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平成14年1月9日(水)<br /><br /> 成田空港で順調に手続きは進んで日本エァーシステムの国内線で関西空港へ飛んだ。関西空港では慌ただしくJASの国際線に乗り換えた。JASに搭乗したのは今回初めてであった。慌ただしい中にも通りすがりに免税店でナポレオンブランデーを購入することは出来た。友人はバレンタインウイスキーを求めた。<br /><br /> 4時間半程のフライトで昆明空港へ到着した。ガイドは兪さんである。「車のない輸出の兪です」と自己紹介をしていた。<br /><br /> 最初昆明市内の「雲南民族村」を訪問した。これは見学者用に造られたテーマパークである。昆明市の南8kmに位置し80km2の広大な敷地の中に雲南省に居住する26民族の文化風俗を展示紹介している。<br /><br /> 丁度南アフリカのヨハネスブルグで訪問した民族文化村と同工異曲の公園である。<br /><br /> 公園の入り口には大木があり枝を張りめぐらせている。アフリカで見たバオバブの木に一見似ている。しかし近づいてよく見ると宿り木の葉の中に混じって造花らしい葉っぱがついている。更に仔細に観察すると幹なども巧妙にコンクリートで造られた造木であった。自然が売り物の公園に人工の樹木とは如何なものかと当局の人達のセンスを疑いたくなるような代物であった。<br /><br /> 入り口近くの人口の湖では舟を浮かべて漁師達が投網を打って魚を捕っていた。養殖の川魚だという。<br /><br /><br /> 広大な公園の敷地の中に各民族の民家と生活用具が収納されて展示されていたが、実際に生活している場面は少なくて、南アフリカで見た民族文化村のような迫力はなかった。ここでは拉枯族(ラフ族)、基諾族、ワー族、タイ族のエリアを見学した。<br /><br /> それでも印象に残っているのは泰族(人偏+泰、タイ族)の寝室である。一つの部屋に三代の家族が就寝するのだというから異様である。今まで部屋の中は他民族には公開されなかったのを観光客用に最近公開するようになったという。覗いてみると大きな部屋が柱で四角に囲って区切られている。その区画内に蚊帳様の布切れで囲われた室がありその中に布団が敷いてある。祖父母用、両親用、若夫婦用、子供用とそれぞれの室に布張りが設けられているのである。各布張りの室の間は廊下のように空間が設けられており、ゆったりとした配置である。部屋の外へ通じる出入り口は三カ所設けられていてそれぞれの世代の専用に供されている。<br /><br /> 最初は新婚夫婦を含めた三代の夫婦の雑魚寝なのかと思い、性生活のプライパシーはどのようになっているのかと心配したが、実際の部屋の中を見て他所事ながら安堵した。それにしても新婚夫婦には残酷な寝室の環境であると思った。<br /><br /> ワー族(人偏+瓦)は35万人程いるらしいがこの民族は牛を民族のシンボルとしており、牛の数が地位と財産を表す尺度になっていて民家の前には角のついた牛の骸骨がいくつも誇らしげに飾られていた。<br /><br /> ラフ族の村では瓢箪の飾りが多用されていたが、この民族は人間は瓢箪から発生したと考えているから瓢箪を民族のシンボルとしているのである。<br /><br /> 中国には56の少数民族があり、雲南省だけでも26の少数民族がいる。少数民族も法のもとでは総て平等であり、差別はないが中国ではむしろ種族保存の見地から特別に保護されているようであり、人数の少ない幾つかの民族には一人子政策の例外扱いがなされている。<br /><br /> 少数民族の人々は何れも少数民族であることに誇りを持って生活している様子が今度の訪問でよく判った。民族の独自性を最もよく表すのはその言語と風俗であり、端的に違いを際立たせるのはその服装である。実にさまざまな服装がある。各民族ともその服装を特に若い女性が晴れがましく着飾って活動しているところが印象に残った。 今回訪問した都市では昆明、麗江が納西族(ナシ族)、大理が白族(ペー族)、石林に彝族(イ族)の支族のサニ族が住んでいる。中でもイ族は雲南省最大の少数民族で雲南省全土に分布しており、人口およそ700万人に及ぶ。<br /><br /> 最初の訪問地昆明は雲南高原の中部に位置し、三方を山に囲まれた風光明媚な雲南省の省都である。市の総面積は15,561km2あり、人口は370 万人。標高は1891mであり、気候が穏やかで一年中緑が絶えないので「春城」の別名がある。<br /><br />  歴史も古く旧石器時代の3万年前には既に湖の「&#28359;池」〔?=サンズイ+真〕(てんち)周辺には人が住み着いていた。<br /><br /> 紀元前3世紀に楚の将軍・荘&#28359;〔?=サンズイ+真 以下同様〕が現在の晋城辺りに築城し&#28359;国を建国した。<br /><br /> 紀元前109年に前漢の武帝は&#28359;国王に「&#28359;王之印」を与えて正式な国家として認めた。その後、南詔国の時代となり、拓東城が造られた。871年には&#37167;〔?=善+右のオオザト 以下同様〕闡城と改名され、南詔国の東都として栄えた。<br /><br /> 1254年にフビライが派遣したモンゴル軍に&#37167;闡城は占領され、1276年に雲南行省が設置されて&#37167;闡城は昆明県となった。この時、雲南地区の行政の中心地は大理から昆明に移り現在に至っている。<br /><br /> 次に大観公園に行った。<br /> 公園へ入って最初に目がつくのが奇怪な形をした岩の塊である。これはこの公園に取り入れられた造園技術の一つで障景堡と呼ばれる手法である。つまり美しい景色をいきなり見せないように障壁を設けておいて、観光客が障壁を越えて進んだ時、美しい光景が突然目に飛び込んできて感激もまた一入ということを狙っているのである。<br /><br /> ここは湖・&#28359;池〔?=サンズイ+真 以下同様〕の北岸と繋がる大観川の中に造られており、楠木で出来た三層の楼閣が最も有名である。大観楼と称するこの建物は楠木で出来ていて、一階には&#28359;池の美しさを90字で詠んだ詩(長聨)と同じく90字で南詔国の歴史を叙した詩が左右の門に飾られている。この公園は清代の1696年康熙帝の時、池を作り現在の形になったものである。古来文人が遊ぶ名所であった。<br /><br /> 初日の観光を終わり昆明市の五つ星ホテルの佳華広場ホテルへ投宿した。<br /><br /> 昆明市は世界花博覧会以来、行政当局の考え方が変わって観光に力を入れるようになったという。この佳華広場ホテルも花博覧会の時建設された新しいホテルである。<br />                                      <br />平成14年1月10日(木)<br /> 朝早く5時にモーニングコールがあり、6時15分にはホテルを出発して昆明空港へ向かった。この日は麗江を見学することになっている。戸外はまだ真っ暗である。 ここ中国では広大な土地であるにもかかわらず総て北京時間が適用されているので、夜が明けるのは8時前である。8時にならないと夜が明けないという生活は異様である。