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*********「ナウルを偲ぶ会」********** ただの飲み会ですが・・・東京で不定期で開催しています。現在参加者は4名。参加資格はナウル渡航経験があること。参加資格のある人、特にナウルの黄金期を知る人は連絡ください。トケラウ・ピトケアンについても会員募集中です。km。http://4travel.jp/traveler/km/profile/<br /><br />かつては燐鉱石が生み出す利益で潤い、一人当たりのGDPも非常に高い国だったナウル。今は燐鉱石も枯れつつあり、島全体が退廃しており活気がない。豊かな暮らしに慣れきった国民は働くことを知らない。政府は近隣諸国からの労働者に給与が払えない状態が続いており、近隣諸国政府から度々批判されている。面積は国連加盟国で2番目に小さく、人口は一番少ない。将来がとても心配な国であるとともに、石油関連収益に高度に依存する中東諸国の将来を占う意味でテストケースになりうる国<br />キリバスーナウルーソロモン<br /><br />* 9時の女と肉料理<br />住所は知らない。顔も、職場も、電話番号も知らない。手がかりは、彼女が島の「時計で言えば9時の方向」に住んでいるという事実だけ。そんな彼女に私は、預かってきた手紙を渡しにいくのだ。手紙の依頼主は、この国のビザがとれずに途方に暮れていた私にビザのスポンサーとなってくれる人を紹介してくれた恩人だ。恩人の依頼である以上、彼女を見つけ出すことは私の使命だった。<br />ナウルは、赤道直下の小さな島国。島の周囲はわずか16kmで、歩いて一周できてしまう国。国連加盟国の中では一番人口が少ない。とはいっても一万人いる島民、そろいもそろって浅黒い丸顔・ずんぐり体型。果たして彼女は見つかるのだろうか。<br />(略)<br />恩人には、彼女を食事にでも連れて行ってあげてくれといわれていた。何を食べたいのだろう。私が聞いたなら普通はこう答えるだろう。「何でもいいわよ」とか「あなたに任せるわ。」と。そういう答えが返ってきたら私はお薦めのナウル料理の店を彼女に案内してもらおうと思っていた。その国の人にその国の料理のおいしい店を紹介してもらうのは旅の醍醐味だ。夕方港で見た新鮮なカツオが頭をよぎる。けれど彼女が口にしたのは私が予想もしない言葉だった。<br />「私・・・肉が食べたいのよ・・・。」<br />肉・・・それは西洋料理とか日本料理とかそういった料理のカテゴリーではなく、ハンバーグ定食とかスパゲティーとかそういった料理の名前でもなかった。そうではなくて、料理に使われるありふれた素材のひとつじゃないか。聞けばもう半年も肉を食べていないという。もともと大型の野生動物が居らず漁に頼ってきた伝統的な太平洋の島島。近隣諸国の人であれば、芋や魚という伝統的な食材だけで何の不自由もなく生きていけるかもしれない。けれど、ここはナウル。1980年代には一人当たりのGDPが世界いちにを争う豊かな国だったのだ。一度豊かな生活を知ってしまった者にとって質素な暮らしほど堪えるものはない。大酒飲みの男が半年間酒を飲んでいなかったらどういう状態になるだろうか、そういうことなのだろう。<br />「魚はもう飽き飽きよ・・・」。<br />切羽詰った彼女の言葉が私の胸にずしっと響いた。<br />大体「どこのレストランで」とか「何が食べたい」という私の問いかけも今のナウルでは愚問だった。リン鉱石が尽きて産業もないこの国に、それほど余裕のある国民はいない。外国人観光客もビジネスマンも来ない。レストランを維持するだけの需要などありはしないのだ。この国に2つしかないホテルのひとつ、OdenAiwoのレストランですらつぶれていた。この国で外食といったら中国人がやっている食堂だけだ。「選択の余地」という日本では当たり前の存在に感謝の意を抱いた。<br />(略)<br />この国の惨状は私の想像をはるかに超えていた。上級公務員である彼女がもう一年も給与を受け取っていないと言うことは、庶民の生活は推して知るべしである。公園の植え込み(といっても芝や花は植わっていない)に座っていたキリバス人はもう2年以上も給料を受け取れず、そうかといって国に帰るすべもないと嘆いていた。彼に聞いて行ってみた、「時計で言えば8時の方向」には、ナウルが豊かだったころ出稼ぎにやってきて帰るに帰れなくなった近隣諸国民が「難民」のように暮らすアパート群があった。<br /><br />*故郷を襲う津波・・・日本語を話すスリランカ人自動車修理工の話<br />*難民収容施設の大儀・・枯渇した燐鉱石の採掘に変わる新たな「産業」とは<br />*ナウル人の娯楽・・・それは二つ。(1)子作りと(2)ドライブ。16kmしかない島の道路を車でただひたすら周回すること。これじゃ、ゴーカートだ。ヒッチハイクが簡単な謎も解けた。<br />*元大統領の元邸宅・・・放火された大統領の家はまるで宮殿のようだった。見下ろすと近隣諸国の難民アパートが広がっていた。<br />*オフショアファイナンス? マネーロンダリングとナウル<br />*一人当たりのGDP:米国務省2005年5月の発表によればわずか100ドル・・・何かの間違いだと思うが・・・http://www.state.gov/outofdate/bgn/n/47518.htm

