二千八百名をふくんでいた。また古茂山・富寧に移動したものもあった。」(『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』森田芳夫・巌南堂書店・1964年)<br /><br /><br /><br />

    現在の軍の施設、戦時中は646部隊、戦後は延吉捕虜第二収容所のあった場所です。

    ◆延吉捕虜収容所 
    延吉には日本の敗戦後、ソ連の手によって第1収容所(俗称28収容所・元関東軍28部隊の駐屯地)や第2収容所(俗称646収容所・元第646部隊駐屯地)、第三病院(元間島陸軍病院・987部隊・現在は延吉市陸軍路3号の223医院)が造られ、日本人捕虜の集結地となった。多くの日本人はここから「トウキョ・ダモイ」と言われ、シベリアに送られる。1946年4月にソ連が撤退してからは東北民主連合軍の吉東軍が管理した。延吉捕虜収容所について言及した中国(延辺)の 書籍はまだない。延吉市民の中でも延吉捕虜収容所について知っている人は少ないと思われる。

    「延吉にある旧日本軍第二八部隊と第六四六部隊の兵舎は、終戦後ソ連軍管下の日本軍捕虜収容所になり、それぞれ第二八収容所、第六四六収容所と呼ばれた。この収容所は、捕虜をソ連軍に移送する前の中継的性格をもち日本軍の第七九・一一二・一二七の各師団・独立混成第一三二旅団・機動第一旅団・関東軍・第一方面軍・第三軍・第五軍各直轄部隊など四二大隊約四万名が延吉に終結し、二十年九月以後入ソをつづけていた。朝鮮の平壌・興南・古茂山・富寧等から延吉に送られた総数は、約一万八千名であり、その中に北朝鮮にいた警察官・官公吏ら約二千八百名をふくんでいた。また古茂山・富寧に移動したものもあった。」(『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』森田芳夫・巌南堂書店・1964年)



