1970/12 - 1971/02
2298位(同エリア3505件中)
KAUBEさん
- KAUBEさんTOP
- 旅行記34冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 54,806アクセス
- フォロワー5人
離人症の谷?
ぼくの離人症は続いていた。
現実は、常に薄い、
しかし決してほころびることのない
ベールの向こうにあった。
そして……
第三章 新しい仕事
●消えたペーター
ともかくも最初の二週間は過ぎた。
離人症という奇妙な病気とは何とか付き合いながら、ここでこの冬を越すしかないだろうと、ぼくも腹を決めようとしていた。
昨日も、そして今日も穏やかな晴天が続いている。こんなことはここに来てから初めてだ。
「ペーターを見なかったか」
朝、いつものように食堂に出ると、主人が待ち構えていた。
顔がこわばっている。何があったのだろう…。
「ペーターならいつもぼくより早く起きて…」
「そんなことはわかっている! 奴を見かけなかったかと聞いてるんだ」
「いつもならこの時間は玄関の前の雪を…」
「いないから聞いてる!」
そういえば今朝はあそこで雪を除けているペーターを見かけなかった。
主人のいらだった様子に首をかしげながらぼくは台所に逃れた。台所に行くとマルタとルシンダが同じことを聞いた。
「ペーターは?」
「知らない」
二人は同じように両手を広げ、顔を見合わせた。
ペーターが逃げ出した、という情報がささやかれたのは、カールとインゲが朝食にやってきたときだった。
主人がペーターのベッドやロッカーを調べたら荷物がみんななくなっていたのだという。
食堂に戻ると、いつもにも増して不機嫌な顔で主人がつぶやいた。
「スキー置き場から奴のスキーがなくなっている。スキーで逃げ出したんだ。間違いない」
主人は吐き捨てるようにそう言いながら自分のカップにコーヒーを注いだ。
勢い余ってコーヒーがテーブルクロスを汚し、舌打ちして彼は苛立ちをあらわにした。
「ペーターはスキーだけはうまいのよね。お天気もいいし、大丈夫よ」
ルシンダの不用意な一言が主人の不機嫌に輪をかけた。
「そんなこと心配してるんじゃないっ! さっさと食って自分の仕事に戻れ」
だがそのことがああいう形で自分にかかわってくるとは、そのときは思いもよらなかった。
何日かして、一人の少女がやって来た。
「明日からこの人に台所を手伝ってもらう。シルビア・オルセンだ」
「シルビアです」
まだ十六、七歳と見える、白っぽい金髪と形のよい小さな鼻がとてもかわいいなかなかの美少女だけれども、青緑色の大きな目が冷えびえと悲しい表情をしている。
かわいい子が来たのはうれしいが、それより台所の人手はもう間に合っている。
必要なのはペーターの代わりではないのか。
まさかそんな…。
ある想像がぼくを怯えさせた。
ペーターのやっていた仕事は雪かき、つらら落とし、ゴミ捨て、食料の運搬、といった主として野外の力仕事だ。
まただれか頑強な男を雇うのだろうと、他人ごとのように考えていた自分が甘かったのか。
何よりも、ぼくは自分が台所のスタッフからはずされるのが不満だった。
そして、氷点下の外気の中での力仕事。
屈強というにはほど遠い自分の体力のことも思った。
翌朝、朝食を終えると主人がぼくを呼んだ。
「今日から台所はいい。貸しスキーの管理をやってもらう」
そういえば貸しスキーの管理もペーターの仕事だった。
管理、といっても宿泊者にスキーを貸し出し、使ったスキーを並べて整理するだけである。
無料だから帳簿をつけるわけでもない。
持ち逃げできる環境ではないからデポジットを取る必要も、名前を控える必要もない。
まして大半の人は自分のスキーを持ってくるので、借りる人の数は知れたものだ。
ぼくは、いかにもそれが主な仕事だというように、そればかりを表立てる主人に対して身構えた。
主人はぼくをスキー置き場に連れて行き、管理の要領を説明した。わざわざ説明してもらうほどのことは何もなかったが、この仕事ばかりを表立てて言った手前、彼はくどくどとスキーの管理についてレクチャーした。
そしてそれが終わるとこう言った。
「勤務時間は六時半から十二時、午後は三時から六時だ。わかったな」
「朝六時半からスキーの管理ですか」
逆らってみた。
「黙って言うとおりにしろ。いいな、わかったな! わかったらこっちだ。ついて来い」
そのときから新しい仕事が始まった。
主人の後について外に出ると、雪上車で届いた食糧の山が、雪の上に積み上げてあった。
「これを倉庫に入れたい。手伝ってくれ」
彼はダンボール箱を一つ抱え上げながら指図した。
牛乳の缶が五つ、五キロずつ箱詰めになったバターとチーズ、ジャガイモや玉葱の入った箱、缶詰類、冷凍肉など、一つ一つが三キロから十キロある。
一つずつ運びながら、これからはこの作業を「手伝う」のではなく、ぼく一人でやるのだと思った。
その日はどの仕事も主人が率先してやり、そして「ちょっと手伝ってくれ」と、そういう言い方をした。
その見え透いた欺瞞を、ぼくは激しく嫌悪した。
思ったとおり、それは初日だけだった。
次の日から主人は、それが当然というようにあごをしゃくってそれらの仕事をぼくに命じた。
●ゴミ入れの底
命令系統は主人じきじきになった。
台所ではすべてマルタの指示で動いていたが、外回りの仕事は主人の直轄である。
起きるとまず、黄色い街灯の光を頼りに玄関前の雪を除ける。
宿泊棟から本館にやって来る宿泊者が滑ってけがをするから朝起きたらすぐにやれ、と主人は言った。
しかし現実にはそんなに早く起きてくる宿泊者は皆無で、降っていれば彼らが食堂にやってくる頃には、玄関前はふたたび新雪に埋もれていたりする。
だが、星のまたたく朝の時間は、例の症状にはとりわけ大敵だ。
