1995/05/03 - 1995/05
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buchijoyceさん
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ベラルーシへは94、’95,’96年と3年連続で行った。はじめは連れられてキエフから、2度目は夫と二人だけで、前もってインビテイションを取っておいてもらって、ミンスクだけでなく、ホイニキやベリキボールの子ども達の家をまわった。3度目はこれまた二人で、しかもビザもとらず、インビテイションもなく行った。アンドレイさんには到着を知らせておいたので、迎えに来ていてくれたので事なきを得たが、入国には時間がかかった。
ミンスク
さて、話は1995年5月。
95年はアンドレイさんにインビテイションをとっておいてもらって(まだ日本にベラルーシ大使館がなかった)、夫と二人だけで行った。空港で入国票を出すと、インビテイションが届いていると言って入国手数料を払っただけで簡単に入国できた。
空港にはアンドレイさんが自分の車で迎えに来ていてくれた。このときは、アンドレイさんはベラルーシの大統領選挙の仕事で忙しく、私たちの案内ができないからと、その日はアンドレイさんのお宅に泊めてもらい、翌日からデニスの家に滞在した。
93年4月、チェルノブイリ原発事故で被曝した子ども4人デニス、ルスラン(以上男の子)、エレーナ、アーラ(女の子)を我が家に1ケ月預かった。その時通訳として子ども達についてきてくれたのがアンドレイさんである。日本語は上手だし、漢字も読める。空港からミンスクまでの車の中で、「以前はこのあたりはタクでした」と説明した。「タク?タクってなんのこと?」わからない。するとアンドレイさんが漢字を書いた。「あ〜、沼沢のタくね。湿地だったってことね。日本人でもタクなんて言葉は使わないよ」
4人の子どもの一人、デニスのママのエレーナさんは美人でその上料理が上手だった。私たちを心から迎えてくれた。アンドレイさんのアパートは中心に近く、外観はレンガ張りだが、デニスのアパートは、バスで30分ほどかかる郊外のコンクリート建ての一大団地内にある。旧ソ連の建物にはこれによく似たものが多いが、地震には弱そう。ここにはチェルノブイリ事故で避難してきた人たちが多く住むときいた。
フラットは家族数に応じて割り当てられるのか、中のつくりはどちらもほぼ同じ。広いリビング、子ども部屋、食事のできるキッチン。入り口のフロアがかなりある。集中暖房なので、暖房器具はいらない。湯もいつも使えるようになっている。私たちのためにバスタブに湯をはってくれた。
社会主義の名残か、市民生活の基本の公共料金や食料品は安く抑えられている。そかわり必需品以外のものは高い。フラットの家賃も少しずつ値上がりしていると聞いた。都市の住民には、資格が必要なようだが、市から郊外に土地が割り当てられる。かなりの広さがある。都市住民はここを利用して、セカンドハウスを建て、畑をつくり暮らしの足しにしている。これをダーチャという。アンドレイさんも2階建を何年もかけて、自力で建てた。ゆくゆくはペンションにしたいのだそうだ。
エレーナさんは近く割り当てがもらえるということだった。フラットは余計な家具がないからか、すっきりと片づいている。壁にはスラブの伝統なのか、大きな絨毯が貼られている。
今にも止まりそうな、がたがたいうエレベーター。電気を極力抑えているので、廊下の灯りは必要最低限しかない。ゴミ収集車を見ていたが、そんなにゴミは出ていない。市内も市外もゴミであふれている様はなかった。
ミンスクはベラルーシの首都である。文化施設もある。したがって文化にふれることが出来た。国立美術館や博物館、昔の村を保存してあるところにも行った。
デニス一家が誘ってくれたバレエ「胡桃割り人形」。席は3階の最前列。ホールはきれい。見回すと座席は埋まっている。オーケストラの編成がちょっと違っているがいい音を出していた。もともとクラッシクバレエはロシア生まれ、伝統がある。観客にはバレーを習っているような姿の子ども達が大勢いた。ただ、上演中にさかんにフラッシュがたかれるのは気分を害した。
外に出ると、デニスが「金平糖の踊り」を口ずさみながら、まねして踊っている。バレエは親しんでいるんだろう。でなかったら、こんなことはできない。次の出し物を見るとオペラ「カルメン」だった。いまでこそソ連崩壊とチェルノブイリ被災で経済的に苦しい国づくりをしているが、かつては生活の文化程度は高かったのだろうと思う。
両替所にドルをベラルーシ・ルーブルにチェンジしようと行くと、人だかりがしている。そんなに両替する人がいるのかと思いきやヤミの両替人が両替所に来る客を待っていたのだ。こっちの方が率はいいとさかんに言うが、やはり両替所で両替してもらう。100ドルも両替すると、札束が出来た。急に金持ちになった気分だ。(うろ覚えだが、当時1ドル、11,000BRくらいだったか??)当時の公務員の平均給与は6,000円ぐらいだった。だんだんよくなって、最後に行った時は15,000円ぐらいだと聞いた。いまはいくらぐらいだろうか。