  • その南側には延辺大学医学院

    その南側には延辺大学医学院

  • 局子街から東に入る道・軍民路にも軍の施設<br /><br />戦時中はこのあたりに間島陸軍病院・987部隊(現在は延吉市陸軍路3号の223医院)、戦後は延吉捕虜収容所第三病院となり多くの日本人が収容されていたようです。<br /><br />1945年8月15日、日本無条件投降した日の朝、間島陸軍病院では、「正午に重大放送がある」旨が知らされる。10時半頃、ソ連軍機による爆撃(間島陸軍病院にいた日本人の手記による)。15日以降もポツダム宣言受諾の報告が伝わらず部分的に戦闘は続いた。<br /><br />8月16日、ソ連軍が間島市(延吉)に入る。<br /><br />8月23日、延吉県臨時政府が樹立される。<br /><br />9月12日〜、ソ連軍は避難民の居住地復帰を命令。琿春から延吉に避難していた日本人も再び徒歩で琿春へ戻る。<br /><br />◆「延吉での不安な収容生活約一ヵ月、九月になって食糧事情などを理由に、ソ連軍から原住地復帰を命ぜられ琿春へ向かって徒歩の旅をすることになった。十一夜の野宿。満州の九月と云えばもう晩秋であり、夜になると、グッ!と冷え込んだ。三〇里の道中、死ぬ人、子供を産む人もいれば、ソ連兵の女さらいや略奪に泣かされる人、時には地雷に触れて死ぬ人などさまざまな苦難に遭う。ある日峠道に差しかかると、四五人のソ連兵がトラックから降りて来て、坂道を登ってくる難民から荷物を略奪していた。(中略)そこは蜜江峠の激戦の跡だった。至る所に戦車や軍用トラックがひっくり返っていたり敵弾に斃れた日本兵や軍馬、中にはソ連兵なども死んでいたがどれもこれも腐っていて悪臭が辺り一面に漂っていた。」(「日ソ開戦と避難」田口敏男『遠のく昿野の空 琿春朝日開拓団回顧録』岐阜県開拓自興会朝日支部編・1982年)<br /><br />9月末、日本人居留民会が成立。<br /><br />10月〜、延吉の捕虜収容所及び病院では赤痢、コレラ、発疹チフス、栄養失調で日本人死亡者が続出。<br /><br />12月31日午後、延吉捕虜収容所から2000名余りの日本人が突然釈放される。<br /><br />釈放されたのは主に朝鮮北部で逮捕された者で、その中には新田次郎も含まれていた。しかし食糧もなく薄着であったことから行き場もなく、その内50名は再び収容所に戻る。また延吉では多くの日本人の食糧を確保できないことから、再び朝鮮に戻るように延吉日本人居留民会の代表が説得する。多くの人が仕方なく朝鮮・長春行きに分かれ出発したが 、それらの人々の多くは空腹と寒さのために犠牲になった。突然の釈放は、ソ連軍・八路軍ともに捕虜の食糧を確保できないためであったとも言われる。<br /><br />「満州に中共軍が進出してくることと関連して、延吉にあったソ連軍第五軍の一部が、平壌に移駐することになり、それととともに、延吉に収容されていた官公吏・一般市民は 、ソ連送りになるものを除いて、十二月三十一日に釈放された。何故に一般市民が延吉までつれていかれ、このときに釈放になったか、ソ連軍の意図は、不明である。(中略)そのとき釈放されたものは、北朝鮮関係約九百六十名と推測された。ほかに。満州からの抑留者が四、五百名おり、これらは原住地の満州に帰った。釈放者のうち二十数名は、朝鮮の原住地まで帰れる自信がないので、もとの収容所にもどった。平北知事山地靖之氏もその一人であった。釈放されたものは、その夜の食と宿舎について、省公署に交渉した結果、延吉日本人会の世話で、日本人収容所に分宿できた。」(『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』森田芳夫・巌南堂書店・1964年)<br /><br />「 午後一時になって、ソ連軍は第十八大隊(官吏・一般市民)を集合させ、人員を点検し、大隊の正門からつぎつぎ出していった。みな『これは変だ』と思っていると、ソ連兵がわれらの大隊の防寒具・外套・手袋などを片っぱしから奪った。大隊が本道路に出て進む間は、ソ連兵が守っていたが、半キロほど進んで、将官館の前まできたときに、いつの間にかソ連兵はいなくなって、われわれのみになった。みな呆然とした。結局、自由行動の身になったことを知った」(「海州から三合里・延吉へ」須床達仁)<br /><br />「突然、午後四時ごろ『軍人と警察官をのぞいて、全部営門に集まれ』といわれたので、とるものもとりあえず、戸外にでて整列すると、ソ連兵がいつもと違いって銃を持たず、ただ一人先頭に立って、われわれをつれて門を出た。五、六町歩いたところで、突然『諸君は釈放になった。自由行動をとれ』と通訳を通じて宣言して帰ってしまった。暮れかかった雪の荒野に放り出され、しかも朝食を食っただけで、一粒の食糧も一銭の金もなく、着のみ着のままであった」(「終戦前後」福原義晴)<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    局子街から東に入る道・軍民路にも軍の施設

    戦時中はこのあたりに間島陸軍病院・987部隊(現在は延吉市陸軍路3号の223医院)、戦後は延吉捕虜収容所第三病院となり多くの日本人が収容されていたようです。

    1945年8月15日、日本無条件投降した日の朝、間島陸軍病院では、「正午に重大放送がある」旨が知らされる。10時半頃、ソ連軍機による爆撃(間島陸軍病院にいた日本人の手記による)。15日以降もポツダム宣言受諾の報告が伝わらず部分的に戦闘は続いた。

    8月16日、ソ連軍が間島市(延吉)に入る。

    8月23日、延吉県臨時政府が樹立される。

    9月12日〜、ソ連軍は避難民の居住地復帰を命令。琿春から延吉に避難していた日本人も再び徒歩で琿春へ戻る。

    ◆「延吉での不安な収容生活約一ヵ月、九月になって食糧事情などを理由に、ソ連軍から原住地復帰を命ぜられ琿春へ向かって徒歩の旅をすることになった。十一夜の野宿。満州の九月と云えばもう晩秋であり、夜になると、グッ!と冷え込んだ。三〇里の道中、死ぬ人、子供を産む人もいれば、ソ連兵の女さらいや略奪に泣かされる人、時には地雷に触れて死ぬ人などさまざまな苦難に遭う。ある日峠道に差しかかると、四五人のソ連兵がトラックから降りて来て、坂道を登ってくる難民から荷物を略奪していた。(中略)そこは蜜江峠の激戦の跡だった。至る所に戦車や軍用トラックがひっくり返っていたり敵弾に斃れた日本兵や軍馬、中にはソ連兵なども死んでいたがどれもこれも腐っていて悪臭が辺り一面に漂っていた。」(「日ソ開戦と避難」田口敏男『遠のく昿野の空 琿春朝日開拓団回顧録』岐阜県開拓自興会朝日支部編・1982年)