もっとも、朝がきたという実感が持てないままに一日が始まるというのは、べつに離人症などでなくても現実感が薄い。
立ち止まって空など見上げていると、星のきらめく朝の空に自分自身の症状が投影されて神経が激しくきしむ。
だからこの時間にはなるべく何も考えないで、やみくもにスコップを動かす。
朝食のあとも、軒先のつらら落としや荷役など、戸外での仕事が続く。
マイナス十数度という気温の中では、いくら体を動かしても温まってはこない。
風の強い日などは、それどころか体の芯が冷え切って、全身の動きが硬直したようにぎこちなくなってくる。
そんなとき、一つの仕事が終わった区切りにちょっと玄関に足を踏み入れて暖を採ろうとすると、どこで見ているのか必ず主人が現れる。
「こんなところで何をしている。休憩時間じゃないぞ!」
そして仕事をいいつけ、いっときも屋根の下にいることを許さないとでもいうように、ぼくを雪の中に追い出す。
右足を心持ち引きずりながら、玄関に立ちはだかってぼくを寄せつけない主人のずんぐりとした短躯を、ぼくは次第に恐れ、嫌悪するようになっていった。
その常軌を逸した厳格さと、仇敵を見るような上目遣いの視線は、何か異様な鬼気のようなものを感じさせる。
そしてそこには、何ものかによって重く抑圧されたような、謎めいた心の暗闇が見える。
除雪作業も、三回に一回はやり直しを命じられる。
ぼくはそれほどぶざまな仕事はしていないつもりだし、第一、除けても除けても吹きつける吹雪の中での除雪作業は、非常識といえばあまりにも非常識だった。
だが彼は有無を言わせず、ぼくを二度、三度と吹雪の中に追いやった。
極めつけは台所のゴミ捨てだった。
台所の生ゴミは、宿泊者の数にもよるが一日に二回か三回、裏山の斜面を五十メートルぐらい登ったところに掘られたそれ用の穴に捨てに行く。
生ゴミの入った、人一人すっぽり入るぐらいの大きなドラム缶を担いで、一歩一歩腰まで雪に埋もれながら運び上げる。
生ゴミは重い。
ほとんど引きずるようにそれを運び上げると、それをぶちまける力はしばらく出ない。
ひと息ついてから、ふたたび満身の力を込めてヤッ! とぶちまける。
からになったらその中へ雪の塊を放り込んで缶の内部を掃除する。
手早くやらないとこの気温では缶の内側の水分がすぐに凍りついてしまう。
戻ると台所の外に主人が立っていて、缶の底をのぞき込む。
「何べん言ったらわかるんだ。底が汚れたままだ。ゴミ捨てぐらいもうちょっとまともにやれ!」
そして蛇のような目でにらみ上げる。
それはもう仕事に対する厳しさなどというまっとうな叱責には遠い、異様ないじめの世界のように思えた。
ぼくはもともと寒さには強いほうだ。
もちろんこれほどの寒さは初めてだが、そんな中でもぼくは寒さというものをそれほど恐れない。
だから自分があの屈強な雪男のペーターと同じようにはやれなくても、自分なりにやれるという自信はある。
吹雪の中の作業にもそれほど抵抗は感じていない。
抵抗を感じているのは、台所仕事を取り上げられたことと、そして主人の偏執狂的ないじめに、である。
宿泊者が数人しかいない朝だった。
朝食を終え、少しくつろいでコーヒーのお替りを楽しんでいるところへ主人がやって来て、ちょっと来いとあごをしゃくった。
「今朝玄関の雪かきをしたときスコップはどうした」
「いつものところに立てておきましたけど、それが何か」
「行ってよく見て来い。裏に雪がくっついたままだ」
スコップの裏にこびりついた雪片を棒でこそげ取ってから、しらけた気分で食堂に戻って残りのコーヒーに口をつけようとすると、主人は入れ替わりに立ち上がり、またすぐに戻って来た。
「落とした雪が散らかったままだ。もう一度行ってやり直して来い!」
無理難題を吹っかけられている、という気がした。
ぼくは言われた通り外に出て、さっきスコップの裏からこそげ落としたわずかな雪を足で蹴散らした。
そしてもう残りのコーヒーを飲みに戻るのはやめて、仕事に取り掛かった。
ぼくがしだいにまともに働かなくなっていったのはそのあたりからだった。
主人が何を言っても本気で受け止めないように努力し、少しでも主人の目の届き難い場所に逃れることを心がけるようになっていった。
主人の目の届かない場所は一つだけある。
食糧倉庫。
玄関の右手から雪を切って掘られた階段を下りて大きな木の扉を開けると、たくさんの棚の上下に食糧が山積みになっている。
もちろん暖房はないが、風は入らないし、それに外の仕事用に着込んでいるからそう寒くはない。
ぼくはそこでしばしば仕事をサボるようになった。
大きな牛乳の缶に無造作に突っ込まれている杓子で牛乳を飲むために台所からグラスを持ち出したり、卵に穴をあけてすするためにロンドンで買ってきた醤油の小ビンをヤッケにしのばせてきたりもした。
小さなナイフを持ってくれば、何種類ものチーズを試食することも出来た。
そして、ここにはマルタが来ることはあっても、決して主人が来ることはない。
マルタのいるところに主人は来ない…。
なぜだかわからないけれども、そのことをぼくはもう知っている。
「どこへ行ってたんだ!」
ぼくが消えていた時間を主人はそんなふうに問いただし、いらいらと怒鳴りつけたが、ぼくはもう動じなかった。
彼は相変わらず一日中ぼくに命令し、しつこく小言を繰り返したけれども、ぼくはしだいにそれを聞き流すようになった。そして、小言を言われないように努めるのもやめた。
午後の休憩時間にも、それまでは自分の体力を考えて、仕事に差し支えるほどスキーで疲れないよう気をつけていたが、以後はスキーに差し支えるほど仕事をしないように気をつけるようになった。
こうやって何とか春までつなげればいい…。
●味方
一月二十六日、この建物に初めて日が差した。
南の空の低いところを通り過ぎる太陽の光は、南の空を遮る山のせいで裏山の上の方には差してもこの谷間には届かなかい。