Nauru

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km777

km777さん

*********「ナウルを偲ぶ会」********** ただの飲み会ですが・・・東京で不定期で開催しています。現在参加者は4名。参加資格はナウル渡航経験があること。参加資格のある人、特にナウルの黄金期を知る人は連絡ください。トケラウ・ピトケアンについても会員募集中です。km。http://4travel.jp/traveler/km/profile/

かつては燐鉱石が生み出す利益で潤い、一人当たりのGDPも非常に高い国だったナウル。今は燐鉱石も枯れつつあり、島全体が退廃しており活気がない。豊かな暮らしに慣れきった国民は働くことを知らない。政府は近隣諸国からの労働者に給与が払えない状態が続いており、近隣諸国政府から度々批判されている。面積は国連加盟国で2番目に小さく、人口は一番少ない。将来がとても心配な国であるとともに、石油関連収益に高度に依存する中東諸国の将来を占う意味でテストケースになりうる国
キリバスーナウルーソロモン

* 9時の女と肉料理
住所は知らない。顔も、職場も、電話番号も知らない。手がかりは、彼女が島の「時計で言えば9時の方向」に住んでいるという事実だけ。そんな彼女に私は、預かってきた手紙を渡しにいくのだ。手紙の依頼主は、この国のビザがとれずに途方に暮れていた私にビザのスポンサーとなってくれる人を紹介してくれた恩人だ。恩人の依頼である以上、彼女を見つけ出すことは私の使命だった。
ナウルは、赤道直下の小さな島国。島の周囲はわずか16kmで、歩いて一周できてしまう国。国連加盟国の中では一番人口が少ない。とはいっても一万人いる島民、そろいもそろって浅黒い丸顔・ずんぐり体型。果たして彼女は見つかるのだろうか。
(略)
恩人には、彼女を食事にでも連れて行ってあげてくれといわれていた。何を食べたいのだろう。私が聞いたなら普通はこう答えるだろう。「何でもいいわよ」とか「あなたに任せるわ。」と。そういう答えが返ってきたら私はお薦めのナウル料理の店を彼女に案内してもらおうと思っていた。その国の人にその国の料理のおいしい店を紹介してもらうのは旅の醍醐味だ。夕方港で見た新鮮なカツオが頭をよぎる。けれど彼女が口にしたのは私が予想もしない言葉だった。
「私・・・肉が食べたいのよ・・・。」
肉・・・それは西洋料理とか日本料理とかそういった料理のカテゴリーではなく、ハンバーグ定食とかスパゲティーとかそういった料理の名前でもなかった。そうではなくて、料理に使われるありふれた素材のひとつじゃないか。聞けばもう半年も肉を食べていないという。もともと大型の野生動物が居らず漁に頼ってきた伝統的な太平洋の島島。近隣諸国の人であれば、芋や魚という伝統的な食材だけで何の不自由もなく生きていけるかもしれない。けれど、ここはナウル。1980年代には一人当たりのGDPが世界いちにを争う豊かな国だったのだ。一度豊かな生活を知ってしまった者にとって質素な暮らしほど堪えるものはない。大酒飲みの男が半年間酒を飲んでいなかったらどういう状態になるだろうか、そういうことなのだろう。
「魚はもう飽き飽きよ・・・」。
切羽詰った彼女の言葉が私の胸にずしっと響いた。
大体「どこのレストランで」とか「何が食べたい」という私の問いかけも今のナウルでは愚問だった。リン鉱石が尽きて産業もないこの国に、それほど余裕のある国民はいない。外国人観光客もビジネスマンも来ない。レストランを維持するだけの需要などありはしないのだ。この国に2つしかないホテルのひとつ、OdenAiwoのレストランですらつぶれていた。この国で外食といったら中国人がやっている食堂だけだ。「選択の余地」という日本では当たり前の存在に感謝の意を抱いた。
(略)
この国の惨状は私の想像をはるかに超えていた。上級公務員である彼女がもう一年も給与を受け取っていないと言うことは、庶民の生活は推して知るべしである。公園の植え込み(といっても芝や花は植わっていない)に座っていたキリバス人はもう2年以上も給料を受け取れず、そうかといって国に帰るすべもないと嘆いていた。彼に聞いて行ってみた、「時計で言えば8時の方向」には、ナウルが豊かだったころ出稼ぎにやってきて帰るに帰れなくなった近隣諸国民が「難民」のように暮らすアパート群があった。