    9月末、日本人居留民会が成立。

    10月〜、延吉の捕虜収容所及び病院では赤痢、コレラ、発疹チフス、栄養失調で日本人死亡者が続出。

    12月31日午後、延吉捕虜収容所から2000名余りの日本人が突然釈放される。

    釈放されたのは主に朝鮮北部で逮捕された者で、その中には新田次郎も含まれていた。しかし食糧もなく薄着であったことから行き場もなく、その内50名は再び収容所に戻る。また延吉では多くの日本人の食糧を確保できないことから、再び朝鮮に戻るように延吉日本人居留民会の代表が説得する。多くの人が仕方なく朝鮮・長春行きに分かれ出発したが 、それらの人々の多くは空腹と寒さのために犠牲になった。突然の釈放は、ソ連軍・八路軍ともに捕虜の食糧を確保できないためであったとも言われる。

    「満州に中共軍が進出してくることと関連して、延吉にあったソ連軍第五軍の一部が、平壌に移駐することになり、それととともに、延吉に収容されていた官公吏・一般市民は 、ソ連送りになるものを除いて、十二月三十一日に釈放された。何故に一般市民が延吉までつれていかれ、このときに釈放になったか、ソ連軍の意図は、不明である。(中略)そのとき釈放されたものは、北朝鮮関係約九百六十名と推測された。ほかに。満州からの抑留者が四、五百名おり、これらは原住地の満州に帰った。釈放者のうち二十数名は、朝鮮の原住地まで帰れる自信がないので、もとの収容所にもどった。平北知事山地靖之氏もその一人であった。釈放されたものは、その夜の食と宿舎について、省公署に交渉した結果、延吉日本人会の世話で、日本人収容所に分宿できた。」(『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』森田芳夫・巌南堂書店・1964年)

    「 午後一時になって、ソ連軍は第十八大隊(官吏・一般市民)を集合させ、人員を点検し、大隊の正門からつぎつぎ出していった。みな『これは変だ』と思っていると、ソ連兵がわれらの大隊の防寒具・外套・手袋などを片っぱしから奪った。大隊が本道路に出て進む間は、ソ連兵が守っていたが、半キロほど進んで、将官館の前まできたときに、いつの間にかソ連兵はいなくなって、われわれのみになった。みな呆然とした。結局、自由行動の身になったことを知った」(「海州から三合里・延吉へ」須床達仁)

    「突然、午後四時ごろ『軍人と警察官をのぞいて、全部営門に集まれ』といわれたので、とるものもとりあえず、戸外にでて整列すると、ソ連兵がいつもと違いって銃を持たず、ただ一人先頭に立って、われわれをつれて門を出た。五、六町歩いたところで、突然『諸君は釈放になった。自由行動をとれ』と通訳を通じて宣言して帰ってしまった。暮れかかった雪の荒野に放り出され、しかも朝食を食っただけで、一粒の食糧も一銭の金もなく、着のみ着のままであった」(「終戦前後」福原義晴)