そんな日の光が少しずつ下りてきて、裏の線路のあたりまで差し始め、そしてとうとう今日はここにもその弱々しい光が、ほんの申しわけ程度にだけれども差し込んだ。
これからは日照時間はゼロではなくなる。
一日に何分かでも日が当り、短い昼間の時間も少しずつ長くなっていく。
春に向かって確実に動いている太陽を、みんなそれぞれの思いで眺めたことであった。
そしてその日、女性ばかり八人のイギリス人のグループが着いた。
主人はもう自分で決めた労働時間などというものも忘れたように、昼となく夜となくぼくに用を言いつけるようになっていた。
そんなぼくが宿泊者と自由に交流できる時間といえば、立ち止まって話などしていたらそのまま凍ってしまいそうなゲレンデにいるときだけだった。
この日やって来たイギリス人の女性たちは、ぼくのそんな立場を見て取って、食事どきには八人のうち何人かは必ずぼくのテーブルに来るようになった。
ある日の夕食どき、ぼくが食後のコーヒーをすすりながら彼女たちと談笑していると、主人がやって来て用を言いつけた。
「外に荷物が届いた。すぐ行って倉庫に運んどけ」
ぼくがコーヒーを置いて立とうとすると、テーブルにいた三人がぼくを制しながら、主人に向って言った。
「まだ食事中ですよ」
「今じゃないといけませんか」
「あと十分待ったら外の荷物は消えてしまいますか」
静かで礼を尽くした物言いではあるが、それは毅然として譲らない強い響きを持っていた。
不機嫌な様子をあからさまにして、まだ何か言おうとする主人に、今度は隣りの席にいた残りの五人が一斉に反発した。
鋭い視線をぼくに残して、主人はさすがにあきらめたようだった。
何事もなかったような穏やかな表情で、彼女たちはまたもとの話題に戻った。
そんな八人の中にキャサリン・モリスンがいた。
明るい茶色の髪の、細身の、整った、しかし地味な顔立ちの彼女は、食事のときは必ずぼくの席にやって来た。
イギリス人らしいていねいな英語をゆっくりと話す人で、ぼくのもたもたした英語をいつも懸命に引き出そうとしてくれた。
ぼくが外で働いているときも、主人の目を気にしながらチョコレートなんかを届けてくれたりもした。
そんなキャサリンの心遣いはぼくを和ませ、そしてそのことが、主人のしつこい小言と厳しい寒さの中でひたすら耐えてきたぼくの心の一角をふとゆるがせた。
「主人は厳しい人ね」
「そう、厳しすぎる」
「そうね。まるで何かに怯えてるみたい」
彼女たちが去る日は穏やかな晴天だった。
ぼくが、男子棟の脇に昨夜吹き溜まった雪と戦っているところへ、リュックを背負って帰り支度を整えたキャサリンが立っていた。
弱々しい太陽だけれども、それでも今日はそのおかげでマイナス五度という暖かさだ。
「イギリスに来ることはあるかしら」
「わからないけど、多分もう無理だと思う。イギリスは最近外国人の不法労働に対して厳しくなったっていうからね」
「残念ね。でも…」
言いながら彼女は自分の住所を書いた紙片をぼくのヤッケのポケットにそっと入れ、そして声を落としてささやいた。
「でも、もし来ることがあったら、きっと連絡してね」
そしてもう何も言わなかった。ぼくたちは太陽に手をかざして山を見上げていた。山の向こうの、白い逆光の空に、キャサリンたちがいた二週間のことが暖かくやさしい映像になって見えた。
視線は山を見ているけれども、キャサリンもやっぱり同じものを見つめているのだと思った。
そしてそう思うことでぼくの心は温かくなった。
●凍てついた誤解
キャサリンたちのガードが取り除かれて、主人の風当たりは予想したとおり一段と強くなった。
一方ぼくのほうは、ここで何とか春まで、という気持ちに少し変化が見え始めていた。
それは一陣の温風が張り詰めた氷にあけた小さな穴のようなものだった。
温風は吹き去ったけれども、氷にあいた穴は埋まらなかった。
これ以上ここにいることにどんな意味があるのだろうか…。
ぼくは日に日につのるそんな思いに当惑していた。
そんなある日、奥さんに言われてぼくは男子棟の出入り口の床にこびりついた氷を取り除く作業をしていた。
「誰かが滑って転ぶといけないからね、お願いしますね」
彼女はそういう言い方をした。
「やっとけよ、わかったな!」という主人の罵声に慣れたぼくは、彼女のそんなやさしさにようやく人間扱いしてもらったような気がして、すぐにその作業に取りかかった。
だがその前に、食堂の軒先に下がったつららを落としておくように主人から言われていたのを、うっかり忘れていたのである。
「こんなところでサボっていたのか!」
主人の罵声が飛んだ。はっとしてぼくは立ち上がった。
「あの、これは、その、ミセス・エリクセンが…」
言い訳がとっさに出かかったが、次の瞬間、ぼくは自分のあまりにも不利な状況を思って言葉を呑んだ。
そこは男子棟の、つまりぼくの部屋のすぐ前で、心地よい陽だまりになっている。
しかもぼくときたら、そこにどっかと腰を下ろして、小さな斧で床の氷を小突いているところだったのだ。
命令を無視して自室の前でサボっていると見えたであろう主人に、言い訳はほとんど意味を持たないと思った。
「何も言うな。命じたことを今すぐやるんだ!」
つらら落としは昼までかかった。
その日の昼食の席で奥さんがぼくのテーブルにやって来て、いつになく険しい表情で言った。
「あたしはさっき男子棟の前の氷を割っといてくださるように頼んだわね」
「あ、はい…」
「どうしてやってくださらなかったのかしら」
「……」
早く事情を説明しなければ、誤解を解かねば、という気持ちがぼくを焦らせた。
「あ、あれは…、ごめんなさい、あれは、ほんとに、ごめんなさい」
この異様な小社会の中で、自分を理解してくれるのはこの人しかいない、という思いが、かえってぼくを口ごもらせた。
「とても残念だわね。あとできっとやっといてくださいね」