ミンスクには古くから子どもだけで運営する子ども鉄道がある。遊園地の電車程度のものだが、運転手も車掌もみな子どもである。車掌さんの写真をポラロイドで撮ってあげる。アンドレイさんは子どもの頃、父親に子ども鉄道に乗りたいというと「パトム(後で)」といわれ、乗るのは今日が初めてだと言った。
男の子がずっと私たちについてくる。私たちが帰ろうとすると、なにやら言い出した。「ねぇ、この子、なんて言ってるの?」とアンドレイさんにきくと、「写真を撮ってくれといっている」と言いながら、彼がカメラを向ける。
「違う、違う、彼のほしいのはこっち」と、私がその子に写真が出てくるジェスチャーをするとうなずいている。彼もポラロイドで写真を撮ってもらいたかったのだ。お安いご用。写真を渡すと、男の子はうれしそうに「サンキュー」と言って帰っていった。
車をチャーターしてハティンへ行った。1943年3月22日、ドイツ軍はこの村を包囲し、老人、婦女、子ども149人を銃殺し、家に火を放った。ただ二人生き残った少女がこの惨状を伝えたことから、皆殺しの実体が浮き彫りにされた。ハティンは子どもを抱えた男の大きな立像があり、皆殺しにあった村の各家々に鐘楼がつけられ、何分がごとに自動で鳴る。戸口にはかつての住民名と虐殺当時は何歳だったか、一戸一戸書いてある。
そして同じように抹殺された180近い村々のその村の土を入れた記念碑もある。石で囲まれた小さな池、というより水漕に、紙幣がたくさん浮いていた。ベラルーシにはコインがないので紙幣を投げ込むようだ。それにしてもコインにせよ、紙幣にせよ、お賽銭をあげる風習は洋の東西を問わず存在するようだ。
帰りは森の中でたき火を焚いて、ピクニックをした。慣れているらしく、準備は手早い。デニスも大人達と小枝を集めに行く。アンドレイさんが我が家にいたとき、桜の枝を集め、たき火をしようと言った。日本では消防署の許可がないと、街中ではたき火ができないのだというと、腑に落ちない様子だったが、彼らにしてみれば森でのたき火は日常的なことだったのだろう。デニスが森の奥から薄い紫のオキナソウに似た花を摘んできてくれた。やさしい色だ。片づけも早い。大体ゴミが出ない。残り物や空き瓶やコップは持って帰る。火の始末をし、パンを一切れ枝にさして野鳥達へのプレゼント。
5月9日は戦勝記念日、ナチスからの独立を記念して祝う。ベラルーシのテレビは各地で行われるパレードをこれでもか、これでもかと流す。ベラルーシは徴兵制があり、軍隊がある。目抜き通りではミサイルを積んだトラックや戦車のパレードが続き、ヘリコプターや飛行機によるデモンストレイションも行われる。人々は花を片手にパレードを声援する。
夜には花火があがり(といっても5分に一度それも安い花火)、あちこちのアパートから「ウラー。ウラー」と歓声があがる。5月の夜は身をさすように寒い。
ベラルーシは内陸で、日本の半分の国土に東京都の人口が住む。見渡す限り平野で視界を遮るものは松の森。もともと沼地が多い。モスクワへの中継点であったため、歴史的にも幾度となく戦火に踏みにじられた。首都ミンスクも戦火に焼かれ、古い建造物はあまりない。古い住宅街を残す一角があるだけ。
マーケットにも行った。大きな体育館のような建物の中に市場がある。品物は十分ある。この市場の敷地内に青空市場があり活気を呈している。蜂蜜のいっぱいついた蜜蝋を切って売っている。そのまま手で口に入れしゃぶった。あまーい。まぎれもなくハチミツそのもの。
市場の外には手に手に売りたい品物を抱えた人たちが立っている。ほんの一つか二つしか持っていない人もいる。現金に換えたいからだろう。子猫や子犬を売りに来ている人々もいる。辻音楽士もいる。果物をずいぶん買い込んだ。
団地内にあるデニスの学校にも行った。観葉植物がいっぱい飾られたきれいな学校だ。ロシア語の授業に参加したがロシア語が出来ないので、こどもたちに日本のことを伝えられなくて残念だった。
大統領選挙の投票もエレーナさんについていった。ものめずらしがって写真を撮って、腕章をした女性に注意を受けた。でもこんな体験は貴重。
エレーナさんは元教師で、当時は新聞社でロシア語をベラルーシ語に直す仕事をしていた。横道にそれるが、ロシア語で砂糖のことを「サハル」、ベラルーシ語では「チッカル」という。ベラルーシ語はドイツ語に近い。砂糖という言葉はアラビヤ語に由来する。そもそも砂糖がヨーロッパに入ったのはアラビヤ商人によってもたらされたからである。それまでは、ハチミツ。アレキサンダー大王の軍隊がインドで、ハチミツではない甘い固まりを見つけてそれを少し持ち込んだと言う記録も残っている。
歴史上一番先に「世界商品」となった砂糖の歴史には、コーヒーや紅茶と同様厳しい辛い歴史がある。またイギリスの朝食が今のスタイルになったのは砂糖とふかく関わっている。これはいずれイギリスのときに。エレーナさんが仕事を休んでホイニキやベリキボールへ一緒に行ってくれることになった。デニスは汚染地域の近くに行かせるのは心配だと、留守番をすることになりむくれていた。ただし、エレーナさんは英語も日本語もできないし、私達はロシア語もベラルーシ語もできないから、これからの旅は片言しか通じない。
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