  • この軍施設の隣には病院がありましたので、日本の施設をそのまま利用したものと思われます。<br /><br />軍民路のこの地点から東2キロにはソ連によって作られた延吉捕虜収容所・第1収容所(俗称28収容所・元関東軍28部隊の駐屯地)がありました。このあと行く天主教堂よりさらに東です。<br /><br />「二八の収容所は延吉市街の北端にあり、私の入隊した六四六部隊の2キロほど東にあった。北に行くにつれて穏やかな上りになる丘の斜面に二十数個の木造兵舎が並んでいた。昭和16年の関特演(関東軍特別大演習)当時に応急に建てられたもので、演習場の仮兵舎という印象であった。敷地面積は南北八百メートル、東西千五百メートルはあろうかと思われた。周囲は高さ四メートル位の有刺鉄線の柵で囲まれ、正面の唯一つの入口には鉄道の踏切りのように上下できる横木が設けられていた。この入口を入った左側に衛兵所があって、ここがソ連兵の詰所になっていた」。<br /><br />「終戦から翌年4月中旬までの僅か7ヶ月間に延吉収容所における捕虜の死亡者は、七、八千名に達するものと推定されるが、短期間にこの大量の犠牲者を出した原因は、特に抑留初期におけるソ連軍当局の劣悪な非人道的待遇によるものと認められる。寒冷期に防寒具及び適当な住居を与えられず、夏衣のまま野外生活を強いられ、飢餓状態に近い食生活、非衛生的な環境、これに加うるに敗戦の挫折感が急速に健康を蝕み、栄養失調症、胸部疾患、あるいは発疹チフス等の伝染病を蔓延させたものと断定できる」(『延吉捕虜収容所』)<br /><br />◆延吉収容所で流行った「延吉城外、宵吹雪」<br />(『果てしなき山河に』藤原雅英より) <br />1 瞳をあげて鉄鎖の窓で、名もない小鳥に呼びかけた 風に柳の揺れるさえ、今日も病衣の胸痛む <br />2 ふじ紫の可憐さを、紅の十字に染め書いた 看護(まも)るあの娘(こ)のやさしさに、延吉城外、宵吹雪(よいふぶき) <br /><br /><br /><br /><br />

    この軍施設の隣には病院がありましたので、日本の施設をそのまま利用したものと思われます。

    軍民路のこの地点から東2キロにはソ連によって作られた延吉捕虜収容所・第1収容所(俗称28収容所・元関東軍28部隊の駐屯地)がありました。このあと行く天主教堂よりさらに東です。

    「二八の収容所は延吉市街の北端にあり、私の入隊した六四六部隊の2キロほど東にあった。北に行くにつれて穏やかな上りになる丘の斜面に二十数個の木造兵舎が並んでいた。昭和16年の関特演(関東軍特別大演習)当時に応急に建てられたもので、演習場の仮兵舎という印象であった。敷地面積は南北八百メートル、東西千五百メートルはあろうかと思われた。周囲は高さ四メートル位の有刺鉄線の柵で囲まれ、正面の唯一つの入口には鉄道の踏切りのように上下できる横木が設けられていた。この入口を入った左側に衛兵所があって、ここがソ連兵の詰所になっていた」。

    「終戦から翌年4月中旬までの僅か7ヶ月間に延吉収容所における捕虜の死亡者は、七、八千名に達するものと推定されるが、短期間にこの大量の犠牲者を出した原因は、特に抑留初期におけるソ連軍当局の劣悪な非人道的待遇によるものと認められる。寒冷期に防寒具及び適当な住居を与えられず、夏衣のまま野外生活を強いられ、飢餓状態に近い食生活、非衛生的な環境、これに加うるに敗戦の挫折感が急速に健康を蝕み、栄養失調症、胸部疾患、あるいは発疹チフス等の伝染病を蔓延させたものと断定できる」(『延吉捕虜収容所』)

    ◆延吉収容所で流行った「延吉城外、宵吹雪」
    (『果てしなき山河に』藤原雅英より)
    1 瞳をあげて鉄鎖の窓で、名もない小鳥に呼びかけた 風に柳の揺れるさえ、今日も病衣の胸痛む
    2 ふじ紫の可憐さを、紅の十字に染め書いた 看護(まも)るあの娘(こ)のやさしさに、延吉城外、宵吹雪(よいふぶき)