もう疲れた、と思った。
弁解も、説明も、もういい…。
部屋に戻って狭い二段ベッドの下段に体を投げ出した。
するとまたあの離人症の症状が頭をもたげてぼくの神経を揺さぶった。
それは以前より少しばかり薄れているようにも思え、また少しも薄れてはいないようにも思えた。
ただ、とりあえず正体がわかった分、ぼくの神経はそのことで以前のように右往左往することはないのだという気がした。
どのみち放浪は孤独なのだ。
そしてその寂しさや心細さがこの異様な環境の中でぼくの神経にちょっとした異変をもたらしたのに違いない。
だがその一方で、それにしてもこの「孤独」はどこか普通ではないという気がした。
そしてそんな波立つ思いのどこかから、ここにいるのはもうやめたほうがいい、という思いが、押さえても押さえてもこみ上げてきた。
二、三十分もそうしていただろうか。
ぼくは思い直して立ち上がった。
午後の休憩時間を一時間だけ返上して、ともかくあれだけはやっておこう。
斧を持ち出し、男子棟の入口に座り込んで、コンクリートの床に張り付いた氷を丹念に取り除いた。
珍しいくらい穏やかなお天気で、そうしていてもそれほど寒くはなかった。
だがその直後から天候は急変した。
夕方の仕事を終えて自室に戻るときは、ぼくがさっき氷を取り除いたコンクリートの床に雪が間断なく吹きつけ、そこを踏んで出入りする宿泊者たちによって、もう新しい氷の層が出来上がっていた。
ぼくが奥さんのいい付けを守ったという証拠は完全に消えていた。
●労働許可
ベルゲンへ出よう。
一応あれだけの都会だ、何とかなるかもしれない。
それに少しは蓄えもある、ゆっくり仕事を探せばいい…。
ここを出ることを具体的な形で考え始めたのはその夜からだった。
数日後、主人がルシンダとぼくを呼んだ。
申請していた労働許可が下りることになったから、ヴォスの町へパスポートを持って行って来いという。
翌朝七時、ルシンダとぼくはあの恐怖の乗り物でミヨルフィエルの駅まで運ばれ、そこから列車でヴォスに出た。
着く頃、ようやくあたりが明るくなっていた。
八時。それでもだいぶ夜は短くなった。
小さな教会を囲むように、雪の中にひとかたまりの家並がうずくまるささやかなヴォスの町も、ぼくにとっては久しぶりの町である。
小さくてもここには店もあるし、郵便局や役所もある。
「ふーん、ナイスタウン」
「イエス、ナイスタウン」
ルシンダとはそんな断片的な会話しか交わさなかったけれども、ロンドンっ子の彼女もやはり同じ思いだったに違いない。
ぼくたちは主人から聞いていた通り、警察署の外国人課を訪ねた。
係官は退屈していたらしく、下手な英語で下手なジョークを連発しながら、ぼくたちのパスポートに大きなゴム印を押した。
ノルウェー語はわからないが、ドイツ語の「アルバイト」に非常によく似た単語を見つけて、多分これが「労働」で、次のが「許可」だろうと納得した。
期限は四月三十日までになっている。
用件は十分で終わった。ぼくたちはそれが当然、というように右と左に分かれた。
帰りの列車は午後三時までない。
今ようやく九時になるところだ。
幸い穏やかな天気で、ぬくぬくと太陽が昇り、歩いていてもそんなに寒くはない。
ぼくはまず散髪をしてさっぱりしてから多少の買い物をした。
歯磨きや石鹸といった日用雑貨はあそこにも一応揃っていて、事務の窓口で買うことが出来るけれども、航空便用の便箋や封筒、ノート、それに下着や靴下となると、この機会を逃してはもう手に入らない。
小ぢんまりとした店々が並ぶ商店街にはちらほら主婦の買い物姿も見え始め、それなりの賑わいを見せていた。
パン屋、花屋、文具店、小さなスーパーマーケット、それに銀行やホテルも一応ある。
道幅は意外に広く、その広い車道をにぎやかにスノータイヤの音を響かせて車が行き交う。
といっても車は決して多くはないし、みんなのろのろ運転だから、歩行者はどこでも自由に横断する。
車道の真ん中を我が物顔に占領してソリ遊びに夢中の子供たちもいる。
そしてその一番奥まったところに教会があって、その北欧風の教会の建物を見事に樹氷をつけた立ち木が囲んでいる。
十分も歩くと街外れの雪原に出てしまうささやかな町並みを行ったり来たり、精一杯道草を食いながら予定の買い物を済ませるまでに、ルシンダに少なくとも五回は会った。
「ふん」という表情で行き過ぎる彼女に、こちらも「へん」とそっぽを向く。
しかししばらく行くとまた会ってしまう。
商店街はこの一本だけ、しかも店のあるのは片側だけだからお互い避けようもないのである。
まさか三時までずっと歩いているわけにもいかず、少し早いが昼にしようと、ぼくは小さなカフェテリアの扉を押した。
暖房のよく聞いた快適な店内で、ハンバーグのランチをとった。
ノルウェーの人はなぜハンバーグにこんなにたくさんナツメグを使うのだろうか…。
そのナツメグ臭いハンバーグを食べながら、ぼくはポケットを探った。
さっき労働許可のゴム印をもらったパスポートがあった。
労働許可か…。
ぼくはもう逃げ腰になっている自分の気持ちに照らして、その皮肉なゴム印を眺めた。
それからぼくはまた少し歩いてから今度はカフェに入った。
とくに飲みたいわけではないが、歩き疲れたし、それに寒くもなってきた。
カフェの大きなガラス窓の外の空気が夕方の色を帯び始めていた。
午後二時を回った。
列車の時刻が近づいていた。
あんなに穏やかな天気だったのに、夕暮れとともに雪が舞い始めた。
ヴォスの駅の狭い待合室で、ルシンダが凍えた手をストーブにかざしていた。
「雪になったわね」
「風も出てきた」
ここからミヨルフィエルまでの二十五分は、外がどんなに寒かろうと、荒れていようと、暖房の効いた列車で快適な小旅行を楽しむことが出来る。
ルシンダもぼくも、そのあとを心配しているのだった。
