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石楠花のきれいな平福【2】宮本武蔵初決闘の城下・宿場町<br /><br />平福宿は美作道から分岐し、因幡(鳥取県)に向かう因幡道にある宿場町である。<br />古くは、利神(りかん)城の城下町として発展した町であった。<br /><br />慶長元年(1596年)、平福の金倉橋のたもとで、剣豪武蔵は、13歳にして新当流の達人有馬喜兵衛に初勝負をいどみ、一刀のもとに倒したと言われている。 <br /><br />赤松一族の別所敦範が利神(りかん)山に城を築いたのは貞和5年(1349年)、楠木正行が四条畷に戦死した翌年である。<br /><br />約二百年を経て、慶長5年(1600年)関が原の戦のあと、播磨52万石の領主池田輝政の甥、池田出羽守由之が平福領2万3千3百石の領主となった。<br /><br />由之は5年の歳月をかけて広壮な城郭を造営し、山麓には城主屋敷、武家屋敷を配し、さらに街道沿いに町人地を設け、城下町を建設する。<br />当時利神城の三層の楼閣は、あたかも雲を衝くがごとき威容から、「雲突城(うんとつじょう)」とも呼ばれた。<br /><br />利神城廃城後は、松平氏5千石の旗本領で代官支配となり、今に残る陣屋門は、元治元年(1864年)に代官・佐々木平八郎が建築した。<br /><br />江戸時代の平福陣屋と、白壁に虫籠(むしこ)窓や袖壁の宿場情緒をとどめた家並が整備保存され、佐用川の右岸に、旧道を挟んで南北に連なる。<br /><br />平福では、因幡や美作方面からの荷物を、高瀬舟に積み替えて、佐用川を通り赤穂まで送っていた。<br /><br />道の駅より北に1キロあまり、法師塚の斜面を利用した、しゃくなげ園は、今が盛りだ。<br />日本しゃくなげと西洋しゃくなげ、150種13,000本という。<br />

石楠花のきれいな平福【2】宮本武蔵初決闘の城下・宿場町

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2006/05/03 - 2006/05/03

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片瀬貴文

片瀬貴文さん

石楠花のきれいな平福【2】宮本武蔵初決闘の城下・宿場町

平福宿は美作道から分岐し、因幡(鳥取県)に向かう因幡道にある宿場町である。
古くは、利神(りかん)城の城下町として発展した町であった。

慶長元年(1596年)、平福の金倉橋のたもとで、剣豪武蔵は、13歳にして新当流の達人有馬喜兵衛に初勝負をいどみ、一刀のもとに倒したと言われている。

赤松一族の別所敦範が利神(りかん)山に城を築いたのは貞和5年(1349年)、楠木正行が四条畷に戦死した翌年である。

約二百年を経て、慶長5年(1600年)関が原の戦のあと、播磨52万石の領主池田輝政の甥、池田出羽守由之が平福領2万3千3百石の領主となった。

由之は5年の歳月をかけて広壮な城郭を造営し、山麓には城主屋敷、武家屋敷を配し、さらに街道沿いに町人地を設け、城下町を建設する。
当時利神城の三層の楼閣は、あたかも雲を衝くがごとき威容から、「雲突城(うんとつじょう)」とも呼ばれた。

利神城廃城後は、松平氏5千石の旗本領で代官支配となり、今に残る陣屋門は、元治元年(1864年)に代官・佐々木平八郎が建築した。

江戸時代の平福陣屋と、白壁に虫籠(むしこ)窓や袖壁の宿場情緒をとどめた家並が整備保存され、佐用川の右岸に、旧道を挟んで南北に連なる。

平福では、因幡や美作方面からの荷物を、高瀬舟に積み替えて、佐用川を通り赤穂まで送っていた。

道の駅より北に1キロあまり、法師塚の斜面を利用した、しゃくなげ園は、今が盛りだ。
日本しゃくなげと西洋しゃくなげ、150種13,000本という。

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