  • 天主教堂<br /><br />記録によると1945年9月末、日本軍人家族が天主堂、省公署に移転。<br /><br />運転手さんとここの管理人さんは知り合いのようで中を見学。<br /><br />1946年1月1日午前10時、31日に釈放された日本人が省公署に集合しソ連軍と当局に援助を求める。その他約600名は南下を開始。南下しなかった196名は延吉公安局長(朝鮮人)に旅行証明書を交付するように交渉を続ける。<br /><br />1月1日、 延吉から南下した日本人約200名が龍井の病院地下室に宿泊。夜中に在留日本人が栗粥を炊き出し。<br /><br />1月2日には婦人会員の弁当が配られる。<br /><br />1月4日午後5時、31日に釈放され延吉に留まっていた日本人に対して旅行証明書が交付される。団長に山口黄海道内務部長、副団長に宮崎新義州税務署長が選ばれる。朝鮮・上三峰までは団体で行動し、その後自由行動。多くの人が犠牲になったが、生き残った人は1月26日頃平壌に到着。(参考・『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』森田芳夫・巌南堂書店・1964年)<br /><br />1月末、朝鮮の会寧にあった会寧陸軍病院の医者・患者一団は国境を難行苦行し延吉に移転(詳しくは『果てしなき山河に』藤原雅英)。<br /><br />2月3日、通化事件(中国では「通化2・3暴乱」と呼ばれる)。旧日本軍と日本人市民が国民党軍とともに暴動を起こし八路軍によって鎮圧される事件が発生。2000人の日本人が虐殺される。<br /><br />2月半ば、延吉にも通化事件の噂が広がる。これに対しソ連軍は何ら反応せず。<br /><br />3月、数千人にのぼる日本人の屍体を改葬<br /><br />春が近づき屍体が犬に荒らされるようになったため、仮埋葬されていた日本人捕虜の屍体を一ヶ所に集め埋葬する作業が大々的に行われる。第三病院の日本人職員は協議し作業班を編成。軍医・看護婦も加わり全員で作業を行う。ソ連軍に交渉し、ブルドーザーで直径50メートル、深さ7〜8メートルの巨大な穴を掘る。7〜8千名ほど(詳細は不明)の屍体が第三病院(現在の223医院)の北に埋葬された。ソ連軍はそこに立派な墓碑を建てる(聞いたことがないので今は無いと思われる)。 その他、28収容所、646収容所、偕行社、ドイツ教会に隣接した場所にも、多くの屍体が埋葬された。(参考・『延吉捕虜収容所』P148〜、『満州に残留を命ず』P128〜)<br /><br />「延吉抑留者については、(中略)栄養失調・発疹チフスなどによる越冬期の死亡が多く、二十一年三月から四月にかけてソ連軍の命で、第六四六部隊の収容所前に一か所と第二八部隊収容所の裏山に二か所、あわせて一万名の死体を入れる壕や穴を掘った。死亡者は、二十一年四月十二日、合同慰霊祭を行った際に、六八七六名を数え、二十三年六月までに、八千九百余名であったと伝えられる。」『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』森田芳夫・巌南堂書店・1964年)<br /><br />4月12日、亡くなった日本人捕虜のために慰霊祭が行われる。<br /><br />4月26日、間島省高官の清算(4・26事件)<br />吉東軍は元大和普通学校の講堂に元間島省の高官・民間有力者を集め「戦犯」として180名を拘束し3個小隊に編成する。幹部27名で編成された第1小隊は延吉監獄に収容されたのち全員 帽子山で(?)処刑された。第2・3小隊は延吉駅まで行進し列車に乗せられ安図などに送られ労働改造となった。 <br /><br />

    天主教堂

    記録によると1945年9月末、日本軍人家族が天主堂、省公署に移転。

    運転手さんとここの管理人さんは知り合いのようで中を見学。

    1946年1月1日午前10時、31日に釈放された日本人が省公署に集合しソ連軍と当局に援助を求める。その他約600名は南下を開始。南下しなかった196名は延吉公安局長(朝鮮人)に旅行証明書を交付するように交渉を続ける。

    1月1日、 延吉から南下した日本人約200名が龍井の病院地下室に宿泊。夜中に在留日本人が栗粥を炊き出し。

    1月2日には婦人会員の弁当が配られる。

    1月4日午後5時、31日に釈放され延吉に留まっていた日本人に対して旅行証明書が交付される。団長に山口黄海道内務部長、副団長に宮崎新義州税務署長が選ばれる。朝鮮・上三峰までは団体で行動し、その後自由行動。多くの人が犠牲になったが、生き残った人は1月26日頃平壌に到着。(参考・『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』森田芳夫・巌南堂書店・1964年)