ミヨルフィエルに着く頃には日は暮れ落ち、案じたとおり雪も風も強まっていた。
あの無言の駅長の脇で例の乗り物を待つ間、ぼくたちも無言でこれから始まる恐怖を見詰めた。
そしてそうしながら、あれに乗る以外に方法がないことを二人とももうよく知っていた。
第四章 脱出
●反乱
寒さと恐怖で身を固くしたままぼくたちが帰り着く頃には、暗闇の中に吹雪が猛烈な勢いで吹き荒れていた。
ぼくの体は内臓まで凍りついたのではないかと思われるほど冷え切っていたし、雪混じりの向い風に耐えてきた顔はこわばってまともに口も利けない。
ぼくはただもう暖かい室内でしばらくこの冷え切った体を温めること以外、何も考えられなかった。
玄関を一歩入りさえすれば確実にこの寒さから逃れられるのだということだけを考えていた。
崖の上の仮駅のところから 腰まで雪に埋もれながら急坂を転がり下り、玄関の扉を乱暴に押し開いた。
「オー・イッツ・フリージング!」
ルシンダは一言そう叫んで奥に消え、そしてぼくも続いた。いや、続こうとした。
「お前はちょっと待て。仕事だ。すぐ倉庫へ行け」
主人が立ちはだかっていた。
いつものように、有無を言わせぬ口調だった。
ぼくは押し出されるようにまた吹雪の中に出た。
倉庫の前には食糧が届いていた。
ジャガイモや玉葱の詰まった箱、冷凍の肉と魚、バターやチーズの段ボール箱などが雪の上に積み上げられ、そこへかなりの雪が積もっている。
積もった雪を払いながらそれらを全部倉庫へ運び込むのに、ぼくは吹雪の戸外と、ほの暗い裸電球のぶら下がる倉庫の間を何回往復しただろうか。
普通ならこれだけの労働をすればそれだけで体が温まってくるものだが、そのときのぼくの体は多分冷え切っていたのだろうか、それともいつもにも増して気温が下がっていたのか、ぼくの体はいよいよ冷えていく一方だった。
ここの気候は誰にだって厳しいんだ、ぼくがより暖かい国から来た人間だから、こういう寒さには慣れないのだという言い訳は甘えだと、ぼくはそう思って必死で突っ張ってきた。
しかし、この気候の中で、あの外気に対してまったく無防備な乗り物に二十分乗せられるということがどういうことか、それは主人もよく知っているはずだ。
今、そんなふうに外から帰った者が、十分、いや五分でもいい、暖かい室内で体を休めることを求めるのは、それもやっぱり甘えだというのだろうか。
だが、ことがそれだけで終わっていたら、ぼくはあんなふうに性急な結論に走ることはなかった。
食糧を運び終えて玄関に戻ると、主人は待ち構えていたように言った。
「終わったか」
「はい」
「よし、終わったらゴミだ。台所のゴミが溜まっている」
えっ、と、さすがに一瞬後ずさりしたぼくに、主人の荒々しい声が降った。
「今日ヴォスへ行かせたのは休みをやったわけではない。仕事はいつもの通りだ。さっさと行け!」
台所の外にはゴミの入ったドラム缶が待っていた。
それも今日はぼくがいなかったから二つある。
それを一つずつ裏山の雪の中へ引きずり上げながら、ぼくの体は寒さと怒りで震えていた。
そしてその怒りの中でぼくは、すぐにもここを出る決心をかためていた。
ヤッケのポケットには今日降りたばかりの労働許可がある。
これをせめて自分の部屋に置いて来ることがどうして許されないのだろう、と、ぼくはポケットのパスポートを確かめた。
闇の中に吹雪が狂っていた。
ぼくは腰を折って風雪を避けながら、ぼくの中にわだかまっていた不信や、不安や、不満の数々が、今一挙に憤りに変わるのを止めることが出来なかった。
二つのドラム缶をからにして戻ると、主人が待っていた。
例によってドラム缶の中をのぞき込み、そしてまた底が汚れていると言った。
「この条件ですから、ぼくにはこれ以上のことは出来ません」
初めて逆らった。そこへルシンダが大鍋の残り物を捨てに来た。
「ああ、ちょうどよかった。これも捨ててきて」
「ノー、今日はもうおしまいだ」
するとルシンダは口を尖らせて主人のほうを見た。
「お前の仕事だ、捨てて来い」
「そうよ、あんたの仕事じゃない。ちゃんとやってよ」
勝ち誇ったようにルシンダも口を添えた。
「それから底のほうももっとよく洗って来い」
「そうそう、あんたがやるといつも底が汚れてんのよね」
ぼくはもうこれ以上理性を保つ必要を感じなかった。
どうせやめるんだ、手間が省ける。
「ノー! やるだけのことはやった。これ以上はお断りする。それからルシンダ、こういうことは一人に言ってもらえばたくさんだ!」
ボリューム一杯の尖った声だった。
ちょうどひときわ強い突風が襲って来てぼくの言葉が吹き飛ばされそうになり、ぼくは一段と声を張上げたのだった。
「……」
二人は何が起こったのかよくつかめない、というように、返す言葉もなく突っ立っていた。
「ノーだと言ってるんだ。わからないのか、ぼくの仕事はおしまいだ!」
そしてぼくは山靴をはいた足でドラム缶を思いっきり蹴飛ばした。
鈍い音がぼくの発した怒声とともに吹雪の中に響いて、ドラム缶が雪の中に横転した。
黙々とひたすら従順に働いてきたように見えたぼくの突然の豹変は二人を立ちすくませ、足早にその場を離れるぼくを言葉もなく見送っていた。
夕食の時間だった。
ぼくは食糧倉庫から生卵とチーズとグラス一杯の牛乳を持って自室に戻った。
「食事に来ないの」
部屋の外でルシンダの声がした。
「みんなと食卓につく気にはなれない。食べ物はあるから心配しないでくれ」
扉越しにそれだけ言うと、ぼくはベッドに横になった。
「わかったわ、でも、その気になったら来てね」
いやにしおらしい物言いだった。
ふん、ああいう奴に限ってちょっと高飛車に出るとおとなしくなるんだ…、ぼくの気持ちはまだ刺立っていた。
そんな刺立った自分の中に、またあの離人症の奇妙な感覚がよみがえった。
振り払っても振り払ってもそれはぼくの全身にまとわりついた。
くそーっ!