北京とでは2時間程時差を設けてもいいのではなかろうかというのが、通りすがりの一観光客の率直な感想である。<br /><br /> 40分程のフライトで麗江の空港へ到着した。道中機内から窓の外の風景を眺めやると雲南省は山の中に開けている省だということがよく判る。何処までも続く山並みの合間にすこしだけ開けた盆地があり、小さな集落が形成されている場合が多い。雲南省の省都昆明が標高1,891m、麗江が2,400m、大理が1,976mの盆地であるから省自体が標高の高い山地に営まれていることになる。<br /><br />  昆明空港で朝鮮族の厳さんという若い女性のガイドに出迎えられて、最初訪問したのは玉泉公園である。    <br /><br /> 市街地の北に位置し公園内の池の水が玉のように碧いので玉泉の名がつけられ、別名「黒龍潭」公園ともいう。清の乾隆二年(1,737年)に「玉泉王廟」として造られたのが始まりで弓型をした約6km2の池を中心としていて、その周囲にはしだれ柳が植えられている。<br /><br /> 大理石で造られた玉帯拱橋の向こうには雪の帽子を被った玉龍雪山が白く聳えており素晴らしい光景である。運よく雲が切れてその秀麗な姿を見飽きることなく眺めることができた。  <br /><br /> 公園内には数多くの楼閣や亭が建てられているが、明の万暦29年(1601年)創建の福国寺五鳳楼や三層四角の得月楼が有名である。たまたま民族衣装を身にまとった若い女性4人が楼閣の前にいたので、写真を撮ってもいいかと許可を求めると「ジュウゲン、ジュウゲン」と手の掌を突き出してチップを要求された。<br /><br />「OK」とチップを支払う意思のあることを表明すると4人が並んでポーズをとり、撮影に応じてくれた。場所によって異なるが観光地に民族衣装を纏って屯している若い女性は写真のモデル料を得ることを目的としているのである。 <br /><br /> 次に納西族の住んでいる束河村を訪問した。<br /><br /> この村には古くからの農村の家並みが残されていて道路の両端には瓦葺きの古い二階建ての民家が軒を接して建ち並んでいる。壁は日干し煉瓦を積み重ねたものが多い。門扉には「春節光臨」等と書かれた旧正月の到来を祝う張り紙がしてある。中には葬式を出したばかりとおぼしき張り紙をしてある家もある。<br /><br /> 日干し煉瓦塀で囲われた庭には穴のあいた何本かの柱が高く建っている。これは穴に竿を通して収穫物の玉蜀黍や稲を乾燥させるための支え木である。二階の軒下には玉蜀黍の実が数珠繋ぎに縛られて幾つも吊り下げられていて、陽光に晒され黄金色に光っている。庭の囲いの中の家畜小屋では牛が玉蜀黍の茎や葉を食んでいたりする。<br /><br /> 道路には農業用トラクターに鉄板で囲いをつけた車が農産物を積んで通り抜けるかと思えば、一方には背中に農産物や薪の一杯詰まった大きな籠を背負った女性が力強い足どりで歩いて行く。軒先では男達がトランプや将棋に打ち興じていたり、老人が椅子を持ち出して座り人通りを飽かず眺めていたりする。実に長閑な田園の村落の光景が展開している。ガイドの説明によればナシ族の女性は働きものであるが、男は働かないでぶらぶら遊んでいることが多いという。それが昔からの習慣であるからそのことを奇怪だと思う人も今まではいなかったという。しかし観光客が大勢訪問するようになってからこの風習も次第に見直され、男も働くようになってきているという。<br /><br /> たまたま広場に数多くの男達が集まって、予め組み立てられた材木を取り囲んでガヤガヤ言いながら立ち働いている現場に遭遇した。新築民家の建前である。暫く眺めていると柱と梁を組み合わせて予め組み立てられた母材に綱を掛け、掛け声に併せて一斉に男達が一方では綱を引き、他方では母材を押し上げている。見る見るうちに鳥居型の最初の骨格が立ち上がった。続いて他方にも同形のものが立ち上がり、柱を器用に男達がよじ登って両者に横木を渡して家の骨格が出来上がった。クレーンを使うわけでもなく総て人海作業である。運よく村落共同体の原始的な建前の風景を見学することができた。<br /><br /> この国では社会主義が行われているので土地は国家のものであり、家を建てる人は国家に土地税を収めてこれを借り受け、材料費だけを負担し、労働力は村落の人々の労力奉仕に依存して家を建てるのだという。ここには住民がお互いに協力しあって助けられ且つ助け合うという地縁社会の相互扶助の習慣が現在に息づいていた。<br /><br /> そして若い男が結婚するには家を持っていることが一つの条件になるという。<br /><br /> 通りを進んでいくと川があり川の向こうは緩い傾斜の山麓に広がる部落で瓦葺きの家並みが古色蒼然と建ち並び美しい景観を作り出していた。<br /><br /> 次いで昆明の市街地から北12kmのところにある白砂村へ赴いた。現在は鄙びた村落に過ぎないが明清時代にはここが麗江地域の政治文化の中心地であった。ここは豪族「木氏土司」の本拠地であり、数多くのきらびやかな建築物が造られ現在でもその一部が残されている。<br /><br /> 白砂で最も有名なのは、当時この地域の支配者であった木氏土司が道教や仏教の教えを普及するためにナシ族、漢族、ペー族、チベット族の画家に描かせた壁画である。木氏は戦争を嫌い村を囲む城壁を一切作らなかったので、諸族共存を政治信念として部族の統治にあたった一つの例証とも言える。因みに「木」を囲むと「困」になるから城壁を作らなかったのだという言い伝えも残っている。<br /><br /> 最も保存状態のよい「白砂壁画」を見学した。楠木の壁板に大乗仏教、道教のの題材が金泥を用いて描かれており立体感を表現しようとしたところに特徴がある。撮影禁止でカメラに収めることはできなかった。<br /><br /> この村では広場で中年の女性達が6〜7人民族衣装に身を包んで、カセットテープから流れる民族音楽に合わせて踊りを踊っていたが、カメラを向けただけで撮影していなくてもしつこくチップを要求されるからとガイドから予め注意を受けていたので撮影は一切せずにやり過ごした。それでも紙箱を両手に捧げて若い女性がチップを要求してしつこくつきまとってくるのには閉口した。<br /><br /> 面白いと思ったのは壁画のある場所の周りには土産物屋の屋台が並んでいて藍染め主体の工芸品が売られていたことである。そこには必ずと言っていいほど「苗族の藍染め」と特記してあるものが多かった。この地には苗族もナシ族と共生しているのかと現地ガイドに聞いてみると彼らは土産ものを商うためにこの地へ進出してきている出稼ぎ商人だということであった。彼らにはまた別のところに定住区があるのである。<br /><br /> 午後玉龍雪山を東側からまじかに見るため雲杉坪(ウンサンピン)という丘へ向かうべく広いだらだら登りの高原を疾駆した。元この地域に飛行場があったが高い山が近くて飛行機の離着陸に危険であるため廃止されたというのである。説明がなければ飛行場の跡だとは誰も気がつかないであろう。<br /><br /> そんな変哲もない場所を暫く走行して「東巴文化走廊」という標高2,900mの地点にあるレストランで昼食を摂った。