    1月末、朝鮮の会寧にあった会寧陸軍病院の医者・患者一団は国境を難行苦行し延吉に移転(詳しくは『果てしなき山河に』藤原雅英)。

    2月3日、通化事件(中国では「通化2・3暴乱」と呼ばれる)。旧日本軍と日本人市民が国民党軍とともに暴動を起こし八路軍によって鎮圧される事件が発生。2000人の日本人が虐殺される。

    2月半ば、延吉にも通化事件の噂が広がる。これに対しソ連軍は何ら反応せず。

    3月、数千人にのぼる日本人の屍体を改葬

    春が近づき屍体が犬に荒らされるようになったため、仮埋葬されていた日本人捕虜の屍体を一ヶ所に集め埋葬する作業が大々的に行われる。第三病院の日本人職員は協議し作業班を編成。軍医・看護婦も加わり全員で作業を行う。ソ連軍に交渉し、ブルドーザーで直径50メートル、深さ7〜8メートルの巨大な穴を掘る。7〜8千名ほど(詳細は不明)の屍体が第三病院(現在の223医院)の北に埋葬された。ソ連軍はそこに立派な墓碑を建てる(聞いたことがないので今は無いと思われる)。 その他、28収容所、646収容所、偕行社、ドイツ教会に隣接した場所にも、多くの屍体が埋葬された。(参考・『延吉捕虜収容所』P148〜、『満州に残留を命ず』P128〜)

    「延吉抑留者については、(中略)栄養失調・発疹チフスなどによる越冬期の死亡が多く、二十一年三月から四月にかけてソ連軍の命で、第六四六部隊の収容所前に一か所と第二八部隊収容所の裏山に二か所、あわせて一万名の死体を入れる壕や穴を掘った。死亡者は、二十一年四月十二日、合同慰霊祭を行った際に、六八七六名を数え、二十三年六月までに、八千九百余名であったと伝えられる。」『朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚』森田芳夫・巌南堂書店・1964年)

    4月12日、亡くなった日本人捕虜のために慰霊祭が行われる。

    4月26日、間島省高官の清算(4・26事件)
    吉東軍は元大和普通学校の講堂に元間島省の高官・民間有力者を集め「戦犯」として180名を拘束し3個小隊に編成する。幹部27名で編成された第1小隊は延吉監獄に収容されたのち全員 帽子山で(?)処刑された。第2・3小隊は延吉駅まで行進し列車に乗せられ安図などに送られ労働改造となった。

  • 延辺大学芸術学院の前にあるこの教会には多くの信者が集まるようです。<br /><br />聞いた話ですが、ある○う○う関係の仕事をする信者が市内の教会に熱心に通っていたそうです。礼拝後には、信仰を促す発言もあったようで、次の週どこからその話が伝わったのか2度とそこに行かないように、次に行ったら・・・と念を押されたそうです。礼拝に参加する人の中には違う目的で参加している人もいるようです。信者の更なる自○な活動が願われます。<br /><br />※この教会とは直接関係のない話です。

    延辺大学芸術学院の前にあるこの教会には多くの信者が集まるようです。

    聞いた話ですが、ある○う○う関係の仕事をする信者が市内の教会に熱心に通っていたそうです。礼拝後には、信仰を促す発言もあったようで、次の週どこからその話が伝わったのか2度とそこに行かないように、次に行ったら・・・と念を押されたそうです。礼拝に参加する人の中には違う目的で参加している人もいるようです。信者の更なる自○な活動が願われます。

    ※この教会とは直接関係のない話です。

  • きれいな教会です。

    きれいな教会です。

  • 見学する会員の皆さん

    見学する会員の皆さん

  • 会長も興味を持って見学されていました。

    会長も興味を持って見学されていました。

  • 延吉捕虜収容所で亡くなられた日本人の皆さんの御冥福をお祈りいたします。<br /><br />延辺日本人会 定期総会開催 市内史跡巡り大好評!?に続く

    延吉捕虜収容所で亡くなられた日本人の皆さんの御冥福をお祈りいたします。

    延辺日本人会 定期総会開催 市内史跡巡り大好評!?に続く

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