ぼくはなにやら無性に腹立たしく、その腹立ちが先の行動を急がせた。
●交渉
今日中に片をつけようと思った。
夕食が終わる頃を見計らって主人の部屋の扉を叩いた。
主人は「来たな」という表情をぼくに向け、いつものように上目でぼくをにらみ上げた。
ぼくはこれまでそんな主人の視線から受けていた威圧感のようなものがきれいに消えているのを意識していた。
「辞めます」
主人は椅子を勧めたが、ぼくは立ったままで先手を打った。
事務机の前の主人を見下ろす格好で、なるだけ無表情にそれだけ言って主人の反応を見た。
こんなとき、どぎまぎしてしまうほうだ。
気は、十分小さい。
当然こんなことは苦手である。
でも、ぼくはこのとき、自分が思いがけなく沈着であることにを意識していた。
多分、ぼくの中の激しい怒りが、ぼくを開き直らせてくれたのだと思った。
「辞める?」
主人は口の端をちっょとゆがめてそう言い、ぼくの顔をのぞき込んだ。
ここは格子なき牢獄だ、出られるものなら出て行ってみろ、という自信が、主人の薄笑いの向こうに見えた。
「ま、ともかく座んなさい」
座ってぐずぐず言い合うつもりはない。
出来るだけぶっきらぼうにけりをつけようと思った。
「いつ出してくれますか。今度この上に列車が停まるのはいつですか」
思いがけないぼくの強い態度と、いきなり具体的な退出の日時の特定を迫ってきたぼくの出方に、ようやく少しは身構えたらしく、主人の表情が固くなった。
目には小さな狼狽の色が浮かんでいた。
ここの不便さは、出て行くこともそうであるように、新しく人を雇い入れるのも容易ではないのだ。
「答えてください。いつここを出られるかと聞いている」
追い討ちをかけた。
「ちょっとまあ待てよ。辞めるなんて、そりゃ一体…。理由は、何なんだ?」
「あなたがご存知です」
「……」
できるだけ感情を殺して、毅然とした態度に努めた。
「そりゃ、あんたにはここの生活はいろいろ大変だろう。しかしだよ、こっちとしてはあんたに春までいてもらって…」
「いるつもりでした。でも気が変わりました。当然だと思いませんか」
「……」
「ともかく、ぼくの決心はもう変わりません。列車がこの上の仮駅に停まるのはいつですか。それとも例のトロッコみたいな乗りものでもいい」
「うーん」
「どうなんですか」
「うーん、そうか、ん、…まあそれじゃ、そういう方向で、考えてみよう。でも、ともかくもう少し待ってくれんか」
「もう少しとは、どれくらい?」
「それはちょっと今は…」
「なぜですか。今度団体が来るとき、この上に列車が停まりますね、いつものように。その予定をあなたはご存じないわけですか」
「うーん、わかった。じゃあと十日、十日だけ待ってくれ」
「まあいいでょう。十日ですね。今日二月九日だから十九日。間違いないですね」
ぼくは意識的に視線を強めて主人を見据えながらとどめをさした。
翌日から主人の態度ががらりと変わった。
ぼくの仕事をいちいち点検して小言を言うのもやめたし、少しでもぼんやりしていると仕事を言いつけるのもやめた。
それどころか「やっとけよ、わかったな!」式の言い方が「やっといてくださいになり、終わると「サンキュー」までつくようになった。
台所のゴミを捨てに行こうとしたらドラム缶はすでにからになっていた。
「ボスがやってたわよ」
ルシンダが小声でそう言い、ウインクした。
そのルシンダもすっかり態度を変えた。
「大体あの人は厳しすぎるのよ。何もあんなふうに人をこき使わなくたってねえ」
ルシンダはそんなふうに主人の悪口をささやきながら、自分がつまみ食いしていた生ハムの切れ端をぼくに勧めたりした。
相手の出方一つでこうも態度を変えることのできる神経を、ぼくはむしろうらやましく思いながら、次々とハムをつまみ食いする彼女の粗野な動作を嫌悪した。
だが主人が態度を変えたのには魂胆があった。
約束の十日の期限が切れる前日、彼はぼくを部屋に呼んだ。
「実は、後任がまだ見つからない。何とか今月一杯いてもらえないだろうか。給料のことも少し考えていもいい。今月中には必ずあとがまを…」
本音が出た。全部は言わせなかった。
「ノー。後任が見つからないのはぼくの知ったことではない。あと五日。それがぎりぎりの妥協です。五日後には歩いてでもここを出ます」
「歩いてなんて、とんでもない。吹雪いてでもいたら死んでしまう」
「考えがあります。レールです。レールはいつも除雪されています。列車が通る時間もわかっている。駅までは十キロ、線路伝いならもう少し短い。二時間あれば歩けます。足には自信がある」
「いや、レールはいかん。禁止されている」
「そんなことは知っています。でもほかに方法がなければそうします」
「……」
「いいですね。あと五日ですよ」
「……」
主人は頭を抱えた。後任も決まらないままに出て行かれては困る、という事情はよくわかる。
それに、今は少しばかり後悔もしているかもしれない。
でも、だからといって相手の事情に配慮する気持ちのゆとりはこっちにはもうない。
「じゃ、そういうことで、五日後、二月二十三日になったら、ぼくはレール伝いに出て行きます」
それだけ言ってぼくは立ち上がった。
「あ、ちょっと、待ってくれんか。…わかった。それじゃ明後日、…オスロから団体が来る。ベルゲン行きの列車がこの上に停まる。…それから、カールだが、彼もここを辞めてベルゲンに帰る。いっしょに行きなさい」
その翌日、上の仮駅に貨車が停まって、大量の荷物を下ろして行った。
団体客が荷物を先に送りつけたのだ。
リュックやスーツケース、スキーもたくさんあった。
この数からするとかなりの大団体に違いない。
明日から今月一杯、八十人の団体が滞在する、という情報をルシンダが教えてくれた。
今月一杯、何とかぼくを引きとめようとした主人の魂胆ははっきりした。
ちょうど激しくなってきた吹雪の中で、ぼくたちは総出でこの荷物を下ろす作業にかかった。
主人がルシンダとカールを連れて仮駅に上がり、こういうときのためにつけられた荷物用のリフトにそれらの荷物を積み込んだ。
下ではクリスチャンとシルヴィアとぼくがリフトから荷物を下ろしてとりあえずスキー置き場に運ぶ作業を受け持った。
吹き付ける吹雪の中で荷物を運びながら、ぼくはぼくがいなくなったあとの戦いを思いやった。
ほかのみんなにはいくらか悪いという気がしないでもないが、主人に対してはとても小気味よい意趣返しに思えた。
ぼくが抜けたことはみんなにもいろいろ影響するだろうが、ぼくがやっていたほとんどの作業は、結局主人自らがカバーするほかないだろうと思った。