このレストランの建物の中央部には部族の神様の大きな像が守護神として佇立し周囲を睥睨していた。高い場所にあるので建物の中へ入っても震えるような寒さである。暖房設備も施されておらず、ブリキ製の火鉢に炭が焚かれているだけであるから暖気は部屋の中へは行き渡らない。<br /><br />  やがてスキー場でよく見かける腰掛けだけのリフトに乗って雲杉坪の丘へ登った。一気に高度が約300m程上がるので高山病にかかるおそれがあるから、煙草を吸ったり、走ったり、大声を出したりしないようにとの注意があった。体力に自信のない人は「空気枕」と称する酸素入りの枕状のビニール製容器を借りて携帯するのである。<br /><br /> 雲杉坪に降り立つと一面に雪が積もっていて観光客に踏み固められて滑りやすくなっている。通路に沿って見晴らしのよいと言われているヴューポイントまで到達したが、生憎の雲で玉龍雪山の全貌は全然見ることができなかった。山の裾部のあたりが見えているだけである。暫く待っていたが雲は晴れずやがて雪が降り出した。折角登ってきたのにと残念な思いであったが、再びリフトに乗って下山した。名山を見ることができるのは余程「つき」がなければ難しいと言われるように致し方のないことであったが悔しい思いが残った。<br /><br /> 再び麗江市内へ戻り、四方街を中心とする麗江古城を散策した。<br /><br /> 1300年の歴史を誇るこの街は玉龍川に育まれてきた豊かな自然に恵まれた美しい街である。リズミカルな曲線を描きながら四方に伸びる石畳の大通りと路地。明、清時代の建築様式を保っている古風で典雅な民家。大通りと横町、そして民家の垣根や庭を横切って長年流れ続けるせせらぎ。さまざまな形の石橋と川辺の枝垂れ柳。この総ては人間の営みと自然が見事に調和した風景を織りなしている。特に東巴文化とナシ族の伝統習俗はこの街の魅力となっている。   <br /><br /> 1996年に空前の大地震に見舞われ多くの建物が倒壊したが、莫大な資金を投下して街並は復元された。従って多くの建物は新しく建て替えられているが忠実に復元されたので昔の面影はそのまま伝えられている。このあたりの考え方は歴史のある町並みを保存することに熱心な欧州諸国と同様であり、日本と一味違うところである。<br /><br />平成14年1月11日(金)<br /> 朝8時半にホテルを出発して長駆200kmを3時間かけて大理へ向かった。麗江地区では稲作は出来ないということであり、現実に田畑には玉蜀黍を栽培している痕跡しか認められなかったが、大理に近づくにつれ水田が窓外に広がっているので高度400mの差が稲作に与える影響の程を思い知らされた。<br /><br /> 最初大理の現地ガイド王さんの案内で藍染めの家内工場を見学した。<br /><br /> 居宅の前庭には人間の背丈程もある大きな木桶が三つ置かれており、中年の男が木の棒でブルー色の水に漬かった布をしきりに掻き回していた。庭一面には染め上げたばかりの大小さまざまの布が所狭しとばかりに張り巡らされた紐に干されている。桶の傍らには植木鉢に植えられた藍の原料となる「板蘭根」という草が三鉢程置いてあった。<br /><br /> 納屋の傍らでは老婆が二人小さな椅子に腰かけて巧みに糸を操りながら布に絞りを入れている。この村で一番上手なお婆さんであるという。<br /><br /> 片や母屋の部屋の中には藍染めの商品が並べられていて、若い女性が数人民族衣装に身を固めて、巧みな日本語で愛嬌を振りまきながら観光客に商品の説明をしている。<br /><br /> ここで立ち働いている人々は何れも親戚関係にあり、無報酬の労働であるという。一年間の収支決算をしてから利益を分配するのであるから言ってみれば藍染作業に従事している親戚一同全員が経営者なのである。利益の配分方法については特に聞いてもみなかったので憶測になってしまうが、おそらくやる気を高揚させるような人事考課が行われて配分されるのであろう。立ち働いている人々の立ち居振る舞いには無駄がなく真剣そのものであった。<br /> <br /> ここに、最近日本の製造業の国際競争力がなくなって新興の中国へ工場移転が相次ぎ日本国内が空洞化していく現象の原点を見た思いであった。<br /><br /> 次に蝴蝶泉へ行った。大理古城から北へ24kmの雲弄山の麓にある方形泉は大理石の欄干に囲まれている。水面は鏡のように美しく滾々と湧き水が出ている。この泉を中心として小さな公園が作られている。<br /><br /> この泉が蝴蝶泉と名付けられたのには以下のような物語が伝えられている。<br /><br /> この泉は昔無底潭と呼ばれていた。泉の横に親子が住んでおり娘は名を&#38639;姑〔?=雨カンムリ+文 以下同様〕と言い聡明で金花に例えられる程美しかった。&#38639;姑は漁師の霞郎という青年と婚約していたが、領主が&#38639;姑を連れて行ってしまった。霞郎は苦労して&#38639;姑を救い出したが官兵が追っかけてきて、追いつめられた二人は無底潭に身を投げたのである。その時雷光が走り暴風となった。そして雨が上がると泉の中から七色に輝く一対の蝶が現れ、その後から無数の蝶が飛び出してきたのである。<br /><br /> この泉で王さんから悲恋の物語を聞き終えた時、泉から一段低い広場で民族衣装に身を固めた初老の男と若い娘達が数人茶色毛の鶏を二羽抱えて、呪文のような音声を発しながら踊りをしているのに気がついた。興味にかられて眺めているとやがて鶏を水浴させ、それが終わると首を押さえて穀物をしきりに食べさせている。それはあたかも鶏達に感謝を捧げている風情である。<br /><br /> 先祖の供養をするための儀式ではないかという人もあり、なるほどと納得しながらなおも観察していると、儀式が終わったのか、やおら老人が鶏の両足をつかんで立ち上がり大きな包丁を取り出して首を刎ねたのである。その動作の素早いこと、あっという間の出来事であった。突然の成り行きに唖然としてその周囲を見渡せば、何と儀式の現場から少し離れたところには石ころを組んで築いた火入りの竈と鍋釜に食器が並べられて綺麗に切られた野菜や炊きあがったご飯や調味料が敷物の上に並んでいるではないか。これから野外パーティーが始まるのである。<br /><br /> 昔、田舎で鶏の首を刎ねる時のこれと同じ光景を見たことがあるなと幼児体験を思い出しながら、次の訪問地喜州村の厳家大院へ向かった。<br /><br /> 厳家大院は明,清時代の建築様式を伝える白族の代表的なものである。白族の中の最有力な一家である厳家の本家の中の大きな庭である。この庭は三方一照壁といわれる建築様式で作られた建物の中にある庭である。この様式はペー族の伝統的な建築様式であるが、白壁と青瓦でできた二階建ての母屋の両側に副屋を建て、母屋の正面に目隠し用の照壁を配する建て方である。照壁は東側に設けられ照壁の反射光で明かりを部屋の中に取り込む仕掛けになっている。このような民家が数多くこの地には残されて美しい町並みを作り出している。<br /><br /> この厳家大院で白族の若い娘達の民族舞踊を見学しながら「三道茶」を御馳走になった。 三道茶は白族が客をもてなす時に出されるお茶で、最初「苦い」茶が給され、次いで「甘い茶」が出される。最後に「辛い茶」で締めくくるという訳である。