*故郷を襲う津波・・・日本語を話すスリランカ人自動車修理工の話
*難民収容施設の大儀・・枯渇した燐鉱石の採掘に変わる新たな「産業」とは
*ナウル人の娯楽・・・それは二つ。(1)子作りと(2)ドライブ。16kmしかない島の道路を車でただひたすら周回すること。これじゃ、ゴーカートだ。ヒッチハイクが簡単な謎も解けた。
*元大統領の元邸宅・・・放火された大統領の家はまるで宮殿のようだった。見下ろすと近隣諸国の難民アパートが広がっていた。
*オフショアファイナンス? マネーロンダリングとナウル
*一人当たりのGDP:米国務省2005年5月の発表によればわずか100ドル・・・何かの間違いだと思うが・・・http://www.state.gov/outofdate/bgn/n/47518.htm

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この旅行記へのコメント (4)

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  • のどかさん 2016/04/18 17:11:19
    初めまして
    km様

    初めまして
    テレビ東京の「世界ナゼそこに日本人」という番組を制作をしています、新島のどかです。

    現在ナウル共和国の日本人から見てびっくりするような習慣や風習、文化について調べいています。
    調査過程でkm様のブログを拝見し、旅行された経験があるということでナウル共和国でのお話をお伺いしたいと思いご連絡させていただきました。

    もし失礼でなければなのですが、お電話でお伺いするのが一番スムーズかと思います。よろしければお電話番号とご都合の良い時間を教えていただけますでしょうか。
    お忙しければ、メールでも結構です。
    下記のアドレスにご連絡くださるとありがたいです。よろしくお願いします。

    新島のどか
    niijima@zippy-pro.co.jp
  • ぴゅんさん 2013/07/04 17:59:27
    懐かしい〜^^
    ナウル、住んでました!
    まさに黄金期です。
    父と母、姉と私の4人、後に祖母も加わって5にんで。
    現地には私たちのほかに日本人家族が1組。あとは大学生の女性が二人旅行に来ていて、折り紙で羽ばたく鶴を教えてくれたりしました。

    居たのは1974年から1976年まで。
    幼稚園に通い、休みじかんにはみんなでトカゲを捕まえて、シッポを切って誰のトカゲのシッポが一番長く動いているか競争しました。

    ダブイダボ(ナウル人)や、ホテルのメイドさんたちのエベンジョン、ルーシー、幼稚園で友達だったダイアン。
    本当になつかしいです。

    となりに座ったナウルの女性に素敵な宝石ね、と母が言ったら じゃああげるわ、とそのまま指輪をもらったそうです。
    ナウルの人は基本、とても人見知りが激しく、友達の友達はもう知らない人扱いです。

    今でも家族でナウルの話に花が咲きます。
    もう一度!行ってみたいなあ〜!!

    km777

    km777さん からの返信 2013/07/05 06:35:33
    RE: 懐かしい〜^^
    コメントありがとうございます。
    幼稚園の頃の滞在にも関わらず、記憶が鮮明なんですね。それだけナウルでの暮らしが強烈だったのかな。
    ぜひ、再訪して、当時とどう変化したかレポートしていただきたいです。最近はビザも問題なく出しているようですので、フィジーまたはオーストラリア(ブルズベーン)経由で簡単に行けるようですよ。

    では また。km
  • zingerzさん 2011/09/02 23:31:31
    ナウルの思い出
     久しぶりにナウルという国名を聞きました。わたしがナウルを訪れたのは、今から26年前の1985年だったと思います。当時、大学4年生だった私は、
    友達2人と卒業旅行でニュージーランドへ行くのになぜかエアーナウルを
    使い 大阪ーグァムーナウルーミクロネシアの国々を経由して48時間ぐらいかけてオークランドへ行きました。当時はまだ、虎ノ門にエアーナウルの支店があり、そこでチケットを買いましたが、かなり怪しい感じでした。
    ナウルには、往復で2度立ち寄りましたが、今でもよく覚えています。
    最初の入国の時は、夜中に到着したので一番にイミグレに駆けつけたにもかかわらず、入管で、ナウル経由でニュージーランドへ行く日本人などいなかったらしく、ニュージーランドのVISAが無いから、いきなり入国拒否になりかけ(当時から日本人はVISAの必要なし)別室で1時間くらいもめ、ようやく
    相手が、なにかの資料でその事実を理解し解放されたころには、もう誰も乗客は、空港にはいませんでした。その後,唯一の”メネンホテル”で、仮眠した後、ヒッチハイクで一周しましたが、kmさんの写真とは違い、豊かな国でした。映画館、スーパーなどがあり空港の近くにはレストラン(食堂)もありました。その頃は、まだ大統領の写真が飾られていました。空港の職員も腕にROREXをしていました。メネンホテルには”さくら”という日本料理店もあり日本人がいらっしゃるとのことでした。その後に行ったニュージーランドやグァムのホテルをエアーナウルに薦められて予約してもらっていたはずなのに、別のビルに代わってしまってたりと散々な目にあわされましたが、今となっては、思い出深い卒業旅行でした。

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