●解けない謎
翌日の午後、荷物をまとめたぼくは、スキー・インストラクターのカールと二人で裏の斜面を登った。
斜面の途中、右手に見えるゴミ捨て場が雪の中に黒々と小山を築いているのには、目をそむけて通った。
主人とは玄関で、来たときよりもっと冷ややかな握手を交わしただけだった。
その脇でルシンダがウインクしたがぼくは無視した。
そして奥さんだけが外まで見送ってくれた。
「どこかで仕事が見つかることを祈ってるわ」
「こんなことになってごめんなさい。いろいろありがとうございました」
ミセス・エリクセン、あれは、あのときのことは誤解です…。
ぼくはもうほとんど押さえ難いぐらい、そのことだけはわかってほしいと思った。
でも、ぼくの理性がかろうじてその言葉を制した。もう終わったのだ。何もかも、終わったのだ。
坂を上り詰めて仮駅に立つと、雪の中にさっきまでの住みかが寒々と谷間を埋めているのが見えた。
三両編成の列車が窮屈そうに仮駅に停まり、その粗末なホームに接して停まっている最後部の車両から団体客がにぎやかに降りてきて、狭いホームは人で一杯になった。
学校の団体らしく、十代の男女が色とりどりのヤッケに身を包んでホームにひしめくのを尻目に、ぼくはカールのあとについてがらがらに空いた列車に乗り込んだ。
列車はすぐに動き出し、真下に見えるはずのあの家を、ぼくはもう振り返らなかった。
暖かい列車の中で、ぼくはカールと話し込んだ。
カールとはそれまでほとんど会話らしい会話を交わした記憶はない。
「お互い大変なところに来たものさね」
話題はどちらからともなく、主人のあの偏執狂的な厳格さ、というところに一致した。
「確かにあれは少し病的だよな。逃げ出したペーターなんかにしても…」
「そう、あんな雪男でも逃げ出すんだものな」
「わはは、雪男はよかった。そう、あいつはいつも主人に罵倒されていた。知能に障害のある人間をあんなふうに扱うというのは、主人のほうにもどこか病んでる部分があったのだろうね」
「逃げ出した原因はやっぱり主人なんだ」
「それはもうはっきりしているさ。ああいう人間だからほかの誰ともほとんど関わりはなかったのだから」
列車がヴォスに停まった。
この町に来て労働許可をもらったのは数日前のことだ。
あの日、ルシンダと何度もすれ違いながら行ったり来たりした町並みが淡い日差しを浴びていた。
ヴォスを出て間もなく、右側に湖が見えた。
そんなに大きな湖ではないが、ほの暗い谷間に二ヶ月を過ごしたぼくには、雪に埋もれたその小さな平面が広々と明るく見えた。
「ところでカール…」
ぼくは、あそこにいる間ずっと気になっていたあのことを、カールに聞いてみようと思った。
カールならきっとある程度のことは知っている、とぼくは踏んでいた。
決してみんなといっしょに食事をしなかったマルタ、そして誰も見たことがない彼女の「夫」。
その謎を、ぼくは知りたいと思った。
「タブーよ」とルシンダは言ったけれども、今はもう知ってもよいのではないかと思った。
「そのことか。うーん…」
ちょっとためらいがちに、それでもカールは語り始めた。
わかりやすいていねいな英語だった。
「俺もたいして知ってるわけじゃないが、はっきりしてることはマルタの夫なんていないってことだよ」
「やっぱり…」
「そりゃそうだろう。一軒の家の中で一人の人間が何年もの間まったく人目に触れないなんてことが考えられるかい」
「寝たきりの病人とか」
「それは考えられなくもないが、でも緊急の場合に医者を呼ぶことも出来ない僻地に病人を置いとくというのも不自然だろう」
「じゃマルタが、夫の分、と言って運んでいた食事は…」
「それはもうなぞだよ。推測するしかない。そのへんのことはインゲが一番よく知っているんだが、彼女もあれだけはどうにもわからないと言ってた」
インゲが主人の姪だということはルシンダから聞いたことがある。
「じゃ、主人が台所に入らないのは…」
「それもわからん。はっきりしてるのは、主人がマルタを恐れてるということだ」
「それはなぜ」
「どこまで本当の話かはわからないんだが、こういう話がある…」
と、カールは話し始めた。
以前主人はトロントハイムからスピッツベルゲンへ物資を運ぶ貨物船の船長だった。
あるとき事故で一人の船員が死に、彼自身は右足に傷を負った。
船長としての重大な過失が原因だということだった。
それ以来彼は陸に上がってあそこの主人におさまった。
そのとき亡くなった船員の妻がマルタなのだ…。
つじつまが合いそうで、でも結局とても納得できる話ではなかった。
そのほの暗い世界での淀みきった人間関係の一つのもつれが、少しほぐれ始めたかと見えながら、それはやっぱりほぐれはしなかった。
「それ以上は誰にもわからん。ともかく謎さ」
さあ、これでこの話はおしまいだ、というように、カールは一つ大きく伸びをし、腕を返して時計を見た。
「四時か。日が長くなったな」
「ところでカール、あんたはなぜ…」
カールは白っぽい金髪に長い指をさっと走らせると、吐き捨てるように言った。
「あんなところにこれ以上いられるものか!」
いくらか不機嫌な様子で黙り込んでしまったカールの機嫌をとるのはやめて、ぼくはこの二ヶ月のあれこれを思い出していた。
日の光さえまともに届かないあの陰鬱な家で、主人のしつこい叱責のもとに繰り返された異様な日々がよみがえった。
吹雪の中の雪かき、ゴミ入れの底、マルタのなぞ、クリスチャンの異様な部屋、そして誤解と断絶…。
何一つ楽しい思い出はない。
あんなところにこれ以上いられるものか…。
カールの言葉はそのままぼくの実感でもあった。
●住んでみなければ
四時を過ぎて、窓の外に夜の気配が迫っていた。
ぼくは窓ガラスに額をすりつけて外を見ていた。
さっきまで降っていた雪がやんで、窓の外がほんのりと黄色い。
ずっと向こうにフィヨルドに続く斜面が見えた。
黄色い空の色が斜面の下の水に映って、思いがけないくらい明るい眺めを作り出していた。
ぼくは久しぶりに心が温かくなる思いでその眺めを追った。
そしてそんな明るい眺めの中に、ぼく自身の心の投影がくっきりと姿を見せた。
離人症が消えているような気がした。
ぼくの思考はそこでいったん立ち止まり、自分自身の心をのぞき込もうとした。
確かに、さっきまでぼくを支配していたあの奇妙な非現実の世界は消えている。
しかし、本当に消えたのだろうか…。
そしてあれはそんなに突然消え失せるものなのか。
列車の振動も、レールの継ぎ目を刻む音も、もうあの神経を逆なでするような尖った感触ではなく、目に入るすべてのものが快くやさしく感じられる。