<br /><br /> 恋愛中の若い女性が家族に紹介するため初めて、相手の男性を両親の許に伴ったとき、三道茶が出されれば両親の目にかなったということであり、三道茶が出されずに山海の珍味の御馳走でもてなされた時は「貴男は両親の眼鏡にかなわないから娘との交際は取り止めてくれ」という意思表示になるのだという。<br /><br /> 次いで大理石の加工工場を見学した。大理石とははこの大理で採取されることからつけられた名前であるとはここで初めて知った。大理石と言えばすぐローマやギリシャの彫刻や建物を連想するようになってしまっているが、言葉の原義を知らずに日常使用している言葉が如何に多いかを思い知らされたことであった。<br /><br /> この工場は国営工場であるが、作業員は数名しかおらず、あとの過半は管理員であるから管理費倒れで採算の上がる筈がないとはガイドの王さんの見解である。ガイドの口からこのような発言が簡単に聞かれるようになったことは今の中国の政府当局の悩みとこの国の持つ民間活力の秘められたポテンシャルの大きさを窺わせるに充分であった。今後大いに発展する国であるとの感慨一入である。<br /><br /> 大理の三塔を見学した。この塔はもともと崇聖寺という大きな仏教寺院の境内にあったが度重なる兵火や大地震ですべてなくなり、三塔だけが残っている。<br /><br /> 主塔は南詔国の時代、唐の開成元年(836年)の創建で両脇の小塔はそれより少し後に建てられた。主塔の高さは69.13mで十六層の方形密檐式の煉瓦製仏塔である。塔基前に「永鎮山川」の文字が大書されていて各層には仏像がはめ込まれている。<br /><br /> 主塔の南北に控える2塔の小塔は高さ42.19m、十層八角の密檐空心式の煉瓦製仏塔で大理国の時代に建立された。<br /><br />  三塔倒影公園内の池に写った三つの塔の影は実物と合わせて見ると六つ塔があるような錯覚にとらわれる素敵な光景である。<br /><br /> 三塔倒影公園内には南詔建極大鐘殿が新しく建設されておりこの鐘楼の二階に登って大理市内を眺望するとそこには白壁と青煉瓦屋根の古い町並みが開けているのを一望することができる。<br /><br /> この後大理(古城)市内を見学したがここは城壁に囲まれた旧い城郭都市でペー族が昔ながらの集落の中で悠然とした時の流れにまかせて都会の中の喧噪の中にあっても自然と調和した心豊かな生活を営んでいるのを見ることができた。<br /><br /> ホテルへ帰って窓の外を眺めると見学できなかった塔がライトアップされて幻想的な美しさをたたえていた。見学した三塔とは異なっていることは明らかであるが塔の名前は判らない。<br /><br />平成14年1月12日(土)<br /> 大理の空港を9時10分に離陸した飛行機は昆明空港へ10時前に到着した。直ちにバスに乗り換え石林に向かった。<br /><br /> 道中窓外に雲南省からベトナムまで通じる鉄道線路を目撃することができた。フランス人が中国の利権を買って建設したこの鉄道は高い山の中腹に軌道を敷設し、トンネルを掘ったり橋をかけたりする難工事であったといい、開通するまでに中国人労働者が六万人も死亡したと言われている。別名死亡鉄道ともいうとのことであった。欧米列国が阿片戦争をはじめ、利権を求めて中国大陸で侵略を繰り広げていた頃の名残をとどめる鉄道である。<br /><br /> 石林風景地区は昆明から南東へ100km程行った路南イ族自治県にある。 この中の代表的な景勝地の李子&#31632;〔?=竹カンムリ+青 以下同様〕石林を見学した。このあたりはもともと海であったが、二億八千万年前に地殻変動が始まり、石灰質の岩盤が変形し始めて岩面が露出した後も、風雨による浸食や地震によって、岩山が削られ、その結果鋭い岩山が数多く出現したのである。 <br /><br /> <br /> ここは有名な景勝地なので外国人はもとより中国人の観光客も多いところである。<br /><br /> 公園の広場には折から梅の花が咲き誇っていた。<br />  そして目当ての石林には鋭い剣を何本も縦にに並べたような岩肌が連なっていて、石林とは言い得て妙であると思った。その石林の合間を縫うようにアップダウンしながら小道が設けられているが、なかなか前へ進まない。観光客達がこれはと思われる個所に立ち止まって記念写真を撮影するからである。<br /><br /> 1996年の大地震で鋭い剣の刃先のような岩が折れて、崩れ落ちたが下まで落ち切れずに岩と岩の間に挟まって今にも落下しそうに見えるものが幾つかある。これには「間一髪」「間二髪」「間三髪」などと名前が付けられている。実に絶妙のネーミングであると感心することしきりである。<br /><br /> このような奇石はトルコのカッパドキアや北アイルランドのジャイアイト・コーズウエイで過去にも何カ所か見学したことがあるが、ここのはその何れとも異なった趣があった。<br /><br /><br /> 石林の観光を終えて再び昆明市内に戻り、博物館を見学してから自由市場を見学した。自由市場は釜山でみた市場と似通った雰囲気があるが、釜山程規模は大きくなく品揃えも劣っていると思った。食料に供される小犬や鶏、蛇などが籠に入れられて並んでいたりする。この種の市場の猥雑さと喧噪が錯綜しているところは万国共通のものがある。<br /><br /> 何人かの男が豚の両足を押さえつけていて一人の男が喉に包丁を突き刺したところや鶏の首を締めている所等をたまたま目撃してしまった。豚や鶏の断末魔の声が耳に残ってこの夜の食事は気が重かった。<br /><br />平成14年1月13日(日)<br /> 今日は雲南省の旅最後の日である。帰国の準備を済ませて最後の観光地西山森林公園の竜門の石窟へ向かった。<br /><br /> 西山森林公園は昆明市の西郊外15kmのところにあり、&#28359;池に沿って華亭山、太華山羅漢山等の山々が南北40kmに渡って連なっている。<br /><br /> 元代に創建された三清閣は道教寺院であるが、ここから絶壁の岩肌を縫うようにして急峻で勾配のきつい石段を333段登っていくと慈雲洞、鳳凰岩、達天閣を経て半月形の展望台に至る。ここにある石窟が竜門である。展望台からは&#28359;湖を一望することができてなかなかの絶景である。下を覗くと身震いするような断崖絶壁にある石窟である。この窟は揚親子と70余名の石工が22年の歳月をかけて完成させたといわれている。昆明を訪れる観光客は必ず立ち寄る天下の名勝である。 <br /><br /> 竜門の絶景を堪能してから帰り道にある華亭寺を見学した。雲南省で最大規模を誇り900年以上の歴史のある禅宗の名刹である。寺院内には200あまりの建物があるが、大雄殿の三尊金身仏像と五百羅漢像を見学した。五百羅漢像はこれまでにも日本の各地の寺院で見学したことがあるが、概ね石像が多く地味な色合いであるが、ここの五百羅漢は塑像で派手な着色が施してあるのが珍しく如何にも中国らしいと思った。また手長の羅漢が何体かあったがその手の長さが異常に長いのも強烈な印象を与えるものであった。<br /> 境内に咲いている花弁が.薄黄緑色をしていたのも珍しかった。<br /><br /><br />