心が凪いでいた。
現実を現実として認識できることの心地よさが、ぼくの心を急速に癒そうとしていた。
それもこれも、みんなあのほの暗い冬空のせいだったような気がした。
暗闇と寒さが、どうすることも出来ない巨大な力で人の心を押しつぶしてしまうのだと思った。
「何かに怯えてるみたい」
キャサリンが言ったことを思い出していた。
もしかしたら主人も、ともすれば精神の平衡を犯そうとするあの寒さと闇を、激しく怖れていたのだろうか。
神経のきしみに悩まされたのはぼくだけではなかったのかもしれない。
あのほの暗さの中では、誰もが大なり小なり精神のきしみを体験するのかもしれない。
そしてそのことが、人と人との間のぬくもりや信頼を、心ならずもどこかへ押しやってしまうのかもしれない。
この二ヶ月、あんなにしつこくぼくにまとわりついた心の症状は、確かに消えていた。
ぼくは久しぶりに取り戻した自分自身を、快い列車の振動の中で見詰めた。
列車は早すぎず、遅すぎず、心地よいリズムでベルゲンに向かって走り、暖かい車内には安らぎが満ちていた。
カールはシートの背を倒して眠りこけ、ぼくは一人、来し方行く末をぼんやりと思いながら、自分の中で凍りついてしまっていたぼく自身の心の温もりが、刻々と戻ってくるのを感じていた。
住んでみなければわからないのです。
あの弱々しい冬の日差しは、
人の心の中までは照らすことが出来ないのかもしれません。
それはきっと人々の心を重くし、
ときにはそれこそ、
人間らしい心をさえ保ちきれなくしてしまうのかもしれません。
住んでみなければ、
そんなことは何もわかりはしないのです。
……
その夜、ベルゲンのユースホステルの温かいくて明るいコモンルームで、日本に出す絵葉書にそんなことをしたためた。
書き終えて顔を上げたら、壁にかかっているムンクの複製が目に入った。
絵の中で、白夜の心もとない太陽が画面に鈍い光を投げかけていた。
ぼくはその白い夜の裏側にある、寒くほの暗い昼のことを思った。
それだけでも北欧の人は大きな悩みを背負って生きていかねばならないのだという気がした。
「消灯の時間です」
うながされてぼくはベッドに入った。
ほかに宿泊者はなかった。
二ヶ月の間、ぼくは夢を見ていたのではないかという気がした。
そんな、どこか現実感に欠けるこの二ヶ月の回想の中で、明日の朝は明るくなるまで起きなくてもいいのだ、そして明日からはぼくを追いまわし、叱責する者は誰もいないのだ、という思いばかりが、確かな現実感をもってぼくの脳裏をめぐった。
(冒頭の写真はVOSSの町並み)
1978年、国際情報社「すばらしい世界」第9巻<白夜に暮らす人々>に掲載したものを元に加筆しました。
(全面改訂2005年11月05日)
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- ゆみナーラさん 2006/10/08 19:58:20
- つい感情移入して読み入りました。
- KAUBEさん、初めまして。kioさんのページからお邪魔しました。
kioさんが若かりし頃、旅へ足を運ぶきっかけの一つがKAUBEさんのかかれた記事だったということのようですね。
まずは題名に惹かれて、この離人の谷??をじっくりと読ませて頂きました。
マイナス二十何度の内臓をも凍てつかせるような吹雪の中、時々無機質な音を立てて列車が宿の裏までやってきては何人かの無邪気な宿泊客を降ろし戻って行けばまたそこは陸の孤島、夜の長さに人と人同士の温かい息遣いさえ忘れる他仕方のないようなどこか全てに対する諦めも垣間見えるノルウェー僻地での2ヶ月間を、自分も登場人物になったような気持ちで読み入ってしまいました。
とにかく引き込まれてしまって、自分もそのままKAUBEさんになりきって読みました。すみません、感想になっていなくて。
こんな大きなKAUBEさんのご経験に重ね合わせてしまい恐縮なのですが、8年ほど前私も3ヶ月ほど東京を出て南紀白浜で住込み生活をしていた頃、シーズンオフの為人もまばらで不気味なほど深い緑色をした静かな海、まさにこの主人のように狂ったように朝から夜まで私を罵倒するマネージャー、また様々な事情があるだろうけれど触れずに静かに生活している場末の町の人間関係に直面し、まるで同じような感覚を覚えたことがありました。こちらを今日拝見してあの感覚は「離人症」だったのかもな、と何となく思いました・・・・
現実感のない、何か壊れているけれども自分が壊れているのか何が壊れているのかさえ分からない感覚でした。当時よく付けていた日記に、「ここは悪いおもちゃ箱をひっくり返したような恐ろしく楽しい夢の中のよう」とあります。
また立ち寄らせていただきます。読み応えのある旅行記有難うございました^^
- KAUBEさん からの返信 2006/10/09 11:32:08
- RE: ゆみナーラさん
- 書き込みありがとうございました。
離人症の谷に書いたことは、今思い出してもほの暗いベールに包まれていて、「今となってはそれもまた良き思い出」、なんていう安らぎには達しません。
>内臓をも凍てつかせるような吹雪の中、時々無機質な音を立てて列車が宿の裏までやってきては何人かの無邪気な宿泊客を降ろし・・・、
なんて、ほんとによく理解して読んでくださったものと感じられ、たいへんうれしく思います。
南紀白浜でのご経験、基本的に私のと同じ、という気がします。自然がどんなに厳しくても、やっぱりそこに「人」が絡んだときに初めて、人は心を蝕まれるような体験をするのかもしれません。
>「ここは悪いおもちゃ箱をひっくり返したような恐ろしく楽しい夢の中のよう」
うーん、怖いですね。ほとんどサイコホラー…
でも、人のそういうある種の体験はとても文学的で芸術的、というか、小説や絵画なんかになりやすいのでしょうね。私は小説は書きませんが、泉鏡花やポーの小説とか、ムンクやクリムトの絵なんかにはそんな極限の美があるように思えます。
白浜のご体験、少しだけフィクションして、短文にしてみませんか。小説「おもちゃ箱」…
またお話したいですね。
ありがとうございました。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
ノルウェー の人気ホテル
ノルウェーで使うWi-Fiはレンタルしましたか?
フォートラベル GLOBAL WiFiなら
ノルウェー最安
478円/日~
- 空港で受取・返却可能
- お得なポイントがたまる
2
0