高地で多様な少数民族が生活する中国雲南省の旅

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2002/01/09 - 2002/01/13

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早島 潮

早島 潮さん

平成14年1月9日(水)

 成田空港で順調に手続きは進んで日本エァーシステムの国内線で関西空港へ飛んだ。関西空港では慌ただしくJASの国際線に乗り換えた。JASに搭乗したのは今回初めてであった。慌ただしい中にも通りすがりに免税店でナポレオンブランデーを購入することは出来た。友人はバレンタインウイスキーを求めた。

 4時間半程のフライトで昆明空港へ到着した。ガイドは兪さんである。「車のない輸出の兪です」と自己紹介をしていた。

 最初昆明市内の「雲南民族村」を訪問した。これは見学者用に造られたテーマパークである。昆明市の南8kmに位置し80km2の広大な敷地の中に雲南省に居住する26民族の文化風俗を展示紹介している。

 丁度南アフリカのヨハネスブルグで訪問した民族文化村と同工異曲の公園である。

 公園の入り口には大木があり枝を張りめぐらせている。アフリカで見たバオバブの木に一見似ている。しかし近づいてよく見ると宿り木の葉の中に混じって造花らしい葉っぱがついている。更に仔細に観察すると幹なども巧妙にコンクリートで造られた造木であった。自然が売り物の公園に人工の樹木とは如何なものかと当局の人達のセンスを疑いたくなるような代物であった。

 入り口近くの人口の湖では舟を浮かべて漁師達が投網を打って魚を捕っていた。養殖の川魚だという。


 広大な公園の敷地の中に各民族の民家と生活用具が収納されて展示されていたが、実際に生活している場面は少なくて、南アフリカで見た民族文化村のような迫力はなかった。ここでは拉枯族(ラフ族)、基諾族、ワー族、タイ族のエリアを見学した。

 それでも印象に残っているのは泰族(人偏+泰、タイ族)の寝室である。一つの部屋に三代の家族が就寝するのだというから異様である。今まで部屋の中は他民族には公開されなかったのを観光客用に最近公開するようになったという。覗いてみると大きな部屋が柱で四角に囲って区切られている。その区画内に蚊帳様の布切れで囲われた室がありその中に布団が敷いてある。祖父母用、両親用、若夫婦用、子供用とそれぞれの室に布張りが設けられているのである。各布張りの室の間は廊下のように空間が設けられており、ゆったりとした配置である。部屋の外へ通じる出入り口は三カ所設けられていてそれぞれの世代の専用に供されている。

 最初は新婚夫婦を含めた三代の夫婦の雑魚寝なのかと思い、性生活のプライパシーはどのようになっているのかと心配したが、実際の部屋の中を見て他所事ながら安堵した。それにしても新婚夫婦には残酷な寝室の環境であると思った。

 ワー族(人偏+瓦)は35万人程いるらしいがこの民族は牛を民族のシンボルとしており、牛の数が地位と財産を表す尺度になっていて民家の前には角のついた牛の骸骨がいくつも誇らしげに飾られていた。

 ラフ族の村では瓢箪の飾りが多用されていたが、この民族は人間は瓢箪から発生したと考えているから瓢箪を民族のシンボルとしているのである。

 中国には56の少数民族があり、雲南省だけでも26の少数民族がいる。少数民族も法のもとでは総て平等であり、差別はないが中国ではむしろ種族保存の見地から特別に保護されているようであり、人数の少ない幾つかの民族には一人子政策の例外扱いがなされている。

 少数民族の人々は何れも少数民族であることに誇りを持って生活している様子が今度の訪問でよく判った。民族の独自性を最もよく表すのはその言語と風俗であり、端的に違いを際立たせるのはその服装である。実にさまざまな服装がある。各民族ともその服装を特に若い女性が晴れがましく着飾って活動しているところが印象に残った。 今回訪問した都市では昆明、麗江が納西族(ナシ族)、大理が白族(ペー族)、石林に彝族(イ族)の支族のサニ族が住んでいる。中でもイ族は雲南省最大の少数民族で雲南省全土に分布しており、人口およそ700万人に及ぶ。

 最初の訪問地昆明は雲南高原の中部に位置し、三方を山に囲まれた風光明媚な雲南省の省都である。市の総面積は15,561km2あり、人口は370 万人。標高は1891mであり、気候が穏やかで一年中緑が絶えないので「春城」の別名がある。

歴史も古く旧石器時代の3万年前には既に湖の「滇池」〔?=サンズイ+真〕(てんち)周辺には人が住み着いていた。

 紀元前3世紀に楚の将軍・荘滇〔?=サンズイ+真 以下同様〕が現在の晋城辺りに築城し滇国を建国した。

 紀元前109年に前漢の武帝は滇国王に「滇王之印」を与えて正式な国家として認めた。その後、南詔国の時代となり、拓東城が造られた。871年には鄯〔?=善+右のオオザト 以下同様〕闡城と改名され、南詔国の東都として栄えた。

 1254年にフビライが派遣したモンゴル軍に鄯闡城は占領され、1276年に雲南行省が設置されて鄯闡城は昆明県となった。この時、雲南地区の行政の中心地は大理から昆明に移り現在に至っている。

 次に大観公園に行った。
 公園へ入って最初に目がつくのが奇怪な形をした岩の塊である。これはこの公園に取り入れられた造園技術の一つで障景堡と呼ばれる手法である。つまり美しい景色をいきなり見せないように障壁を設けておいて、観光客が障壁を越えて進んだ時、美しい光景が突然目に飛び込んできて感激もまた一入ということを狙っているのである。

 ここは湖・滇池〔?=サンズイ+真 以下同様〕の北岸と繋がる大観川の中に造られており、楠木で出来た三層の楼閣が最も有名である。大観楼と称するこの建物は楠木で出来ていて、一階には滇池の美しさを90字で詠んだ詩(長聨)と同じく90字で南詔国の歴史を叙した詩が左右の門に飾られている。この公園は清代の1696年康熙帝の時、池を作り現在の形になったものである。古来文人が遊ぶ名所であった。

 初日の観光を終わり昆明市の五つ星ホテルの佳華広場ホテルへ投宿した。

 昆明市は世界花博覧会以来、行政当局の考え方が変わって観光に力を入れるようになったという。この佳華広場ホテルも花博覧会の時建設された新しいホテルである。
                                      
平成14年1月10日(木)
 朝早く5時にモーニングコールがあり、6時15分にはホテルを出発して昆明空港へ向かった。この日は麗江を見学することになっている。戸外はまだ真っ暗である。 ここ中国では広大な土地であるにもかかわらず総て北京時間が適用されているので、夜が明けるのは8時前である。8時にならないと夜が明けないという生活は異様である。北京とでは2時間程時差を設けてもいいのではなかろうかというのが、通りすがりの一観光客の率直な感想である。

 40分程のフライトで麗江の空港へ到着した。道中機内から窓の外の風景を眺めやると雲南省は山の中に開けている省だということがよく判る。何処までも続く山並みの合間にすこしだけ開けた盆地があり、小さな集落が形成されている場合が多い。雲南省の省都昆明が標高1,891m、麗江が2,400m、大理が1,976mの盆地であるから省自体が標高の高い山地に営まれていることになる。

昆明空港で朝鮮族の厳さんという若い女性のガイドに出迎えられて、最初訪問したのは玉泉公園である。   

 市街地の北に位置し公園内の池の水が玉のように碧いので玉泉の名がつけられ、別名「黒龍潭」公園ともいう。清の乾隆二年(1,737年)に「玉泉王廟」として造られたのが始まりで弓型をした約6km2の池を中心としていて、その周囲にはしだれ柳が植えられている。

 大理石で造られた玉帯拱橋の向こうには雪の帽子を被った玉龍雪山が白く聳えており素晴らしい光景である。運よく雲が切れてその秀麗な姿を見飽きることなく眺めることができた。  

 公園内には数多くの楼閣や亭が建てられているが、明の万暦29年(1601年)創建の福国寺五鳳楼や三層四角の得月楼が有名である。たまたま民族衣装を身にまとった若い女性4人が楼閣の前にいたので、写真を撮ってもいいかと許可を求めると「ジュウゲン、ジュウゲン」と手の掌を突き出してチップを要求された。

「OK」とチップを支払う意思のあることを表明すると4人が並んでポーズをとり、撮影に応じてくれた。場所によって異なるが観光地に民族衣装を纏って屯している若い女性は写真のモデル料を得ることを目的としているのである。 

 次に納西族の住んでいる束河村を訪問した。

 この村には古くからの農村の家並みが残されていて道路の両端には瓦葺きの古い二階建ての民家が軒を接して建ち並んでいる。壁は日干し煉瓦を積み重ねたものが多い。門扉には「春節光臨」等と書かれた旧正月の到来を祝う張り紙がしてある。中には葬式を出したばかりとおぼしき張り紙をしてある家もある。

 日干し煉瓦塀で囲われた庭には穴のあいた何本かの柱が高く建っている。これは穴に竿を通して収穫物の玉蜀黍や稲を乾燥させるための支え木である。二階の軒下には玉蜀黍の実が数珠繋ぎに縛られて幾つも吊り下げられていて、陽光に晒され黄金色に光っている。庭の囲いの中の家畜小屋では牛が玉蜀黍の茎や葉を食んでいたりする。

 道路には農業用トラクターに鉄板で囲いをつけた車が農産物を積んで通り抜けるかと思えば、一方には背中に農産物や薪の一杯詰まった大きな籠を背負った女性が力強い足どりで歩いて行く。軒先では男達がトランプや将棋に打ち興じていたり、老人が椅子を持ち出して座り人通りを飽かず眺めていたりする。実に長閑な田園の村落の光景が展開している。ガイドの説明によればナシ族の女性は働きものであるが、男は働かないでぶらぶら遊んでいることが多いという。それが昔からの習慣であるからそのことを奇怪だと思う人も今まではいなかったという。しかし観光客が大勢訪問するようになってからこの風習も次第に見直され、男も働くようになってきているという。

 たまたま広場に数多くの男達が集まって、予め組み立てられた材木を取り囲んでガヤガヤ言いながら立ち働いている現場に遭遇した。新築民家の建前である。暫く眺めていると柱と梁を組み合わせて予め組み立てられた母材に綱を掛け、掛け声に併せて一斉に男達が一方では綱を引き、他方では母材を押し上げている。見る見るうちに鳥居型の最初の骨格が立ち上がった。続いて他方にも同形のものが立ち上がり、柱を器用に男達がよじ登って両者に横木を渡して家の骨格が出来上がった。クレーンを使うわけでもなく総て人海作業である。運よく村落共同体の原始的な建前の風景を見学することができた。

 この国では社会主義が行われているので土地は国家のものであり、家を建てる人は国家に土地税を収めてこれを借り受け、材料費だけを負担し、労働力は村落の人々の労力奉仕に依存して家を建てるのだという。ここには住民がお互いに協力しあって助けられ且つ助け合うという地縁社会の相互扶助の習慣が現在に息づいていた。

 そして若い男が結婚するには家を持っていることが一つの条件になるという。

 通りを進んでいくと川があり川の向こうは緩い傾斜の山麓に広がる部落で瓦葺きの家並みが古色蒼然と建ち並び美しい景観を作り出していた。

 次いで昆明の市街地から北12kmのところにある白砂村へ赴いた。現在は鄙びた村落に過ぎないが明清時代にはここが麗江地域の政治文化の中心地であった。ここは豪族「木氏土司」の本拠地であり、数多くのきらびやかな建築物が造られ現在でもその一部が残されている。

 白砂で最も有名なのは、当時この地域の支配者であった木氏土司が道教や仏教の教えを普及するためにナシ族、漢族、ペー族、チベット族の画家に描かせた壁画である。木氏は戦争を嫌い村を囲む城壁を一切作らなかったので、諸族共存を政治信念として部族の統治にあたった一つの例証とも言える。因みに「木」を囲むと「困」になるから城壁を作らなかったのだという言い伝えも残っている。

 最も保存状態のよい「白砂壁画」を見学した。楠木の壁板に大乗仏教、道教のの題材が金泥を用いて描かれており立体感を表現しようとしたところに特徴がある。撮影禁止でカメラに収めることはできなかった。

 この村では広場で中年の女性達が6〜7人民族衣装に身を包んで、カセットテープから流れる民族音楽に合わせて踊りを踊っていたが、カメラを向けただけで撮影していなくてもしつこくチップを要求されるからとガイドから予め注意を受けていたので撮影は一切せずにやり過ごした。それでも紙箱を両手に捧げて若い女性がチップを要求してしつこくつきまとってくるのには閉口した。

 面白いと思ったのは壁画のある場所の周りには土産物屋の屋台が並んでいて藍染め主体の工芸品が売られていたことである。そこには必ずと言っていいほど「苗族の藍染め」と特記してあるものが多かった。この地には苗族もナシ族と共生しているのかと現地ガイドに聞いてみると彼らは土産ものを商うためにこの地へ進出してきている出稼ぎ商人だということであった。彼らにはまた別のところに定住区があるのである。

 午後玉龍雪山を東側からまじかに見るため雲杉坪(ウンサンピン)という丘へ向かうべく広いだらだら登りの高原を疾駆した。元この地域に飛行場があったが高い山が近くて飛行機の離着陸に危険であるため廃止されたというのである。説明がなければ飛行場の跡だとは誰も気がつかないであろう。

 そんな変哲もない場所を暫く走行して「東巴文化走廊」という標高2,900mの地点にあるレストランで昼食を摂った。このレストランの建物の中央部には部族の神様の大きな像が守護神として佇立し周囲を睥睨していた。高い場所にあるので建物の中へ入っても震えるような寒さである。暖房設備も施されておらず、ブリキ製の火鉢に炭が焚かれているだけであるから暖気は部屋の中へは行き渡らない。

やがてスキー場でよく見かける腰掛けだけのリフトに乗って雲杉坪の丘へ登った。一気に高度が約300m程上がるので高山病にかかるおそれがあるから、煙草を吸ったり、走ったり、大声を出したりしないようにとの注意があった。体力に自信のない人は「空気枕」と称する酸素入りの枕状のビニール製容器を借りて携帯するのである。

 雲杉坪に降り立つと一面に雪が積もっていて観光客に踏み固められて滑りやすくなっている。通路に沿って見晴らしのよいと言われているヴューポイントまで到達したが、生憎の雲で玉龍雪山の全貌は全然見ることができなかった。山の裾部のあたりが見えているだけである。暫く待っていたが雲は晴れずやがて雪が降り出した。折角登ってきたのにと残念な思いであったが、再びリフトに乗って下山した。名山を見ることができるのは余程「つき」がなければ難しいと言われるように致し方のないことであったが悔しい思いが残った。

 再び麗江市内へ戻り、四方街を中心とする麗江古城を散策した。

 1300年の歴史を誇るこの街は玉龍川に育まれてきた豊かな自然に恵まれた美しい街である。リズミカルな曲線を描きながら四方に伸びる石畳の大通りと路地。明、清時代の建築様式を保っている古風で典雅な民家。大通りと横町、そして民家の垣根や庭を横切って長年流れ続けるせせらぎ。さまざまな形の石橋と川辺の枝垂れ柳。この総ては人間の営みと自然が見事に調和した風景を織りなしている。特に東巴文化とナシ族の伝統習俗はこの街の魅力となっている。   

 1996年に空前の大地震に見舞われ多くの建物が倒壊したが、莫大な資金を投下して街並は復元された。従って多くの建物は新しく建て替えられているが忠実に復元されたので昔の面影はそのまま伝えられている。このあたりの考え方は歴史のある町並みを保存することに熱心な欧州諸国と同様であり、日本と一味違うところである。

平成14年1月11日(金)
 朝8時半にホテルを出発して長駆200kmを3時間かけて大理へ向かった。麗江地区では稲作は出来ないということであり、現実に田畑には玉蜀黍を栽培している痕跡しか認められなかったが、大理に近づくにつれ水田が窓外に広がっているので高度400mの差が稲作に与える影響の程を思い知らされた。

 最初大理の現地ガイド王さんの案内で藍染めの家内工場を見学した。

 居宅の前庭には人間の背丈程もある大きな木桶が三つ置かれており、中年の男が木の棒でブルー色の水に漬かった布をしきりに掻き回していた。庭一面には染め上げたばかりの大小さまざまの布が所狭しとばかりに張り巡らされた紐に干されている。桶の傍らには植木鉢に植えられた藍の原料となる「板蘭根」という草が三鉢程置いてあった。

 納屋の傍らでは老婆が二人小さな椅子に腰かけて巧みに糸を操りながら布に絞りを入れている。この村で一番上手なお婆さんであるという。

 片や母屋の部屋の中には藍染めの商品が並べられていて、若い女性が数人民族衣装に身を固めて、巧みな日本語で愛嬌を振りまきながら観光客に商品の説明をしている。

 ここで立ち働いている人々は何れも親戚関係にあり、無報酬の労働であるという。一年間の収支決算をしてから利益を分配するのであるから言ってみれば藍染作業に従事している親戚一同全員が経営者なのである。利益の配分方法については特に聞いてもみなかったので憶測になってしまうが、おそらくやる気を高揚させるような人事考課が行われて配分されるのであろう。立ち働いている人々の立ち居振る舞いには無駄がなく真剣そのものであった。

ここに、最近日本の製造業の国際競争力がなくなって新興の中国へ工場移転が相次ぎ日本国内が空洞化していく現象の原点を見た思いであった。

 次に蝴蝶泉へ行った。大理古城から北へ24kmの雲弄山の麓にある方形泉は大理石の欄干に囲まれている。水面は鏡のように美しく滾々と湧き水が出ている。この泉を中心として小さな公園が作られている。

この泉が蝴蝶泉と名付けられたのには以下のような物語が伝えられている。

 この泉は昔無底潭と呼ばれていた。泉の横に親子が住んでおり娘は名を雯姑〔?=雨カンムリ+文 以下同様〕と言い聡明で金花に例えられる程美しかった。雯姑は漁師の霞郎という青年と婚約していたが、領主が雯姑を連れて行ってしまった。霞郎は苦労して雯姑を救い出したが官兵が追っかけてきて、追いつめられた二人は無底潭に身を投げたのである。その時雷光が走り暴風となった。そして雨が上がると泉の中から七色に輝く一対の蝶が現れ、その後から無数の蝶が飛び出してきたのである。

 この泉で王さんから悲恋の物語を聞き終えた時、泉から一段低い広場で民族衣装に身を固めた初老の男と若い娘達が数人茶色毛の鶏を二羽抱えて、呪文のような音声を発しながら踊りをしているのに気がついた。興味にかられて眺めているとやがて鶏を水浴させ、それが終わると首を押さえて穀物をしきりに食べさせている。それはあたかも鶏達に感謝を捧げている風情である。

 先祖の供養をするための儀式ではないかという人もあり、なるほどと納得しながらなおも観察していると、儀式が終わったのか、やおら老人が鶏の両足をつかんで立ち上がり大きな包丁を取り出して首を刎ねたのである。その動作の素早いこと、あっという間の出来事であった。突然の成り行きに唖然としてその周囲を見渡せば、何と儀式の現場から少し離れたところには石ころを組んで築いた火入りの竈と鍋釜に食器が並べられて綺麗に切られた野菜や炊きあがったご飯や調味料が敷物の上に並んでいるではないか。これから野外パーティーが始まるのである。

 昔、田舎で鶏の首を刎ねる時のこれと同じ光景を見たことがあるなと幼児体験を思い出しながら、次の訪問地喜州村の厳家大院へ向かった。

 厳家大院は明,清時代の建築様式を伝える白族の代表的なものである。白族の中の最有力な一家である厳家の本家の中の大きな庭である。この庭は三方一照壁といわれる建築様式で作られた建物の中にある庭である。この様式はペー族の伝統的な建築様式であるが、白壁と青瓦でできた二階建ての母屋の両側に副屋を建て、母屋の正面に目隠し用の照壁を配する建て方である。照壁は東側に設けられ照壁の反射光で明かりを部屋の中に取り込む仕掛けになっている。このような民家が数多くこの地には残されて美しい町並みを作り出している。

 この厳家大院で白族の若い娘達の民族舞踊を見学しながら「三道茶」を御馳走になった。 三道茶は白族が客をもてなす時に出されるお茶で、最初「苦い」茶が給され、次いで「甘い茶」が出される。最後に「辛い茶」で締めくくるという訳である。

 恋愛中の若い女性が家族に紹介するため初めて、相手の男性を両親の許に伴ったとき、三道茶が出されれば両親の目にかなったということであり、三道茶が出されずに山海の珍味の御馳走でもてなされた時は「貴男は両親の眼鏡にかなわないから娘との交際は取り止めてくれ」という意思表示になるのだという。

 次いで大理石の加工工場を見学した。大理石とははこの大理で採取されることからつけられた名前であるとはここで初めて知った。大理石と言えばすぐローマやギリシャの彫刻や建物を連想するようになってしまっているが、言葉の原義を知らずに日常使用している言葉が如何に多いかを思い知らされたことであった。

 この工場は国営工場であるが、作業員は数名しかおらず、あとの過半は管理員であるから管理費倒れで採算の上がる筈がないとはガイドの王さんの見解である。ガイドの口からこのような発言が簡単に聞かれるようになったことは今の中国の政府当局の悩みとこの国の持つ民間活力の秘められたポテンシャルの大きさを窺わせるに充分であった。今後大いに発展する国であるとの感慨一入である。

 大理の三塔を見学した。この塔はもともと崇聖寺という大きな仏教寺院の境内にあったが度重なる兵火や大地震ですべてなくなり、三塔だけが残っている。

 主塔は南詔国の時代、唐の開成元年(836年)の創建で両脇の小塔はそれより少し後に建てられた。主塔の高さは69.13mで十六層の方形密檐式の煉瓦製仏塔である。塔基前に「永鎮山川」の文字が大書されていて各層には仏像がはめ込まれている。

 主塔の南北に控える2塔の小塔は高さ42.19m、十層八角の密檐空心式の煉瓦製仏塔で大理国の時代に建立された。

三塔倒影公園内の池に写った三つの塔の影は実物と合わせて見ると六つ塔があるような錯覚にとらわれる素敵な光景である。

 三塔倒影公園内には南詔建極大鐘殿が新しく建設されておりこの鐘楼の二階に登って大理市内を眺望するとそこには白壁と青煉瓦屋根の古い町並みが開けているのを一望することができる。

 この後大理(古城)市内を見学したがここは城壁に囲まれた旧い城郭都市でペー族が昔ながらの集落の中で悠然とした時の流れにまかせて都会の中の喧噪の中にあっても自然と調和した心豊かな生活を営んでいるのを見ることができた。

 ホテルへ帰って窓の外を眺めると見学できなかった塔がライトアップされて幻想的な美しさをたたえていた。見学した三塔とは異なっていることは明らかであるが塔の名前は判らない。

平成14年1月12日(土)
 大理の空港を9時10分に離陸した飛行機は昆明空港へ10時前に到着した。直ちにバスに乗り換え石林に向かった。

 道中窓外に雲南省からベトナムまで通じる鉄道線路を目撃することができた。フランス人が中国の利権を買って建設したこの鉄道は高い山の中腹に軌道を敷設し、トンネルを掘ったり橋をかけたりする難工事であったといい、開通するまでに中国人労働者が六万人も死亡したと言われている。別名死亡鉄道ともいうとのことであった。欧米列国が阿片戦争をはじめ、利権を求めて中国大陸で侵略を繰り広げていた頃の名残をとどめる鉄道である。

 石林風景地区は昆明から南東へ100km程行った路南イ族自治県にある。 この中の代表的な景勝地の李子箐〔?=竹カンムリ+青 以下同様〕石林を見学した。このあたりはもともと海であったが、二億八千万年前に地殻変動が始まり、石灰質の岩盤が変形し始めて岩面が露出した後も、風雨による浸食や地震によって、岩山が削られ、その結果鋭い岩山が数多く出現したのである。 


 ここは有名な景勝地なので外国人はもとより中国人の観光客も多いところである。

 公園の広場には折から梅の花が咲き誇っていた。
そして目当ての石林には鋭い剣を何本も縦にに並べたような岩肌が連なっていて、石林とは言い得て妙であると思った。その石林の合間を縫うようにアップダウンしながら小道が設けられているが、なかなか前へ進まない。観光客達がこれはと思われる個所に立ち止まって記念写真を撮影するからである。

 1996年の大地震で鋭い剣の刃先のような岩が折れて、崩れ落ちたが下まで落ち切れずに岩と岩の間に挟まって今にも落下しそうに見えるものが幾つかある。これには「間一髪」「間二髪」「間三髪」などと名前が付けられている。実に絶妙のネーミングであると感心することしきりである。

 このような奇石はトルコのカッパドキアや北アイルランドのジャイアイト・コーズウエイで過去にも何カ所か見学したことがあるが、ここのはその何れとも異なった趣があった。


 石林の観光を終えて再び昆明市内に戻り、博物館を見学してから自由市場を見学した。自由市場は釜山でみた市場と似通った雰囲気があるが、釜山程規模は大きくなく品揃えも劣っていると思った。食料に供される小犬や鶏、蛇などが籠に入れられて並んでいたりする。この種の市場の猥雑さと喧噪が錯綜しているところは万国共通のものがある。

 何人かの男が豚の両足を押さえつけていて一人の男が喉に包丁を突き刺したところや鶏の首を締めている所等をたまたま目撃してしまった。豚や鶏の断末魔の声が耳に残ってこの夜の食事は気が重かった。

平成14年1月13日(日)
 今日は雲南省の旅最後の日である。帰国の準備を済ませて最後の観光地西山森林公園の竜門の石窟へ向かった。

 西山森林公園は昆明市の西郊外15kmのところにあり、滇池に沿って華亭山、太華山羅漢山等の山々が南北40kmに渡って連なっている。

 元代に創建された三清閣は道教寺院であるが、ここから絶壁の岩肌を縫うようにして急峻で勾配のきつい石段を333段登っていくと慈雲洞、鳳凰岩、達天閣を経て半月形の展望台に至る。ここにある石窟が竜門である。展望台からは滇湖を一望することができてなかなかの絶景である。下を覗くと身震いするような断崖絶壁にある石窟である。この窟は揚親子と70余名の石工が22年の歳月をかけて完成させたといわれている。昆明を訪れる観光客は必ず立ち寄る天下の名勝である。 

 竜門の絶景を堪能してから帰り道にある華亭寺を見学した。雲南省で最大規模を誇り900年以上の歴史のある禅宗の名刹である。寺院内には200あまりの建物があるが、大雄殿の三尊金身仏像と五百羅漢像を見学した。五百羅漢像はこれまでにも日本の各地の寺院で見学したことがあるが、概ね石像が多く地味な色合いであるが、ここの五百羅漢は塑像で派手な着色が施してあるのが珍しく如何にも中国らしいと思った。また手長の羅漢が何体かあったがその手の長さが異常に長いのも強烈な印象を与えるものであった。
境内に咲いている花弁が.薄黄緑色をしていたのも珍しかった。


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  • 雲南民族村入り口の人工の樹

    雲南民族村入り口の人工の樹

  • 民族村入り口の漁師

    民族村入り口の漁師

  • 少数民族村の佇まい

    少数民族村の佇まい

  • ワー族のシンボル牛の髑髏

    ワー族のシンボル牛の髑髏

  • 玉龍雪山

    玉龍雪山

  • 麗江の玉泉公園内楼閣前の少女達

    麗江の玉泉公園内楼閣前の少女達

  • 納西族の上棟

    納西族の上棟

  • 束河村の家並

    束河村の家並

  • 束河村の収穫物を干す棚

    束河村の収穫物を干す棚

  • 雲杉坪で僅かに見えた玉龍雪山

    雲杉坪で僅かに見えた玉龍雪山

  • 雲杉坪

    雲杉坪

  • 大地震の後に復元した麗江市街

    大地震の後に復元した麗江市街

  • 麗江市街街並

    麗江市街街並

  • 麗江市街街並

    麗江市街街並

  • 大理の藍染め工場で働く老女

    大理の藍染め工場で働く老女

  • 大理の染色工場の売り子

    大理の染色工場の売り子

  • 鶏に餌を与える儀式

    鶏に餌を与える儀式

  • 大理の三塔

    大理の三塔

  • 大理の市街

    大理の市街

  • 大地震の後に復元した麗江市街

    大地震の後に復元した麗江市街

  • <br />胡蝶泉


    胡蝶泉

  • 絶妙のネーミング、間一髪

    絶妙のネーミング、間一髪

  • 石林

    石林

  • 龍門の石窟

    龍門の石窟

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